さて、開沼博氏の見解については、折にふれて言及してきた。しかし、あまり、端的に原子力の危険性について彼自身が述べているものは少ない。ここで検討してみる、『クーリエ・ジャポンの現場から』という同誌編集部のブログに掲載された「2012 .04.22 開沼博さんが質問に答えてくれました(前編)」の中で述べている、科学技術の危険性についての文章は、数少ない例といえる。
これは、いくつかの質問に、開沼博氏が回答を行うというスタイルで書かれたものである。そのうち、二番目の質問は、
…ただ、原発もそうだと思うのですが、ITにしても科学が人に牙をむくまでは人間にとって非常に便利なものだと思います。危険性を恐れて、その便利さを放棄するのもナンセンスだと思うのです。…便利さとリスクとのバランスについて、どのような姿勢で臨めばいいと思われますか。
というものであった。科学技術のリスクと利便さはどのように考えていけばよいのかという質問といえる。
この質問に対し、開沼氏は、次のように答えている。
ご指摘の通り「リスクがあるから放棄する」という短絡思考はナンセンス。「今でもふぐ毒で死傷者が出ているから、ふぐを食べること自体を禁止すればいい」と同様、無茶な話です。少しでも利便性がある以上、仮に、ある技術を全廃しようとしても、その実現可能性は極めて低い。
ここでは明示はされていないが、原発も含んでいるであろう科学技術のリスクをふぐ毒にたとえ、その放棄を「短絡思考」としてナンセンスであるとし、利便性がある以上は科学技術を全廃することは難しいとしているのである。
開沼氏が、原発を含んだ科学技術のリスクを「ふぐ毒」にたとえたのは、いろんな意味でふさわしくないといえる。まず、第一にいえるのは、ふぐ毒による死傷者はもちろんふぐを食べた当事者に限られるであろう。しかし、原発からの放射能、工場などから排出される有害物質、残留農薬、そして地球温暖化を惹起する二酸化炭素など、科学技術によるリスクは、狭義の意味の当事者を超え、ある意味では、地球全体の規模に及んでいる。
このことは、福島第一原発事故がよく示しているといえよう。福島第一原発事故による放射能汚染は、立地している地域社会だけでなく、福島県を中心とした東日本、そして地球規模に及んでいる。1986年のチェルノブイリ事故以後、開沼博氏自身も言及しているドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは「『他者』の終焉」(『危険社会』)とよんでいる。排除しえない原子力の危険においては「現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消」されてしまうのである。そして、周縁に隔離したはずの原発も、その事故においては、「中央」にも被害を与えることになる。ゆえに、信条・階層・地域をこえて、脱原発運動が惹起されるのである。
科学技術のリスクをふぐ毒の比喩で考える開沼氏の意識は、このように広範におよぶリスクを「個別的な」ものとしてのみ把握しているといえよう。開沼氏にとっては、美味なふぐを味わうことによって想定されうるリスクは、ふぐ毒によって食べた人が死傷することなのである。そして、この認識は、原発の設置によるリスクを、リターンのある立地された自治体の内部の問題として考えようとする開沼氏の志向につながっていくように思われる。自治体の住民からみてもこのような事態が本末転倒であることはいうまでもない。しかし、科学技術とそれによる産業開発のリスクは、それによって特別な恩恵を蒙ることのない人びとにも及ぶのだ。例えば、飯館村はどうなのだろうか。つまり、もはや、福島原発の立地自治体だけに限定できる問題ではないのである。
一方、ふぐ毒は、調理方法で対処可能なものである。適切な調理方法で処理されているふぐは、一般的に中毒を起こすことはない。その意味で、ふぐ毒のリスクは、人の手で対処することができる。ゆえに、「ふぐを食べることは禁止されない」のである。
原発事故はどうであろうか。原発が人の手で作り出され、人の手で運転されている。しかし、メルトダウンなどの過酷事故が起きると、少なくとも短期的には制御不能になってしまう。福島第一原発事故において、人の手による調整がまったく意味がなかったとはいわないが、少なくとも、メルトダウンや爆発などによる放射性物質の外部環境への拡散を防ぐことはできなかった。
そして、さらに問題になることは、福島第一原発事故の直接の契機は、地震や津波などの「天災」であったことである。チェルノブイリ事故の場合、その直接の原因は人的ミスであったといわれている。しかし、福島第一原発事故の場合は、人的ミスですらなく、まさしく「天災」なのである。その意味でも、人の手に及ばない側面を有している。
もちろん、すべての科学技術が制御不可能などではない。残留農薬や工場などからの有害物質の放出などは、ある程度は人の手で制御可能である。リスクがある科学技術がなぜ廃止されないかといえば、別にリターンがあるからだけではない。リスク自体が人の手によってある程度その低減をはかりうるからなのだ。
その意味で、現在のところ、原発のリスクは制御可能にはなってはいないといえる。地震や津波が多い日本においては、世界のどの地域よりも、原発のリスクは大きいのである。
その意味で、開沼氏が科学技術によるリスク一般をふぐ毒にたとえたことは、科学技術のリスクを制御可能で低減しえるものとしてみていることを意味しているといえよう。そして、それには、原発も含んでいるのだろう。原発のリスクを人の手で制御して、その低減をはかりうるならば、原発からのリターンと等価交換可能になると、開沼氏は考えていると思われる。
もちろん、開沼氏は、科学技術については、彼なりに考えている。次の文章をみてほしい。
しかし、それでも科学技術との関わりかたを慎重にしなければならないのは事実です。
いかなる姿勢が必要か。科学的な道具は道具として「崇拝」しないことです。…これを「呪物崇拝」と言いますが、「呪物崇拝」は未開社会・前近代社会のみに特異な現象なのかというと、そうではない。近代社会においても、人間のコントロール下にある「ただの道具」が、いつの間にか神の如く人間をコントロールし、また人間がその魔力に惹かれて、ものとの関係が逆転する現象は、たとえば経済だと貨幣、政治だとイデオロギー等々において見られます。
科学においても、ある技術が「崇拝」、信仰の対象物かのような扱いをうける現象がしばしば見られます。震災以後の、現下の状況において「安全神話」とか、そのネガとして「けがれ」と言った「宗教的な」言葉が使われることにも象徴的です。
彼によれば、科学は道具であり、それを崇拝しないことが重要だとしてしている。最後の「科学においても、ある技術が「崇拝」、信仰の対象物かのような扱いをうける現象がしばしば見られます。震災以後の、現下の状況において「安全神話」とか、そのネガとして「けがれ」と言った「宗教的な」言葉が使われることにも象徴的です。」というところは重要である。「震災以降」と限定し、「安全神話」「けがれ」という二項対立を提示していることに注目しておきたい。一般的に「安全神話」といえば、震災以前の、原発の安全性を保障する言説をさしていることが多いのだが、ここでは、震災以降の「風評被害」「福島差別」などをさしているように思えるのだ。ただ、この文章は曖昧で、どちらでもよめるともいえる。
そして、最後に、このように述べて回答を終えている。
道具は道具であるとして割り切る。「崇拝」し始めてはいないか、常に疑う。さもなくば、ウルリッヒ・ベックが言うようなリスクが、私たちに襲い掛かってきます。
どのようなことを開沼氏が主張してもかまわない。しかし、ここで、ベックの主張をひいてくるのは適切さを欠いていると思う。別に、ベックは、「科学技術の呪物崇拝化によるリスクの招来」など論じてはいない。ベックのいう科学技術によって生じたリスクは、未来形で「襲い掛かってくる」ものなのではない。少なくとも、1986年のチェルノブイリ事故以降、私たちみなに襲い掛かってきているものなのである。そして、それは、3.11以降、私たちの眼前に提示されているのである。
すでに、ベックが、地球全体に及ぶ科学技術のリスクにおいては、すべての人びとは当事者であり、「他者」など存在しないとしていることを述べた。これは、開沼氏の議論の対局に属するものである。さらにベックは、このように指摘する。
近代が発展するにつれ富の社会的生産と並行して危険が社会的に生産されるようになる。貧困社会においては富の分配問題とそれをめぐる争いが存在した。危険社会ではこれに加えて次のような問題とそれをめぐる争いが発生する。つまり科学技術が危険を造り出してしまうという危険の生産の問題、そのような危険に該当するのかは何かという危険の定義の問題、そしてこの危険がどのように分配されているかという危険の分配の問題である。(『危険社会』)
ベックは、「危険」ーリスクの問題を正面に見据えて論を展開しようとしている。それは、ベックにとっては、すでに存在するものなのである。その意味で、開沼氏のリスク認識とは違ったものといえるのである。
開沼氏の書いていることが、すべて不適切だとは思わない。ある意味で、原発建設を積極的に受け入れざるをえなかった立地自治体住民の意識を内在的に描き出しているといえる。しかし、やはり、3.11以後の、福島第一原発事故のリスクー危険を正面から見据えていくことが課題であると思う。少なくとも「ふぐ毒」にたとえるようなものではない。そして、それは、原発からのリターンを強調する、野田首相、経団連、官僚、立地自治体首長たち全員の課題なのである。