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Posts Tagged ‘ウルリヒ・ベック’

さて、開沼博氏の見解については、折にふれて言及してきた。しかし、あまり、端的に原子力の危険性について彼自身が述べているものは少ない。ここで検討してみる、『クーリエ・ジャポンの現場から』という同誌編集部のブログに掲載された「2012 .04.22 開沼博さんが質問に答えてくれました(前編)」の中で述べている、科学技術の危険性についての文章は、数少ない例といえる。

これは、いくつかの質問に、開沼博氏が回答を行うというスタイルで書かれたものである。そのうち、二番目の質問は、

…ただ、原発もそうだと思うのですが、ITにしても科学が人に牙をむくまでは人間にとって非常に便利なものだと思います。危険性を恐れて、その便利さを放棄するのもナンセンスだと思うのです。…便利さとリスクとのバランスについて、どのような姿勢で臨めばいいと思われますか。

というものであった。科学技術のリスクと利便さはどのように考えていけばよいのかという質問といえる。

この質問に対し、開沼氏は、次のように答えている。

ご指摘の通り「リスクがあるから放棄する」という短絡思考はナンセンス。「今でもふぐ毒で死傷者が出ているから、ふぐを食べること自体を禁止すればいい」と同様、無茶な話です。少しでも利便性がある以上、仮に、ある技術を全廃しようとしても、その実現可能性は極めて低い。

ここでは明示はされていないが、原発も含んでいるであろう科学技術のリスクをふぐ毒にたとえ、その放棄を「短絡思考」としてナンセンスであるとし、利便性がある以上は科学技術を全廃することは難しいとしているのである。

開沼氏が、原発を含んだ科学技術のリスクを「ふぐ毒」にたとえたのは、いろんな意味でふさわしくないといえる。まず、第一にいえるのは、ふぐ毒による死傷者はもちろんふぐを食べた当事者に限られるであろう。しかし、原発からの放射能、工場などから排出される有害物質、残留農薬、そして地球温暖化を惹起する二酸化炭素など、科学技術によるリスクは、狭義の意味の当事者を超え、ある意味では、地球全体の規模に及んでいる。

このことは、福島第一原発事故がよく示しているといえよう。福島第一原発事故による放射能汚染は、立地している地域社会だけでなく、福島県を中心とした東日本、そして地球規模に及んでいる。1986年のチェルノブイリ事故以後、開沼博氏自身も言及しているドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは「『他者』の終焉」(『危険社会』)とよんでいる。排除しえない原子力の危険においては「現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消」されてしまうのである。そして、周縁に隔離したはずの原発も、その事故においては、「中央」にも被害を与えることになる。ゆえに、信条・階層・地域をこえて、脱原発運動が惹起されるのである。

科学技術のリスクをふぐ毒の比喩で考える開沼氏の意識は、このように広範におよぶリスクを「個別的な」ものとしてのみ把握しているといえよう。開沼氏にとっては、美味なふぐを味わうことによって想定されうるリスクは、ふぐ毒によって食べた人が死傷することなのである。そして、この認識は、原発の設置によるリスクを、リターンのある立地された自治体の内部の問題として考えようとする開沼氏の志向につながっていくように思われる。自治体の住民からみてもこのような事態が本末転倒であることはいうまでもない。しかし、科学技術とそれによる産業開発のリスクは、それによって特別な恩恵を蒙ることのない人びとにも及ぶのだ。例えば、飯館村はどうなのだろうか。つまり、もはや、福島原発の立地自治体だけに限定できる問題ではないのである。

一方、ふぐ毒は、調理方法で対処可能なものである。適切な調理方法で処理されているふぐは、一般的に中毒を起こすことはない。その意味で、ふぐ毒のリスクは、人の手で対処することができる。ゆえに、「ふぐを食べることは禁止されない」のである。

原発事故はどうであろうか。原発が人の手で作り出され、人の手で運転されている。しかし、メルトダウンなどの過酷事故が起きると、少なくとも短期的には制御不能になってしまう。福島第一原発事故において、人の手による調整がまったく意味がなかったとはいわないが、少なくとも、メルトダウンや爆発などによる放射性物質の外部環境への拡散を防ぐことはできなかった。

そして、さらに問題になることは、福島第一原発事故の直接の契機は、地震や津波などの「天災」であったことである。チェルノブイリ事故の場合、その直接の原因は人的ミスであったといわれている。しかし、福島第一原発事故の場合は、人的ミスですらなく、まさしく「天災」なのである。その意味でも、人の手に及ばない側面を有している。

もちろん、すべての科学技術が制御不可能などではない。残留農薬や工場などからの有害物質の放出などは、ある程度は人の手で制御可能である。リスクがある科学技術がなぜ廃止されないかといえば、別にリターンがあるからだけではない。リスク自体が人の手によってある程度その低減をはかりうるからなのだ。

その意味で、現在のところ、原発のリスクは制御可能にはなってはいないといえる。地震や津波が多い日本においては、世界のどの地域よりも、原発のリスクは大きいのである。

その意味で、開沼氏が科学技術によるリスク一般をふぐ毒にたとえたことは、科学技術のリスクを制御可能で低減しえるものとしてみていることを意味しているといえよう。そして、それには、原発も含んでいるのだろう。原発のリスクを人の手で制御して、その低減をはかりうるならば、原発からのリターンと等価交換可能になると、開沼氏は考えていると思われる。

もちろん、開沼氏は、科学技術については、彼なりに考えている。次の文章をみてほしい。

しかし、それでも科学技術との関わりかたを慎重にしなければならないのは事実です。

いかなる姿勢が必要か。科学的な道具は道具として「崇拝」しないことです。…これを「呪物崇拝」と言いますが、「呪物崇拝」は未開社会・前近代社会のみに特異な現象なのかというと、そうではない。近代社会においても、人間のコントロール下にある「ただの道具」が、いつの間にか神の如く人間をコントロールし、また人間がその魔力に惹かれて、ものとの関係が逆転する現象は、たとえば経済だと貨幣、政治だとイデオロギー等々において見られます。

科学においても、ある技術が「崇拝」、信仰の対象物かのような扱いをうける現象がしばしば見られます。震災以後の、現下の状況において「安全神話」とか、そのネガとして「けがれ」と言った「宗教的な」言葉が使われることにも象徴的です。

彼によれば、科学は道具であり、それを崇拝しないことが重要だとしてしている。最後の「科学においても、ある技術が「崇拝」、信仰の対象物かのような扱いをうける現象がしばしば見られます。震災以後の、現下の状況において「安全神話」とか、そのネガとして「けがれ」と言った「宗教的な」言葉が使われることにも象徴的です。」というところは重要である。「震災以降」と限定し、「安全神話」「けがれ」という二項対立を提示していることに注目しておきたい。一般的に「安全神話」といえば、震災以前の、原発の安全性を保障する言説をさしていることが多いのだが、ここでは、震災以降の「風評被害」「福島差別」などをさしているように思えるのだ。ただ、この文章は曖昧で、どちらでもよめるともいえる。

そして、最後に、このように述べて回答を終えている。

道具は道具であるとして割り切る。「崇拝」し始めてはいないか、常に疑う。さもなくば、ウルリッヒ・ベックが言うようなリスクが、私たちに襲い掛かってきます。

どのようなことを開沼氏が主張してもかまわない。しかし、ここで、ベックの主張をひいてくるのは適切さを欠いていると思う。別に、ベックは、「科学技術の呪物崇拝化によるリスクの招来」など論じてはいない。ベックのいう科学技術によって生じたリスクは、未来形で「襲い掛かってくる」ものなのではない。少なくとも、1986年のチェルノブイリ事故以降、私たちみなに襲い掛かってきているものなのである。そして、それは、3.11以降、私たちの眼前に提示されているのである。

すでに、ベックが、地球全体に及ぶ科学技術のリスクにおいては、すべての人びとは当事者であり、「他者」など存在しないとしていることを述べた。これは、開沼氏の議論の対局に属するものである。さらにベックは、このように指摘する。

 

近代が発展するにつれ富の社会的生産と並行して危険が社会的に生産されるようになる。貧困社会においては富の分配問題とそれをめぐる争いが存在した。危険社会ではこれに加えて次のような問題とそれをめぐる争いが発生する。つまり科学技術が危険を造り出してしまうという危険の生産の問題、そのような危険に該当するのかは何かという危険の定義の問題、そしてこの危険がどのように分配されているかという危険の分配の問題である。(『危険社会』)

ベックは、「危険」ーリスクの問題を正面に見据えて論を展開しようとしている。それは、ベックにとっては、すでに存在するものなのである。その意味で、開沼氏のリスク認識とは違ったものといえるのである。

開沼氏の書いていることが、すべて不適切だとは思わない。ある意味で、原発建設を積極的に受け入れざるをえなかった立地自治体住民の意識を内在的に描き出しているといえる。しかし、やはり、3.11以後の、福島第一原発事故のリスクー危険を正面から見据えていくことが課題であると思う。少なくとも「ふぐ毒」にたとえるようなものではない。そして、それは、原発からのリターンを強調する、野田首相、経団連、官僚、立地自治体首長たち全員の課題なのである。

参考
http://courrier.jp/blog/?p=10959

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さて、再度、ウルリヒ・ベックの『危険社会』についての紹介を続けよう。本書においては、環境破壊における科学批判の部分が、非常によく分析されているといえる。このことは前回までに紹介してきたが、ここでもまず、みていこう。ベックは、危険ーリスクについて、このように指摘している。

近代化に伴う危険は、科学の合理性の抵抗を押し切って意識されるようになってきた。この危険意識に人々を導いたのは、科学が明らかに犯してきた数々の危険についての誤り、見込み違い、過小評価である。危険が意識されるようになった歴史あるいは社会による危険の認知の歴史は、そのまま科学の神秘性を剥奪する歴史である。(本書p92)

その上で、ベックは、このように述べている。

危険を生産しておきながら、それを正しく認識できない大きな理由は、科学技術の合理性が「経済しか見ない単眼構造」にあるからである。この目は生産向上に視線を向けている。同時に、構造的に見て危険には盲目なのである。経済的に見合うかどうかという可能性については、明確な予測が試みられ、よりよい案が追求され、試験が行われ、徹底的に各種の技術的検討が行われる。ところが危険については、いつも暗中模索の状態で「予期しない」危険や「全く予期し得ない」危険が出現して初めて、心底怯え、仰天するのである。(本書p94)

これは、まさに福島第一原発事故の経過でこの1年間いやというほど見せつけられてきたことである。地震や津波、また全電源喪失などの「危険」は科学者・技術者の間ではないものにされ、根本的な安全対策がとられることがなかった。これは、何も日本だけのことではないことに注目しておきたい。

そして、大気中の汚染物資による気管支ぜんそくに罹患した児童の親たちの戦いをについて述べておく。親たちは、自分の子どもたちの病気の原因について、さまざまな主張を行うのであるが、「科学的に証明されない限り」問題にもされないことを認識するのである。

危険を否認する科学者たちの対応について、ベックは、次のように論じている。

 

科学者たちは自分たちの仕事に「質」を大事にし理論と方法の水準を尊重して、転職経歴と生活の糧を確保しようとする。まさにここから、危険と取り組む際の科学者に独特な非論理性が生まれる。関連性不明を主張することは、科学者にふさわしいし、また一般的に見て誉められるべきことであろう。しかし、危険と取り組む場合にこのような態度をとることは、被害者にはまさに正反対の態度と映るのである。この態度は危険を大きくするばかりだからである…科学性を厳密に言えば言うほど、危険だと判定されて科学の対象となる危険はほんのわずかになってしまう。そして結果的にこの科学は暗に危険増大の許可証を与えることになる。強いて言うならば、科学的分析の「純粋性」にこだわることは、大気、食品、土壌、さらに食物、動物、人間の汚染につながる。つまり、科学性を厳密にすることで、生命の危険は容認され、あるいは助長される。厳密な科学性と危険とは密かな連帯関係にあるのである。(本書p97)

そして、このような科学者たちの姿勢から生み出されてくる「許容値」について、ベックは「科学者はわからないということが絶対にないので…危険と取り組む際、自分たちもまたわからないのだ、ということを表す主要な言葉は『許容値』という言葉である」(本書p101)と説明している。そして、ベック自身は、次のように許容値を定義している。

 

許容値とはつまり大気、水、食品の中にあることを「許容される」有害かつ有毒な残留物の値である。これは危険の分配にとって重要な意味をもつ。それはちょうど富の不公平な分配にとって能力主義の原理が許され公に認められる。汚染を制限する者は、結局汚染に対して許可を与えたことになる。これは現在許可されたものは、例えどんなに有害であったとしても社会的に下された定義では「無害」ということを意味する。なるほど許容値によっては最悪の事態は避けられるかもしれない。しかし、これは自然と人間を少しなら汚染してもいい、という「お墨つき」ともなる。(本書p101)

この許容値という問題は、倫理上の問題を惹起する。

この倫理では、人間は互いに毒物を与えてはならないといのは自明の理であった。もっと正確に、毒物は絶対に与えてはならない、とすべきであったかもしれない。なぜなら許容値規定によって、皮肉にも悪名高いそして議論の多い「少し」であれば、毒は許されることになったのである。したがって、この「規定」は汚染防止にはつながらない。むしろ汚染がどこまで許されるかを問題にしているのである。明らかなことであるが、汚染は容認されるというのが、この規定のよって立つ根拠である。今や文明社会には有毒物質や有害物資があふれているが、その文明の退却路が許容値である。この許容値という概念は、汚染があってはならないという当然の要求を、ユートピアの発想だといって拒んでいるのである。(本書p102)

さらに、ベックは、次のように主張している。

「許容値規定」の根底にあるのは、技術官僚が下した非常にうさん臭い危険な誤った推論である。すなわち、(まだ)把握されていないもの、あるいは把握不可能なものには毒性がない、という推論である。また別の言い方をすれば、疑わしきは罰せずで、毒性の有無がわからない場合には、毒の方をして人間の危険な手から守ってやってくれ、ということである。(本書p104)

このような、ウルリヒ・ベックの主張は、放射線に対する「科学的」な見解のもつ問題点を的確に指摘している。空間における低線量被ばく、食品に含まれる微量の放射性物質の有害性については、いまだ定説がなく、放射性ヨウ素と甲状腺がんとの関係など以外では、立証されたと言いがたい状況である。そこから、許容値が一人歩きするようになる。立証されていないだけなのに、空間線量、食品中の放射性物質含有量、廃棄物(がれき・焼却灰・下水汚泥など)が、許容量以下ならば許されてしまう。そして、このような許容量を設定する科学者と、政府・企業・自治体とが密やかに結びついてしまうことになる。

これは、単に科学者が「御用学者」ということからのみ発生するのではない。科学的に立証できなければ因果関係を認めないという態度からも発生している。例えば、広瀬隆批判を行った野口邦和は、共産党系の日本科学者会議所属であり、主観的には政府・企業と結びついていたわけではない。読んでいる限りは、広瀬隆の論理展開に内在する「非科学性」が問題なのである。しかし、広瀬の主張が、一部根拠にかける部分があったとしても、全体を「ウソ」とまでは断じることはできないであろう。広瀬隆は、チェルノブイリ事故後甲状腺がんなどが多発すると「推測」しているのだが、それはその通りであった。現時点で立証できないとしても、リスクがなくなるわけではないのだ。そのように自問することが科学には求められているといえよう。

結局、科学者にせよ、政府にせよ、企業にせよ、自治体にせよ、まさに「人間は互いに毒を与えてはいけない」という倫理の上にたつべきである。許容値はせいぜい目安にすぎない。立証の問題とは別に「毒」は可能な限りゼロに近づけていくべきだと思う。

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さて、前回のブログで、ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックの『危険社会ー新しい近代への道』について部分的に紹介した。今回は、ベックの「危険」=「リスク」という概念について説明しておこう。

本書の翻訳者の一人である東廉は、本書の原題”RISIKOGESELLSCHAFT”の中の”Risiko”を英語の”Risk”にあたるものとしている。つまりは、『危険社会』とは「リスク社会」ということがいえるであろう。そして、東は、”Risk”を「誰かに何か(損害・不利益)を起こる可能性」としつつ、さらに「近代化と文明の発展に伴う危険」としている。(本書p.p462-463)

ベックによれば、現代社会における「危険」=「リスク」とは、近代化によって生み出された科学と産業の副産物としての環境破壊をさす。この環境破壊は、もちろん放射性物質から始まって、有害な工業廃棄物、農薬、大気汚染、酸性雨などが含まれている。このような科学と産業によって自然が作り替えられることによって、人びとの生活が危機に瀕している社会を「危険社会」とよんでいるのである。

しかしながら、ここから問題が発生する。環境破壊における「危険」=リスクは、少なくとも初期においては、目に見えるものではない。ベックは、このように言っている。

放射線や化学物質による汚染、食物汚染、文明病などといった新しいタイプの危険は多くの場合人間の知覚能力では直接には全く認識できない。それらは、しばしば被害者には見ることもできなければ感じとることもできない危険である。当人の存命中には全く気づかれず、子孫の代になってその弊害が顕著となる場合もある。この種の危険が一段と目立っている。いずれにせよ、危険を危険として、「視覚化」し認識するためには、理論、実験、測定器具などの科学的な「知覚器官」が必要である。(本書p.p35-36)

ある意味で、科学的な測定により、目に見えない放射性物質などを認識することが必要なのである。ベックは、それだけでは「危険」を承認することはできないとしている。まず、ベックは「危険であると言明するためには、事実だけでは十分ではない。それが近代的な工業生産方法の結果として生じた副産物であるという因果関係の確定が必要である」(本書p36)と述べている。さらに、ベックは、次のように主張している。

 

社会的に分離されている個々の現象の因果関係を決定しただけでは、危険であるというには十分ではない。身をもって危険を感じとるためには、安全性や信頼性が失われたという意味での規範的な見方が前提として必要である。危険が数値や数式の形で提示されても、その内容は基本的に個々人の規範的な見方次第で大きく違う。つまり生きるに値する生活への侵害が、数値や数式に圧縮され表現されているのである。そこで、危険の存在自体を信じることが必要となる。危険そのものは数値や数式の形では、身をもって感じることはできないからである。(本書p.p37-38)

そして、ベックは、次のように論じている。

そして、どのように生きたいのか、という古くて新しいテーマが浮上してくる。つまりわれわれが守らなくてはならない人間のうちの人間的なるものとは何か、自然のうちの自然なるものとは何なのかという問題といってよい。「破局的事件」の可能性をいろいろ語るということは、この種の近代化の進展を望まないという規範的な判断を、極端な形で述べることに他ならない。(本書p38)

いわば、危険ーリスクを承認するにあたっては、まずは測定し因果関係を確定するという意味での科学的認識とともに、そのような危険性に脅かされた生活は望まないという規範的価値観が必要であるとしているのである。

このように「危険」の認識には「科学」は不可欠である。しかし、実際に存在している「科学」は、放射性物質その他の有害な副産物を自ら生み出したものである。そこで、「科学的な合理性」と「社会的な合理性」の対立ということが生じてくる。このことをベックは、原子炉の問題を事例にして論じている。

危険についての科学的研究がこのように他分野の研究とかかわっている。この事実は、科学が合理性を独占しようとしている領域でいずれ明るみに出されよう。そしてそれは対立を引き起こすだろう。例えば、原子炉の安全性に関する研究は、事故を想定してはいるが、その研究対象を、数量化し表現することが可能なある特定の危険を推定することだけに限定している。そしてそこでは、推定された危険の規模は研究を開始した時点から既に技術的な処理能力に制約されてしまっている。これに対し、住民の大半や原発反対者が問題にするのは、大災害をもたらすかもしれない核エネルギーの潜在能力そのものである。目下事故の確率が極めて低いと考えられていても、一つの事故がすなわち破滅を意味すると考えられる場合には、その危険性は高すぎる。さらに、科学者が研究の対象としなかった危険の性質が大衆にとっては問題なのである。例えば、核兵器の拡散、人的なミスと安全性との矛盾、事故の影響の持続性、技術的決定の不可逆性などであり、これらはわれわれの子孫の生命をもてあそぶものである。言い換えるならばこうである。危険をめぐる討論のなかで浮き彫りにされるのは、文明に伴う危険に潜在する、科学的な合理性と社会的な合理性との対立なのである。(本書p.p40-41)

このように、「危険」=「リスク」を承認することは、複雑な問題を抱えている。「危険」=リスクは、近代の科学技術が生み出したものであるが、それを承認するためには「科学技術」によるしかない。しかし、そのことは、近代の科学技術の根本的基礎を疑うことになるのである。

なお、ベックの『危険社会』で環境破壊を扱った部分においては、科学技術が全面におかれて批判されているが、ベックは「危険を生産しておきながら、それを正しく認識できない大きな理由は、科学技術の合理性が『経済しか見ない単眼構造』にあるからである」(本書p94)としており、科学の背後にある経済もまた批判すべきものとしているといえるだろう。

この「科学的な合理性」と「社会的な合理性」の対立の諸相については、次回以降言及していきたい。

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ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは、チェルノブイリ事故直後の1986年5月、『危険社会ー新しい近代への道』(法政大学出版局、1998年、原著は1986年)の中でこのように言っている。

このように、原子力時代の危険が有する原動力は境界を消滅させる。それは、汚染の程度にも、またその汚染の影響がどのようなものかということとも関係ない。むしろその逆である。原子力時代の危険は全面的かつ致命的なものである。いわば、あらゆる関係者が必ず死刑執行台へと送りこまれるのである。原子力汚染の危険性を告白することは、地域、国家、あるいは大陸の全域において逃げ道が断たれたという告白に他ならない。こうした危険のもつ宿命的特質は衝撃的である。(本書p.p1-2)

ベックは、放射性物質を含む有毒物質による汚染が当局の基準からみても進行したとしても、当局は呼吸したり飲食したりすることを禁止できないし、大陸全体を封鎖することはできないと指摘する。ベックは、このようなことを「『他者』の終焉」と表現する。ベックは「この危険の有する影響力は、現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消してしまう」(本書p1)と述べている。

ベックは、いわば「貧困」によって、放射性物質を含む有毒物質などによる近代化によって作り出された危険を蒙る程度が変わってくることは認めている。ベックは、住居、職種、飲食物、教育を選択する余地のない下層階級のほうが、より危険を蒙るであろうと指摘している。しかし、ベックは、このように述べている。

…一目瞭然なのは、誰もが吸っている空気の中の有毒成分の前では、階層を隔てていた障壁など霧散してしまうという事実である。このような状況下で実際に効果があるのは、食わざる、飲まざる、吸わざるだけだろう…近代化に伴う危険性の拡大によって、自然、健康、食生活などが脅かされることで、社会的な格差や区別は相対的なものになる。このことから、さらに、さまざまな結論が導き出される。とはいえ、客観的に見て、危険は、それが及ぶ範囲内で平等に作用し、その影響を受ける人々が平等化する。危険のもつ新しいタイプの政治的な力は、まさにここにある。(本書p51)

このような関係は、国際的な規模でも生じているとベックはいう。ベックは、まず、このように指摘している。

危険な産業は労働力の安価な国々へ疎開している。これは単なる偶然の成り行きではない。極度の貧困と極度の危険との間には構造的な「引力」が働いているのである。…このことは、働き口のない地方の人々が、職場を生み出す「新しい」テクノロジーに対して、「かなり許容度が高い」ことを証明している。(本書p59)

しかし、ベックは、このように主張している。

貧困の場合と異なって、危険がもたらす悲惨さは、第三世界のみならず豊かな諸国にも波及する。危険の増大は世界と小さくし、世界をして危険を共有する一つの社会に変えてしまう。ブーメラン効果が富める国々にも影響を及ぼすのである。これらの先進工業国は、危険性の高い工業を発展途上国に移転させることで危険を遠ざけたが、一方食料品をこれらの諸国から安く輸入している。輸出された農薬は、果物、カカオ豆、飼料、紅茶などに含まれて、輸出した先進工業国へ戻ってくる。ここに見られるように周辺諸国の貧しく悲惨な地域が、豊かな工場地帯の入り口まで押し寄せてきているのである。(本書p.p65-66)

ベックは、このような、いわば、階級・地域をこえた近代化によって生じた危険の共有は、最終的には「世界社会というユートピア」に行き着くことを必要とすると論じている。

…危険社会の発展の原動力は多くの境界を無にするものである。そして同時に底辺民主主義的なものでもある。このようなスケールの大きさから人類は皆同一の文明の危機に曝されるのである。
 この限りで、危険社会には対立やコンセンサスの新しい源泉があると見ることができる。危険社会の課題は、困窮の克服にあるのではなく、危険の克服に置かれる。…危険社会では客観的にみて「危険が共有されている」ので、最終的には世界社会というカテゴリーでしか危険状況に対処しえない。文明自体に潜在する危険が近代化の過程で増大することによって、世界社会というユートピアが一段と現実的になっている。少なくとも、そのようなユートピアを実現することが急を要する事態となっている。(本書p.p71-72)

本書全体は、チェルノブイリ事故前に書かれたものであるが、まるで、福島第一原発事故後の状況を予言しているかのようにみえる。福島第一原発事故の最も大きな被害は、原発が立地している福島県浜通りが蒙ったといえる。そして、原発事故後の対応により大量の被ばくを蒙らなくてはならないのは、原発労働者たちである。しかし、被害者は、地元地域だけではない。直接原発とは関わらない飯館村なども避難を余儀なくされた。そして、また、福島市や郡山市などの福島県中通りも放射性物質による多大な汚染を蒙った。そればかりではなく、首都圏などにも放射性物質の汚染は及んだ。さらに、食品などについては、日本全体から日本製品が輸出される世界各地域に汚染は及んでいる。加えて、福島第一原発事故において放射性物質は大気中・海中にも放出され、少なくとも東アジアもしくは環太平洋地域が汚染されたといえる。

つまりは、福島第一原発事故は、福島もしくは日本一国の問題ではない。この問題においては、「他者」はおらず、すべてが「当事者」であるといえるのである。例えば、2011年の脱原発デモがさかんに行われる契機となったのは、首都東京の人びとの運動であるといえるのであるが、それは、このようなことを背景にしているといえる。

といっても、いまだに、福島第一原発事故について、私たちは「分断状況」にある。このことを、まず、ベックの「危険」=リスクという概念を使って、今後検討していきたいと考えている。

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