さて、1986年のチェルノブイリ事故において、母親たちを中心として、自然発生的に日常的な放射線防護対策をもとめる運動が生まれてきたことを、このブログではみてきた。このような動きは、当時の緑の党を中心とする反原発運動にも影響を与えた。田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)において、田代は、「放射能に対する人びとの不安感、とりわけ子どもたちを抱える親たちの気もちを受けとめようとする人びとは、運動内部で『ベクレル派』という区分をされた」と述べている。
田代は、自らも含めた「ベクレル派」の主張を次のように要約している。
私のアパートの管理人、町角の八百屋の主人夫婦、郵便配達人、この人たちを私はブロクドルフ(西ドイツの原発の一つ)に連れていくことなんかできっこない。けれどもかれらは住んでいるところで、また働いているところで原発に反対し、チェルノブイリの放射能の危険を防ぐために、行動する気もちを持っている。もし反原発運動がこの機会を逃すなら、77パーセントに達した原発推進反対の世論のなかで、反対運動は小さなエリートだけのものにとどまってしまうだろう。
私たちがなすべきことは、長期的な水、土壌、食料などの測定。妊婦や子どもたちのための無汚染食料の供給。食品に放射能に関する品質表示をさせること。ECの食品在庫の放出。遊園地、屋外プール、公園などの除染。さらなる汚染を減らすために原発の放射能排出量を縮小すること、などである。こうした要求は、職場や居住地域や社会教育の場でいくらでも提起できる。そしてそのこと自体、日常的な抵抗運動になる。これは、チェルノブイリが西ドイツにもたらした被害を通じて、原子力施設が私たちの日常生活と将来に危険を投げかけ、ガン、遺伝的障害、死におびえた生活しか許さないということを、人びとに示す道でもある。
田代のいう「ベクレル派」とは、単に、日常的な場を放射線防護対策を行うというだけでなく、放射能汚染におびえる一般民衆に寄り添いつつ、反原発運動を、エリートに限られない広いものにしていこうとするものであったといえる。
しかし、田代によると、ベクレル派は、運動の中では少数派であった。多数派は、田代のいう「政治派」であった。政治派の主張を、田代は次のように要約している。
ー「放射線防護対策」というのは放射能の真の危険をごまかす手段にすぎない。なぜならそれは放射能の危険に対して、あたかも自衛が可能であるかのような印象をあたえるからだ。たとえば放射能が土壌に浸みこみ、食物連鎖に入ってくれば、それを防ぐ手だては見つからない。われわれは空気中の放射能だって、呼吸しないわけにはいかないのだ。
チェルノブイリを無かったことにするわけにはいかない。私たちはその放射能とともに生きなければならないのだ。だからわれわれにとって唯一可能な予防対策は、さらなる放射能の汚染を防ぐことしかない。政治家や原発推進派に対する要求は、未来に向けたものしかあり得ない。すなわちすべての原発を停止させることである。これが最後の、そしてもっとも有効な放射能に対する予防措置であるー
田代の要約によるならば、政治派は、放射線防護対策は無意味であり、放射線に対する恐れ、怒りは、原発を停止させることにむけなくてはならないというものなのであった。
田代らのベクレル派の微妙な位置を示すものとして、次の写真をあげておこう。これは『チェルノブイリの雲の下で』であげられている写真だ。
この写真のキャプションは「妊婦たちもデモに参加」である。妊婦も反原発運動に参加しているという、いわば政治的メッセージがこめられているのである。しかし、田代自身は「反原発の運動は環境汚染の危険を知らせ、幼児や妊婦に外出したりデモに参加したりしないようにすべきであった。胎児はとくに放射能に敏感だ。ダハオにある分娩クリニックでは、チェルノブイリ事故から3カ月たってから流産があいついだ」とコメントしている。妊婦の政治的利用自体が、反原発運動においてすべきでないことと田代は考えていたのだ。田代自身が、妻ともども、生まれてくるかもしれない子どもを配慮して、集会に参加しなかったことも想起されよう。田代によれば、反原発の運動の中で、日常的な場における放射線防護対策を重視するか、反原発の政治を優先するか、のっぴきならない対立が生まれていたといえるのである。
このような、いわば日常生活における困難を除去しようという志向と、ラジカルに政治的な解決を求める志向との矛盾は、西ドイツの反原発運動に限られないといえる。いわば、そもそも社会運動ー民衆運動というものが、常に内在しているものなのだ。西ドイツの反原発運動は、そのことの一つの例としてみることができる。そして、これは、たぶんに、今の日本の「脱原発運動」も抱えている問題なのではなかろうか。
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