前回はチェルノブイリ事故の際の西ドイツにおいて、放射線への恐怖に対して、ジェンダー的な差異があることを田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)を通じてみてきた。そして、福島第一原発事故の日本においても、自分自身の反省もふまえつつ、同じような状況があるのではないかと提起した。
ただ、あまりにも、ジェンダー的な差異のみを強調するのもどうかと思う。ある友人からも、そのような批判をされた。田代も「私はこの章でチェルノブイリの雲に対する男女の反応の差を、二分化法で性急に追い求める気はない。後章で触れるように、反応の差は両性の間で顕著だったが、また男女を問わず個人の間で顕著であることにも気づいたからだ」と述べている。
ここでは、男性である田代ヤネス和温自身が、夫人との間で「チェルノブイリの雲の下で子どもを産もう」とすることについて、どのように考え、行動したかを分析しなから、ジェンダー的差異をこえて、人としてどうこの問題に対面するべきなのかを考えてみたい。
本書の末尾による履歴によると、田代ヤネス和温(かずおみ)は、1950年に鹿児島県で生まれ、早稲田大学理工学部を中退し、1971年より西ドイツに在住した。肩書はフリージャーナリスト・市民エネルギー研究所員となっている。「エルケ夫人と反核運動に参加」とあり、夫人との共著で『ブロックを超えるー西ドイツの緑の党』(筆名遠藤マリヤ)などがある。チェルノブイリ事故時は36歳ということになる。本書によるとエルケ夫人は、西ベルリンの病院で勤務していた。最初、エルケ夫人は看護師かと思っていたが、そうではないようだ。
1986年4月29日、西ベルリンで放射能の数値が上昇しているというラジオニュースを聞いたとき、田代は、次のように考え、行動した。
「エッ、ついにそこまできたのか!」
私は内心ギクリとした。私は瞬間、ちょうどこの日病院の当直で勤務に出ていた妻のエルケのことを思った。偶然にもそのころ、私たちは初めての子を得たいと願っていたのだった。この放射能の雲の下で、生まれてくる生命の将来はどうなるのか。母親になる人はどんな気もちで新しい生命の到来を待たねばならないのか。私の胸の中を暗い思い予感がよぎった。私の足は自然に妻が働いている病院の方向に向いていた。
子どもをもちたいと思っている夫としての当然の心情といえるだろう。そして、妻の勤務する病院に田代は到着した。
私は当直中の妻を病院に訪ねた。私たちは診察室の窓を閉めてさわやかな外気を遮断した。これからは室内の古い空気を呼吸することでがまんするのだ。それから病院にあったヨウ素剤を服用し、看護婦さんたちにも服用をすすめた。
日本でも、妊娠していたかもしれない妻をこのように気遣いする夫はいるだろう。しかし、田代の気遣いは、妻に対するものだけではなかった。かなり微妙な問題なので、やや長い引用をしておこう。
当時五月一日にはメーデーのデモやピクニックがあり、翌々日には全国的な反原発行動が準備されていた。私とエルケは前記の知人たち(西ベルリンの反原発運動の活動家ベレーナ・マイヤーーこの人の手記はたびたび紹介したー、オルターナティブ・エルテ所属のベルリン市会議員レナーテ・ハイトマン、ノルトライン・ヴェストファーレン州の緑の党中央委員マーティン・パネンなど)に電話をかけ、五月三日にもし雨が降ったら野外集合やデモはただちに中止し、とくに妊婦や子どもは急いで帰宅させるように要請した。
ベレーナとマーティンは、五月三日の集会に出てきて何か話してほしいと私たちに頼んだ。とんだやぶヘビになるところであった。いまになってみれば、そのとき私たちは子どもを欲しがっていたことを率直に言っておけばよかったと思う。けれども、そのときはなぜかうその言いわけのように思われるのではないかと案じたりして、言いそびれてしまった。私ひとりで集会へ出かけると言っても、おそらくエルケがとめたことだろう。
私たちが子どもを得たいと願ってさえいなかったら、集会に出て放射線から身を守るためにどのような対策が必要かを話すべきだったと思う。いずれにせよその時点で私たちは私たちは人びとの対応の鈍さにやきもきしながらも、目に見えないところで少しでも事態を動かすことができないものかと試みていた。
私たちの要請を受けたレナーテさんは、三日の行動を中止するのは無理だろうが、雨天の際はとりやめるよう説得してみようと言ってくれた。あとで聞いてみると、かの女の提案はほかの人たちから笑いものにされただけであったという。つまり臆病者か狂人あつかいされたのだった。ベレーナさんは最初私たちの要請を「神経質すぎる」と感じていたようだが、数日後には、降雨の際には三日の行動を中止にすると決定した提案の原動力のひとりになった。マーティン氏も雨天中止を決めるのがやっとだったといってきた。
もし私とエルケがマーティンやベレーナの依頼を受けて、集会で発言したらどういうことになっただろうか。私は不必要な被ばくを避けることを訴え、したがって放射能の雲の下でデモをすることに反対を唱えていただろう。そうすれば私は確実に、集会の大多数の参加者たちから非難と抗議の的にされたにちがいない。たとえ少数の人たちが私のことばに耳を貸してくれたとしても……
要点をいえば、このようになるだろう。
①西ドイツの放射能汚染は深刻であり、なるべく野外集会やデモはさけるべきであり、特に、妊婦や子どもは参加させるべきではない。
②妻が今後妊娠するかもしれない田代ヤネス和温自身も集会への参加をとりやめた。
③放射能汚染が強い期間野外集会やデモを自粛するように主張した田代の主張は、緑の党などの環境保護運動団体には十分とりいれてもらえなかった。
③の論点は重要である。今後検討していきたい。しかし、ここでは、②の論点を中心に考えてみよう。
田代は、自身の子どもをほしいと願った。チェルノブイリからの放射能は、妻だけでなく、たぶん遺伝子を守るという形で、田代自身もそこから防護されなくてはならないものであった。田代の経歴からすると、集会で発言するということは、彼の信念の発露もであり、彼の仕事の一環でもあったと思われる。しかし、それを放棄しても、二人の間に生まれてくる子どもの健康と安全を守ろうとする意識が強かったといえる。
確かに、男は、女よりも放射線の影響を受けることが少ないのかもしれない。それでも、すべて、放射能防護対策を女まかせにしようと、田代は考えなかったのだ。生まれてくる子どもに対して、最善の対策を、男もとるべきである。それが、ジェンダー的差異をこえた、人としての、親としての責任の取りかたということができよう。
確かに、ジェンダー的差異は、女たちに放射能への恐怖をより感じやすくさせたかもしれない。しかし、その責任は、男もとるべきことなのであると、女たちは考えているのだ。田代は、『ターゲス・ツァイトゥンク』紙に載った「棺桶を買え」という投書を紹介している。
女たちは子どものことばかり心配している、ということを口実にして、男たちが家にでんと腰をすえて動こうとしないのを、私たちは認めない。母親でない大人たちはまるで死んだも同然であってよいのか。原発事故に対する関心の冷えこみぶりは信じがたいほどだ。だから私は、近いうちに棺桶を買って、上からの命令で一斉に中へ入る日を待っているんだと言われても、ちっともおどろきはしない。
この言葉は、今の私にも向けられているのだ。
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