1986年4月26日のチェルノブイリ事故において広がった西ドイツでの恐怖、さらに情報隠蔽と影響の過小評価に終始した西ドイツ政府の対応について、田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)に依拠しつつ述べてきた。
西ドイツ政府の公式発表は、ほとんど信用できないものであったのだが、その公式発表にすがる意識も生じた。それは、反原発運動の活動家の中にもあったのである。
西ベルリンの反原発運動の活動家の一人であるベレーナ・マイヤーの手記「パニックと不安抑圧の狭間で」を田代は引用している。ベレーナ・マイヤーは、もちろん、放射能汚染について恐怖を感じていた。すでに、本ブログで紹介したのであるが、もう一度みておこう。
「私たちは原発事故の際の緊急対策計画の馬鹿さかげんをいつも笑いものにしていた。たとえば缶詰を食べ、入口や窓を閉じ、シャーワーを浴び、ラジオを聞き、外で着ていた服を家の中にもちこまないなどである。しかし、いまになって私たちがしていることはといえば、つまりはそれと同じことではなかったか。私たちは缶詰を食べ、靴を家の外に置き、ラジオをつけっぱなしにしている……。
放射能の雲がやってきてから初めて雨が降った。雨の下を20メートル走る。傘は準備していた。家に帰ってシャワーを浴びたが、傘はどこに置いたらいいんだ?
……私たちは一生の間、輸入食品で過ごすことはできない。汚染されたものでも食べないわけにはいかない。それでも最初の数週間、私はまったく食欲がなかった。汚染されていたものはおいしくなかった。私が好きなものはすべて汚染されていた。だからのどを通らなかったのだ。私の体重はみるみるうちに減った。」
一方で、マイヤーの中には、政府などから出される、楽観的なニュースにすがりつく意識も生まれていた。
……ある朝、「チェルノブイリでは事故炉の火が消え、東ヨーロッパ全域で放射能の値は下がっている」と報道された。私はこのニュースに小躍りしながら飛びついた。そして半日の間この情報を信じていた。もちろん私はこの情報が信じるに値しないことを、心の底で知っていた。しかし、この悪夢が少しでも早く終わってほしいという望みが、政府の出す情報は信じられないという私の知識を押し退けるほど強かったのだ。ほかの人たちも私とほぼ同じように反応していた。
「おれは国の言うことなど頭から信用していないよ」と日ごろ言い切っていた人までが、ラジオのニュースを突然信じてしまうという場面にも出会った。だがたとえ不安感を抑圧したとしても、その反響はかならずやってきた。不安感を遠ざけようとすればするほど、恐怖感はより深くなるのだった。
ベレーナ・マイヤーは、反原発運動の活動家で、それ以前から政府など信用していなかった。むしろ、恐怖から解放されたいという思いが、普段は全く信用していない政府発表の「楽観性」を信じようとしてしまうのであるといえる。その意味で、西ドイツ政府の、「日常生活を変えない」という点から行われた情報操作に多くの人がからめとられていく要因がここに現れているといえよう。西ドイツ政府の公式見解の「根拠」など、どうでもよかった。「日常生活を変える必要がない」という政府見解にこめられた楽観的な希望があれば、そこにすがりつく。たとえ、その希望が虚妄であっても。
そして、西ドイツ社会に大きな亀裂が走ることになった。この亀裂は、社会全体にも、一人一人の内面にも及んだ。田代は、このように書いている。
いずれにしても五月の初めの日々、私たちはあらゆる手をつくして各方面から放射能汚染のデータを集めた。それらのデータは私たちの不安を増幅させるだけのものだった。電話で伝える情報の伝聞の間に、ときには厳密性が失われることがあった。また平常値との比較もできなかったし、汚染の規模を確実に把握することもできなかった。
不確実性に基づく不安感に追い打ちをかけたのが、正確な情報から完全に遮断されているという事実だった。恐らく体験者でないと想像できないだろうが、それは世界を「正気」と「狂気」に二分したのだった。
たとえば陽がさすと外に出て日光浴をする人たちがいる。一方、私の耳には電話を通じてさまざまな放射能測定値が届いてくる。これら二つのうち、はたしてどちらが「正気」で、どちらが「狂気」なのだろうか。私自身が二つに引き裂かれ、幻覚に悩まされたのだ。しかもそれに重なるように加わったのが、いちばん濃い放射能の雲がドイツ上空にさしかかったとき、運悪く雨が降ったのではないかという妄想である。それは一種の被害妄想であったかも知れない。
多くの人たちが、これはソ連のできごとで、東ヨーロッパの人たちには気の毒だが、自分たちには直接の影響はないと考えている。他方、その反動として自分たちこそ最大の犠牲者にほかならないといった、「被害妄想」が生じたことは否定できない。とくに雨が降り始めるとともに、核のゴミのすべてがここに落ちてくるのではないかという強い恐怖感に襲われたことをはっきり記憶している。あの当時は、雨よどうかこれ以上降ってくれるなと願うしかなかった。そして、とどのつまり、まるで手も足も出せない「放射能袋小路」から脱出し、チェルノブイリの雲がとどかない場所への避難を夢見るようになる。
田代は、「不確実性に基づく不安感に追い打ちをかけたのが、正確な情報から完全に遮断されているという事実だった。恐らく体験者でないと想像できないだろうが、それは世界を「正気」と「狂気」に二分したのだった。たとえば陽がさすと外に出て日光浴をする人たちがいる。一方、私の耳には電話を通じてさまざまな放射能測定値が届いてくる。これら二つのうち、はたしてどちらが「正気」で、どちらが「狂気」なのだろうか。」と問いかけている。つまりは、放射能を考慮せずに「日常生活」の「習慣」を守ろうとする志向と、放射能汚染を心配するあまり自分たちこそ最大の被害者であるという「被害妄想」ともいえる意識をもつ志向に、に西ドイツ社会全体も、それぞれの個人の内面も引き裂かれ、さらに正確な情報がない状況においては、どちらが「正気」でどちらが「狂気」かわからなくなってきたとしている。そして、チェルノブイリ事故の影響がないところにへの避難が欲求されていったのであった。
なお、ここでも、確認しておこう。これは、1986年のチェルノブイリ事故の際の西ドイツ社会のことを論じているということを。