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Archive for the ‘チェルノブイリ事故’ Category

1986年4月26日のチェルノブイリ事故において広がった西ドイツでの恐怖、さらに情報隠蔽と影響の過小評価に終始した西ドイツ政府の対応について、田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)に依拠しつつ述べてきた。

西ドイツ政府の公式発表は、ほとんど信用できないものであったのだが、その公式発表にすがる意識も生じた。それは、反原発運動の活動家の中にもあったのである。

西ベルリンの反原発運動の活動家の一人であるベレーナ・マイヤーの手記「パニックと不安抑圧の狭間で」を田代は引用している。ベレーナ・マイヤーは、もちろん、放射能汚染について恐怖を感じていた。すでに、本ブログで紹介したのであるが、もう一度みておこう。

 「私たちは原発事故の際の緊急対策計画の馬鹿さかげんをいつも笑いものにしていた。たとえば缶詰を食べ、入口や窓を閉じ、シャーワーを浴び、ラジオを聞き、外で着ていた服を家の中にもちこまないなどである。しかし、いまになって私たちがしていることはといえば、つまりはそれと同じことではなかったか。私たちは缶詰を食べ、靴を家の外に置き、ラジオをつけっぱなしにしている……。
 放射能の雲がやってきてから初めて雨が降った。雨の下を20メートル走る。傘は準備していた。家に帰ってシャワーを浴びたが、傘はどこに置いたらいいんだ?
 ……私たちは一生の間、輸入食品で過ごすことはできない。汚染されたものでも食べないわけにはいかない。それでも最初の数週間、私はまったく食欲がなかった。汚染されていたものはおいしくなかった。私が好きなものはすべて汚染されていた。だからのどを通らなかったのだ。私の体重はみるみるうちに減った。」

一方で、マイヤーの中には、政府などから出される、楽観的なニュースにすがりつく意識も生まれていた。

 ……ある朝、「チェルノブイリでは事故炉の火が消え、東ヨーロッパ全域で放射能の値は下がっている」と報道された。私はこのニュースに小躍りしながら飛びついた。そして半日の間この情報を信じていた。もちろん私はこの情報が信じるに値しないことを、心の底で知っていた。しかし、この悪夢が少しでも早く終わってほしいという望みが、政府の出す情報は信じられないという私の知識を押し退けるほど強かったのだ。ほかの人たちも私とほぼ同じように反応していた。
 「おれは国の言うことなど頭から信用していないよ」と日ごろ言い切っていた人までが、ラジオのニュースを突然信じてしまうという場面にも出会った。だがたとえ不安感を抑圧したとしても、その反響はかならずやってきた。不安感を遠ざけようとすればするほど、恐怖感はより深くなるのだった。

ベレーナ・マイヤーは、反原発運動の活動家で、それ以前から政府など信用していなかった。むしろ、恐怖から解放されたいという思いが、普段は全く信用していない政府発表の「楽観性」を信じようとしてしまうのであるといえる。その意味で、西ドイツ政府の、「日常生活を変えない」という点から行われた情報操作に多くの人がからめとられていく要因がここに現れているといえよう。西ドイツ政府の公式見解の「根拠」など、どうでもよかった。「日常生活を変える必要がない」という政府見解にこめられた楽観的な希望があれば、そこにすがりつく。たとえ、その希望が虚妄であっても。

そして、西ドイツ社会に大きな亀裂が走ることになった。この亀裂は、社会全体にも、一人一人の内面にも及んだ。田代は、このように書いている。

 

いずれにしても五月の初めの日々、私たちはあらゆる手をつくして各方面から放射能汚染のデータを集めた。それらのデータは私たちの不安を増幅させるだけのものだった。電話で伝える情報の伝聞の間に、ときには厳密性が失われることがあった。また平常値との比較もできなかったし、汚染の規模を確実に把握することもできなかった。
 不確実性に基づく不安感に追い打ちをかけたのが、正確な情報から完全に遮断されているという事実だった。恐らく体験者でないと想像できないだろうが、それは世界を「正気」と「狂気」に二分したのだった。
 たとえば陽がさすと外に出て日光浴をする人たちがいる。一方、私の耳には電話を通じてさまざまな放射能測定値が届いてくる。これら二つのうち、はたしてどちらが「正気」で、どちらが「狂気」なのだろうか。私自身が二つに引き裂かれ、幻覚に悩まされたのだ。しかもそれに重なるように加わったのが、いちばん濃い放射能の雲がドイツ上空にさしかかったとき、運悪く雨が降ったのではないかという妄想である。それは一種の被害妄想であったかも知れない。
 多くの人たちが、これはソ連のできごとで、東ヨーロッパの人たちには気の毒だが、自分たちには直接の影響はないと考えている。他方、その反動として自分たちこそ最大の犠牲者にほかならないといった、「被害妄想」が生じたことは否定できない。とくに雨が降り始めるとともに、核のゴミのすべてがここに落ちてくるのではないかという強い恐怖感に襲われたことをはっきり記憶している。あの当時は、雨よどうかこれ以上降ってくれるなと願うしかなかった。そして、とどのつまり、まるで手も足も出せない「放射能袋小路」から脱出し、チェルノブイリの雲がとどかない場所への避難を夢見るようになる。

田代は、「不確実性に基づく不安感に追い打ちをかけたのが、正確な情報から完全に遮断されているという事実だった。恐らく体験者でないと想像できないだろうが、それは世界を「正気」と「狂気」に二分したのだった。たとえば陽がさすと外に出て日光浴をする人たちがいる。一方、私の耳には電話を通じてさまざまな放射能測定値が届いてくる。これら二つのうち、はたしてどちらが「正気」で、どちらが「狂気」なのだろうか。」と問いかけている。つまりは、放射能を考慮せずに「日常生活」の「習慣」を守ろうとする志向と、放射能汚染を心配するあまり自分たちこそ最大の被害者であるという「被害妄想」ともいえる意識をもつ志向に、に西ドイツ社会全体も、それぞれの個人の内面も引き裂かれ、さらに正確な情報がない状況においては、どちらが「正気」でどちらが「狂気」かわからなくなってきたとしている。そして、チェルノブイリ事故の影響がないところにへの避難が欲求されていったのであった。

なお、ここでも、確認しておこう。これは、1986年のチェルノブイリ事故の際の西ドイツ社会のことを論じているということを。

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これまで、本ブログで、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ事故の際、西ドイツ政府が、情報隠蔽や影響の過小評価、基準値の大幅な緩和を繰り返していたことをみてきた。

その背景には、どのようなことがあったのであろうか。

田代ヤネス和温は『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)で、このように述べている。

 

多くの市民から内務省や放射線防護委員会に問い合せ、苦情、不安や抗議の声が寄せられた。しかし、これらの政府機関はいずれも、人びとの日常の暮らしにさざなみほどの変化も起さないことを鉄則としていた。なぜなら、世間の人びとは日常生活を変えなければならないときがきて、はじめて危険が身に迫っていることを知るからだ。その意味で「習慣を変えない」ことが支配の要諦なのである。
(中略)
 いまにして思うのだが、私たちは放射能の危険に対処する能力を持つと同時に、内務省、放射線防護委員会など、いわゆる原子力ロビーがいったん原発事故が発生したようなさい、どれほど危険な役割を演じるかについて、日ごろから正確な認識を持っておかねばならなかった。これからの運動で生かすべき教訓として、あらためてここに記しておきたい。

もちろん、おわかりのことと思うが、これは、西ドイツ政府のことである。

田代の本で引用している、田代の友人で、三人の子の母親であるアニャ・ルゥールの手記は、より端的に述べている。

 

日曜日(1986年5月4日)以降、私は政府の発表が信じられなくなった。政治家たちの恐れているのは放射能の害ではなくて、私たち普通の人びとが放射能に恐怖心をもち、原発のような破壊的な科学技術に反対するようになることを恐れているのだ。

その後、アニャ・ルゥールは、自然発生的に出来上がった「授乳中の母親の会」の世話役になった。

放射性物質の降下による人民の生命・健康を恐れるよりも「日常生活を変えない」ことを優先し、原発などの破壊的科学技術に疑問を持たせないようにしたのが、西ドイツ政府の意向であったといえよう。

 このような西ドイツ政府の対応は、多くの「身体障害事件」としての政府への告訴を引き起こした。田代は、その一つの告訴事件を例にして次のように語っている。

  

この告訴事件を担当した裁判官の一人は、国民に危険が迫っているとき、国に国民を保護する義務が生じるのは当然のことと考えられるが、しかし、この義務を明文化した法律がないと、語った。言いかえると、人民主権の民主国家とは言うものの、国が国民に対して負うべき義務など、何ひとつ存在しないのである。

「人民主権の民主国家とは言うものの、国が国民に対して負うべき義務など、何ひとつ存在しないのである」のはチェルノブイリ事故の際の西ドイツ政府であったことを、もう一度確認しておく。田代は、さらに「ただし政府がウソをついてもさしあたりこれを罰する規定がないわけで、このところウソのつき放題といった感じだった」とも述べている。

さて、問題だったのは、西ドイツ政府だけではない。チェルノブイリ事故は、西ドイツ社会自体にも大きな亀裂を引きおこした。次回以降、述べていきたい。

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さて、また田代ヤネス和温『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)にもどって、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ事故の際における西ドイツ社会の対応をみていこう。

2011年8月11日付の『朝日新聞』朝刊には、福島県や千葉県の各地で、住民や自治体によって、校庭や道路などの除染作業が実施されていることが紹介されている。

チェルノブイリ事故の際の西ドイツでも、除染作業の必要性は認識されていた。

ミュンヘンにおいては、マオラー・エレクトロニクス株式会社とイノーヴァ精密技術株式会社という二つの技術会社を母体にして発行された『汚染通信』第一号(1986年5月11日号)で、除染作業の必要性が提唱された。チェルノブイリ事故後、表面汚染の測定器を購入して、両社が所在している集合住宅の子どもの遊び場を計測したところ、5月6日から10日にかけて16万~10万Bq/㎡の表面汚染が測定されたと『汚染通信』第一号は伝えた。この汚染度は、さまざまな放射性物質、とりわけ半減期の短いヨウ素131を含んでいるので、かなり高いように思われるが、東京でもヨウ素131だけで10万Bq/㎡程度は降下しているとされているので、東京も大差なかったのではないかと思われる。

田代は、『汚染通信』第一号を引用しながら、このように語っている。

 『汚染通信』第一号にのった住宅地域の表面汚染値は、従来政府が規定していた許容量より30倍も高いものだった。また舗道の表面がきわめて高い汚染値を示したことも、政府の発表は市民に告げていない。「私たちは実験的に高い圧力を加えた水を舗道にかけながら、ブラシを使って表面を洗滌すれば、汚染を大幅に減らせることを確認した」と『通信』は言う。この実験を踏まえてかれらは、先述した集合住宅の建物の持主に、子どもの遊び場の除染を提案した。すると持主は即答を避け、「そういうことなら消防署と相談してほしい」と応答した。

民間の『汚染通信』が、除染作業を提案したのである。なお、西ドイツにおいて住宅地域の表面汚染値の許容量は、3700Bq/㎡であった。

しかし、ここで、重大なことがわかったと、田代は述べている。

 

そこでミュンヘン市の消防署に問い合わせてみたところ、大変なことが判明したのだ。つまり5月9日朝、同署の放射線管理責任者はボンの放射線防護委員会から電報を受けとり、1平方メートル当たり10万ベクレルの値なら心配は要らないとの指示を得たというのだ。これが実に曲者で、現行放射線防護規定の基準を30倍以上上回る数値なのだ。
 その上当の放射線管理責任者は、直接の上部機関から道路の除染作業は一切禁止するとの強いお達しがあったことを明らかにした。別の筋からの情報では、一部の学校で校内の除染作業が始められていたのに、突然中止命令が出されたとのことだった。

つまりは、中央政府の放射線防護委員会は、基準を30倍以上緩和して、除染作業は不要と通達し、それを受けた形で道路や校庭の除染作業をミュンヘン市では中止させたのである。これについて、『汚染通信』グループは、必要で実行可能な除染作業が責任官庁の一方的判断で中止してよいのかと指摘し、「これらの措置は、政府機関が救助義務を怠ったケースに該当しないかどうか、判断してほしい」と法律の専門家に協力をよびかけたのである。

『汚染通信』グループは、このように主張している。

 「私たちはパニックを煽り立てる気など少しもありません。政府発表が言っているように、大気中の放射能レベルが相当低下したとか、急性の健康障害は予想されないということは多分当たっているでしょう。けれども土壌汚染は公式発表よりはるかに高いのです。この汚染でいちばん被害を受けているのが、地面の上で遊んでいる子どもたちです。私たちがどうしても理解できないのは、なぜ西ドイツ政府がたった24時間のうちに、現行規定の許容水準を30倍も緩和し、それを無害と断定したかということです。」

このような考えのもとで、『汚染通信』第一号は、除染作業の必要性を提案した。

 

私たちは牧場の草をいますぐに刈って捨てることをすすめたい。刈られた草は放射能を含む特別のゴミである。これによって放射性物質の大部分が除かれ、食糧への汚染を防止することができる。農業への打撃もこれによってある程度軽減されよう。
 私たちは公的機関の人員や資材を動員して、妊婦や子どもの被ばく線量を下げるための対策を実行することが必要だと考える。
 放射能の許容量を政治的に決めてはならない。人体の組織は許容量などあずかり知らないからだ。
 市民に正確かつ十分な情報を提供し、不必要な汚染を避けることが大切だ。

 このように、チェルノブイリ事故の際の西ドイツのミュンヘンでは、民間団体が除染作業の必要性を提唱し、中央政府の指示にしたがってミュンヘン市当局は除染作業を中止させたのである。

写真は、市当局が除染作業をしないことに抗議して、ミュンヘンの歩行者天国を水洗いするボーイスカウトとガールスカウトが写されている。

ミュンヘンにおける除染作業

ミュンヘンにおける除染作業

翻って、日本はどうであろうか。『朝日新聞』の記事でも、除染作業に対する国の対応は報じられていない。学校施設においても、ほとんど避難基準である年間20ミリシーベルトを制限基準としている。その意味で、チェルノブイリ事故時の西ドイツ政府・ミュンヘン市当局と同様の対応をしているといえるのではなかろうか。

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前回のブログで、チェルノブイリ事故に対して、西ドイツ政府が情報隠蔽と汚染度の過小評価に終始したことをみてきた。

さらに、放射能汚染に対する許容量を、これもまた現在の日本政府と同様に緩和している。田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)で確認してみよう。

1986年4月26日のチェルノブイリ事故により、西ドイツ各地で放射能汚染が拡大したことを受けて、5月2日、西ドイツ政府の放射線防護委員会は5月2日にボンで記者会見を開いた。

この放射線防護委員会について、田代はこのように指摘している。

これは西ドイツ政府内務省の諮問委員会であり、16人の学識経験者から構成され、すべて原発推進の立場に立つ科学者である。同委員会は「中立公正」を表看板にし、最高水準の科学技術専門家が自由に論議して意見をまとめる場だと吹聴しているが、本来これは「原子力利用の促進」を目的に設置された機関であることに何の疑問もない。

現在の日本にも、このような機関は原子力安全・保安院、原子力安全委員会など、たくさん存在している。

さて、5月2日の放射線防護委員会の記者会見では、次のようなことが発表されたと田代は述べている。

 

生鮮野菜や果物はよく洗って食べること。これは現に放射能汚染の危険が存在するからではなく、あくまでも「予防的対策」にすぎない。「放射線被ばくによる後遺症の危険が皆無とは言えないので、それを少しでも減らすための勧告」だとつけ加えた。
 チェルノブイリからの放射能の量は、自然放射能に比べてまったく小さい。
 ヨウ素剤を服用することは危険である。
 東欧諸国からの食糧品輸入に対してきびしい規制を導入する。
 農家には乳牛を放牧しないように勧告する。
 母乳の放射能汚染度が高くなることは考えられない。

いろいろ、矛盾した言明である。基本的には西ドイツの放射能汚染は問題がない、問題は東欧諸国からの輸入食糧品であるとしている。しかし、野菜・果物はよく洗え、乳牛の放牧を自粛せよと、最低限ではあるが、放射能汚染対策にも言及している。

しかし、放射線防護委員会の記者会見の眼目は、田代にとっては、次の点であった。

 

肝腎なのは「牛乳の許容量をヨウ素131については1リットル当たり500ベクレル(1万3540ピコキュリー)とする」としたことだ。これは1リットルの牛乳を飲めば、成人は25.5ミリレム、子ども250ミリレムの甲状腺被ばくを受けることを意味している(子どもは大人に比べて放射線には8倍も敏感なのだ)。これまでの放射線防護規定の年間許容量は90ミリレムだったが、これを無視してきわめて緩やかな新許容量を設けたことになる。
 しかし、放射線防護委員会の面々はこの数値の改訂について、口をぬぐって何も語ろうとはしなかった。記者たちも「ベクレル」「レム」……など、初めて耳にする記号と数字に惑わされたのか、基準改訂のカラクリを鋭く質問する者はいなかった。一般の市民がこうした発表内容の背後にある事態の変化を見抜けず、いたずらに状況にふりまわされていたのも無理はなかった。

つまりは、牛乳1リットル当たりのヨウ素131の許容量を500ベクレルとしたのである。田代が西ドイツ政府の対応を嘆くのをみながら、日本政府のそれをみると、西ドイツ以上に酷いと思うことが一般なのである。しかし、現在、日本の牛乳1kgあたり(1リットルとほぼ同等)の放射性ヨウ素(ヨウ素131を中心とする)の暫定規制値は100ベクレルであり、それよりは低い。田代は500ベクレルであると、3,6リットルの牛乳を飲めば年間許容量90ミリレムに達するとしている。日本の暫定規制値であると18リットル飲めば達する計算となる。日本の暫定規制値でも、牛乳を飲む習慣があれば、日常的に90ミリレムには達しうるのである。

田代は「ここで大切なのは、チェルノブイリ事故発生後、この委員会がいかに新しい基準値作成に腐心したかを見ておくことだ」と述べている。

西ドイツ政府の他の研究機関も同じような対応であった。田代は、次のようなエピソードを紹介している。

 

ミュンヘン市近郊に放射線環境研究協会という国立の研究機関がある。そこのゲオルグ・ブルガー博士がミュンヘンのあるラジオ局のインタビューに答えて、次のように述べている。
 「ここでは1平方メートル当たり40万ベクレルの放射能が降ってきた。国の放射線防護規定によると、3万7000ベクレル以上になると放射線防護服の着用が義務づけられる。しかし、実際には州民すべてがそんな服を着るのは無理だから、結局防護規定の方が存在理由を失ったことになる。まあ、これは特殊な事態なのだから、それに応じた対策が必要だろう。」

放射線防護服の着用が義務づけられる限度の10倍以上になっているにもかかわらず、州民(ミュンヘンが州都であるバイエルン州民のこと)全員が防護服を着ることはできないから、防護規定が無意味になったというのである。

これと似たようなことは、現在の日本でもみられる。かなり緩い暫定規制値など、枚挙に暇がないだろう。対策がとれないならば、規制値や防護規定を大幅に緩和して、放射能汚染をなかったことにするのである。

再三言っているが、これはチェルノブイリ事故直後の西ドイツで起こったことである。しかし、福島第一原発事故以後の日本でも現在進行形で行われていることなのである。

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さて、今回は、田代ヤネス和温『チェルノブイリの雲の下に』(1987年)より、1986年のチェルノブイリ事故における放射能汚染に、西ドイツ政府が、情報の隠蔽、事態の過小評価、放射能汚染基準値の緩和などで、「対処」していった様子をみていこう。

西ドイツ政府の対応を話しているのだが、まるで、現在の日本政府の対応をみているようである。その意味では、これも全くデ・ジャブといえる。つまりは、日本政府だけが特異な対応を示しているわけではないのである。原発推進を掲げている政府は、たぶん、どこでも、このような対応を示すのであろう。

まず、前々回のブログで、紹介したように、4月26日のチェルノブイリ事故で放出された放射性物質は、4月29日に西ベルリンに達した。その時のラジオは、このように報道した。

「ベルリン地区では放射能の値が上昇しています……しかし、健康に悪い影響を与えるほどのレベルではありません。」

「しかし、健康に悪い影響を与えるほどのレベルではありません」とは、枝野官房長官談話をはじめ、現在の日本で何度聞かされたことか。この言葉は、どのような悪いニュースでも、その深刻さを打ち消していたのである。

とにかく、西ドイツ政府は、チェルノブイリ事故の影響を過小評価することに躍起であった。それは、気象データすら及んだ。

 

ところで、西ドイツでは内務省の管轄下にある気象台が放射能の測定と警報に責任を負っている。そこでは当然風向きに細心の注意を払っているはずだが、気象台から流されてくる情報は、私たちの判断とまるで反対のものだった。つまり北東風はスカンジナビアから吹いてくるから、チェルノブイリの放射能を運んでくる心配はないというのだ。
 連邦政府のリーゼンフーバー科学研究相はこの気象台の判断を根拠にして、この風向であれば西ドイツに放射能の雲がやってくることはないと言明し、それが4月30日の朝刊に大きく掲載された。それと同じことを29日の夜、チマーマン内務相がテレビを通じて発表する。同相はチェルノブイリと西ドイツは2000キロメートルも離れているので、たとえ放射能の雲がやってきても絶対に危険はないと断言した(実際には1300キロメートルしか離れていない)。

このことには、多少解説が必要である。田代は、チェルノブイリ事故で放出された放射性物質は、まず、北側に流れ、西側で最初に検出されたのはスウェーデンであるとしている。つまりは、スカンジナビアに放射性物質がたまっていたのであり、そこからの風が西ドイツに放射性物質をもたらしたとしているのである。

西ドイツ政府の見解は、チェルノブイリから直接くる風ではないから、危険ではないというのである。

ここまでは、見解の相違、想定外の事態、官僚制における想像力の欠如などで説明がつけられるかもしれない。しかし、実際にはそんなものではない。

 

4月30日オフェンブルク気象台は市民からの問い合わせに対して「1立法メートルの大気中に3000ピコキュリー(111ベクレル)の放射能が測定された」と回答した。このように気象台の方から進んで発表しなかったものの、外部からの問い合わせには割と気軽にデータを公開していた。
 ところが翌5月1日になると様相が一変する。連邦政府のチマーマン内務相が各気象台、研究機関に対して、「一般市民や報道機関に対して放射能測定値を公開してはならない」と指示したのだ。

つまり、西ドイツ政府は、すべての放射能測定値の公開をさしとめてしまったのだ。あからさまな情報隠蔽である。とにかく、過小評価すること、不都合なデータは公開しないことが肝要であるのだ。

このようなことは、日本でも行われた。例のスピーディーによる放射性物質の拡散予想が、隠匿されていたことは記憶に新しいであろう。

放射能値は、公開された場合でも、その数値には過少評価する言葉が付加されていた。4月30日、ミュンヘン市では空気1立方メートル中2700ピコキュリー(100ベクレル)、レーゲンスブルク市では3848ピコキュリー(142ベクレル)の測定値が出た。田代によればこれは平常平均値の45倍にあたる数値であるが、公式発表には「平均値の6~7倍」とされたという。またベルリンでも平常の10~15倍の放射能が検出されたが、政府筋は、「平常値の2倍程度」とごく控え目に発表したという。

放射能値の発表が意図的に遅延された場合もあった。田代は、次のように伝えている

 

4月30日夜半から南ドイツでは雨になり、翌日になると牛乳や野菜の汚染度が急上昇したことが、バイエルン州環境省(在ミュンヘン市)に通報されてきた。しかし、同州政府は高汚染食品を撮ることの危険性を市民に警告しようとしなかった。やっと二日後になって州政府(バイエルン州政府)は「4月30日の測定値は平常の45倍に達していた」ことをヌケヌケと発表したのであった。その前日まで「測定値は平常の15~20倍」と発表していたその同じ政府がである。これはまさに浴びてしまったものは仕方がない。「後の祭」という言い方にひとしい。これはまた一般市民のあきらめやすい心理を逆用した発表方法だとも言える。

飲料水の汚染度も、チェルノブイリ事故の当初はあきらかにされていた。テュービンゲン市の水道ではヨウ素131が50ベクレルを超え(明示されていないが1リットルあたり)、フロイドリンゲン市では30ベクレルを超えた。平常値はすべての放射性物質をあわせても0.1~0.2ベクレルである。放射能に汚染された排水の許容値が3.7ベクレルなので、地域によっては汚染された排水よりも数十倍汚染された飲料水が供給されていたと、田代は指摘している。さらに、田代は、このように述べている。

…ボーデン湖、ライン川流域の住民は高度に汚染された水を飲んでいたことになる。
 飲料水は基本的な食物である。それが汚染されたことがわかれば、人心を根底から動揺させる可能性がある。そこで放射線防護委員会は5月8日に、飲料水を測定すること自体を止めるよう勧告した。それ以来、水道水の検査は行われなくなった。

水道水が汚染されていたので、水道水自体の検査を中止したのである。とてつもない話である。

しかし、今の日本はどうか。まず、飲料水の暫定基準値が、ヨウ素131の場合では一般で1リットルあたり300ベクレル、乳児では100ベクレルとなっている。セシウム137では、1リットルあたり200ベクレルである。たとえ水道水1リットルあたりヨウ素131が50ベクレルとなっても、日本では報道されはしないのである。如何に緩い基準かがわかるであろう。

しかも、この緩い基準ですら、日本においては軽々と凌駕した。3月23日に東京の水道水からヨウ素131が210ベクレル検出されている。福島県飯館村ではより汚染度が高く、3月20日には965ベクレルに達しているというのである。

次回は、日本の原子力安全委員会の西ドイツ版とでもいうべき放射線防護委員会などについてみていきたいと思う。

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さて、ここでは、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ事故の際の西ドイツで、どのような恐怖がみられたのかを田代ヤネス和温『チェルノブイリの雲の下で』(技術と人間、1987年)からみてみよう。

例えば、著者の友人であるアニャ・ルゥールは、このように手記で語っている。

「五月四日、日曜日の夜、友人から電話があり、『今日の午後、放射能の測定値がすごく上昇した』と知らせてきた。測定値はこれまでの最高の110ベクレルだという。
 それを聞いて私は突然叫びそして泣いた。泣きながら私は思った。いま私たちに頼るべきものは何もない。また何の救いもないと。……私は気を取り直し、もう夜中だというのに床を濡れ雑巾でごしごし拭き、家族みんなの靴の底を洗い、着ていた服をすべて洗濯した。
 いちばん下の子が乳を欲しがった。乳房には乳が溢れそうだったのに、その乳もまた放射能に汚染されているのではないかと恐怖感が走り、私はそれを子どもに与える勇気がなかった。私はまた泣いた。私は息子にちょっぴり乳をのませ、あとは哺乳ビンでがまんしてもらった。」

実際、アニャは母乳を検査してもらった。1リットルの母乳から65ベクレル(1755ピコキュリー)のヨウ素131が検出されたのである。そのグループの中には母乳1リットルあたり150ベクレル(4050ピコキュリー)のヨウ素131が検出された女性もいたという。田代は、「これらのヨウ素は空気中にただよっていたものが、呼吸を通じて体内に取り入れられて母乳に濃縮されたものである。」と指摘している。

一応、前回のブログで述べたことだが、東京を含む関東地方・東北地方太平洋側南部一帯のかなりの部分におけるヨウ素131による汚染状況は、チェルノブイリの際の西ドイツと同等以上であり、福島県東部では10倍以上である。同様のことが予想される。しかし、母乳についてのセシウム137の汚染度は報道されているが、ヨウ素131についてはどうだったのだろうか。

 西ベルリンの反原発運動の活動家であったベレーナ・マイヤーは「パニックと不安抑圧の狭間で」という手記で、このように語っている。

 「私たちは原発事故の際の緊急対策計画の馬鹿さかげんをいつも笑いものにしていた。たとえば缶詰を食べ、入口や窓を閉じ、シャーワーを浴び、ラジオを聞き、外で着ていた服を家の中にもちこまないなどである。しかし、いまになって私たちがしていることはといえば、つまりはそれと同じことではなかったか。私たちは缶詰を食べ、靴を家の外に置き、ラジオをつけっぱなしにしている……。
 放射能の雲がやってきてから初めて雨が降った。雨の下を20メートル走る。傘は準備いしていた。家に帰ってシャワーを浴びたが、傘はどこに置いたらいいんだ?
 ……私たちは一生の間、輸入食品で過ごすことはできない。汚染されたものでも食べないわけにはいかない。それでも最初の数週間、私はまったく食欲がなかった。汚染されていたものはおいしくなかった。私が好きなものはすべて汚染されていた。だからのどを通らなかったのだ。私の体重はみるみるうちに減った。」

私は覚えている。これと全く同じような放射性物質に対する対処法が新聞に掲載されていたことを。たぶん、福島県では励行されていた(たぶん、ある程度は今も)だろうし、東京でも行っている人々はいた。そして、安全そうな食品・ミネラルウオーター
についての買いだめが起きていたことも記憶している。まさしく、デジャブなのだ。

さらに、田代は、このように記述している。

新聞は、八百屋の店先では温室栽培ものしか売れなかったと書いていたが、その後何日かたって、温室ものもかならずしも安全ではないことが判明した。というのも、雨水を使って栽培していたものあるいは露地ものを温室ものと称して売っていたからだ。放し飼いしている鶏の卵の汚染がひどくて、ケージ飼いの鶏卵のほうが安全だとのニュースも流れた。このように昨日と今日では価値観がすっかり逆転し、人の心もどんどん変わっていくようだ。

今でも、そうだが、放射性物質が含有された食品に対するパニックを思い起こされる。なお、たぶんに、この時期の西ドイツでは、自然農法に強い関心があったのであろう。しかし、チェルノブイリ事故による放射能汚染は、その気運を逆転させたというのである。

田代は、次のように言っている。

 

食物をめぐる日々のたたかいは、都会では主にスーパーマーケットでくり広げられる。チェルノブイリ以後、食品の汚染に気を配る生活は、新鮮な野菜や牛乳を避け、冷凍食品、缶詰、ロングライフミルクなどを買いあさることで終わったわけではなかった。
 ヨウ素131が消えた後は長寿命のセシウムやストロンチウムなどが問題になった。

これは、まさに、今経験していることである。福島第一原発事故直後、安全な食品を買いだめすることは、東日本では一般的にみられた。この問題は鎮静化したようにみえたのだが、セシウム汚染という形で、再び顕在化してきているのである。

 このような放射能汚染は、プロスポーツにも及んだ。

 

野外での競技をするプロスポーツ選手も、職業的被ばくを受けることになった。5月4日ヘッセン州カッセルのサッカー競技場では、異常に高い放射能値が測定された。その前夜降った雨に1リットル当たり5400ベクレルのヨウ素131が含まれていたのだ。選手たちは試合の後ユニフォームをまとめて特別の洗濯に出したし、念入りに体を洗うように指示を受けた。選手たちの体は何度も丁寧に調べられた。

ペットも例外ではない。

 

放射能の脅威は生活の全領域にわたって現れた。動物好きの人が多いドイツで、ウサギやチョウセンネズミなどを家で飼う人は、汚染された飼料を住宅の中にまで持ち込むことになった。1キログラム当たり2万ベクレル以上のウサギの飼料が販売されている。ペットの世話をする子どもがとくに強い放射能を浴びることになる。これについてもまだ何の対策もとられていない。

日本においても「まだ何の対策もとられていない」。しかし、家畜の飼料である牧草・稲わらから高い放射能が検出され、それを食べた牛の肉が汚染されたことから考えると、日本でおきてもなんら不思議がない。日本でも、多数の人がペットとしてウサギを飼育している。できたら、ウサギの飼料にもガイガーカウンターをあててみてほしい。

いずれにせよ、チェルノブイリ事故時の西ドイツでみられた放射能汚染と、それによって引き起こされた恐怖は、福島第一原発事故が起きた今日の日本でも、同様の事態となっている。

このような放射能汚染と、それに対する人々の恐怖に、西ドイツ政府はどのように対応したのか。調査結果の隠蔽、調査自体のサボタージュ、情報操作、事態の過小評価、基準値自体の緩和……。全く、現在の日本政府と同様であった。この点でも、デジャブである。

次回以降、西ドイツ政府の対応についてみていきたい。

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『チェルノブイリの雲の下で』

『チェルノブイリの雲の下で』

今回は、田代ヤネス和温『チェルノブイリの雲の下で』(技術と人間、1987年)を紹介していこう。本書は、1986年のチェルノブイリ事故による放射性物質汚染をまともにうけた、西ドイツの景況を伝えるものである。著者は、本書の記述によると、「緑の党」の関係者とみられる。ドイツ人の妻がおり、当時は西ベルリンに在住していた。

本書を読むと、放射性物質に襲われた市民と国家がどのように行動していたのかということが如実にみえてくる。1986年のことを書いているのに、まるで、昨日のこと、今日のことをみているようだ。

そう、まるで、デジャブなのだ。3.11以後、私たちも、私たちの国家も、全くチェルノブイリの時と同じように行動していたのである。この既視感! 私も、私の周りも、同じようだったなと思う。

その前に、チェルノブイリ事故において西ドイツの放射能汚染がどの程度であったのかをみてみよう。チェルノブイリ事故が起きたのは1986年4月26日であるが、チェルノブイリ事故で放出された放射性物質はまずスウェーデンなど北に流れ、それから南西方向に流れてきたという。西ベルリンに放射性物質が到来したのは4月29日であった。その時、田代は、西ベルリンで、次のようにラジオ放送をしたのを聞いた。

「ベルリン地区では放射能の値が上昇しています。……しかし、健康に悪い影響をあたえるほどのレベルではありません。」

「健康に悪い影響をあたえるほどのレベルではありません」というフレーズの意味については、段々後述していこう。ただ、この言葉に類似したことを、福島第一原発事件の際、枝野官房長官が繰り返し述べていたことに、ここでは注意を喚起しておきたい。

さて、4月30日には、ベルリンで放射能値はピークに達した。そして、しだいに南ドイツに広がっていった。そして、その際、たまたまバイエルン州(州都ミュンヘン)において、夕立の雨が降ったため、より汚染度は高くなった。これも、福島県他のいわゆるホットスポットとよばれる高汚染地区で、現在その原因として議論されていることである。

さて、実際には、どの程度であったか。ミュンヘン(ノイヘアベルグ)での地表面の汚染度は、次のようなものであった。

ミュンヘンでの汚染度

ミュンヘンでの汚染度

福島第一原発と違って、かなり多種多様な放射性物質が検出されている。福島第一原発事故においては、ヨウ素131とセシウム137の放出が主に報じられている(福島第一原発構内で微量のプルトニウムの検出が報じられているが)。……ただ、あまりいいたくないが、その他の放射性物質の検査をしない、もしくは「健康に影響がない」として公表されていない可能性はあるが。

では、福島第一原発事故では、どの程度なのか。http://onihutari.blog60.fc2.com/blog-entry-49.htmlより転載した、かのスピーディによって文科省が試算したヨウ素131の汚染状況は、次の通りである。緑色のところが10万ベクレル以上のところであるが、宮城県南部、茨城県全域、千葉県東部など関東平野の多くがはいっている。東京もかなりの部分が含まれていることがわかる。もちろん、福島県東部はおおむねそれ以上にひどく、100万ベクレル以上となっている。、チェルノブイリ事故時のミュンヘンでは、92000ベクレルであった。つまり、ミュンヘンよりも、東京を含めた関東や東北南部の太平洋側の多くの部分のほうが、ヨウ素131の汚染度は高いのである。

ヨウ素131汚染区分(3月25日時点の地表堆積量)

ヨウ素131汚染区分(3月25日時点の地表堆積量)

セシウム137について、東京都内での確定的な実測値は公表されていないようであり、いくらさがしても見つからなかった。ただ、日本分析センターが自社の敷地内(千葉)で4月14日にはかった数値(http://www.jcac.or.jp/lib/senryo_lib/tikuseki.pdfより)によると、腐葉土や小石混じりの地から、セシウム134、セシウム136、セシウム137が少なくともそれぞれ1万ベクレル以上検出されている。多い場合には5万ベクレル以上にもなるらしい。ミュンヘンでは、それぞれ1万、4200、1万9千ベクレルなので、ほぼ匹敵するか、それより多い汚染がなされているということになる。この千葉の数値については、特別なホットスポットだから高いという意見もあり、一般化できるかどうかはわからない。ただ、これ以外に公表された数値がないので、とりあえず、参考数値としてみておくべきであろう。

日本分析センター(千葉市)の汚染度

日本分析センター(千葉市)の汚染度

いいたいことは、このようなことである。つまり、チェルノブイリ事故当時、西ドイツ内でも汚染がひどいとされたバイエルン州ミュンヘンと、福島第一原発以後の東京を含めた関東地方は、凌駕するか、少なくとも匹敵する放射能汚染を受けているということである。

そして、現在の汚染度を調べることにかなり苦労したということ、これも気をとめておいてほしい。

このように、東京を含めた東日本の多くの部分は、チェルノブイリ事故の時の西ドイツと同等以上の放射能汚染にみまわれているのだ。それを前提にして、次回以降、本書の内容を紹介していきたい。

付記:ヨウ素131・セシウム137の汚染度については、チェルノブイリ事故の際のミュンヘンの数値と比較するために、公的機関が出した数値を使っている。もちろん、この数値が一般化できないこともありうるであろう。詳細は専門家に聞いてほしい。

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