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昨2014年に出版した拙著『戦後史のなかの福島原発ー開発政策と地域社会』(大月書店)において、私は「原発建設におけるリスクとリターンの問題に着目する」とし、次のように述べた。

「原子力の平和利用」が日本社会で開始された一九五四年は、ビキニ環礁において第五福竜丸が被曝し、原水爆禁止運動が始められた年でもある。「原子力の平和利用」の裏側にある放射能汚染のリスクは、政府においても社会においても、ある程度は認識されていた。この放射能汚染のリスクは大都市周辺で原発が建設されない要因となった。そのようなリスクのある原発立地を福島が認めていくのは、ある種のリターンと交換された結果であった。リスク認識もリターンの内実も時代によって変遷していくが、リスクとリターンが交換されるという関係は、福島原発の全ての過程で共通していた。そして、福島以外の原発立地社会においても共通して認められるものである。このリスクとリターンのバーターという関係は、原発建設全体の過程を貫いていた。
 三・一一は、原発が建設される地域においては、生存の基盤となる地域社会全体に対するリスクと、地域生活を営むうえでの雇用・補助金などのリターンとの交換は、いかに不等価のものであったかということを明らかにしたといえる。この視点をもつことによってはじめて、原発が建設されていった過程が理解できると思われる。さらにいえば、このことを理解することが、原発依存社会からの脱却の第一歩になると私は考えている。

概略すると、福島原発建設において、放射能汚染というリスクがあることは認識されていたが、原発が立地している地域社会においては、雇用・補助金や開発期待などのリターンと交換することによって、よりよい生存を確保できるという論理によって正当化されていったと、私は考えたのである。

3.11は、顕在化した放射能汚染のリスクは非常に過大であり、リターンによってよりよい生存をめざした地域社会そのものの存続を揺るがすことになったといえる。これは、悲劇そのものである。しかし、私は、かすかな希望として、「このことを理解することが、原発依存社会からの脱却の第一歩になると私は考えている」と書いた。

しかし、現状の福島は、この希望とは裏腹なものになった。確かに、福島県民たちは、全体として、県内での原発の稼働を認めなくなった。福島第一原発では、稼働可能な5・6号機も廃炉され、福島第二原発の再稼働も認めたくないという意見のほうが多い。東北電力の浪江・小高原発の建設計画も中止された。

しかし、その反面で、新たな形で、「放射能汚染」というリスクと、地域社会における生存をめざすリターンとの交換が再開されている。

その一例として、雁屋哲の『美味しんぼー福島の真実』(小学館)でとりあげられたエピソードをみてみよう。『美味しんぼ』では福島県民において鼻血が出ているということをとりあげた叙述が非科学的で風評被害を助長していると国・県などが率先して非難したが、鼻血問題は全く部分的な問題に過ぎない。雁屋哲は、登場人物の海原雄山の口をかりて「低線量の放射線は』安全性が保証できない。国と東電は福島の人たちを安全な場所に移す義務がある。私は一人の人間として、福島の人たちに、国と東電の補償のもとで危ない所から逃げる勇気をもってほしいと言いたいのだ。特に、子供たちの行く末を考えてほしい。福島の復興は、土地の復興ではなく、人間の復興だと思うからだ」(『美味しんぼ』第111巻、小学館、2014年)と述べている。低線量であっても、放射能で汚染されている地域で人々が住みつづけているという状況を告発するというのが、雁屋の意図なのである。

その中で、次のようなエピソードが紹介されている。漫画の『美味しんぼ』でも取り上げられているが、たぶん取材ノートに依拠し、より事態を正確に伝えていると思われる雁屋哲『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』(遊幻舎、2015年)からみておこう(以下の引用は同書から行う)。

2012年は、福島県内において、いまだ放射線量が下がらないまま、試験的に米作りが各地でなされていた。二本松市の「ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」においても、いまだ0.72μSv/hの空間線量であり「作付け制限区域」になっていたが、セシウムを吸着するゼオライト、植物のセシウム吸収を抑制するカリウムを入れ、深く耕し、とれた米は全量検査することを条件として、米の作付けが認められた。結果的に、収穫した米のほとんどは検出限界の1kgあたり11bq以下で、一ヵ所(福島市内)のみ36bqという結果となった。いずれにせよ、1kgあたり100bqという基準以下ではあったのである。

この結果について、雁屋が、協議会事務局長の武藤正敏に、「結果は嬉しかった」と聞くと、武藤は「いやあ、嬉しいですよ、だって食べられるんですもの」と笑顔で答えた。

しかし、雁屋が土壌がセシウムを吸着したとしても、土壌にはセシウムがあるのだから、生産者には影響があるのではないかと質問すると、武藤の表情は厳しくなり、次のように述べた。

「土壌からも、四方からも放射能を浴びますよね。人間が田んぼに立てば、それだけの放射能を浴びるわけで、長靴を履こうが、マスクをしようが、カッパを着ようが、そんなものは通すんだ。我々はそういう状況におかれているので、決して安全ではない。食べなければいいとか、長い時間そこで作業しなければいい、ということではない。現場にあるんですよ!
 だから長靴履いて田んぼに入るときは、非常に恐怖感がありますよ。(中略)危機感は持っているが、自己防衛としてできるのは長靴やマスクや帽子をかぶる程度。だって、土地に触らないと農業ができないんです」

放射能で汚染された地域では、放射能汚染のない米作りをしても、いやそういう場で米作りをすること自体が農民の被曝を招くことになっているのだ。そして、米作りをしていた農民たちは、そのことに恐怖を感じているのである。放射能汚染のリスクは、福島第一原発事故以前と比べて、顕在化し、より一般化し、生々しいものとして二本松の農民たちは認識しているのである。

それでも、雁屋たちが二本松の線量は高いのになぜ避難しないのかと聞くと、武藤は次のように答えた。
 

「ははは! だって、国が安全だって、ただちに影響ないっていうから。やはり、農家と都市部では考え方が違うと思う。農家は、先祖伝来の田畑、井戸、蔵も家も、地域のコミュニティもある。よそに逃げても、今のような暮らしができるのか、生活の保障ができるのかといったらわからない。一時避難的に電化製品も与えられ、ある程度の生活もできるが、それでいいのかと。ここで食べて暮らして、地域のコミュニティが守られるならここのほうがいいでしょう、という意識が強い。調査すれば作物にも出てこないし、空間線量は高いが、外部からの影響は何パーセントもない、といわれているのですから」

放射能汚染については、とりあえず国の「安全だって、ただちに影響ないっていう」ことをとりあえず信じざるをえないのである。それも、別に「安全」であるという確証があってのことではない。「よそに逃げても、今のような暮らしができるのか、生活の保障ができるのかといったらわからない…ここで食べて暮らして、地域のコミュニティが守られるならここのほうがいいでしょう」ということ、つまりは「地域社会における生存」が確保できるというリターンが得られるということでしかない。つまりは、原発建設時と同様に、「放射能汚染」というリスクと、「地域社会における生存」を確保するためのリターンが、福島の地では交換されているのである。そして、その上で、再び、「安全神話」が信奉されるのである。

福島第一原発事故以前、放射能汚染は顕在化していない。そして、立地した地域社会では、単なる生存ではなく、原発のリスクを受け入れてリターンを獲得することによって、幻想をともないながら、より豊かな生存を確保できると認識していただろう。

しかし、現状の福島は、全く違っている。前述したように、放射能汚染のリスクは顕在化し、そのことが、二本松においても、将来の生存を脅かすものとして認識されるようになった。結局、リスクを受け入れて可能となる「生存」は、単なる「生存」でしかなく、それすらも将来的には不透明なのだ。例えば、武藤は、地域社会での生存を確保するためには、国の安全宣言を受け入れるしかないと前述したように述べていたが、だんだん、そのことに対する懸念を表明していく。

「我々は三十年で死ぬからいいかもしんないけど、これから生まれてくる子供がこの土地で暮らすことになれば、その危険性が尾を引いていくので、その解消を早くしないとダメ。土の測定をして、きちんと下げる努力をしていかないとダメなのだ。
 そういう教育を誰かがしないとならないが、県も行政もいわない。いえば、農地から離れなさいということになる。
 こんな空間線量の高いところに長くいるべきではないと思う。せめて子供だけでも、年に二回ぐらいは安全なところに避難させないとならない。チェルノブイリでさえ、子供を避難させたのに、福島県は子供を避難させなかったんですよ。避難させるとパニックになるとか避難する場所がないとか、それは言い訳だ」

 まとめていえば、拙著で原発誘致につきリスクとリターンの交換があったと論じたが、ここで、その構造が再現されているといえる。放射能汚染というリスクが「地域社会における生存」のためのリターンと交換されている。そして、リスクはより顕在化し、そのリスクのために、リターンは本当に利益になるのか疑わしい。このように、不安は顕在化しているのに、「安全」を信じるしか生きていけないと意識されているのだ。結果的には、3.11を通じて、「リスクとリターンの交換」という構造は、変わらなかったといえるのである。

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さて、また、大雪の話を続けよう。2月14〜15日の「記録的な大雪」により、東日本の広い範囲で東名高速道路他大動脈である各地の道路において多くの車両が立ち往生した。これらの車両のドライバーに対して、沿線住民が支援したことが伝えられている。まず、長野県軽井沢町の国道18号の状況を伝えている毎日新聞のネット配信記事をみてみよう。

<大雪>安否確認なく不安 陸自作業開始 軽井沢・立ち往生
毎日新聞 2月16日(日)11時28分配信

 立ち往生した車の中に多くのドライバーが閉じ込められた長野県軽井沢町の国道18号とその周辺道路では、県の災害派遣要請に基づき陸上自衛隊が出動し、復旧・救出作業にあたった。

【山梨では道路が寸断】

 国道18号を群馬県に向け大型トラックを運転していた茨城県古河市の運転手、落合哲也さん(26)は15日午前3時ごろ、軽井沢町追分の県道・浅間サンラインとの合流付近から渋滞に巻き込まれ、立ち往生。16日朝も動けない状況が続いている。周囲には少なくとも50台程度のトラックや乗用車が止まっているのが確認できたという。「雪が積もりすぎて、トラックが移動できない状況」と話す。

 軽井沢町は16日の最低気温が氷点下3・6度と冷え込んでいるが、ガソリンが残り少なくなっている車も多く、「エンジンを切って車内でしのいでいる人もいる」という。同日午前には体調を崩した人が出て、救急車も到着した。落合さんは「親子で乗用車に乗っている人もいる。このままの状況が続くのは相当厳しいのではないか」と話す。

 近隣住民からカレーなどの食料やカイロが配られたが、町など行政機関が安否確認などには来ていないという。落合さんは「住民の温かさを感じた」とする一方「警察なども一度も安否確認に来ない。情報もないし不安が広がっている」と訴えた。

 一方、陸上自衛隊第13普通科連隊(駐屯地・松本市高宮西)は16日、県知事からの災害派遣要請を受け、軽井沢町で発生した立ち往生車両の救出作業を始めた。

 同連隊によると、車両20両に隊員120人が分乗し、同日午前1時過ぎに先遣隊が駐屯地を出発。午前5時過ぎ、国道18号に接続する浅間サンラインの現場に到着した。

 現場は、大型車両2台が雪により動けなくなり道路をふさいだことから、大型トラックや乗用車など約50台が動けなくなっている。県の除雪車両を中心に出口をふさいでいる大型車両の撤去作業や、立ち往生している車両への飲料水や乾パンなどの配給などを行っている。【小田中大、高橋龍介】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140216-00000016-mai-soci

このように、まず、近隣住民が、自主的に食料などを配ったという。そして、その後、大型車両の撤去作業や、食料・水などの配給が行われるようになったといえるのである。

そして、軽井沢町の住民は公民館を避難場所に開放し、そこに避難するドライバーたちもいた。軽井沢町の住民たちは、彼らに炊き出しをし、さらに、車に残っている住民たちに非常食を届けた。地域自体も雪のため孤立した住民がいたにもかかわらずである。他方、ドライバーたちは、単に避難のためだけではなく、ガソリンを確保するためにも一時車を離れることもあった。スポニチが18日に配信した記事は、その状況を描き出している。

立ち往生ドライバーらに炊き出し 軽井沢町公民館に60人避難
 
長野・群馬県境の国道18号が通行止めとなっている影響で、長野県軽井沢町の追分公民館には17日午前も、立ち往生した車の運転者やバスの乗客ら約60人が避難。公民館は15日から開放され、地区の住民が備蓄用の米で炊き出しをしたり、止まった車まで歩いて非常食を届けたりして、支援に当たった。

 荻原里一区長(69)は「一度にこんなに雪が降ったのは初めて。孤立している住民もおり、物凄い状況になっている」と話した。

 国道18号沿いのガソリンスタンドには立ち往生したトラックの運転手らが、ポリタンクを持って歩いて燃料を買い求めた。男性従業員(21)によると、1時間以上歩いて来た人も。立ち往生した車の運転手からの燃料配達依頼も多いが、雪で出勤できない従業員がいて手が足りず、依頼は全て断っているという。
[ 2014年2月18日 05:30 ]
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/02/18/kiji/K20140218007612320.html

この避難所設置については、軽井沢町役場の関与があったようである。産經新聞が2月17日にネット配信した記事で、次のように語られている。

軽井沢町役場では15日に近くの公民館など計6カ所に避難所を開設。地元住民の協力を得て、おにぎりや豚汁などを提供した。町職員は「ここまでの大雪は初めてで、これほど大規模な避難所運営も初めて」。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140217/dst14021720470027-n2.htm

冒頭の毎日新聞の記事では、町など行政機関は関与していないように語られている。これらの避難所は、町が運営したというよりも、地域住民が主体となって運営したのであろう。軽井沢町のサイトでは、2月20日付で「軽井沢バイパスで立ち往生している方々に対応するための避難所開設にご協力をいただきました区・日赤奉仕団等多くの皆様に、心より感謝申し上げます」と謝意が述べられている。日赤奉仕団も、たぶん、ここの地域組織なのであろう。もちろん、他の地域ではどうかはわからない。自治体が避難所運営の中心だったところもあろう。

なお、群馬県側の安中市では、安中市役所が避難所を中心的に運営していたようである。NHKが2月17日に配信した次の記事をみてほしい。

国道18号線車立往生で避難所
2月17日 20時27分

群馬県安中市の国道18号線では記録的な積雪の影響で多くの車が立ち往生し、地元の安中市は避難所を開設し、対応に当たっています。

国土交通省などによりますと、安中市と長野県軽井沢町を結ぶ国道18号線の碓氷バイパスでは、記録的な積雪の影響で、今月14日の深夜から最大でおよそ270台が車が立ち往生しました。
このため、ドライバーなどは車内で過ごすことを余儀なくされ、安中市では閉校になった中学校や公民館など市内の公共施設6か所を避難所として開設し、食料や水を提供して対応に当たっています。
このうち「旧松井田西中学校」では、16日夜から32人が避難し、市の職員などがおにぎりや卵焼きなどの食料を提供していますが、ドライバーたちは疲れた表情を浮かべて校舎で休息をとっていました。
長野県に向かっていたトラックの運転手の男性は「14日から雪で立往生しているので、商品として積んでいる野沢菜が心配です」と話していました。
現場付近は群馬県方面に向かう上り車線は正午には通行できるようになりましたが、長野県方面の下り車線は除雪が終わらず、国土交通省によりますと、17日午後5時現在で30台余りの車が残っているということです。
国土交通省では、引き続き、除雪を急ぐことにしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140217/k10015312071000.html

このように、大雪で通行できなくなった道路は、関東・甲信に限られるわけではない。東北地方でも、通常あまり雪が降らない地域でも大雪となり、立ち往生した車両が続出した。次の河北新報が2月20日にネット配信した記事をみてほしい。

大雪で車立ち往生 避難の飯舘村民、仮設から命のおにぎり

ドライバーたちにおにぎりの炊き出しをした福島県飯舘村の仮設住民ら=19日午後、福島市
 大雪で多くの車が立ち往生した福島市の国道4号で16日、沿道の仮設住宅に暮らす福島県飯舘村民がおにぎりを炊き出し、飲まず食わずのドライバーたちに次々と差し入れた。持病のため運転席で意識を失いかけていた男性は19日、取材に「命を救われた思いだった」と証言。東京電力福島第1原発事故に伴う避難が続く村の人たちは「国内外から支援を受けた恩返しです」と振り返った。

 福島県三春町のトラック運転手増子徳隆さん(51)は15日、配送を終え、郡山市の会社に戻る途中だった。激しい雪で国道は渋滞。福島市松川町で全く動かなくなった。
 16日昼ごろ、糖尿病の影響で頭がぼーっとしていた。窓をノックする音で気が付くと「おにぎり食べて」と差し出された。
 国道を見下ろす高台にある飯舘村の仮設住宅の人たちだった。前日から同じ車がずらりと止まり続けているのに女性たちが気付き、炊き出しを提案。富山県高岡市の寺から仮設に届いていたコシヒカリを集会所で炊き、のりと梅干しを持ち寄って20人ほどで約300個握った。
 炊きたてが冷めないようにと発泡スチロールの箱に入れ、1メートル近い積雪の中、1人1個ずつ渡して回った。
 増子さんは「温かくて、おいしくて、一生忘れない。仮設で厳しい暮らしだろうに、こうして人助けをしてくれて頭が下がる」と感謝した。
 増子さんの話を伝え聞いた仮設住宅の婦人会長佐藤美喜子さん(62)は「震災からこれまで、数え切れないほど多くの人に助けられてきた。またあしたから頑張ろうと、私たちも励みになりました」と話している。
 飯舘村は福島第1原発から北西に約40キロ。放射線量が高い地域が多く、村民約6600人のほとんどが村の外で避難生活を続けている。

2014年02月20日木曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2014/02/20140220t63014.htm

この場合は、福島市の国道4号であるが、立ち往生を余儀なくされた車両のドライバーに対して、飯館村からその地に避難している人びとが支援したのである。

レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』では、大災害に遭遇した場合、通常は個々の生存を最優先して我勝ちのパニックになると想定されているが、そうではなく、むしろ、災害に直面した人たちが、それまでの社会関係の有無に関わりなく、お互いの生存を保障するため連帯していったことを描き出している。マスコミで報道されたことは上っ面にすぎず、実際にはさまざまな苦難や葛藤があったのだろと思うが、自治体を含めた近隣住民において、立ち往生した車両のドライバーたちを助けようとする「共同性」が立ち上がったということができる。

こういうことは、もちろん、東日本大震災を含めた過去の大災害において無数にあったに違いない。もちろん、このような共同性において、葛藤や矛盾が全くなかったとは思えない。しかし、平時の、国家や資本の管理が災害において断ち切られた時、そこにまず生じてくるのは、それまでの社会関係の有無とは関係ない人びとの共同性であり、それが彼ら自身の生存を保障していたのである。

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2011年は、人びとの「生存」が、三つの面で日本社会において問われたといえる。一つは東日本大震災における地震・津波の側面である。もちろん、人は何人であっても死は免れ得ない。しかし、近代化の過程において、ある程度、人為によって自然を制御し、地域社会の多くの人びとの生存を保障しようと努力を続けてきた。例えば、古代・中世においては、東北の海辺において恒久的な都城は作り得ず、古代の多賀城や中世の石巻城のように高地が選択されていた。近世・近代においては、自然をある程度制御し、より海辺の地域を干拓し、防潮堤や排水路などを作りながら、可住域を拡大していった。日常的には、確かに自然は制御され、それらの地域社会の人びとの生存は保障され、生活は発展していった。しかし、東日本大震災による地震・津波は、人為によって自然を制御し、人びとの生存を保障することの限界をまざまざとみせつけた。過去の津波データから予想された以上の津波が、海辺の集落、港湾、農地を遅い、古代・中世の都城である多賀城・石巻城などの麓を洗った。むしろ、日常的に、自然を制御することによって、リスクのある地域を開発してきたことが、震災被害をましたということがいえよう。
東日本大震災による原発災害は、ある意味では、一般の津波・地震災害と重なりつつも、別の側面を有している。原発災害は、人の手で作り出したものだ。そして、すでに1950〜1960年代の原子力開発の初期から、原発被害が立地する地域社会の人びとの生存を脅かすものであることが想定されていた。1986年のチェルノブイリ事故は、地域社会どころか世界全体の人びとの生存を脅かすものであった。人の手で作り出した災害は、人びと総体の生存を脅かすことになったのだ。しかし、チェルノブイリ事故の契機は、ヒューマンエラーとされてきた。その意味で、人の努力によって抑止できるものと認識されたといえる。チェルノブイリ事故が起きたソ連自体がかかえていた体制の問題もあって、より安全運転を心がけていると称しているー歴年の事故隠しをみているとそれ自体が怪しいがー日本では起こりえないものとされてきた。しかしながら、今回の原発災害の直接の契機は、ヒューマンエラーではなく、地震動もしくは津波による施設水没とされている。いくら努力しても、原発災害は避け得ないのだ。もちろん、これは火力発電所やその他の工場でも同様である。ただ、原発については、一度大規模事故が起きてしまえば、局所的に影響を封じ込めるという意味ですら、人為によって制御することが不可能という側面を有している。そもそも、人びとの生存に脅威を与えるものが原発であったが、事故を防止することも、事故後の事態を制御することも、不可能であることが露呈してしまった。事故後の備えはいくらあっても不十分であり、もっとも効果的なことは、東海村で構想されたように、無人地帯を設けることぐらいである。そのために、原発は低人口地帯に設置されてきた。人の手で作り出したものが、制御もできず、人自体の生存を脅かしているのである。
もう一つ、震災とは別に、2011年の日本社会において、「生存」が問われてきた。利潤を極大化しようという目的のもとに、労働者は正規雇用と非正規雇用に分断された。また、グローバリズムの名の下に、いわゆる先進国と後進国の「格差」が作り上げられ、さらに「格差」を前提として、資本輸出を通じて、労働者への所得分配が切り捨てられている。さらに、TPPなどの自由化交渉によって、大資本の生産物が押し付けられ、農民や中小企業の経営は破滅に追いやられている。そして、この過程を正当化する哲学として、「自力救済」を旨とし、このことをレッセフォールによる「自然的過程」とする新自由主義が唱えられている。資本主義的利潤の極大を人為によって社会におしつける仕組みとして、これらの枠組みは洗練されているといえる。しかし、これらの枠組みは、人びとの「生存」を保障するものでは全くなく、むしろ、人びとの生存を脅かすことによって作動しているものといえる。そのことがまた、新自由主義的な意味での社会への介入の限界をなしているといえる。生存を脅かされた人びとは、そもそも生産物への需要を喚起しない。そして、労働力の直接の再生産すら難しい所得においては、家族を構成できず、人口が減少していく。個々人の生存が危険に脅かされていることが、まわりまわって社会全体の生存の脅威となる。その中では、経済成長どころか経済衰退が生じ、資本主義的な利潤をまっとうに確保することすら難しくなる。数年おきに、ほとんど詐欺のようなバブル投機が生じるのはそのためだ。安定した投資先すら確保できないのである。
これら三つの面は、それぞれ違った位相をもつであろう。ただ、一ついえるのは、たぶんにこれまでの人為による自然・社会の制御が限界を有しているということだ。地震や津波の脅威は、人びとの生存を保障する自然の制御自体がいかに困難であるかを示しているといえる。他方、新自由主義的な社会への介入は、資本主義的利潤の極大化を目的とし生存を保障しない人為がいかにそれ自体の基盤を掘りくずしているかを示していると考えられる。その二つの交点として、原発災害がとらえられるであろう。
もちろん、自然にせよ社会自体にせよ、限界はありながらも今後ともなんらかの「人為」による制御は必要であると考えられる。しかし、それは人びとの生存それ自体を目的したものでなくてはならないといえる。そのことを、今後、より精緻な形で考えていこうと思う。

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