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Posts Tagged ‘鉱毒’

前のブログで、足尾鉱毒によって山林も含めて荒廃し廃村に追いやられた旧松木村の現況について紹介した。この足尾鉱毒による山林の荒廃について、公害研究者である宇井純は1970年11月16日の自主講座公害原論(宇井純『合本公害原論』、亜紀書房、1988年)で、足尾鉱毒事件の概要を述べた後、「足尾の鉱毒事件は決して過去ではない。足尾は現に鉱毒を流しています」とし、1970年当時の足尾の山林荒廃について話した。足尾の鉱毒が流失している最大の原因は山林の荒廃であると宇井純はいう。彼は、このように言っている

 

 ところが足尾の山では何十年かかって、この木を全部枯らしたのですから、土はどんどん雨の中に出てきまして結局ハダカと変らない。ここへ亜硫酸ガスが降りそそぎ酸化されて硫酸の雨になる。この中には砒素も含まれています。そうするとタネをまいたぐらいでは草も生えないのですね。いま、一生懸命植生板という堆肥の板のなかにタネを埋め込んだものを張りつけます。これは実に骨の折れる作業です。しかし、ちょっと根がついても、それはそのまま草木として安定せずにまた次の雨で洗い流される。
 それから芽の出た草は亜硫酸ガスで枯れてしまいます。そうすると、持って上って張りつけただけですからいずれは川へ出る。銅も少しずつ流れ出る。砒素やなんかが山の肌にぶちまけられていますから苔も生えない。

そのようになった足尾の山々について、宇井純は次のように叙述している。

 

 生物がまったくいない山というものはこんなに不安定なものかということを、足尾に行くと感じますね。冬になりますと、岩の破目に水がしみこみまして凍ります。そうしますと凍った時の膨張で岩はどんどん割れていきます。
 生物が発生する前の地球というのはこんなふうにして山がけずられ風化していった。その何億年か前、陸上の植物が発生する前の地球の風化のしかたを足尾ではみることができます。そうな利ますと割合風化というものは早いものですね。ずい分硬い石ですけれども、どんどんヒビが入ってガラガラ崩れていきます。

宇井純によると、荒廃した足尾の山々は、陸上が植物に覆われていない、生物発生前の地球を彷彿させるという。このような中、砂防ダムを設置したり、斜面に網をかけて土砂流出を喰い止め用としたりすることも効果はないとされる。宇井純は「現代の技術が自然に対していかに無力であるかという実例を見るのには、足尾にいくのが一番いいと思います。私も土木屋のはしくれですけれど、できないものはできないと答えるほかはないのです」と述べている。

足尾銅山の鉱山部門は1973年に閉山され、煙害の現況の一つである足尾製錬所は1978年に比較的煙害が出ない自溶製錬法に転換、1989年には製錬所自体が事実上閉鎖された。足尾製錬所近くにある龍蔵寺の住職は「境内に草が生えるとは、夢にも思わなかった。草木が育つようになったのは自溶製錬になって亜硫酸ガスが減ってきてからです」(布川了『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』改訂版、随想舎、2009年)と語っている。現在、足尾製錬所周辺も含めて、表土のある箇所では草ぐらいは生えている。しかし、基盤岩が露出しているところは草も生えない。そして、露出している岩自体が銅鉱石であって、そこから鉱毒が流失している恐れもあるのだ。

荒廃した足尾の山林(2016年2016年2月27日)

荒廃した足尾の山林(2016年2016年2月27日)

さらに、廃棄物を捨てた堆積場も植生を破壊した。宇井純は次のように言っている

 

 それから天狗沢とか原とかこういった古い選鉱の捨て方をみますと、山のてっぺんに索道を使って、てっぺんからバケツをひっくり返すようなかたちでどんどん投げ捨てていきます。これは山の斜面を覆ってやはり完全に植生―山に生えている木や草をこわしてしまいます。これもどうにもならないのですね。大体ケーブルで持っていくようなところですから、人間が行けるような楽なところではなくて、一辺ぶちまけたものをシャベルでいちいちすくってなんてということはとてもできないのです。

この状況も、松木堆積場に行けば理解できる。確かに廃棄物を山の上に運搬し、斜面にぶちまけるというやり方でないと、堆積場の景観はできないのだ。そして、そのようなことをすれば、斜面全体が砂漠のようになり、植生が破壊されることになるのである。

松木堆積場(2016年2月27日)

松木堆積場(2016年2月27日)

単に乱伐で山林がなくなっただけでなく、煙害によって草すらも生えることが許されなかった足尾の山々。それこそ、生物発生前の地球の景観への「回帰」であり、生物がいなくなった後の地球を「幻視」させるものであったといえる。そして、これは、自然の「摂理」などではなく、人間の「作為」でもたらされた「黙示録」なのである。人間の作為によって壊された「環境」は、人間の技術で速やかに回復できるものではないのである。足尾の山々が元のような山林に回復するには1000年はかかるだろうと言われている。そして、このようなことは、足尾で終わったわけでない。水俣でも福島でも繰り返されている。100年以上前に足尾であったことは、今の問題なのである。

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 1970年代の原発建設反対運動が、反公害運動―市民運動の性格を帯びていたことをこのブログの中で述べてきた。

友人らと話してみたり、フェイスブックの議論をみていたりすると、反公害運動の源流としての足尾鉱毒事件への関心が非常に強くなっていると感じている。そこで、やや「東日本震災の歴史的位置」の趣旨から離れてしまうかもしれないが、私が『館林市史』資料編6(2010年 館林市)で執筆した資料解説をもとに、次の一文を書いてみた。

なお、よろしければ、『館林市史』資料編6-鉱毒事件と戦争の記録ーを購入していただければと思う。送料は別だが3000円で購入できると思う。あまり、多くの図書館に寄贈していないので、それぞれの図書館にでも購入希望を出していただければと思う。連絡先は374-8501 館林市城町1-1 市史編さんセンターである。本論では割愛した資料が載せられている。

『館林市史』資料編6

『館林市史』資料編6

足尾鉱毒事件は、とにかく大きな事件であり、私自身、すべての状況を把握しているとはいえない。特に、館林市史とは直接関係のない谷中村については、まだよくみていない。

解説全体では、足尾鉱毒事件の全体像を執筆したが、とてもブログで全体を語りえるとも思えない。機会があれば、その部分も紹介したい。

ここでは、田中正造と群馬県館林地域の人々との関係性にしぼってみてみることにする。あまり知られていないが、足尾鉱毒の被害地は栃木・群馬両県に及んでいた。有名な1900年の川俣事件に参加した人々の半数が群馬県民であり、事務所がおかれていた雲龍寺も現在の群馬県館林市内にある。とりあえず、館林の場所を確認しておこう。渡良瀬川の南岸にある。北岸が栃木県であり、田中正造の本拠地であった。そして、渡良瀬川下流、現在は栃木市内になっているところに谷中村があった。

足尾鉱毒反対運動は、その指導者である田中正造の影響が極めて強く現れたものであったといえる。いうなれば、田中正造に言及せずして足尾鉱毒反対運動を語ることは一般的ではなかったといえる。しかし、いかに民衆的心情を有しているといっても、そもそも立憲改進党―進歩党―憲政本党所属の衆議院議員として鉱毒反対運動を指導し、その後もいわば、自身の生活をかえりみず鉱毒反対運動に挺身した田中と、既存の地域社会秩序を前提として自身の生活・生命が危機に陥ったために運動に立ち上がった地域民衆とは、もちろん重なりあう部分も多いが、立場が違っているといえる。特に、1904年以降は、鉱業停止を前提として栃木県谷中村救済を課題とした田中正造と、治水問題としての解決を模索した館林地域の民衆とは立場の相違が顕著となってくるようになった。しかし、1913年に田中正造は、館林地域に隣接した栃木県足利郡吾妻村で倒れた。館林地域も含めた地域住民は、田中正造の看護組織をつくりあげた。そして、9月3日に田中が死去すると、地域住民ぐるみで壮大な葬式を営み、死後は「義人」としてたたえるようになった。ここでは、このような関係を、『田中正造全集』に収録された書簡や、市史編纂の過程で見いだされた大塚家文書などを中心として検討することをめざしている。なお、田中正造の書簡は『田中正造全集』第十四―十九巻に多くが収められており、田中正造に宛てて出された書簡は、同全集別巻に収録されている。ここでとりあげたものは、その一端にすぎないことをまず付記しておきたい。

田中正造は、下野国安蘇郡小中村(現佐野市)の名主の家で1821年に出生した。1877年以後さかんになる自由民権運動に積極的に参加し、1880に栃木県会議員になるなど、栃木県を代表する立憲改進党系の自由民権家となった。1890年の帝国議会開設後は、栃木三区(安蘇・足利・梁田郡)を選挙区とする衆議院議員として活動した。田中は、立憲改進党所属の衆議院議員として、藩閥政府を帝国議会において鋭く追求した。

1890年頃より足尾鉱毒問題は表面化していくが、田中正造は、1891年に開かれた第二回帝国議会に12月18日質問書を提出し、足尾銅山の鉱業停止を訴えた。そして、1892年に開かれた第三回帝国議会でも、鉱業停止を訴える質問を行った。

しかし、当時、館林地域を含めた鉱毒被害地では、古河の働きかけによる示談交渉が進行中であった。そのため、田中正造の議会活動と鉱毒被害地の動向は連動したものにはならなかった。1895年には、示談の欺瞞性がしだいに明確となってきて、鉱毒被害地においても鉱毒反対運動が顕著となってくるが、田中正造の活動とは独立したものであったように思われる。

田中正造の活動が鉱毒被害地の運動と連携したものになってくるには、渡瀬村雲竜寺に鉱毒事務所が設置された1896年以降となってくると思われる。これ以降、元来は少なかった館林地域を含む群馬県域の人々と田中正造との書簡の往復が多くなってくる。例えば、三野谷村の荒川高三郎と郷谷村の大塚源十郎に宛てた、1896年10月13日付田中正造書簡が残っている。二人は、県会議員として鉱毒反対運動に携わった。ただ、県会選挙においては互いにライバル視していたといわれる。また、運動事務所があった雲竜寺にも田中正造は書簡を送っている。そして、1897年頃より、大島村の大出喜平とも書簡の往復をするようになった。ここでは割愛せざるをえないが、田中正造は鉱毒反対運動のため多くの書簡を館林地域の人々に送っている。この頃の鉱毒反対運動は、田中正造が東京において質問演説や請願書紹介などの議会活動を担い、さらに東京の知識人や新聞世論に働きかける一方で、鉱毒被害地において、鉱毒事務所での会合・地域集会開催や請願書作成、鉱毒被害調査などの活動、さらには郡役所・県庁などへの陳情活動など実施していたといえよう。そして、東京と鉱毒被害地を結びつける示威行動としていわゆる「東京押し出し」が行われたといえよう。1900年におきた川俣事件裁判の被告となった多々良村の永沼政吉や先の大出喜平らに田中正造は書簡を送っている。

しかし、1904年には、田中正造と館林地域の人々との間で一つの亀裂が入った。元来、田中正造は立憲改進党―進歩党―憲政本党系に属し、群馬県でも中島祐八衆議院議員ら憲政本党系の政治家を応援していた。それは、鉱毒反対運動事務所もそうであったと考えられる。ところが、1904年3月1日に行われた総選挙において、田中正造は、太田町出身で、自由党―憲政党―立憲政友会に近い人脈をもつ武藤金吉を、鉱毒反対運動に挺身すると自身が誓約したとして、衆議院候補として推薦した。ただ、田中正造は武藤と中島が共に当選することを望んでいたようである。しかし、武藤金吉は、中島祐八を敵視した選挙活動を展開した。大出喜平は、鉱毒反対運動の分裂をおそれ、鉱毒反対派の人々における票の分配を田中正造自身によって行ってほしいと依頼した。結局、総選挙において武藤は中島に僅差で勝利した。武藤は、『義人全集』第一巻序で、選挙における油断・慢心をとがめた田中正造の一喝によって、選挙態勢を立て直し、当選できたと語っている。結局、大出喜平らは、恩があると思われる中島を応援し、その正当性を田中正造に書簡で述べている。これに対し、田中は、中島の落選は、新規票田の開拓などを指導したのに中島が怠ったなどと弁明する書簡を送っている。ただ、このことで、完全に田中正造と館林地域の人々が断絶したわけではない。1904年4月17日の書簡では、大出喜平・左部彦次郎がこの地域での演説会について周旋活動をしているのがわかる。なお、左部彦次郎は、群馬県利根郡池田村の左部家の養子で田中正造の側近として当時行動していた。

当選当初の武藤金吉は、足尾鉱毒反対運動に協力する姿勢をとっていた。1904年12月10日には、渡良瀬川沿岸特別地価修正の杜撰・不公平を批判した質問書を帝国議会に提出している。1905年2月7日の書簡で、武藤は田中正造に、谷中村問題の演説会を開催したこと、渡良瀬川沿岸地方特別地価修正漏れについての請願を院議に付していることを述べ、自身が特別地価修正について衆議院で質問したことについて、政府答弁を「無恥なる、無責任なる」と批判している。1907年1月28日には、足尾銅山の鉱業予防工事が不十分であることを指摘し、鉱業停止を命じないことの不当性を主張した質問主旨書を帝国議会に提出し、2月7日には、その主旨により帝国議会において質問演説を行った。

 1906年5月、渡良瀬川遊水地とするため、栃木県谷中村は廃村となり、藤岡町に合併された。さらに1907年1月には、旧谷中村民で立ち退きに応じない者に対し土地収用法に基づき強制立ち退きを行うことが公告された。そして、6月29日から7月5日にかけて、残留十六戸の家屋が次々と強制撤去されたが、これら十六戸の住民は即日仮小屋を建てて、抵抗する姿勢を示した。そして、7月29日に谷中村残留民や田中正造らは、土地収用補償額が不当に廉価であることを理由にして宇都宮地方裁判所栃木支部に訴訟を起こした。この裁判は、1918年8月18日に原告の要求を不十分ながらも認めた控訴審判決をえて終わった。

 一方、上流部の群馬県域では、この時期、全く別の様相を示していた。武藤金吉が大塚源十郎に書簡にて書き送っているように、武藤は1906年から政権与党であった立憲政友会に1907年8月に正式入党してしまうのである。武藤は、県会議員であった黒田孝蔵他多くの人々が立憲政友会に入党したことを誇示するとともに、邑楽郡民である大塚源十郎に対して治水事業における利益誘導をはかるために邑楽郡も一円政友会に入党してほしいと勧誘している。政友会入党後の武藤は、1907年末より内務省への陳情、栃木県知事との交渉、他県会への働きかけ、帝国議会への運動など、治水問題に対して積極的な関与を行った。そして、川俣事件以前から、栃木・群馬両県の渡良瀬川上流部における田中正造の同志であった、大島村の大出喜平、山本栄四郎や、郷谷村の大塚源十郎らは、谷中村廃村を前提とした治水工事に賛成し、武藤の活動を積極的にささえようとすることになった。

1908年2月29日に提出された渡良瀬川水害救治請願書は、この武藤の活動と呼応するものとみられる。この請願書は、渡良瀬川水害の激化は足尾銅山によるものとし、根本的な解決は鉱毒の流下と煙害の飛散を防止し樹木伐採を禁止することとしながらも、このことは長い年月にわたる政治道徳の改善が必要で、目下焦眉の急には対応できないものとして、鉱毒流下や煙害飛散さらに森林乱伐の禁止とならんで、利根川・渡良瀬川の早期改修を求めるものであった。この請願書には大塚源十郎他二五五六名が署名し、邑楽郡の各町村の町村長・助役が副署している。

もちろん、田中正造は怒った。1907年9月17日付田中正造書簡は、郷谷村長であったかつての同志大塚源十郎に送ったものであるが、「但し邑楽も亦近き未来に谷中の兄とも申べき有様に至るや必せり」と書かれており、何らかの皮肉を大塚に浴びせているように思われる。この時期には、谷中村の残留民の家屋が強制的に破壊されるとともに、館林地域が立憲政友会の基盤となっており、これらのことを風刺しているように考えられる。1907年12月3日付大出喜平・野口春蔵宛田中正造書簡では、谷中村を遊水池にする渡良瀬川改修工事が効果のないことを力説しつつ、この改修工事についての幻想に地域住民がとらわれるようになったとし、反対運動の中心であった邑楽郡大島村の大出喜平、栃木県安蘇郡界村の野口春蔵も欺かれるようになったと批判し、このことを山本栄四郎などにも伝えてほしいと述べた。

田中正造の批判に対し、館林地域の人々の意見として1907年12月29日の書簡で弁明したのが、山本栄四郎であった。この時、山本は大島村長であったとみられる。山本は、志と違い生活問題に余念がなく、大洪水で人類の滅亡がせまっているのに、政治家は利害獲得に狂奔し民衆を苦しめているとした。これらの悪人に渡良瀬川沿岸民がうち勝たねば、谷中の二の前であると山本はしつつ、邑楽郡としては一時的でも堤防の改良をはかって余命をつなぎ、さらに河身改良・鉱業停止を獲得していくべきであると述べた。その上で、田中の言っていることに大出・野口ともども力を尽くすことを誓うとした。

しかし、田中正造は、館林地域の人々を批判する姿勢を崩さなかった。しかし、1908年10月16日の書簡のように、田中正造は自分の傍らに昔の同志である大出喜平・山本栄四郎らがいないことを嘆く時もあった。

1909年9月には、旧谷中村の遊水池化を含めた渡良瀬川改修計画が政府から群馬・栃木・埼玉・茨城県に諮問され、各県では臨時県会を召集した。立憲政友会が制していた群馬県会は、諮問案が提案された9月10日当日、全員起立で渡良瀬川改修計画に賛成した。栃木県会は9月10日より審議に入った。田中正造は、谷中村地域の人々とともに、渡良瀬川改修計画に反対する運動をくりひろげた。しかし、以前、足尾鉱毒反対運動で田中の同志であった野口春蔵や大出喜平は、田中の面前で渡良瀬川改修計画に賛成する運動を行った。栃木県会では、碓井要作のように反対を主張する県会議員もいて即座には決しなかったが、9月27日に賛成多数で渡良瀬川改修計画は可決された。

 しかし、茨城県会は、9月29日に、この改修案の賛否を現状では決することができないという議決を行った。また、田中正造らの働きかけもあって、10月4日、埼玉県会も渡良瀬川改修計画を否決した。武藤金吉が、田中正造らの動きに抗しつつ、必死に茨城県会・埼玉県会を渡良瀬川改修計画に賛成させようと働きかけており、地域社会でも、大塚源十郎は、武藤のよびかけにこたえて活動していた。

11月30日、茨城県会は渡良瀬川改修計画に賛成する議決を行った。1910年1月には埼玉県会のみが問題となったが、結果的には2月9日に渡良瀬川改修計画に賛成の議決を行った。各県県会の賛成を受けて、政府は1910年3月に帝国議会に対して渡良瀬川改修費予算を提案し、帝国議会は可決した。このような過程をへて、鉱毒問題は、治水問題に転化させられたのであった。1910年より渡良瀬川改修工事は着手され、同年8月に発生した大水害により大幅な変更を余儀なくさせられた。

このように、1909年には、大出喜平ら館林地域の人々と、田中正造との意見の違いがより明白になった。しかし、それでも田中正造は、書簡において、山本栄四郎へ自らの行動や治水論を語っていた。そして、1910年水害に際しても、自らの治水論を大出喜平に説いていた。

特に興味深いのは、1911年1月8日付大出喜平宛田中正造書簡である。この書簡で田中正造は、大島村・西谷田村で、鉱毒被害民に北海道移住をすすめていると聞き、大出喜平にこのことに賛成したのかと怒気を込めて詰問した。谷中村をはじめとする鉱毒被害地では、政府は反対運動を弱体化させるため、北海道などへの移住をすすめていた。それに対して、大出喜平・山本栄四郎は、書簡で弁明した。大出・山本の両名は、田中の治水論の正当性を認めながら、現在の渡良瀬川改修工事は応急処置であり、田中の治水論とは矛盾しないとした。その上で、北海道などへの移住勧奨には自身は関与していないと両名とも述べている。大出は、移住勧奨への反抗は紛擾を招き、一村の平和を破壊するので黙止しているとしながら、武藤金吉が移住勧奨を批判していることを述べた。山本は、鉱毒被害地の現状では移住もしかたがないと諦めていると述べた。このように、治水問題で立場を異にした大出・山本は、それでも田中正造の正当性を最終的には認めていたのであった。そして、1912年3月6日の書簡において、大出喜平は、田中正造に足尾鉄道工事が渡良瀬川水源を破壊していることを批判する請願書の写しを田中正造に送った。自分たちなりに社会の公益に尽くしていることを田中にみせたかったのだろうと推測される。

しかし、大出喜平に多くの時間は残されていなかった。1912年11月21日付田中正造宛山本栄四郎書簡では、大出喜平が死病に陥っており、一度は田中に会いたいとしているが、今としては何ともできず、またこの私事で田中を煩わせることも遠慮したいので、せめて田中正造の肖像に揮毫をいれてもらい、自らの死後家に伝わるようにしてほしいと頼まれたことが記されている。山本は、できれば生前大出にあってほしいと田中に願った。しかし、この書簡の翌日である22日、大出は死去し、山本の願いはかなわなかったのである。「田中正造日記」によると、11月28日田中は大出家に弔問に訪れた〔『田中正造全集』第十三巻〕。なお、1913年3月18日の書簡によると、山本栄四郎もまた田中正造についていけなかったことを悔やんでいたことを田中正造に告げていた。

そして、この書簡が書かれてからそれほど時間のたっていない1913年8月2日、田中正造は、栃木県足利郡吾妻村下羽田の庭田清四郎宅で倒れた。倒れた直後、田中正造は谷中村に戻りたいと訴えたが、周囲の人々にとめられた。そこで、田中正造は用談があるといって付近の有志を集めてくれと申し出た。渡瀬村村長谷津富三郎・助役小林善吉が庭田宅によばれ、彼らにより、群馬県多々良村・渡瀬村・大島村・西谷田村、栃木県久野村・吾妻村・植野村・界村・犬伏町の代表者が呼び集められた。この九ヶ村は、この地域における足尾鉱毒反対運動の中核であった。そして彼らにより、田中正造の看護体制が決められたのである〔『田中正造全集』別巻・島田宗三『田中正造翁余録』下巻・木下尚江『田中正造翁』などを参考〕。

地域の町村役場や有力者は、田中正造の見舞金を贈った。それに対して礼状が出された。礼状は、田中正造の寄付で生家に学習会などの開催を目的として設置された小中農協倶楽部からも出された。田中正造の病状は郵便で伝えられた。

9月4日、田中正造は、看護人であり過去の同志であった栃木県毛野村の岩崎佐十に「お前方、大勢来て居るようだが、嬉しくも何とも思はねえ。お前方は、田中正造に同情して呉れるか知らねえが、田中正造の事業に同情して来て居るものは、一人も無い。―行って、皆んなに然う言へッ」〔木下尚江『田中正造翁』〕という言葉を最後に残して死去した。

田中正造の死は、郵便で各町村役場にも伝えられた。9月6日、鉱毒反対運動事務所が所在した雲龍寺で密葬が行われた。密葬といっても参列者五〇〇名を数えた。そして、佐野町春日岡山惣宗寺で開かれた一府五県の有志総会で田中正造の葬儀が同寺にて10月12日に行うことが決められた。委員長は同町の津久井彦七が勤めることになった。郷谷村長の大塚源十郎も葬儀委員となった。この葬儀は、会葬者三万人を数えたというが、資料二五六にあるようにつつがなく済み、四十九日をかねて残務処理のため常務委員が参集した。

田中正造の死後も谷中村での闘争は続いた。また、渡良瀬川改修工事を行っても鉱毒問題の根本的な解決ではなく、随時鉱毒問題は再燃した。しかし、田中正造の死は、狭義の意味での鉱毒反対運動の終焉を象徴するものであったといえよう。

田中正造の最後の言葉には、大出喜平や山本栄四郎への書簡と同様に、谷中村の破壊につながる渡良瀬川改修工事に賛成した地域民衆への田中正造の憤りが感じられる。しかし、田中正造は、そうはいっても、大出喜平や山本栄四郎らを切り捨てはせず、説得を続け、大出喜平の死に際しては弔問にいっている。

また、山本や大出などがそうであるように、最後の地の民衆が、全く田中正造の事業に同情がなかったとはいえないであろう。田中正造の主張に正当性を感じつつ、生活を守るために田中正造に従えないジレンマを抱えていたというのが、地域民衆の実情ではなかったのではなかろうか。それが、地域ぐるみの看護体制と壮大な葬式の開催に結果し、さらに田中正造を義人としてあがめる心性が形成されていくことにつながっていったと考えられるのである。

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