2015年7月22日、NHKのクローズアップ現代で、「もう一度咲かせたい 福島のバラ」(水)という表題で、福島第一原発事故で「帰還困難区域」となり、事実上閉鎖に追い込まれた双葉ばら園について放映された。まず、番組の紹介をみてほしい。
もう一度咲かせたい 福島のバラ
出演者
開沼 博 さん
(福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員)福島県双葉町に、イギリスのウィリアム王子など世界中の人たちが強い関心を示し、復活を切望するバラ園がある。7000株ものバラが咲き乱れ、“日本で最も個性的で美しい”と称賛された「双葉ばら園」だ。地元の岡田勝秀さん(71)の一家が40年以上かけて築いたが、原発事故で荒れ野と化してしまった。ばら園は原発事故がもたらした悲劇の象徴として知れ渡り、再建を願う声は今も後を絶たない。しかし賠償手続きは難航。ばら園の価値をはかることは難しいというのだ。避難先の茨城県つくば市で茫然自失の日々を送っていた岡田さんを変えたのは被災者からの言葉だった。「失った暮らしがバラと重なる。だからこそ再び美しいバラを咲かせてほしい」。今年、岡田さんは養護施設で子供たちと一緒にバラを育て始めた。目を輝かせて取り組む子供たちの姿に力をもらっているという。岡田さんの姿から福島のいまを見つめ、取り返しのつかないものを失った人々に何が必要なのか、考える。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3689.html
この双葉ばら園は、双葉町に所在し、ばら愛好家の間では知られた存在であった。私も、よくこの前を通り、1、2回は中を見たことがある。しかし、初夏に行くことができず、花盛りのばら園をみたことがない。今となっては永遠に見ることはできない。福島第一原発事故で残念に思うことの一つだ(もちろん、こればかりではないけれど)
この番組の冒頭では、写真などをもとにしてCGで花盛りのばら園を再現していた。この番組内容をおこしたサイトがあるが、それによると全体は6ヘクタールになり、個人経営としては国内最大規模で、750種7000株のバラが植えられ、年間5万人の人が訪ねたという。(http://varietydrama.blog.fc2.com/blog-entry-2881.htmlより、以下番組内容については、同サイトより引用)
しかし、福島第一原発より8キロの場所にあり、放射線量が高く、今でも「帰還困難区域」にある。園主は200キロ離れた茨城県つくば市に避難し、ばら園を手伝っていた息子たちも別の仕事につかざるをえなくなった。こうして、4年以上もの間、ばら園は手入れされることもなく、荒れ果ててしまった。双葉でのばら園再開はあきらめざるをえなくなったのである。
園主に別の場所でのばら園再開を求める人たちもいる。しかし、園主は再開に踏み切れない。その理由を、クローズアップ現代では、このように説明した。
バラ園を再建するためには新たな土地に移るかしかありません。
しかし岡田さん(園主)はまだ具体的には考えられないといいます。
その理由は東京電力との賠償交渉が進まず再建のための資金にメドが立たないためです。
岡田さんのようなバラ園の賠償は前例がありません。
東京電力の基準ではヒノキやスギなどを植えた人工林と同じ扱いになります。
しかし岡田さんは、そのことに納得がいかないといいます。
基本的には、東電との間の賠償交渉が不調のため、ばら園再開の資金がないということが、ばら園再開を阻んでいるといえよう。同番組では「一向に先が見えない日々」と表現している。
その上で、クローズアップ現代では、ある養護施設が、ばら栽培の専門家としての園主に子どもたちの心を慰めるばら苗植え付けを依頼したり、支援者がばら園の写真展を開始したりすることを肯定的に伝えている。
そして、ここで、「被災者の方々への聞き取りをずっと続けている」「福島県いわき市のご出身」で福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員」の開沼博氏が登場してくる。開沼氏は、福島原発の建設経過から福島第一直後の状況を扱った『フクシマ論』の著者として著名である。
開沼氏は、震災や原発事故などで失われたもののなかで、死亡者や賠償金額など数字に表されるものはわかりやすいが、生きがいとか、社会的役割とか、仕事とか、未来への展望とか外からは見えにくいとする。そして、被災者たちは、政治とか行政とかメディアと研究者とかへの社会的信頼ととも自分自身への信頼も失っていると主張する。
その上で、このようにいう。
もうかなうならば、失われたものが元に戻ってほしい、多くの方がそういうふうに思っています。
一方で、なかなかその思いというのはかなわない。
失われてしまったものをどうすればいいのかと思っている方が多いです。
そこに対して、1つは、いわゆる公助、公に行政とか東電とかが補償、賠償などをするということがあります。
ただそれだけで足りない部分というのがあるわけですね。
VTRの中でもありましたとおり、なかなかお金に換算できない価値というのがある。
(中略)
やっぱり重要なのは、そういう賠償、補償などだけではカバーしきれない部分というのをいかに立ち直していくか。
ここで重要になってくるのは承認というキーワードだというふうに思っています。
これ、承認っていうのは、まず1対1の関係で、あなたはそこにいていいんだと、分かりやすくいうなら、そういう感覚だと思います。
そして自分自身がここにいて、こういうことをやっていいんだという感覚。
それが失われているわけですね。
これをどういうふうに立て直すか、もちろん公助はまだまだ必要ですけれども、いわゆる自助、共助といわれる、つまり自分たちの身の回りで、あなたがこういうふうに必要なんだよ、ここにいてよと。
あるいは自分たちと一緒に何かやってくださいと
まとめていえば、東電の賠償も含めて「公助」としつつ、金銭でカバーしきれない部分について、被災者の自己承認を回復させるためとして、「自助」「共助」の重要性を主張したのである。
こういう番組があることはいいことである。しかし、開沼氏のような捉え方は、非常に奇異に思える。東電は原発事故を起した責任者である。そして、原発事故で住めなくなったり、使えなくなってしまった財産に対する賠償は、権利の侵害に対する代価を義務として提供することであって、津波被害などの自然災害による被災者の生活を政治的に救助するという意味での「公助」ではない。
まず、そうした理解の上にたって、「双葉ばら園」について考えてみよう。ばら園が再開できない最大の理由は、東電の賠償交渉が不調であるということである。東電の賠償金は、たぶん一般山林と同様な基準で賠償を考えているのであろう。しかし、その金額ではばら園再開はできないため、園主は再開できないと考えているのだ。ばら園創設後の手間は確かに金額に換算できない。しかし、少なくとも、別の場所でばら園を再開することが可能な程度が最低の賠償金額になるべきだと思う。
一方、NHKや開沼氏の強調する「自助」「共助」はどうだろうか。生活者的視点から考えて、被災者自身や被災者を受け入れている地域社会の側で、そのような営為が不要であるとは思われない。聞き取り調査などすれば、そういう意見も出るだろう。そもそも東電の賠償が失われた財産の最低限度にたるものになるかどうか不明でもある。しかし、それは、NHKや開沼氏のような非当事者が一方的に強調してよいこととは思えない。それでもたぶん、かれらは「被災者によりそう」視点として自己規定するだろう。
番組全体では、東電の賠償を「公助」として「義務」的色彩をうすめつつ、それに頼らない被災者の「自助」「共助」を説いているといえるのである。しかし、これでよいのか。こういうことで、「福島のばら」は「もう一度咲く」のであろうか。
ここで書かれている事柄とは直接関連はしませんが、中嶋さんの「戦後史のなかの福島原発」。浜通りへの原発誘致前後から稼働に至る時期を、双葉町で過ごし見つめてきたものとして、同時代史として読み、フェースブックに以下のような感想を書きました。
2015年12月10日
中嶋久人さん「戦後史のなかの福島原発 開発政策と地域社会」
福島の原発立地をめぐり国、県、自治体、そして折々に触れて、誰がどのように関わり、動いたかを、大熊町史を始め、史料などをもとに浮き彫りにした参考書。
「誘致した地域住民にも一定の責任がある」とした福大・清水修二さん(市民科学者国際会議での発言)にも読んでいただきたい一冊である。
※追記 私的な話題になるが、この本に収められている原発立地から今に至る双葉地方の歴史は、私自身が、故郷の双葉町と周辺で実際に見聞きした事実とも重なり合う。大学に入り、故郷との縁は切れたように思ってきたが、大震災、原発事故を機に、ところどころほころびて途切れ途切れになっている記憶の再構成の中で、出会った一冊でもある。
第一原発の立つ大熊町夫沢の陸軍飛行場。高さ30メートルの海岸段丘(とは後に知った事実だが)の上にある飛行場は、私が小学生の頃には、一時期使われた製塩所(塩田)も休止状態になり、双葉町から山一つ越えて出かける恰好の冒険の場所でもあった。
原発ができることになって、囲い込まれ、立ち入り禁止になってしまった時に思ったのは、大人に遊び場を盗られてしまった—という恨みつらみのような感情である。
そして、原発で浜通りは潤う−−が大人たちの、誰かが言ったことの聞きかじりのようにして語られる決まり文句だったが、子供心に半ばしらけ(その当時はこのような表現はなかったが)半ば反発を持って聞いていたのを今でも覚えている。反骨、へそ曲がりはその頃からの性分らしい。