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現在、朝日新聞夕刊では、写真家・作家の藤原新也へのインタビュー記事「人生の贈りものー私の半生」を連載している。本日(2015年8月13日)はその9回目で、「3.11後遺症が日本を覆っている」というテーマで、藤原の東日本大震災認識が語られている。

まず、藤原はこのように言う。

 震災災害にしろ原発災害にしろ、人が故郷を失うということの意味を日本人のどれだけの人が実感として持てたかは疑問ですね。自分は高校生のとき家が破産し郷里を捨てたが、故郷そのものが無くなったわけではない。だが東日本では故郷そのものが完全に消失したわけだ。それは自分の血肉を失うことに等しい。

藤原は、1995年の阪神大震災でも景観全体が失われたわけではないとしつつ「東日本では風景そのものが流されてしまった」と指摘する。その風景の「残骸」は「瓦礫」と呼ばれることになったが、藤原は「震災地以外の人が瓦礫と呼んだものは当地の人にとっては最後の記憶のよりどころだったわけだ」と述べている。

さらに、藤原は、東日本大震災における津波災害被災者と原発災害被災者との違いをこのように表現している。

 

津波災害と原発災害が同時にやって来たわけだが、被災者の心情はまったく異なる。かたや天災、かたや人災。天災は諦めざるをえない気持ちに至れるが、人災は諦めきれないばかりかそこに深い怨念が生じる。取材時でも津波被災者は心情を吐露してくれたが、原発被災者は強いストレスを溜め、取材で入ってきた私にさえ敵視した眼を向け、とりつく島がなかった。

そして、藤原は次のように述べている。

…おしなべてストレス耐性の弱い老人で多くの老人が死期を早めた。原発の最初の犠牲は老人なんだ。原発再稼働にあたって経済効率の話ばかりが優先されるが経済とは人間生活のためにあるわけで、その人間生活の根本が失われる可能性を秘めた科学技術は真の科学ではないという理念を持った、本当の意味で”美しい日本”を標榜する政治家が今後出てきてほしいと願う。

しかし、現状の日本社会は、藤原の願いとはまるで逆方向にいっているようにみえる。「震災以降、日本人はどのように変りましたか」(聞き手・川本裕司)の質問に、藤原は次のように答え、この記事を締めくくっている。

 

3.11後遺症が日本を覆っているように感じる。日本列島が人の体とすると、日本人は左足か右足を失ったくらいのトラウマを背負ったわけだ。ヘイトスピーチや放射能問題に触れると傷口に塩を塗られたかのように興奮する人々の出現、キレる老人など日本人がいま攻撃的になっている理由の一つは、後遺症による被害妄想が無意識の中にあるように思う。それとは逆にテレビなどで外国人によるニッポン賛美番組がむやみに多いのは、3.11による自信喪失の裏返しの自己賛美現象であり、自己賛美型の右傾化傾向ひいては戦争法案への邁進とも底流でつながっている。

3.11以降の日本社会の意識状況について「3.11後遺症が日本を覆っている」と藤原は指摘している。私も2011年以降の日本社会の意識状況について同じように感じていた。ただ、「3.11後遺症」で中心をなす「故郷そのものが完全に消失する」ことへの恐怖は、単に東日本大震災からのみ出現しているわけではないだろう。すでに、兆候としては、バブル崩壊後の「失われた20年」における長期経済不況、リーマンショック時の雇用不安、さらに地方都市のシャッター街化という形で現われてきていた。そして、2011年はGDP世界第二位の地位が日本から中国に移った年でもある。よくも悪くも高度経済成長以降の「経済大国」化のなかで成立してきたこれまでの「故郷」=日本社会のあり方の根底が崩れる可能性が出現してきたといえる。

とはいえ、それらはまだ「可能性」ということはできる。東日本大震災は「故郷そのものが完全に消失する」光景を目の当たりにさせた。今までは「可能性」であった「故郷そのものが完全に消失する」ということを東日本大震災は可視化したのである。その意味で、東日本大震災は、それ自体が巨大な出来事なのだが、そればかりではなく、日本社会全体のあり方の象徴にもなっていると私は考える。

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2014年4月16日、仁川発済州島行きの清海鎮海運所属「セウォル号」が全羅南道珍島付近で転覆し沈没、そのために乗客・乗員476名のうち295名が死亡し、9名が行方不明となった。この「セウォル号」の転覆・沈没について、韓国では、予想外に発生した不幸な出来事という意味での「事故」ではなく、「事件」もしくは「惨事」にあたるのではないかといわれている。かなり以前から進められた船舶業の規制緩和・アウトソーシング化は、船舶改造や積載量や避難訓練などすべての面での安全管理を無視させ、「セウォル号」の転覆・沈没につながった。また、「セウォル号」の転覆・沈没の際に朴大統領自身が犯した初期対応の遅れとその後の救出作業における混乱は、助けられる人を助けられないという状況に陥ることになった。この状況を増幅させたのは、マスコミ各社の報道であり、政府発表をうのみにしつつ、重大な誤報をしたり、生存者や遺族の心を逆なでするような報道を行なった。本来、「交通事故」であったものが、「事件」もしくは「惨事」にかえられてしまったのだとされている。そして、「韓国人は生放送でセウォル号の沈没を目の当たりにし、国家の無能さと個人の無力さを同時に感じることになった」(歴史問題研究所・アジア民衆史研究会編『国際学術会議 新しい民衆史研究の方向を模索するために』、2015年2月、非売品)という感慨をうむことになった。

私の所属しているアジア民衆史研究会のメンバーは、国際学術会議の一環として、韓国の歴史問題研究所のメンバーとともに、2015年2月9日、「セウォル号」惨事において多数の高校生の犠牲者が出た京畿道安山市を訪問した。セウォル号の乗客・乗員総数は476名だが、そのうち済州島への修学旅行に向かっていた安山市の壇園高校(二年生)の生徒が325名、引率教師が14名をしめていた。この惨事において、高校生246名、引率教師9名が死亡し、その他高校生4名、引率教師2名が行方不明となっている。生存者は、高校生75名、引率教師3名にすぎない。四分の三が犠牲になったのである。なお、一般乗客は104名中71名、船員では23名中18名が生存している。生存者のほうが多いのだ。このことについては、「救助された学生たちによると、船が傾いていた状況でも、『その場にじっとしていなさい』という船内放送が流れていたという。間違った案内放送に、学生たちは素直に従い、結果、多くの学生が犠牲になった」(歴史問題研究所・アジア民衆史研究会前掲書)と指摘されている。

安山市において、セウォル号関係では、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」が運営している「416記憶貯蔵所」、壇園高校、「セウォル号犠牲者合同焼香場」を訪れた。まず、気が付いたことは、これらの場所が近接しているということである。特に、「416記憶貯蔵所」と壇園高校は同じ「コジャン洞」に所在しており、歩いてすぐのところにあった。この周辺には同じようなデザインの集合住宅が多数建設されていた。安山市の都市化は1970年代以降の中小企業中心の産業団地形成を契機としており、この集合住宅もその一環ではないかと考えられる。話を聞いてみると、壇園高校の生徒は、この周辺に多く居住しているということだった。壇園高校の生徒は、地域の若者でもあったのである。そして、彼らを失ったことについて、単に彼らの家族やクラスメートだけではなく、地域の人びともまた悲しんだのである。

壇園高校周辺の集合住宅

壇園高校周辺の集合住宅

まず、「416記憶貯蔵所」にいった。この「416記憶貯蔵所」は、商店などが入居している2階建ての建物の中にある、さほど大きくはない事務所であった。なお、今後、倉庫などを確保するとのことであった。壁の一面には、遺品などが展示されているスペースがあり、もう一方には段ボールの箱が積み上げられていた。展示スペース側の写真をここに掲載する。この展示スペースに飾られている絵も、犠牲者の一人で、画家を目指していた高校生が描いていたものである。

「416貯蔵所」

「416貯蔵所」

この「416記憶貯蔵所」は「セウォル号」に関連する民間の記録センターであり、セウォル号遺族のための共同体運動を目指して」おり、「政府主導の公共記録とは区別され、市民中心の記録収集、管理、展示する役割を担っている」(歴史問題研究所・アジア民衆史研究会前掲書)とされている。「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者の話によると、彼らが集めようとしている記録は三種類あるという。第一には、「セウォル号」惨事の真相究明に関連する記録である。遺族たちは政府に真相究明を求めており、その要望に一部そった形で、昨年11月7日、「4・16 セウォル号惨事真相究明及び安全社会建設等のための特別法」が制定された。しかし、特別法が制定されても、セウォル号を引き揚げる姿勢を見せないなど、現政権は真相究明を進めようとはしていない。そのため、遺族たちは、デモンストレーションのため光化門でのハンスト、安山から惨事現場の珍島まで徒歩行進、真相究明を求める署名集めなどを行なっている。第二には、遺族や市民がこの「惨事」にどう対応したかという記録である。その例として、「惨事」の際に、家族待機所が設けられ、そこで家族たちが寝泊まりしている際に使っていた布団をあげている。第三が、犠牲者たちの遺品である。

段ボールの箱をいくつかあけて、遺品類をみせてくれた。犠牲者である高校生自身が写った写真・プリクラなどもあったが、あまりにも生々しいので、衣服中心の遺品の写真をここで掲載しておく。なお、後ろに写っている段ボール箱の一つ一つに高校生一人一人の遺品が入っているという。遺品収集は、個々の家族にあって、話を聞きながらの作業であり、大変なものであるとのことだった。

「セウォル号」惨事によって犠牲者となった高校生の遺品

「セウォル号」惨事によって犠牲者となった高校生の遺品

食事をしてから、壇園高校に歩いて向かった。

壇園高校

壇園高校

前述したが、済州島への修学旅行に向かっていた壇園高校二年生が「セウォル号」惨事の犠牲になった。この二年生たちは10クラスに編成されていた。生き残った高校生たちは、とても今までの教室では授業が受けられないということで別の教室に移され、現在、事件当時の二年生の10教室が「惨事」当時のままに残されていた。この学年が卒業するまでは、そのままにするという。つまり、犠牲となった生徒・教師の机がそのまま残されているのである。そして、この10教室は、犠牲となった生徒・教師の追悼の場となった。次の写真をみてほしい。

壇園高校二年生の教室

壇園高校二年生の教室

この写真では1教室だけだが、10教室すべてがこのような情景なのである。1クラス10人も生き残ればいいほうで、1〜2人しか生き残ることができなかったクラスもあるという。犠牲となった生徒・教師の机には、花、お菓子、写真、メッセージなどがおびただしく供えられていた。よく、日本でも、交通事故や殺人事件などで犠牲となった子どもの死亡現場に花やお菓子などが供えられているのを目にするが、教室全体がそういう状況になっているのである。さらに、そういう教室が10もあるのだ。

それぞれの机を見ると、供物が画一的でないことに気付く。花もそれぞれ違っていたりする。あるところでは写真が供えられ、あるところではメッセージがあり、さらにはイラストが供えられ、本やノートが積み上っていたところもあった。これは、犠牲者となった高校生一人一人の関係性が反映しているのだと思う。犠牲になった高校生たちには、それぞれ、もちろん、親もいたし、部活や委員会などで、先輩・後輩もいただろう。それぞれ個性をもった高校生が200名以上犠牲となったのだ。

私は、全くハングルが読めないのであるが、ハングルを読める人にメッセージの内容を聞くと、多くが、親や友だちが「助けられなくてごめんなさい」と書いてあったとのことだった。

机の上だけでなく、黒板その他にも、追悼とおぼしいメッセージが書き込まれていた。黒板の上には、大韓民国の国旗が掲揚されている。しかし、大韓民国は彼らを救えなかったのだ。たぶん、これほどまでに「セウォル号」惨事の悲劇性を伝えるところはないだろう。「追悼」の場と表現したが、犠牲になった高校生たちと、生き残った高校生・家族たち双方の「鎮魂」の場とするのがふさわしい。

壇園高校を出て、私たちはセウォル号犠牲者合同焼香場に向かった。ここに向かう途中、「セウォル号を記憶する市民ネットワーク」関係者の方が、ある集合住宅を見ながら、こんな話をしてくれた。

ここにも生徒の一人(セウォル号惨事犠牲者)が住んでいた。

以前、彼の父親が私にこういった。
「この町を出たい。ここには、息子の思い出でいっぱいだ。どこへ行っても、息子のことを思い出してしまう。どうしてこの町にいられようか」。

私は怒った。
「あんたがこの町を出たら、だれが彼のことをおぼえているんだ」。

私たちは、親たち、彼の友だちたち30人で、泣きながら、笑いながら、彼の誕生会を行なった。

彼の両親は、この町から出ていかないと語った。

この方は、「ここで(安山市)、遺族の人たちが住み続けること、これも『セウォル号を記憶する市民ネットワーク』の目的の一つである」と強調していた。

そうした後、大きな公園のなかにある、セウォル号犠牲者合同焼香場に到着した。ここは、政府の「公式」な追悼所である。2014年4月29日、朴大統領がこの場を訪問した際、慰問の言葉をかけた女性が遺族でなかったことが発覚し、物議を醸すことになった場所でもある。この焼香場は、仮設ではあるが、体育館ほどもある空間である。内部撮影は許されなかったが、行方不明者も含めて約300名の犠牲者の写真が掲げられ、真ん中に「焼香場」があった。「416記憶貯蔵所」の遺品や壇園高校の生徒・教師それぞれの机は、犠牲者たち一人一人が個性をもった存在として確実に生きていたことをうかがい知ることができた。しかし、セウォル号犠牲者合同焼香場では、この惨事の規模がいかに大きかったことを知ることはできるのだが、犠牲者それぞれの個性は「マス」の中に埋没してしまっているような印象を受けた。合同焼香場の係員の儀礼的な対応もあいまって、私的な「記憶」と公的な「追悼」の違いに気付かされたのである。

セウォル号犠牲者合同焼香場

セウォル号犠牲者合同焼香場

しかし、いわば政府の「セウォル号犠牲者合同焼香場」の中でも、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者は独自の活動を続けていた。全国規模で4.16セウォル号惨事の真相追求を求める署名が集められているが、「セウォル号犠牲者合同焼香場」内部でも、同署名を集めることを認めさせていたのだ。また、この合同焼香場のテリトリーの中にいくつかプレハブの事務所があり、そこでも「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者は、政府側と対峙しながら、活動していた。前述の特別法制定を求める署名をこのプレハブの中に収蔵してもいた。この事務所の中で、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」の運動がいまどのような状態であるかを話してもらった。いわば「公的な慰霊空間」を占拠して自主的な活動の場を形成しようとしているという印象を受けたのである。

合同焼香場内の「セウォル号を記録する市民ネットワーク」側の活動拠点

合同焼香場内の「セウォル号を記録する市民ネットワーク」側の活動拠点

さらに、「セウォル号を記録する市民ネットワーク」側は、この場所に、犠牲になった高校生たちの母親が縫物などをしてセラピーする場を設けていた。犠牲になった高校生の母親が手作りしたバッチをいただいたので、ここで紹介しておこう。「416」という数字と「花」が刺繍されている。このバッチも「鎮魂」の意味をもっているのである。

犠牲者の母親が手作りしたバッチ

犠牲者の母親が手作りしたバッチ

最後に「セウォル号を記録する市民ネットワーク」の関係者の方がこういった。「記録の勝利者こそ、最後の勝利者である」と。

安山市を訪問し、単に一市民というだけでなく、歴史を研究してきた者として、さまざまな感慨をもった。セウォル号惨事がなぜ起きたのか、その際、国家やマスコミがどのように対応したのか、この事実過程を実証的に追求し、責任の所在をあきらかにしながら、その後の社会運営につなげていくということは、実証主義的歴史研究の課題である。しかし、一方で、政治の課題でもある。政権やマスコミ側の隠蔽工作などを排除しながら、可能な限り記録に基づいて、実証的に、合理的に、客観的に、セウォル号惨事の事実過程を分析するということは、実証主義的な科学ー学術の問題でもあるが、政治ー社会運動の問題でもあるのだ。前述した、「記録の勝利者こそ、最後の勝利者である」という言葉は、そういう意味で使われているのだと思う。

しかし、この実証的、客観的に、事実過程を分析するという、実証主義的歴史研究ー政治の課題は、他方で、犠牲になった高校生たちと、彼らを失ってしまった、生き残った高校生たち、家族たち、地域の人びとを「鎮魂」するという課題と結びついていることを忘れてはならない。「セウォル号を記録する市民ネットワーク」関係者たちの人びとは、真相追求を求める運動について述べながら、はしばしで「犠牲になったこの子たちを忘れないでください」と語りかけていた。犠牲者を追悼し、記憶するということ、そして、そのことに歴史的な意味を付与していくということは、犠牲者たちを「鎮魂」するとともに、生き残った人びとの心を癒していくということでもある。他方で、犠牲者たちのかけがえのない生に思いをいたすということは、そのような犠牲を強いた者たちの所業を実証的に追及するモチベーションを高めていくことになるのだ。

セウォル号惨事に限らず、大きな歴史的出来事ー8.15でも、3.11でもよいがーには、犠牲者ではないとしてもその出来事で人生を変えられてしまった多くの直接的な当事者たちが存在していた。彼らそれぞれの個性は、本来「マス」に回収できないものなのだ。そして、彼らの人生だけではなく、家族・友人・地域など、彼らをとりまく人びとの人生もまた存在している。大きな歴史的出来事を事後的に叙述する際に無視される、これらの人びと、これらの民衆たちの思いを含めて、広義の意味での「歴史」は存在している。そして、それは、事実過程を実証的に追及する営為の原動力にもなっていくといえよう。たぶん、これが、歴史的出来事をめぐる「歴史意識」形成の初発にあることなのだと考える。

翻って、現代の日本社会はどうだろう。もちろん、こういう意識は存在しているだろう。しかし、こういう意識をかき消すように、出来事を忘れさせ、なかったことのようにすべきだという主張が声高になされている。産経新聞は2月2日に配信したネット記事『【西論】「“中韓に期待”外交」の愚…日本の「行くべき道」は神話に学ぼう』で、次のように主張している。

 「水に流す」という日本人の知恵もここ(黄泉から帰還したイザナギの禊ー引用者注)から生まれた。災いや恨みごとに区切りをつけ、生まれ変わったような清新な心と体で、新たな月日を迎える。

 再生の知恵は、日本人の潔さを生んだ。好例は昨年、御嶽山の行方不明者捜索を秋の深まりとともに打ち切った際の家族の対応だろう。慰霊の花束をささげ、春に迎えに来ると誓い、警察や消防、自衛隊などの捜索隊に深い謝意を示して下山した。寝泊まりしていた公共施設にこれ以上迷惑をかけたくなかった、と言う家族もいた。

 これがお隣の国、韓国ならどうだろうかと考える。旅客船セウォル号の沈没事故で、行方不明者の捜索中止が決まったのが約7カ月後の昨年11月。行方不明者9人の家族は抗議し、待機場所の体育館で寝泊まりを続けた。地元から明け渡しを求める声が出ているにもかかわらず、である。「怨」のお国柄そのものの反応だった。
http://www.sankei.com/west/news/150129/wst1501290008-n1.html

そもそも、天災と人災を比べることがどうかとも思うが…。ここでの問題は、悲しみ、追悼、真相追及、責任の所在、今後への課題など、「歴史」意識の源流になりえるだろうことを、すべて「水に流し」、なかったことにすべきだという産経の主張である。そして、そのような主張を、記紀という「神話的歴史」によって正当化している。ここでは「公共施設にこれ以上迷惑をかけたくなかった」という同調意識が称揚されている。そして、多くの責任問題ー植民地、戦争、福島第一原発事故、「イスラム国」人質殺害などーがないがしろのままにされているのだ。

*ほとんど知らないことばかりで、メモをとらずに記憶のみで書いているので、事実誤認などもあるかもしれない。もしあれば、折々に訂正していきたい。
*犠牲者などのプライバシーを考慮し、遺影やメッセージを直接写した写真の掲載は遠慮した。ただ、その上で、「鎮魂」の雰囲気を伝えるために、必要最低限度と思われる写真を掲載させていただいた。

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安倍政権は、現在、高校における日本史必修化を提唱している。例えば、次の読売新聞のネット報道をみてほしい。

安倍首相、高校の日本史必修化に前向き

 安倍首相の施政方針演説など政府4演説に対する各党代表質問が29日午前、参院本会議でも始まった。

 首相は、高校での日本史の必修化について、「日本人としてのアイデンティティー(自己認識)、歴史、文化に対する教養などを備え、グローバルに活躍できる人材を育成する観点から検討を進める」と述べ、前向きに対応する考えを表明した。

 教育委員会制度の見直しについては、「責任の所在があいまいな現行制度を抜本的に改革していく」と述べ、教育行政に関する首長の権限強化を図る考えを示した。首相直属の教育再生実行会議は昨年、首長が任命する教育長を地方教育行政の責任者と位置づける提言をまとめており、首相は「提言を踏まえ、与党の意見をいただきながら改革していく」と述べた。

 民主党の神本美恵子副代表、自民党の溝手顕正参院議員会長の質問に答えた。

 靖国神社の参拝については、神本氏が政教分離原則に反する可能性があると指摘したのに対し、首相は「私人の立場で行った。供花代を公費から支出しておらず、指摘はあたらない」と反論した。

(2014年1月29日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20140129-OYT8T00696.htm

安倍政権の他の教育への介入と相違して、日本史必修化について、歴史学関係者は微妙な対応を示すかもしれない。一般に日本の歴史学関係者というと、どうしても日本史専攻が多い。プリミティブに考えると、日本史教育の拡充自体については肯定的に受け止める人もいるかもしれない。そしてまた、一般の人も、安倍政権に対する評価とは別に、やはりよいことのように思うかもしれない。

しかし、「日本史」ー「国民の歴史」とは何だろうか。フランスの歴史家ピエール・ノラは、フランスの「国民の歴史」について、このように言っている。

 

無意識のうちに理解される意味において、歴史は、本質的に国民を表現していたし、国民もまた本質的に歴史を通じて表現されていた。このような歴史は、学校という回路を通して、時とともに、われわれの集合的記憶の枠組みや鋳型となっていた。国民の教師として形成された科学的歴史それ自体は、この集合的記憶の伝統に修正を加え、その質を向上させることに本来の意義があった。だが、科学的歴史がどんなに『批判的』であろうとしても、この伝統を深化させるばかりであった。科学的歴史の究極の目的は、まさしく系譜による身元確認にあった。こうした意味において、歴史と記憶は一体を成していた。歴史とは、実証された記憶だったのである。(ノラ「コメモラシオンの時代」 『記憶の場』Ⅲ、2003年、原著1992年)

この「国民の歴史」がもたらすものは何だろうか。ノラは、さらに、このように言っている。

エルネスト・ルナンが定義したような国民の持つ効力がいま再発見されているが、ルナン流の国民は、二つの要素を結び付けることに基づいて定義されたのであって、国民史に代わる国民的記憶の勃興は、この二つの要素が決定的に分離したことをうかがわせる。その二つの要素とは、過去の遺産としての国民と未来の企図としての国民であり、言い換えれば、「ともに偉大なことを成した」という意識と「これからも偉大なことを成そう」とする意識、あるいは、死者に対する崇拝と日々の人民投票([国民の存在は、日々の人民投票である]は、ルナンの用いた隠喩)である。英雄的過去の崇拝と犠牲に同意する精神に基づくルナンの主意主義的国民観は、普仏戦争における国民の敗戦と屈辱の深淵から立ち現れ、対独復讐、植民地の獲得、強力な国家の建設へと突き進んでいった。超国家的な連帯や国家内の地域的な連帯の時代である今日、緊急の課題は、国民の抱きたがる自己像を永続化することではなく、国民に関係し、国民に義務を負わせるさまざまな決定に国民自身が現実に参画することである。こうした時代には、すでに存在せぬものの存在を前提とするような不当な論理でもって、あの主意主義的国民をよみがらせてはならない。(ノラ「コメモラシオンの時代」 『記憶の場』Ⅲ、2003年、原著1992年)

つまりは、19世紀から20世紀にかけて、帝国主義的戦争遂行の前提となった国民国家の形成と「国民の歴史」は不可分なものであったとノラは述べているのである。ノラは、たくみに「ともに偉大なことを成した」という意識が「これからも偉大なことを成そう」とする意識に結び付けられていることを示している。靖国参拝などは非常に分かりやすい例だが、そもそも「国民の歴史」自体がそのようなものであったのである。

これは、フランスだけではない。日本近現代史家の鹿野政直氏は、次のように指摘している。

日本史学は、皇国史観から戦後史学へ大きな転換をしたとの自意識をもってきたが、その転換にもかかわらず貫通する史学としての制度性の確信が、検討の対象となりつつあるともいうことができる。そこにメスを入れない限り、これまで過去認識を統整し支配してきた歴史学は、ありうべき過去認識にとって最大の障壁になるのでは?との危機感、いやむしろ恐怖感が、わたくしたちのなかに蔽いようもなくひろがってきている。(『化生する歴史学』、1998年)

安倍政権の提唱する「日本史」重視に、いかなる形で対処するのか。これは、批判するだけではすまない問題である。ノラは、単一の「国民史」ではなく、フランスの過去についての多様な(たぶん多元的な)「国民的記憶」が勃興していることを強調している。しかし、それは、EC(現在はEU)諸国への同調による「強大国から並の大国へ移行したのだとの認識が決定的に内面化」(ノラ)されたことが前提となっているだろう。「超国家的な連帯や国家内の地域的な連帯の時代である今日、緊急の課題は、国民の抱きたがる自己像を永続化することではなく、国民に関係し、国民に義務を負わせるさまざまな決定に国民自身が現実に参画することである」というノラの課題は、私たちの課題でもあるが、それを克服することは、より困難な問題なのである。

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さて、前回のブログで、11月23日に福島県楢葉町を踏査したことを述べた。その後、海岸線を南下し、広野町をぬけて、いわき市に入った。

いわき市の小名浜地区には、アクアマリンふくしまという水族館がある。2000年に開館した水族館で、私も10年ぐらい前に行ったことがある。この水族館は、小名浜港にあり、3.11においては、津波により、多大な被害を蒙った。Wikipediaには、次のように書かれている。

東日本大震災[編集]
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では揺れによる建物への損傷こそ殆ど無かったが、巨大な津波が施設の地上1階全体を浸水させこれにより9割の魚が死亡した。
その後は自家発電装置で飼育生物の生命維持装置である濾過装置などを稼働していたが、日動水の支援もあり3月16日にセイウチなど海獣を中心とした動物を他の水族館や動物園へ緊急移送(避難)させた。
トド、セイウチ、ゴマフアザラシ、ユーラシアカワウソなどの海獣、ウミガラスなどは鳥類は鴨川シーワールドと伊豆三津シーパラダイスへ、カワウソが上野動物園に、ウミガラスが葛西臨海水族園など。ただしバックヤードに収容されるため基本的に展示は行われない[10][11][12]。また、2011年4月1日にはメヒカリやガーといった魚類がマリンピア日本海に避難した[13]。
拠出用のクレーンに自家発電装置用の備蓄燃料である軽油を消費したが、交通網の遮断に加えて立地するいわき市北部が福島第一原発事故による屋内退避基準の半径30kmに含まれる関係もあり、燃料と餌の調達は困難であった。その後漁港の機能がマヒし、アザラシなどの海獣やカニなどの海洋生物・両生類・鳥類など約700種の餌も入手できず、最後に残った小型発電機の燃料を使い果たし水の管理が出来なくなったため海洋生物20万匹が全滅したことが3月25日に判明した[11]。
また施設内のWebサーバーも被災のため公式サイトが一時不通となり、3月16日頃に「マリンピア日本海」の公式サイトで被害状態などの惨状が掲載された。
7月15日、震災以来4ヶ月ぶりに営業を再開した[14]。同日は、7月16日(土)・17日(日)・18日(月、海の日)の週末3連休の前日で、当館の開館記念日にあたる。震災後に生まれ、「きぼう」と名付けられたゴマフアザラシが注目を集めている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%B5%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%BE

この被災について、ここではWikipediaの記事から引用したが、3.11直後、ときどきマスコミにこの水族館の状況は報道されていた。大型動物は移送されたが、9割もの飼育されていた生物が死滅したということである。

今回、行ってみて驚いたのは、この水族館が十年前の記憶と全く同じであったことである。もちろん、津波によって流されていないないモダンな水族館建屋自体が変わっていたわけはない。しかし、内装まで全く同じなのだ。

アクアマリンふくしま(外観)

アクアマリンふくしま(外観)

例えば、ヒトデなどの海洋生物にふれあうことができるタッチプールという施設を十年前にみたが、今も存在しており、ほとんど記憶通りなのである。

タッチプール

タッチプール

また、「潮目の海」とネーミングされた大水槽は、津波によって親潮と黒潮の界をなしていたアクリル板が壊れるなど、かなり被災したはずだが、その痕跡を見ることはできない。

潮目の海(大水槽)

潮目の海(大水槽)

館内で、パブリックな形で3.11における被災についてふれている掲示としては、入口にあるこのパネルくらいである。ただ、提携水族館との協力や、放射線問題についてふれているコーナーでは多少3.11の痕跡をみることができるのであるが。

アクアマリンふくしま再開のパネル

アクアマリンふくしま再開のパネル

もちろん、これは、アクアマリンふくしまが「復興」しようとした努力の結果であるといえる。しかし、3.11による被災は、Wikipediaの記事をみるように、アクアマリンふくしまの歴史にとって、非常に大きなものであった。そして、十年前と同様な形で再開したこと自体が、館にとって大きなことであったに違いない。しかし、そのことをはっきりと明示した展示物は館内にはないのである。

そして、アクアマリンふくしまのサイトにも、全く3.11の痕跡はみられない。「アクアマリンふくしまの復興日記」というブログがあったようだが、このブログは閉鎖され、過去の記事は非公開となっている。

このように、アクアマリンふくしまは、3.11における被災という事実を館内から消失させようと努めているといえるのである。

しかし、館の外には、津波の痕跡を示す記念物がある。津波によるがれきを集めてつくられた「がれき座」という「舞台」があり、津波により破壊された大水槽のアクリル板によってプレートがつくられている。

がれき座

がれき座

がれき座プレート

がれき座プレート

がれき座のプレートには、次のような言葉が記されている。

がれき座
〜私たちの海をよみがえらせる〜

その日、アクアマリンふくしまは、津波の中にあった。このアクリル板は黒潮と親潮をへだてる厚さ6cmのアクリル板の破片です。
MARCH 11、M9の地震は黒潮と親潮の「潮目の海」の2000トンの大水槽にも津波を起こし、巻き起こった大波が仕切り板を破壊し突破した。親潮の魚が黒潮の魚が仕切り板を越えて交流していた。
外のアスファルトさえも波打って裂け目ができた。アスファルトをはがして、がれきの津波をつくった。
アクリル板を「がれき座」の舞台の看板にして、私たちの海をよみがえらせる祭りの場とする。
        アクアマリンふくしま 館長 安部義孝

つまり、館内で消し去った津波の「痕跡」である大水槽の「アクリル板」を使って、館外に3.11の「記憶の場」を設置したということになる。

アクアマリンふくしまにおける3.11の記憶の問題は、複雑である。アクアマリンふくしまの館内においては、3.11の痕跡はほとんど消失させられている。それは、サイトやブログまで及んでいる。そして、ちょっと奇異に感じるくらい、3.11以前の水族館が「再現」されている。3.11は消し去りたいという心性がそこに働いているのではないかとも思う。

しかし、他方で、3.11を記憶しなくてはならないという心性もまた存在する。それが、館外のがれき座という形で表現されているのであろう。

水族館「内部」での3.11の記憶の消去と、水族館「外部」における3.11の記憶の場の設置。これは、「復興」における地理的格差の暗喩ともみえる。アクアマリンふくしまのある小名浜港においては、3.11の痕跡はほとんど目立たなくなっている。しかし、おなじいわき市でも久之浜や豊間などは、がれきが片付いただけで復興はすすんでいるとはいえないのである。

いわき市豊間周辺

いわき市豊間周辺

もっといえば、楢葉町・富岡町など、居住や立ち入り自体が制限されたところもある。そういう所では、3.11の記憶をいやがおうでもつきつけられているのである。

3.11の記憶は、このように複雑なものである。3.11をなかったものにしたいとする心性と、記憶しなくてはならないとする心性は、水族館アクアマリンふくしまの中でもせめぎあっている。このせめぎあいの中から、「歴史」意識が生まれてくるのではなかろうか。

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