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Posts Tagged ‘福島県浜通り’

5月8日、久方ぶりに福島県浜通りを訪問した。目的地は、居住制限区域の浪江町であった。そのすぐ北側の南相馬市小高や、福島第二原発南側の楢葉町まで行ったことはあるが、福島第一原発事故以後、浪江町に到着したことは一度もなかった。

どのルートで行くか、結構悩んだ。福島市まで東京から東北道を北上し、伊達市もしくは飯舘村で山越えし、相馬市もしくは南相馬市に出て国道6号線を南下するというルートは、途中の放射線量も相対的に低く、何度も使った。ただ、やや遠回りなのは否めない。しかし、南側から常磐道もしくは国道6号線を北上するルートは、相対的に近いが、放射線量の高い帰還困難区域を通過せざるをえない。どうしようか。

結局、一度も使っていない常磐道を北上するルートを選んだ。途中のいわき中央ジャンクションまでは快適だった。沿線の山々は新緑で、ところどころ藤の花が咲いていた。湯ノ岳パーキングエリアでは放射能情報などを伝える小さな小屋のようなものができていたが、それだけだった。しかし、いわき中央をこえると、それまで片道二車線だった常磐道が一車線となり、ところどころで反対車線と対面通行になった。それには、前から恐怖感をおぼえていたのだが、以前よりも交通量が増え、制限速度時速70kmで走っていると後続の車が団子状態になり、反対車線を通行する車も格段に増えた。横風もあって車もぶれてきており、結局、いわき市最北のいわき四倉インターチェンジで常磐道を降りるよりほかなくなってしまった。

実際、常磐道の対面通行区間では、事故がおきている。5月4日、常磐道のより北の部分で死亡事故がおきた。朝日新聞のネット記事をみてほしい。

死亡の母娘、水族館帰りに事故 常磐道、車とバス衝突
2016年5月5日12時57分
 福島県大熊町下野上の常磐道下り線で4日午後8時45分ごろ、高速路線バスと乗用車が衝突し、乗用車の2人が死亡した事故で、県警は5日、死亡したのは、同県広野町に住む中国籍の秦丹丹さん(33)と、長女で小学1年生の熊田京佳さん(6)と発表した。

 県警によると、バスの乗客40人のうち38人と運転手、事故後にバスに追突した乗用車の運転手の計40人が軽傷を負い、そのほとんどが近くの病院に搬送された。バスは東京・池袋発、福島県相馬市行きの高速路線バスで、秦さん親子は宮城県内の水族館に遊びに行った帰りだったという。

 現場は富岡町の常磐富岡インターチェンジ(IC)と浪江町にある浪江ICの間の片側1車線の対面通行区間。県警は、秦さんの運転する乗用車がセンターラインをはみ出して、バスに正面衝突したとみて調べている。(後略)
http://www.asahi.com/articles/ASJ552T3FJ55UGTB001.html

前々から、いわき四倉までの対面通行区間をなんども通行して、そのあやうさを私は認識していた。それゆえ、新規全面開通した常磐道は、単に放射線量が高いというだけではない危険性があると考えていた。この事故と私の経験は、その危険性をまざまざとみせたものといえよう。

そして、この事故については、対面通行だけの問題にはすまなかった。この事故地点は、放射線量が高い帰還困難区域であった。そのことについて、朝日新聞のネット記事は次のように伝えている。

福島)帰還困難区域での事故、現場は、課題は
茶井祐輝、本田雅和2016年5月7日03時00分

 大熊町の常磐道下り線で4日夜、高速路線バスと乗用車が正面衝突した事故があり、乗用車の2人が死亡した。現場は東京電力福島第一原発事故の影響で帰還困難区域になっており、付近の放射線量は毎時4マイクロシーベルトを超すことも。バスに乗っていたけが人の多くはマスクもなしで2時間近く、路上にとどまらざるを得なかった。(後略)
http://www.asahi.com/articles/ASJ565D1RJ56UGTB00T.html

これも、懸念されていたことの一つであった。事故が起きると、巻き込まれた人々は、放射線量が高い地域にもかかわらず、事故地点にとどまって助けを待たなければならない。特に事故車に乗っている人々は、追加事故をさけるために、車から降りなくてはならないのだ。実際、福島県内の高速道路のサービスエリアやパーキングエリアでは、そのように指示するポスターがはってあった。結局、無用の被曝を余儀なくされるのである。

このように、福島県浜通りには、原発や放射線だけではない生活上の困難が存在する。たぶん、片道一車線の高速道路は、日本のそれぞれの地方にみられるであろう。そして、それぞれ危険性や不便を甘受せざるをえないことになっていることだろう。直接には交通量の少なさ、より大きくいえば周辺地域の人口の少なさがゆえに、危険や不便であっても、「片道一車線」の「交通道路」は建設されている。それでも「東京」直結が望ましいと地域では認識されているのであろう。原発があろうがなかろうが、「過疎地」であるということは、地域住民にそのような危険性を強いている。そして、このような構造を前提として、原発は建設されるのだ。

他方で、福島県浜通りでいえば、一般の「過疎地」の状況に加えて、福島第一原発事故による放射能汚染という問題もかかえている。事故の救護をまつために「無用」の被曝を余儀なくされるということは、他地域ではありえない。常磐道での交通事故は、「放射線被曝」にもつながっていくのである。

なお、常磐道を降りた私は、一つの決断をした。福島第一原発の入り口がある国道6号線を使って北上するルートをとるこにした。それについては、別の機会に述べたい。

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なぜ、リスクのある原発が福島などの地方で建設されたのか。拙著『戦後史のなかの福島原発』(大月書店、2014年)は、そのような問いに答えるものであった。拙著では、原爆投下(1945年)や第五福竜丸事件(1954年)によって、日本社会において漠然とした形であったが放射能のリスク認識は一般化しつつあり、大都市部などの中央において原子炉・原発の立地は政府も住民も忌避することになっていたが、人口が少なく、経済が成長していないと認識されていた茨城、福島、福井などの地方においては、リスク認識をもちつつも、そのリスクゆえにより大きなリターンー地域開発・雇用・補交付金・固定資産税収・消費市場・寄付金などーを得ようとすることで、原発立地を受け入れていったと結論づけた。

こういう関係は、原発だけに限られる問題ではない。戦後社会、いや日本の近代社会では、中央ー地方の関係性において、中央の必要に応じて地方が再編され、その再編を通じて、地域開発や交付金などのリターンを獲得するという構図が成り立っていた。一つだけ例をあげれば、足尾鉱毒問題がそれである。足尾銅山の生産する銅は、単に経営者古河市兵衛の利益になるだけではなく、当時の日本の有力な外貨獲得源でもあった。政府は、結局、谷中村を犠牲にする治水事業という地方利益を鉱毒地域に与えることによって、足尾銅山操業停止要求を鎮静化したのである。

さて、3.11以後はどうなったであろうか。原発事故のリスクは、地域社会が予想する範囲を大きく超えていた。福島県浜通りにあった原発立地自治体の住民は避難を余儀なくされた。政府や福島県主導で、避難指示を解除し住民の早期帰還を促す政策が実施されようとしているが、結局、福島第一原発の廃炉作業すらままならない状態で、多くの住民が早期に帰還できるとは思えない。拙著でも引用したが、3.11前に原発増設を推進していた井戸川克隆双葉町長(当時)は、2012年1月30日の国会事故調において「原発立地をして、確かに交付金いただいて、いろんなものを整備しました、建てました、造りました。それを全部今は置いてきているんです。過去のものになってしまったんです。じゃ、今我々は一体何を持っているかというと、借金を持っています…それ以外に失ったのはって、厖大ですね。先祖伝来のあの地域、土地を失って、全てを失って、これを是非全国の立地の方には調べていただきたい」と語った。地域社会総体の消滅ということが、原発の真のリスクであったのである。それは、交付金などの地域社会で獲得してきたリターンを無にするものであった。

そして、こういうこともまた、原発だけには限られないのである。2014年5月8日、2040年には若年女性が2010年の半分以下になる「消滅可能性都市」が日本の自治体の半数近くなるという日本創成会議の試算が発表された。産經新聞のネット配信記事で概要をみておこう。

2014.5.8 17:43

2040年、896市町村が消滅!? 若年女性流出で、日本創成会議が試算発表

 2040(平成52)年に若年女性の流出により全国の896市区町村が「消滅」の危機に直面する-。有識者らでつくる政策発信組織「日本創成会議」の人口減少問題検討分科会(座長・増田寛也元総務相)が8日、こんな試算結果を発表した。分科会は地域崩壊や自治体運営が行き詰まる懸念があるとして、東京一極集中の是正や魅力ある地方の拠点都市づくりなどを提言した。

 分科会は、国立社会保障・人口問題研究所が昨年3月にまとめた将来推計人口のデータを基に、最近の都市間の人口移動の状況を加味して40年の20~30代の女性の数を試算。その結果、10年と比較して若年女性が半分以下に減る自治体「消滅可能性都市」は全国の49・8%に当たる896市区町村に上った。このうち523市町村は40年に人口が1万人を切る。

 消滅可能性都市は、北海道や東北地方の山間部などに集中している。ただ、大阪市の西成区(減少率55・3%)や大正区(同54・3%)、東京都豊島区(同50・8%)のように大都市部にも分布している。

 都道府県別でみると、消滅可能性都市の割合が最も高かったのは96・0%の秋田県。次いで87・5%の青森県、84・2%の島根県、81・8%の岩手県の割合が高く、東北地方に目立っていた。和歌山県(76・7%)、徳島県(70・8%)、鹿児島県(69・8%)など、近畿以西にも割合の高い県が集中していた。

 増田氏は8日、都内で記者会見し、試算結果について「若者が首都圏に集中するのは日本特有の現象だ。人口減少社会は避けられないが、『急減社会』は回避しなければならない」と述べ、早期の対策を取るよう政府に求めた。
http://www.sankei.com/life/news/140508/lif1405080009-n1.html

日本創成会議のサイトによると、これは単なる日本社会総体の少子高齢化による人口減少というだけでなく、「日本は地方と大都市間の「人口移動」が激しい。このまま推移すれば、地域で人口が一律に減少することにならず、①地方の「人口急減・消滅」と②大都市(特に東京圏)の「人口集中」とが同時進行していくこととなる」(http://www.policycouncil.jp/pdf/prop03/prop03.pdf)ということでもあると説明している。つまりは、人口減少のなかで、大都市ー中央に人口がより集中することによって、地方の人口が急減し、消滅の危機を迎えるということになっているのだ。大げさな言い方をすれば、中央ー地方の関係性のなかで、地方の地域社会自体が「消滅」に向かっているといえるのである。

そして、それは、大都市ー中央の衰退につながる。日本創成会議のサイトでは、「都市部(東京圏)も近い将来本格的な人口減少期に入る。地方の人口が消滅すれば、都市部への人口流入がなくなり、いずれ都市部も衰退する」と主張されている。

前述してきたように、大都市ー中央の利害によって地方の地域社会が再編され、そのことによって地方もリターンを獲得してきた。その最も顕著な例が原発立地にほかならない。しかし、今後、地方の地域社会自体が消滅していくならば、そのような構図自体が成り立たなっていく。そして、それは、中央それ自体も衰退していくということなのである。福島第一原発事故による原発自治体の問題は、そのようなことの予兆としても見るべきなのではなかろうか。

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福島第一原発事故は、どのように歴史的に語り得るのであろうか。その観点からみて、非常に興味深い実践が、茨城文化財・歴史資料救済・保全ネットワーク(略称:茨城史料ネット)で行われている。

この茨城史料ネットは、東日本大震災で被災した文化財・歴史資料を救済・保全するために、2011年7月に設立されたボランティア組織である。茨城史料ネットが出した『身近な文化財・歴史資料を救う、活かす、甦らせるー茨城史料ネットの活動紹介パンフレットー」(2014年5月23日発行、なお文引用や写真はここから行う)によると、茨城史料ネットは、ひたちなか市、筑西市、鹿嶋市、常陸大宮市、北茨城市、栃木県芳賀郡茂木町、常陸太田市、福島県いわき市で文化財・歴史資料の保全活動に携わった(なお、厳密にいえば、茂木町と常陸太田市での活動は直接には震災の被災資料を対象としていない)。

茨城史料ネットは、原発事故で警戒区域に指定された福島県浜通り地区の個人所蔵資料も保全活動の対象とするようになった。前述のパンフレットによると、三件実施しているということであるが、こここでは、双葉町の泉田家資料が紹介されている。泉田家は地震で家屋が半壊し、津波で床上浸水し、その後警戒区域に指定されたため、資料の管理ができなくなった。そこで、所蔵者の一時帰宅の際に資料を警戒区域外に運び出し、最終的には茨城大学に搬入された。

茨城史料ネットでは「地域コミュニティが崩壊し文化の担い手が地域から消失してしまった警戒区域では、泉田家のような個人所蔵資料の救出・保全し地域の歴史像を明らかにしていくことが今後の歴史・文化の継承の際に重要な意義を持つことになるでしょう」と前述のパンフレットで語っている。私もその通りだと思う。

福島県双葉町泉田家資料

福島県双葉町泉田家資料

さらに、茨城史料ネットでは、福島第一原発事故で埼玉県加須市の旧騎西高校に避難した双葉町役場と避難所の資料保全にも着手した。きっかけは、双葉町教育委員会の依頼をうけ、2012年に双葉町役場つくば連絡所で茨城史料ネットが生涯学習講座を開催したことだったという。2013年3月には、双葉町役場埼玉支所及び旧騎西高校避難所にある震災関係資料の保全を茨城史料ネットで行うことが決まったとされている。

保全された資料は、現在、筑波大学春日エリアに保管され、概要調査と資料整理の準備が進められているとのことである。資料の量は、資料保存箱で約170個に及んでいるという。

茨城史料ネットは、前述のパンフレットにおいて、次のように指摘している。

 

保全された資料は、避難生活の困難を物語る文書や資料、国の内外から双葉町へ寄せられた支援・慰問の品などです。この活動は今後も継続させ、東日本大震災による被災の記録・記憶を後世へ伝える一助にしたいと考えています。

双葉町役場・旧騎西高校避難所資料の保全

双葉町役場・旧騎西高校避難所資料の保全

災害時の避難所の資料が保全されるということは、稀有なことであろう。もちろん、一般的な災害ではなく、「全村避難」という過酷な状況で、役場自体も移さなければならないということが背景にあったといえる。

現在、日本社会全体にせよ、福島県にせよ、東日本大震災・福島第一原発事故を忘れさせようという志向が強まっている。3.11の衝撃をなかったものとして、なるべく以前のやり方を踏襲して社会を運営していこうというのである。原発は再稼働されるのかもしれないし、福島第一原発は「コントロール」されていると強弁して東京オリンピックは開催されるのかもしれない。しかし、東日本大震災にせよ福島第一原発にせよ、確かに被災し打撃を受けた地域社会は存在していたのだ。そして、そのことが明らかにするのが、茨城史料ネットなどが保全しようとしている資料なのである。このような営為は、他でも行われている。今後は、保全された資料の中で明らかになるであろう被災した地域社会のあり方をふまえて、社会全体が運営されていかねばならない。このような、資料を保全しようという人びとの思いも、歴史を動かす力の一つであると私は信ずる。

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