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2014年8月6日、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(平和記念式典)にて、安倍晋三首相が昨年とほぼ同様の挨拶を行い、まるでコピペをしているようにみえるということが主にインターネット上で話題となっている。そのことを報じている東京新聞のネット配信記事をまずみてほしい。

広島平和式典 首相スピーチ「コピペ」 昨年と冒頭ほぼ同じ

2014年8月8日 朝刊

 広島市で六日に開かれた被爆から六十九年の平和記念式典で、安倍晋三首相が行ったスピーチの冒頭部分が昨年とほぼ同じ内容だったことから、インターネット上で「使い回し」「コピペ(文章の切り貼り)だ」と批判を集めている。
 安倍首相は「人類史上唯一の被爆国としてわが国には『核兵器のない世界』を実現していく責務がある」などとあいさつ。読み上げた文章を昨年と比較すると「六十八年前の朝」が「六十九年前の朝」となり、「せみ時雨が今もしじまを破る」という表現がなくなった以外は冒頭三段落が一字一句同じだった。今年は四十三年ぶりに雨の中で式典が開かれていた。
 後半部分は、いずれも「軍縮・不拡散イニシアチブ」の会合や原爆症認定について触れているが、表現は異なっていた。
 東京都世田谷区の上川あや区議が、テキスト比較ソフトを使って両者の冒頭四段落を並べた写真を七日未明、短文投稿サイトのツイッターに投稿。五千人以上が転載した。
 広島県原爆被害者団体協議会(金子一士理事長)の大越和郎事務局長(74)は「厳粛な慰霊碑の前で前年と同じあいさつをするとは、広島や被爆者、平和を軽視している証左だ。それが底流にあるから集団的自衛権の行使容認を閣議決定したのではないか」と話した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014080802000132.html

実際、どうなのだろうか。まず、首相官邸サイトにアップされている昨年と本年の「挨拶」を見比べてみよう。まず、前半はこのようになっている

【2013年】
広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。
 68年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。
 犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。蝉しぐれが今もしじまを破る、緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
 私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0806hiroshima_aisatsu.html

【2014年】
 広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。
 69年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。
 犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
 人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、「核兵器のない世界」を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0806hiroshima_aisatsu.html

三段落目までは、記事の指摘の通りである。「68年前」を「69年前」に言い換え、「蝉しぐれが今もしじまを破る」というフレーズを抜いただけで、あとはほとんど同じである。今年の広島の式典は降雨の中で行われたということだから、もし晴れていれば「蝉しぐれ」云々も残されていたかもしれない。

四段落目の前半の表現はさすがにかえている。しかし、「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には」(【2013年】)といっても、「人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には」(【2014年】)といっても、意味はそれほど変わらないだろう。細かくいえば「私たち日本人」が「我が国」に主体が転換しており、それ自体、国家中心主義的な志向が強まったといえるかもしれない。そして、この後段の文章は「」の有無程度の違いはあるが、「確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります」とともになっている。

続いて、後半の文章をみておこう。

【2013年】
 昨年、我が国が国連総会に提出した核軍縮決議は、米国並びに英国を含む、史上最多の99カ国を共同提案国として巻き込み、圧倒的な賛成多数で採択されました。
 本年、若い世代の方々を、核廃絶の特使とする制度を始めました。来年は、我が国が一貫して主導する非核兵器国の集まり、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開きます。
 今なお苦痛を忍びつつ、原爆症の認定を待つ方々に、一日でも早くその認定が下りるよう、最善を尽くします。被爆された方々の声に耳を傾け、より良い援護策を進めていくため、有識者や被爆された方々の代表を含む関係者の方々に議論を急いで頂いています。
 広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、旧倍の努力を傾けていくことをお誓いします。
 結びに、いま一度、犠牲になった方々の御冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。

【2014年】
 私は、昨年、国連総会の「核軍縮ハイレベル会合」において、「核兵器のない世界」に向けての決意を表明しました。我が国が提出した核軍縮決議は、初めて100を超える共同提案国を得て、圧倒的な賛成多数で採択されました。包括的核実験禁止条約の早期発効に向け、関係国の首脳に直接、条約の批准を働きかけるなど、現実的、実践的な核軍縮を進めています。
 本年4月には、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開催し、被爆地から我々の思いを力強く発信いたしました。来年は、被爆から70年目という節目の年であり、5年に一度の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が開催されます。「核兵器のない世界」を実現するための取組をさらに前へ進めてまいります。
 今なお被爆による苦痛に耐え、原爆症の認定を待つ方々がおられます。昨年末には、3年に及ぶ関係者の方々のご議論を踏まえ、認定基準の見直しを行いました。多くの方々に一日でも早く認定が下りるよう、今後とも誠心誠意努力してまいります。
 広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、倍旧の努力を傾けていくことをお誓いいたします。結びに、いま一度、犠牲になった方々のご冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。

後半をみてみると、もちろん、政策の展開を触れた部分は異なっていることがわかる。ただ、テーマは、2013年も2014年も「国連総会」「軍縮・不拡散イニシアティブ」「原爆症援護」をあげている。その意味では、ここも「前年踏襲」なのである。

さらに結びの部分は、ほとんど同じといってよいだろう。行替えの有無、そして「旧倍」を「倍旧」にしていること、さらに「お誓いいたします」を「お誓いします」と言い換えているくらいしか、違った部分を見つけることはできなかった。

全体でいえば、2013年の「挨拶」原稿に、一年間にあった政策展開の部分を修正し、それ以外に多少表現上の手直しをしたというにとどまっている。そして、遠慮なく、前年の「挨拶」を流用しているのである。同じなのは「冒頭」だけではない。「おわりに」もほとんど同じなのだ。

これは、もちろん、セルフコピーだから著作権上の問題にはならない。しかし、随分、人を食った話である。オリジナルかのように発話しているが、しかし、それは前年の踏襲でしかない。知的に誠実であれば、「昨年も同様のことを申し述べましたが、大事なことなのでもう一度申し上げます」というだろう。

この場が、日本の平和政策を世界にむけてアピールする場でもあるはずだが、前年と同じでは全くインパクトがない。さらに、そのようなことを平然とする首相のレベルが世界的に疑われることになるだろう。「核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓い」と最後にいっているが、このようなアピールすら前年踏襲で、どこが「力を惜しまぬ」というのだろうか。「言葉」すらも選ぶ努力をしないのである。本当に「言葉」だけなのだ。

もちろん、首相などのスピーチは本人が書いているものではないだろう。官僚などのスタッフが原案を書いているに違いないのだ。首相は、どんなことを発話したいか、それをスタッフに指示すれば、スタッフが原案を作成するだろう。たぶん、そのような指示すらしなかったと考えられる。

そして、これは、原爆死没者という「死者」たちに向けた「言葉」でもあることにも注目しなくてはならない。安倍首相にとって「死者」たちーしかも「国家」によって犠牲とされたーへの言葉は、それこそ通り一遍のもので構わないのである。

ある意味で、この一件には、安倍晋三首相の姿勢が如実に表現されているといえよう。平和については「言葉」すら選ぶ努力をしないのに、「力を惜しまぬ」と主張しているのである。

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前回、拙著『戦後史のなかの福島原発 ー開発政策と地域社会』(大月書店、2500円+税)が近日中に出版されることをこのブログに投稿した。自己宣伝かたがた、本書の全体のコンセプトについて紹介しておこう。

本書のテーマは、なぜ、福島に原発が立地がなされ、その後も10基も集中する事態となったのかということである。そのことを、本書では、実際に原発建設を受容したり拒否したりする地域住民に焦点をあてつつ、「リスクとリターンのバーター」として説明している。原発事故などのリスクがある原発建設を引き受けることで、福島などの立地社会は開発・雇用・補助金・固定資産税などのリターンの獲得を期待し、それが原発建設を促進していったと私は考えている。

まず、リスクから考えてみよう。原子力についてのリスク認識は、1945年の広島・長崎への原爆投下と1954年のビキニ環礁における第五福竜丸の被曝を経験した日本社会について一般化されていた。1954-1955年における原子力開発体制の形成においては平和利用が強調され安全は問題視されなかったが、1955年における日本原子力研究所の東海村立地においては、放射能汚染のリスクはそれなりに考慮され、大都市から離れた沿海部に原研の研究用原子炉が建設されることになった。その後も、国は、公では原子炉ー原発を「安全」と宣言しつつ、原発事故の際に甚大な被害が出ることを予測し、1964年の原子炉立地審査指針では、原子炉の周囲に「非居住区域」「低人口地帯」を設け、人口密集地域から離すことにされていたのである。

他方で、1957-1961年の関西研究用原子炉建設問題において、関西の大都市周辺地域住民は、自らの地域に研究用原子炉が建設されることをリスクと認識し、激しい反対運動を展開した。しかし、「原子力の平和利用は必要である」という国家や社会党なども含めた「政治」からの要請を否定しきることはなかった。結局、「代替地」に建設せよということになったのである。そして、関西研究原子炉は、原子炉建設というリスクを甘受することで地域開発というリターンを獲得を希求することになった大阪府熊取町に建設されることになった。このように、国家も大都市周辺地域住民も、原発のリスクをそれなりに認識して、巨大原子炉(小規模の研究用原子炉は大都市周辺に建設される場合もあった)ー原発を影響が甚大な大都市周辺に建設せず、人口が少なく、影響が小さいと想定された「過疎地域」に押し出そうとしたのである。

他方で、実際に原発が建設された福島ではどうだっただろうか。福島県議会では、1958年に自民党県議が最初に原発誘致を提起するが、その際、放射能汚染のリスクはすでに語られていた。むしろ、海側に汚染物を流せる沿海部は原発の適地であるとされていた。その上で、常磐地域などの地域工業化に資するというリターンが獲得できるとしていたのである。福島県は、単に過疎地域というだけでなく、戦前以来の水力発電所集中立地地帯でもあったが、それらの電力は、結局、首都圏もしくは仙台で多くが使われていた。原発誘致に際しては、より立地地域の開発に資することが要請されていた。その上で、福島第一原発が建設されていくのである。しかし、福島第一原発の立地地域の人びとは、組織だって反対運動は起こしていなかったが、やはり内心では、原発についてのリスクは感じていた。それをおさえるのが「原発と原爆は違う」などの東電側が流す安全神話であったのである。

さて、現実に福島第一原発が稼働してみると、トラブル続きで「安全」どころのものではなかった。また、1960-1970年代には、反公害運動が展開し、原発もその一連のものとして認識された。さらに、原発について地域社会側が期待していたリターンは、現実にはさほど大きなものではなかった。すでに述べて来たように、原発の立地は、事故や汚染のリスクを配慮して人口密集地域をさけるべきとしており、大規模開発などが行われるべき地域ではなかった。このような要因が重なり、福島第二原発、浪江・小高原発(東北電力、現在にいたるまで未着工)の建設計画発表(1968年)を契機に反対運動が起きた。これらの運動は、敷地予定地の地権者(農民)や漁業権をもっている漁民たちによる、共同体的慣行に依拠した運動と、労働者・教員・一般市民を中心とした、住民運動・社会運動の側面が強い運動に大別できる。この運動は、決して一枚岩のものではなく、内部分裂も抱えていたが、少なくとも、福島第一原発建設時よりははっきりとした異議申し立てを行った。そして、それまで、社会党系も含めて原発誘致論しか議論されてこなかった福島県議会でも、社会党・共産党の議員を中心に、原発批判が提起されるようになった。この状況を代表する人物が、地域で原発建設反対運動を担いつつ、社会党所属の福島県議として、議会で原発反対を主張した岩本忠夫であった。そして、福島第二原発は建設されるが、浪江・小高原発の建設は阻止されてきたのである。

この状況への対策として、電源三法が1974年に制定されたのである。この電源三法によって、工業集積度が高い地域や大都市部には施行されないとしつつ、税金によって発電所立地地域において道路・施設整備などの事業を行う仕組みがつくられた。同時に立地地帯における固定資産税も立地地域に有利な形に変更された。大規模開発によって原発立地地域が過疎地帯から脱却することは避けられながらも、地域における反対運動を抑制する体制が形成された。その後、電源三法事業・固定資産税・原発雇用など、原発モノカルチャー的な構造が立地地域社会で形成された。このことを体現している人物が、さきほどの岩本忠夫であった。彼は、双葉町長に転身して、原発推進を地域で強力に押し進めた。例えば、2002年に福島第一・第二原発の検査記録改ざんが発覚するが、岩本は、そのこと自体は批判しつつも、原発と地域社会は共存共栄なのだと主張し、さらに、国と東電は最終的に安全は確保するだろうとしながら、「避難」名目で周辺道路の整備を要求した。「リスク」をより引き受けることで「リターン」の拡大をはかっていたといえよう。岩本忠夫は議会に福島第一原発増設誘致決議をあげさせ、後任の井戸川克隆もその路線を受け継ぐことになった。

3.11は、原発のリスクを顕然化した。立地地域の多くの住民が生活の場である「地域」自体を奪われた。他方で、原発のリスクは、過疎地にリスクを押しつけたはずの大都市にも影響を及ぼすようになった。この3.11の状況の中で、岩本忠夫は避難先で「東電、何やってんだ」「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と言いつつ、認知症となって死んでいった。そして、後任の井戸川克隆は、電源三法などで原発からリターンを得てきたことは認めつつ、そのリターンはすべて置いてこざるをえず、借金ばかりが残っているとし、さらに「それ以外に失ったのはって、膨大ですね。先祖伝来のあの地域、土地を失って、すべてを失って」と述べた。

原発からのリターンは、原発というリスクがあってはじめて獲得できたものである。しかし、原発のリスクが顕然化してしまうと、それは全く引き合わないものになってしまう。そのことを糊塗していたのが「安全神話」ということになるが、3.11は「安全神話」が文字通りの「神話」でしかなかったことを露呈させたのである。

この原発をめぐるリスクとリターンの関係において、福島の多くの人びとは、主体性を発揮しつつも、翻弄された。そして、このことは、福島外の私たちの問題でもある。

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ウルリヒ・ベック「すなわち、近代に伴う危険にあっては遅かれ早かれ、それを創り出すものも、それによって利益をうけるものも危険に曝されるのである。危険は階級の図式を破壊するブーメラン効果を内包している。富める者も、権力を有する者も、危険の前に安全ではありえない。」(『危険社会』)

日本列島に住んでいる人びとで、この福島第一原発事故直後の事故処理を指揮した吉田昌郎元所長を知らない人は少ないと思う。この人が、本日ー2013年7月9日ーに亡くなった。その一報を伝えるNHKのネット配信記事(2013年7月9日付)をまず紹介しておこう。

東京電力福島第一原子力発電所の事故で現場で指揮を執った吉田昌郎元所長が、9日午前、東京都内の病院で食道がんのため亡くなりました。
58歳でした。

吉田元所長は、3年前の6月に福島第一原子力発電所の所長に就任し、おととし3月11日の事故発生から現場のトップとして事故対応の指揮を執りました。
すべての電源が失われる中で、吉田元所長は、福島第一原発の複数の原子炉で同時に起きた事故の対応に当たりましたが、結果として1号機から3号機でメルトダウンが起きて被害を防ぐことはできませんでした。
吉田元所長は、その後、病気療養のため交代するおととしの11月末までおよそ9か月間にわたって福島第一原発の所長を務め、事故の収束作業にも当たりました。
おととし12月に食道がんと診断されて所長を退任しその後、去年7月には脳出血の緊急手術を受け療養生活を続けていました。(後略)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130709/k10015922331000.html

吉田元所長の死については哀悼の意を示しておきたい。ただ、吉田元所長自体については、功罪あるといえる。そのことを指摘しているのは、時事通信のネット配信記事(2013年7月9日)付である。ただ、他のマスコミは、吉田元所長の「功」の方を強調しているといえる。

(前略)
11年3月11日の事故発生後は、同原発の免震重要棟で陣頭指揮に当たった。首相官邸の意向を気にした東電幹部から、原子炉冷却のため行っていた海水注入の中止を命じられた際には、独断で続行を指示。行動は一部で高く評価された。
 一方、事故直後の対応では、政府の事故調査・検証委員会などが判断ミスを指摘。原発の津波対策などを担当する原子力設備管理部長時代に、十分な事故防止策を行わなかったことも判明した。(2013/07/09-18:17)
http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2013070900691

吉田元所長の評価は、福島第一原発事故の原因、そして、事故処理のあり方が解明されることによって、歴史的に定まってくるといえる。

ここで問題にしたいのは、吉田元所長の死亡原因のことである。報道によれば、吉田元所長は食道がんで死去したということである。それに対して、吉田元所長を雇用していた東京電力関係者は次のように説明したと、上記のNHKのネット配信記事は報道している。

東京電力によりますと、事故発生から退任までに吉田元所長が浴びた放射線量はおよそ70ミリシーベルトで、東京電力はこれまで、「被ばくが原因で食道がんを発症するまでには少なくとも5年かかるので、事故による被ばくが影響した可能性は極めて低い」と説明しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130709/k10015922331000.html

「被ばくから5年以上たたないとがん発症との因果関係は認めない」というのは、東電その他「原子力ムラ」の人びとの常套句である。現在、福島県内の子どもたちにおいて、平常よりも多く甲状腺がんが発症しているが、同様の論理で、被ばくとの因果関係は認めていないのである。死去した吉田元所長もあるいは自分のがん発症と福島第一原発事故との因果関係を認めなかったかもしれない。

しかし、「事故発生から退任までに吉田元所長が浴びた放射線量はおよそ70ミリシーベルト」ということ自体がすでに問題なのである。事故発生(2011年3月)から退任(2011年11月)まで、9ヵ月になる。この70mSvという線量が、すでに一般人の限度の70倍ということになる。さらに、この線量は、本来、放射線業務従事者の通常時における被ばく線量限度年間50mSvをもこえているのである。

1972年に制定された電離放射線障害防止規則は次のように定めている。

第四条  事業者は、管理区域内において放射線業務に従事する労働者(以下「放射線業務従事者」という。)の受ける実効線量が五年間につき百ミリシーベルトを超えず、かつ、一年間につき五十ミリシーベルトを超えないようにしなければならない。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S47/S47F04101000041.html

ただ、この規則では、今回の事故における緊急時の対応に従事する労働者については、年間100mSvまで被ばく線量限度を引上げている。そして、2011年3月14日から2011年12月16日までは、さらに年間250mSvまで被ばく線量限度を引上げていたのである。

つまり、吉田元所長の「9ヵ月で70mSv」という線量は、通常では浴びることのない線量なのである。緊急時という状況下でのみ、許容されているにすぎないものでしかない。

Wikipediaの「被曝」の項によると、50mSvですでに染色体異常が出始めるとしている。そして、81mSvについては、「広島における爆心地から2km地点での被曝量。爆発後2週間以内に爆心地から2km以内に立ち入った入市被爆者(2号)と認定されると、原爆手帳が与えられる。」と説明している。

もちろん、短期に高線量を浴びることになる原爆と、長期間にわたって低線量にさらされる原発事故とは違いがある。その意味で一概にはいえないのだが、吉田元所長のあびた線量は、原爆被災者なみであったということになろう。

吉田元所長の食道がん発症の契機は、福島第一原発事故であったのかどうか、これは、もちろん、不明であるとしかいいようがない。東電を含む「原子力ムラ」の人びとは、必死に因果関係を否定するだろう。前述したように、吉田元所長自身もそう考えていたのかもしれない。しかし、それでも、放射線被ばくという問題について、福島第一原発に職業としてかかわって給与を得つつ、この事故を引き起こした責任者である人たちにもまぬがれないものであることを示す、一つの象徴としての意義を吉田元所長の死はもっているといえよう。

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2012年11月11日、全国各地の抗議行動と連動しつつ、永田町・霞ヶ関で「11.11反原発1000000人大占拠」と銘打った10万人規模の反原発抗議行動が行われた。この日の抗議行動には、日比谷公園から出発するデモが予定されていたが、東京都が野外音楽堂と日比谷公会堂利用者以外にはデモによる公園の一時利用を許可しない方針を打ち出し、東京地裁・東京高裁も追認したため、デモは取りやめとなり、永田町・霞ヶ関での抗議行動のみとなった。

この日の抗議行動では、各所に抗議ステージが設定された。通例となった金曜日の抗議行動は、官邸前と国会前(スピーチエリアとファミリーブロック)で主に行われているが、11日には、経産省前、文部科学省前、財務省前、外務省前、厚生労働省前、東京電力前、 Jパワー前(銀座)でも抗議の場が設けられた。もちろん、人の多いところはやはり官邸前と国会前であるが、15〜19時と比較的長い時間設定もあって、人びとは、それぞれ集団をつくり、各抗議行動の間を歩道を使って練り歩いていた。そして、ドラム隊や「経産省前テントひろば」など、それ自体が「デモンストレーション」となっていた。

ここで、取り上げるのは、文部科学省前で行われた抗議行動である。首都圏反原発連合のサイトには、各抗議活動の場の呼びかけ団体が記載されているが、文部科学省前の抗議行動の呼びかけ団体は脱原発国民の会となっている。この会のサイトでは、次のように自身を説明している。

脱原発国民の会は、福島県双葉町を勝手に応援し、高線量地域に放置されてる子供達を県外に避難、帰還不可能地域設定で西日本に双葉町が早く移住できる原発反対運動を広める目的でデモ及び抗議行動を主催致します。http://stopnukes.blog.fc2.com/

換言すれば、子供を中心とした双葉町民を高線量地域から避難させることを目的とした団体といえる。この団体が呼びかけ団体となって文部科学省前抗議行動が組織されたのだが、その抗議の場に、1954年のビキニ環礁における水爆実験によって被曝し、犠牲となった第五福竜丸の久保山愛吉の遺影を中心に、多くの顔写真が置かれ、その前にはろうそくがともされていた。また花束もささげられていた。それが、次の写真である。

文部科学省前抗議行動(2012年11月11日)

文部科学省前抗議行動(2012年11月11日)

文部科学省前抗議行動で掲げられた久保山愛吉の「遺影」(2012年11月11日)

文部科学省前抗議行動で掲げられた久保山愛吉の「遺影」(2012年11月11日)

久保山愛吉の遺影のそばには、有名な「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という遺言がかかげられていた。この久保山愛吉の遺影の周りの多くの顔写真は、子どもたちのものである。説明は何もなかったが、1945年の広島・長崎の原爆によって犠牲になった子どもたちの「遺影」と思われる。そして、これらの写真群の背後に「子どもを守れ」「福島の子供達を避難させて!」というプラカードがかかげられていた。

この「遺影」の「安置」は、意味深長である。もちろん、1945年もしくは1954年における原水爆による犠牲者たちを追悼することによって、見る者の視線はまず「過去」に向けられる。久保山愛吉をはじめ、過去の原水爆によって、多くの人ー特に子どもたちの生は断ち切られ、惨たらしい死を迎えることになった。そこでは「過去」の「歴史」が追憶されている。

しかし、「子どもを守れ」「福島の子供達を避難させて!」というプラカードは、「過去」に向かっていた視線を鏡のように反転させる。もし、このまま福島の子どもたちを高放射線地域に放置するならば、放射線による犠牲者が出ることが想定される。すでに、福島の子どもたちにおいて甲状腺異常が現れていることが報じられている。そうなると、この「過去」の「遺影」は、「未来」のものになってしまう。ここで、いったん「過去」に向かっていた「視線」は、「未来」に向けられるのだ。

そこで、この「過去」の「遺影」を追悼する心は、「未来」において、このような「遺影」を林立させまいという「現在」の決意に転化していくといえよう。そこで、まさに久保山愛吉の「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という言葉が切実にせまってくるのである。

このように、この原水爆犠牲者の「遺影」の「安置」は、直線的進歩という形ではない、「過去・現在・未来」を包含する「歴史」のあり方が暗示されているといえるのである。

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ここで考えておきたいことは、「原子力の平和利用」の「平和」ということである。原発などの原子力の産業的利用において、特に日本では、常に「平和利用」ということが強調される。1951年に制定された原子力基本法には「平和の目的に限り」と原子力研究・開発が限定されている。

しかし、そもそも、原子力の利用・開発は、核兵器開発の「軍事利用」として、本格的に開始されたといえる。特にそのことを示しているのが、原爆製造のためにアメリカが第二次世界大戦中に実施したマンハッタン計画である。このマンハッタン計画については、平田光司「マンハッタン計画の現在」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)が要領よく整理しているので、これに依拠してみていこう。

ウラン (U235)の核分裂反応が発見されたのは1938年であった。この発見は、ドイツのベルリンにおいて、O・ハーンとF・シュトラスマンによって行われたが、そのことは1939年にはアメリカに伝わった。アメリカでは、カリフォルニアの E・ローレンスのもとで最新鋭の粒子加速器サイクロトロンがつくられており、すぐにウランの核反応の詳細が調べられた。1940年には、サイクロトロンを使った連鎖核分裂反応をおこすプルトニウム(Pu239)の生成にバークレーのG・シーボーグ等により成功した。しかし、プルトニウムの発見・合成はすでに兵器開発の一環とされ、公表されることはなかった。

そして、1941年には、元マサチューセッツ工科大学副学長V・ブッシュが科学研究開発部長になり、原爆の本格的開発をめざしたマンハッタン計画の実施が決定された。この時期想定された原爆製造方法としては、ウラン(U235)とプルトニウム(Pu239)の二つを用いる方法が考えられた。周知のように、天然ウランにおいては、核分裂反応を起こす U235は0.7%しかなく、ほとんどはU238である。原爆としてU235を使うためには、純度を90%以上にする必要があった。これがウラン濃縮である。大量にウラン濃縮をすることは難しく、ガス拡散法やサイクロトロン用に開発された巨大磁石を使う(電磁分離法)などの大規模施設が必要であった。このウラン濃縮施設はテネシー州オークリッジに建設された。
 
他方、プルトニウムの場合は、E・フェルミやL・シラードによって考案された原子炉を使うことが構想された。原子炉(黒鉛炉)の中で天然ウランを「燃焼」させ、天然ウラン中のU235を核分裂させて中性子を発生させ、中性子がU238にあたってPu239に転換になる反応を利用してプルトニウムを生産させるという方策がとられた。シカゴ大学に世界最初の原子炉CP−1(シカゴパイル)がつくられ、1941年12月には連鎖反応が確認された。そして、安全性を配慮して、人口の少ないワシントン州ハンズフォードにプルトニウム生産炉は建設された。このように、原子炉とは、まず原爆製造のためのプルトニウム生産の装置であったのである。
 
このようにして生産されたウランとプルトニウムを原爆に製造する施設として、1943年、ニューメキシコ州にロスアラモス研究所が作られ、所長に理論物理学者のオッペンハイマーが就任した。1945年7月16日、ロスアラモス南方のアラゴモードでプルトニウム原爆の核実験(トリニティ実験)が行われた。そして、周知のように、8月6日には広島にウラン原爆が、8月9日には長崎にプルトニウム原爆が投下されたのである。

第二次世界大戦後、原子力エネルギーの管理は、軍部ではなく、文民の原子力委員会( AEC)に移された。AECは、(1)核兵器の開発、(2)核エネルギーの利用(原子力)、(3)核(素粒子)物理学を管轄した。つまり、アメリカにおいては、第二次世界大戦後も、核兵器の開発と、核エネルギーの利用、核物理学研究は一体のものであった。

そして、いわゆる核エネルギー(原子力)の利用自体も、兵器生産と結びついて開始されたのである。前述したように、そもそも原子炉は原爆材料としてのプルトニウムを生産するために設置されたが、原子炉のエネルギーを動力源とすることをはじめて行ったのは原子力潜水艦であった。原子力潜水艦に搭載するために、水を減速材および冷却材として使い、濃縮ウランを燃料とする軽水炉が開発された。1954年には初の原子力潜水艦ノーチラス号が完成した。原子力潜水艦開発にはウェスティングハウス社とゼネラル・エレクトリック社が協力したが、原子力潜水艦用の軽水炉は民需用原子炉のモデルとなり、両社は、二大原発メーカーとして成長していくのである。

他方で、プルトニウム生産炉としての原子炉は、高速増殖炉計画へとつながっていく。高速増殖炉においては、U235の核分裂反応によるエネルギーによって発電するとともに、放出される中性子により、U238がPu239に転換し、核燃料がより増加していくことになる。プルトニウム生産炉としての原子炉のそもそもの性格を発展させたものといえる。しかし、ここで生産されるプルトニウムは、単に原発の燃料となるだけでなく、原爆・水爆などの核兵器の材料ともなるのである。
 
平田は、次のように指摘している。

原子炉は、もともと原爆製造のために作られたものであり、軽水炉も原子力潜水艦の動力源として開発された。原子力の平和利用は、兵器の製造過程を多少変えて、一般にも役立つようにしたものである。このため、原子力で発電する装置は即軍事に転用できる。…原子力は核兵器と同じ体系のものである。原子力が広まれば、核武装の可能性も同じように広まる。(平田前掲書91頁)

まず、原子力の本格的利用を開始したアメリカにおいて、原子力を原発などの民需に使う「平和利用」とは、核戦争のための軍事利用と一体のものとして位置づけられて開始されていたことに注目しておかねばならない。

その上で、平田は、このように述べている。

アメリカ、フランスなど原子力を進めようとしている国は核武装しており、国防という経済性を無視した聖域のなかで核兵器および原子力の開発を一体として進めてきた。原子力におけるマンパワーも豊富である。軍が基本的な開発をおこなって、ある程度のノウハウが確立してから民間を参入させている。リスクが莫大で事実上計算不能であり、投資が回収できる保証のない原子力の技術とは、国家が国防のために開発するしかないものではなかろうか。この観点からすると、導入の経緯が問題なのではなく日本の原子力は最初から平和利用のみであったため、輸入技術に依存したひよわな産業構造しか持てなかったのかもしれない。(平田前掲書98頁)

高速増殖炉や核燃料再処理などのプルトニウム生産にこだわる日本の原子力政策が「平和利用」目的だけかは疑問の余地があるが、その主流が軽水炉をつかった原発開発という「原子力の平和利用」であることは相違ないといえる。そもそも、核兵器開発と一体として開始された「原子力の平和利用」であり、名目としては「平和利用」に限定せざるをえない日本の「原子力研究・開発」は、そもそも矛盾をかかえていたといえるのである。

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鹿野政直『「鳥島」は入っているか』

鹿野政直『「鳥島」は入っているか』

前回、『「鳥島」は入っているかー歴史意識の現在と歴史学』(1988年、岩波書店)を題材として、歴史研究者鹿野政直氏が、「核時代」という概念のもとで、どのようにチェルノブイリ事故をみたのかを検討してきた。鹿野氏が「核時代」の著作として三番目にあげるのが、芝田進午の『核時代』Ⅰ・Ⅱ(1987年、青木書店)であった。

芝田の「核時代」について、鹿野氏はこのように説明している。

「1945年8月までは、人類にとっては、“よりよい生存”が課題とみなされていた」のにたいして、「以後は、“生存”そのものの保障・保証、<死>にたいする<生>の保障・保証が、人類の最優先・最緊要・最大の課題になった」とするのである。

芝田の「核時代」にとってのキイ概念は「ヒバクシャ」であった。芝田によると、核による死は、すべての細胞を殺しつくす絶体絶命の死であり、それゆえに、

“ヒバクシャ”は、他方では、同時に、生存のためにたたかわざるをえない人間存在にほかならず、「反原爆におもむく存在」「“核による死”とたたかう存在」、「生存にいたる存在」でもある。

と述べている。

芝田によれば、ヒバクシャは、広島・長崎の原爆投下による直接・間接の被爆者だけでなく、核実験による被爆者、ウランなどの精錬工場の被爆者、原発労働者なども含んでいる。さらに、「潜在的被爆者としての全人類」、「可能的被爆者としての全人類」と、ヒバクシャは「全人類」まで及んでいるのである。鹿野氏は、「こうして、『ヒバクシャ』は、“特殊”な存在ではなく、“普遍”的な存在となる。」と評価している。

しかし、鹿野氏は、「ただしこの本によるかぎり、チェルノブイリに言及なく、著者がそれをどう位置づけるのか、皆目窺えないのは不審である」と疑問を呈していることも忘れてはならない。

鹿野氏は、これらの著作を最終的にこのように位置づけた。

これらの著作には、現在を「核時代」とする歴史意識が、共通して強烈に流れ、それが著作への起発力になっている。そうしてその「核時代」は、すべてを絶滅の淵に立たせているとされ、絶滅か生存かの選択を賭けて、地球と人類、それらを統一したものとしての未来の世代という観念が浮上してきているのをみることができる。

鹿野氏によれば、「核は人類史を成立させつつある、との認識が、そこには示されているともいえるであろう。」とすら言っているのである。

そして、最後に、鹿野氏は、このように述べている。

その点でわたくしは、芝田のいう「ヒバクシャ」の普遍化という命題に同意する。それは、まず、被爆体験に倚りかかる姿勢からの、被爆体験を出発点とする姿勢への転換を促すだろう。「倚りかかる姿勢」は、それを掲げるとき、過去と現在をつうじてのさまざまのものが免責されるという心理を生みやすいが、それにたいして「出発点とする姿勢」は、みずからの内部の点検へと導かずにはいないだろう。それゆえにそれは、つぎに、「被曝国」という自己規定をお題目化して、現在の核政策に目をつぶることを許さない姿勢を造りあげてゆくだろう。そうしてそれは、十五年戦争を惹き起こし核爆発を浴びるにいたった国民としての、世界の未来に向かっての責任のとりかたを提示することにもなるだろう。「戦後」の風化に抗しつつ、つまりその意味で「戦後」への記憶を新たにしつつ、しかも「戦後」のかなたをみとおす立脚点はそこにある、とわたくしは考える。

これは、鹿野氏の将来への希望を表明したものであるといえる。しかし、20数年たった今、この文章を読んでいると、奇妙で居心地の悪い感慨に襲われる。自分も含めて、どれだけの人が、真にこのような言葉に気を留めて行動してきたのであろうか。そして「内部の点検」とは、どれだけの人が実施してきたのであろうか。

そして、これは、全く自己反省を込めてではあるが、なぜ鹿野氏のような見解が一般化されなかったのか、そして、原発の悪い意味での「画期性」が普遍化されてもなお、一般化されていないのかと問わなくてはならないであろう。

そして、このことは、単に原発問題だけにとどまらないのではないかと思っている。

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樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』(2002年3月)にある東京電力調査事務所土木課長Sの回想をもう少し紹介しておこう。

前述のように、用地買収も進展したので、東電は原発建設のため、現地に東京電力調査事務所を設置し、Sも土木課長として大熊町に赴任した。しかし、用地買収の大半は容易に終了したのであるが、構外進入道路工事などは残っており、その測量で地権者や地元住民から反対論が噴出した。この件をSは次のように述べている。

早速S(大熊町長。イニシャルのみ記す)町長に連絡して地元の人達に集まってもらうことになった。敷地の入口に近い道路交差点の角地にある雑貨店の丸添商店の2階で対話することになった。
原子力発電は原子爆弾と同じように危険であるというのが町民の声であった。
そこで私は答えた。「皆さんは原爆がどのようなものかご存知か、私は原爆を投下したB29とそのあと空に舞い上がったきのこ雲を見ている。多くの負傷者の看護にも当たった。その上私の兄も原爆で戦死した。皆さん以上にその恐ろしさは身に染みて知っている。従って皆さん以上に真剣に原子力発電について勉強しました。原子力発電は核反応を静かに優しく行うように考えられておりその反応が万一予想以上に進むときは2重3重の防御を行い、これでもかこれでもかと安全対策をしているので私は安全だと信じています。いささかの不安があればいくら会社の方針とはいえ肉親を失った私は会社に従わない。何も東京電力しか勤めるところがない訳ではないから私は東京電力を止めます。皆さん今まで申し上げた通り原子力発電は安全ですからご安心下さい。町長さんからお話があれば私共は従います。」と一生一代の熱弁をふるった。しばらく沈黙が続いた。やがて町長が「土木課長がこうおっしゃるのですから、原子力発電は安全だし、いつでも私共の話を聞いて貰えるのですから私に委して下さい。道路が完成すれば幅も広く、路面も舗装され我々にとって大変便利になります」と云はれ出席者一同から賛同を得た。この日を期して構外進入道路工事は測量、建設と順調に進捗していった。

Sのこの回想は、重要なことをしめしている。住民は、原爆に恐怖し、それと同様なものとして原子力発電をとらえ、ゆえに原子力発電も危険であると認識している。原爆被爆国の日本によくみられる思考回路といえよう。しかし、Sは、自分は原爆をみた、負傷者の看護にもあたった、自分の兄も原爆で戦死した、大熊町民よりも、身に染みて原爆の恐怖は知っているとした。それゆえに、原子力発電について真剣に勉強した、原子力発電は核反応を静かに行い、二重三重に安全対策を行っているから、安全であると力説したのである。

簡単に概括すれば、原爆体験があればこそ、原子力発電の安全対策は万全であるとしたのである。Sの個人史は不明で、原爆体験については、ここにある以上のことはわからない。しかし、「今となっては…」の感はいなめないが、Sのいうことを単なる強弁とはみるべきではなかろう。原爆に被曝した日本であるからこそ、放射能への不安は強い。そして、それは、住民以上に原発に近づく必要のある、現場の東電社員も共有していた。それゆえに、ことさらに「安全」が意識されたのである。まさに、原爆被爆国ゆえに、住民にとっても、現場の東電社員にとっても、より強い「安全神話」が必要なのであった。

この「安全神話」も、単に危険なものを隠蔽するだけのイデオロギーではなかったであろう。「安全」へのこだわりは、より「安全」なものを作り出そうとする原動力になっていたであろうし、そこまで否定する必要はない。Sは、自分の原爆体験があればこそ、会社が安全ではない方針をとるならば、会社をやめるとまでいっている。

とはいっても、やはり「今になっては…」の感はつきまとってしかたないのであるが。

一方、Sは、町長から話があれば従うともいっている。住民の要望は聞き入れるという姿勢をしめしたといえる。町長は、原発は安全だし、住民の要望は聞き入れるといっている、道路が完成すれば便利だといって、その場をおさめた。Sの言動と、町長のとりなしが、住民の反対論を鎮静化していったのである。

総括しよう。原爆に被曝した日本にとって、たぶん放射能への恐怖はどこよりも強いであろう。そして、このような恐怖は、原発を建設し操作する東電社員たちにも共有されていた。そのため、原発を建設するためには、どこよりも強固な「安全神話」が必要であったといえる。

そして、この「安全神話」の崩壊は、原爆体験などを源流とする放射能への強い恐怖を再び呼び起こすことになったといえる。それが、福島だけではない、「われわれ」の現状なのである。

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