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2012年11月11日、全国各地の抗議行動と連動しつつ、永田町・霞ヶ関で「11.11反原発1000000人大占拠」と銘打った10万人規模の反原発抗議行動が行われた。この日の抗議行動には、日比谷公園から出発するデモが予定されていたが、東京都が野外音楽堂と日比谷公会堂利用者以外にはデモによる公園の一時利用を許可しない方針を打ち出し、東京地裁・東京高裁も追認したため、デモは取りやめとなり、永田町・霞ヶ関での抗議行動のみとなった。

この日の抗議行動では、各所に抗議ステージが設定された。通例となった金曜日の抗議行動は、官邸前と国会前(スピーチエリアとファミリーブロック)で主に行われているが、11日には、経産省前、文部科学省前、財務省前、外務省前、厚生労働省前、東京電力前、 Jパワー前(銀座)でも抗議の場が設けられた。もちろん、人の多いところはやはり官邸前と国会前であるが、15〜19時と比較的長い時間設定もあって、人びとは、それぞれ集団をつくり、各抗議行動の間を歩道を使って練り歩いていた。そして、ドラム隊や「経産省前テントひろば」など、それ自体が「デモンストレーション」となっていた。

ここで、取り上げるのは、文部科学省前で行われた抗議行動である。首都圏反原発連合のサイトには、各抗議活動の場の呼びかけ団体が記載されているが、文部科学省前の抗議行動の呼びかけ団体は脱原発国民の会となっている。この会のサイトでは、次のように自身を説明している。

脱原発国民の会は、福島県双葉町を勝手に応援し、高線量地域に放置されてる子供達を県外に避難、帰還不可能地域設定で西日本に双葉町が早く移住できる原発反対運動を広める目的でデモ及び抗議行動を主催致します。http://stopnukes.blog.fc2.com/

換言すれば、子供を中心とした双葉町民を高線量地域から避難させることを目的とした団体といえる。この団体が呼びかけ団体となって文部科学省前抗議行動が組織されたのだが、その抗議の場に、1954年のビキニ環礁における水爆実験によって被曝し、犠牲となった第五福竜丸の久保山愛吉の遺影を中心に、多くの顔写真が置かれ、その前にはろうそくがともされていた。また花束もささげられていた。それが、次の写真である。

文部科学省前抗議行動(2012年11月11日)

文部科学省前抗議行動(2012年11月11日)

文部科学省前抗議行動で掲げられた久保山愛吉の「遺影」(2012年11月11日)

文部科学省前抗議行動で掲げられた久保山愛吉の「遺影」(2012年11月11日)

久保山愛吉の遺影のそばには、有名な「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という遺言がかかげられていた。この久保山愛吉の遺影の周りの多くの顔写真は、子どもたちのものである。説明は何もなかったが、1945年の広島・長崎の原爆によって犠牲になった子どもたちの「遺影」と思われる。そして、これらの写真群の背後に「子どもを守れ」「福島の子供達を避難させて!」というプラカードがかかげられていた。

この「遺影」の「安置」は、意味深長である。もちろん、1945年もしくは1954年における原水爆による犠牲者たちを追悼することによって、見る者の視線はまず「過去」に向けられる。久保山愛吉をはじめ、過去の原水爆によって、多くの人ー特に子どもたちの生は断ち切られ、惨たらしい死を迎えることになった。そこでは「過去」の「歴史」が追憶されている。

しかし、「子どもを守れ」「福島の子供達を避難させて!」というプラカードは、「過去」に向かっていた視線を鏡のように反転させる。もし、このまま福島の子どもたちを高放射線地域に放置するならば、放射線による犠牲者が出ることが想定される。すでに、福島の子どもたちにおいて甲状腺異常が現れていることが報じられている。そうなると、この「過去」の「遺影」は、「未来」のものになってしまう。ここで、いったん「過去」に向かっていた「視線」は、「未来」に向けられるのだ。

そこで、この「過去」の「遺影」を追悼する心は、「未来」において、このような「遺影」を林立させまいという「現在」の決意に転化していくといえよう。そこで、まさに久保山愛吉の「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という言葉が切実にせまってくるのである。

このように、この原水爆犠牲者の「遺影」の「安置」は、直線的進歩という形ではない、「過去・現在・未来」を包含する「歴史」のあり方が暗示されているといえるのである。

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