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Posts Tagged ‘第五福竜丸’

    前回のブログでは、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の全体テーマについて紹介した。ここでは、『沈黙の春』を読んでみて気づいたことを述べていこう。

    あまり言及されていないが、『沈黙の春』における農薬などの化学薬品についての印象は、核戦争における放射性物質についてのそれを下敷きにしているところがある。例えば、レイチェルは

    汚染といえば放射能を考えるが、化学薬品は、放射能にまさるとも劣らぬ禍いをもたらし、万象そのものー生命の核そのものを変えようとしている。核実験で空中にまいあがったストロンチウム90は、やがて雨やほこりにまじって降下し、土壌に入りこみ、草や穀物に付着し、そのうち人体の骨に入りこんで、その人間が死ぬまでついてまわる。だが、化学薬品もそれに劣らぬ禍いをもたらすのだ。畑、森林、庭園にまきちらされた化学薬品は、放射能と同じようにいつまでも消え去らず、やがて生物の体内に入って、中毒と死の連鎖をひき起していく。(本書pp22-23)

    核戦争が起れば、人類は破滅の憂目にあうだろう。だが、いますでに私たちのまわりは、信じられないくらいおそろしい物質で汚染している。化学薬品スプレーもまた、核兵器とならぶ現代の重大な問題と言わなくてはならない。植物、動物の組織のなかに、有害な物質が蓄積されていき、やがては生殖細胞をつきやぶって、まさに遺伝をつかさどる部分を破壊し、変化させる。未来の世界の姿はひとえにこの部分にかかっているというのに。(本書p25)

    と、言っている。レイチェルにとっては、放射性物質も化学薬品も、自然を破壊する、人間の手に入れた「新しい力」なのである。彼女は、化学薬品による白血病の発症について広島の原爆の被爆者の問題から説き起こし、急性症状による死亡者についても第五福竜丸事件で死亡した久保山愛吉を想起している。

    彼女によれば、合成化学薬品工業の勃興は、核兵器と同様に、第二次世界大戦のおとし子だと言っている。次の文章を紹介しておきたい。

     

    なぜまた、こんなことになったのか。合成化学薬品工業が急速に発達してきたためである。それは、第二次世界大戦のおとし子だった。化学戦の研究を進めているうちに、殺虫力のあるさまざまな化学薬品が発明された。でも、偶然わかったわけではなかった。もともと人間を殺そうと、いろいろな昆虫がひろく実験台に使われたためだった。
     こうして生まれたのが、合成殺虫剤で、戦争は終ったが、跡をたつことなく、新しい薬品がつくり出されてきた。(本書pp33-34)

    このような、農薬などの化学薬品による「殲滅戦」について、「私たち現代の世界観では、スプレー・ガンを手にした人間は絶対なのだ。邪魔することは許されない。昆虫駆除大運動のまきぞえをくうものは、コマドリ、キジ、アライグマ、猫、家畜でも差別なく、雨あられと殺虫剤の毒はふりそそぐ。だれも反対することはまかりならぬ」(本書p106)と彼女は述べている。そして、「私たち人間に不都合なもの、うるさいものがあると、すぐ《みな殺し》という手段に訴えるーこういう風潮がふえるにつれ、鳥たちはただまきぞえを食うだけでなく、しだいに毒の攻撃の矢面に立ちだした。」(本書p108)と指摘し、「空を飛ぶ鳥の姿が消えてしまってもよい、たとえ不毛の世界となっても、虫のいない世界こそいちばんいいと、みんなに相談もなく殺虫剤スプレーをきめた者はだれか、そうきめる権利はだれにあるのか。いま一時的にみんなの権利を代行している官庁の決定なのだ。」(本書p149)と、彼女は嘆いている。

    この「みな殺し」=ジェノサイドこそ、農薬大規模散布の根幹をなす思想ということができよう。「不都合とされた」害虫・雑草(ある場合は害鳥)は根絶しなくてはならず、そのためには、無関係なものをまきぞえにしてもかまわないーこれは、合成化学薬品工業の源流にある「化学戦」においても、無差別空襲においても、ユダヤ人絶滅計画においても、核戦争においても、それらの底流に流れている発想である。これらのジェノサイドは、科学・技術・産業の発展によって可能になったのである。まさに、二度の世界大戦を経験した20世紀だからこそ生まれた思想である。そのように、大規模農薬散布による生態系の破壊と、核兵器は、科学・技術・産業の発展を前提としたジェノサイドの思想を内包しているという点で共通性があるといえよう。レイチェル・カーソンが、農薬などの化学薬品の比較基準として「核兵器」を想定したことは、そのような意味を持っているのである。

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前回、拙著『戦後史のなかの福島原発 ー開発政策と地域社会』(大月書店、2500円+税)が近日中に出版されることをこのブログに投稿した。自己宣伝かたがた、本書の全体のコンセプトについて紹介しておこう。

本書のテーマは、なぜ、福島に原発が立地がなされ、その後も10基も集中する事態となったのかということである。そのことを、本書では、実際に原発建設を受容したり拒否したりする地域住民に焦点をあてつつ、「リスクとリターンのバーター」として説明している。原発事故などのリスクがある原発建設を引き受けることで、福島などの立地社会は開発・雇用・補助金・固定資産税などのリターンの獲得を期待し、それが原発建設を促進していったと私は考えている。

まず、リスクから考えてみよう。原子力についてのリスク認識は、1945年の広島・長崎への原爆投下と1954年のビキニ環礁における第五福竜丸の被曝を経験した日本社会について一般化されていた。1954-1955年における原子力開発体制の形成においては平和利用が強調され安全は問題視されなかったが、1955年における日本原子力研究所の東海村立地においては、放射能汚染のリスクはそれなりに考慮され、大都市から離れた沿海部に原研の研究用原子炉が建設されることになった。その後も、国は、公では原子炉ー原発を「安全」と宣言しつつ、原発事故の際に甚大な被害が出ることを予測し、1964年の原子炉立地審査指針では、原子炉の周囲に「非居住区域」「低人口地帯」を設け、人口密集地域から離すことにされていたのである。

他方で、1957-1961年の関西研究用原子炉建設問題において、関西の大都市周辺地域住民は、自らの地域に研究用原子炉が建設されることをリスクと認識し、激しい反対運動を展開した。しかし、「原子力の平和利用は必要である」という国家や社会党なども含めた「政治」からの要請を否定しきることはなかった。結局、「代替地」に建設せよということになったのである。そして、関西研究原子炉は、原子炉建設というリスクを甘受することで地域開発というリターンを獲得を希求することになった大阪府熊取町に建設されることになった。このように、国家も大都市周辺地域住民も、原発のリスクをそれなりに認識して、巨大原子炉(小規模の研究用原子炉は大都市周辺に建設される場合もあった)ー原発を影響が甚大な大都市周辺に建設せず、人口が少なく、影響が小さいと想定された「過疎地域」に押し出そうとしたのである。

他方で、実際に原発が建設された福島ではどうだっただろうか。福島県議会では、1958年に自民党県議が最初に原発誘致を提起するが、その際、放射能汚染のリスクはすでに語られていた。むしろ、海側に汚染物を流せる沿海部は原発の適地であるとされていた。その上で、常磐地域などの地域工業化に資するというリターンが獲得できるとしていたのである。福島県は、単に過疎地域というだけでなく、戦前以来の水力発電所集中立地地帯でもあったが、それらの電力は、結局、首都圏もしくは仙台で多くが使われていた。原発誘致に際しては、より立地地域の開発に資することが要請されていた。その上で、福島第一原発が建設されていくのである。しかし、福島第一原発の立地地域の人びとは、組織だって反対運動は起こしていなかったが、やはり内心では、原発についてのリスクは感じていた。それをおさえるのが「原発と原爆は違う」などの東電側が流す安全神話であったのである。

さて、現実に福島第一原発が稼働してみると、トラブル続きで「安全」どころのものではなかった。また、1960-1970年代には、反公害運動が展開し、原発もその一連のものとして認識された。さらに、原発について地域社会側が期待していたリターンは、現実にはさほど大きなものではなかった。すでに述べて来たように、原発の立地は、事故や汚染のリスクを配慮して人口密集地域をさけるべきとしており、大規模開発などが行われるべき地域ではなかった。このような要因が重なり、福島第二原発、浪江・小高原発(東北電力、現在にいたるまで未着工)の建設計画発表(1968年)を契機に反対運動が起きた。これらの運動は、敷地予定地の地権者(農民)や漁業権をもっている漁民たちによる、共同体的慣行に依拠した運動と、労働者・教員・一般市民を中心とした、住民運動・社会運動の側面が強い運動に大別できる。この運動は、決して一枚岩のものではなく、内部分裂も抱えていたが、少なくとも、福島第一原発建設時よりははっきりとした異議申し立てを行った。そして、それまで、社会党系も含めて原発誘致論しか議論されてこなかった福島県議会でも、社会党・共産党の議員を中心に、原発批判が提起されるようになった。この状況を代表する人物が、地域で原発建設反対運動を担いつつ、社会党所属の福島県議として、議会で原発反対を主張した岩本忠夫であった。そして、福島第二原発は建設されるが、浪江・小高原発の建設は阻止されてきたのである。

この状況への対策として、電源三法が1974年に制定されたのである。この電源三法によって、工業集積度が高い地域や大都市部には施行されないとしつつ、税金によって発電所立地地域において道路・施設整備などの事業を行う仕組みがつくられた。同時に立地地帯における固定資産税も立地地域に有利な形に変更された。大規模開発によって原発立地地域が過疎地帯から脱却することは避けられながらも、地域における反対運動を抑制する体制が形成された。その後、電源三法事業・固定資産税・原発雇用など、原発モノカルチャー的な構造が立地地域社会で形成された。このことを体現している人物が、さきほどの岩本忠夫であった。彼は、双葉町長に転身して、原発推進を地域で強力に押し進めた。例えば、2002年に福島第一・第二原発の検査記録改ざんが発覚するが、岩本は、そのこと自体は批判しつつも、原発と地域社会は共存共栄なのだと主張し、さらに、国と東電は最終的に安全は確保するだろうとしながら、「避難」名目で周辺道路の整備を要求した。「リスク」をより引き受けることで「リターン」の拡大をはかっていたといえよう。岩本忠夫は議会に福島第一原発増設誘致決議をあげさせ、後任の井戸川克隆もその路線を受け継ぐことになった。

3.11は、原発のリスクを顕然化した。立地地域の多くの住民が生活の場である「地域」自体を奪われた。他方で、原発のリスクは、過疎地にリスクを押しつけたはずの大都市にも影響を及ぼすようになった。この3.11の状況の中で、岩本忠夫は避難先で「東電、何やってんだ」「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と言いつつ、認知症となって死んでいった。そして、後任の井戸川克隆は、電源三法などで原発からリターンを得てきたことは認めつつ、そのリターンはすべて置いてこざるをえず、借金ばかりが残っているとし、さらに「それ以外に失ったのはって、膨大ですね。先祖伝来のあの地域、土地を失って、すべてを失って」と述べた。

原発からのリターンは、原発というリスクがあってはじめて獲得できたものである。しかし、原発のリスクが顕然化してしまうと、それは全く引き合わないものになってしまう。そのことを糊塗していたのが「安全神話」ということになるが、3.11は「安全神話」が文字通りの「神話」でしかなかったことを露呈させたのである。

この原発をめぐるリスクとリターンの関係において、福島の多くの人びとは、主体性を発揮しつつも、翻弄された。そして、このことは、福島外の私たちの問題でもある。

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1950年代、米ソの核兵器開発競争が激化する中、大気中における原水爆実験が繰り返された。1954年3月1日、マーシャル諸島内のビキニ環礁における水爆実験により、マグロ漁船第五福竜丸が被曝し、乗組員の久保山愛吉が被曝によって死去することになったが、それは、原水爆実験による被害の一部でしかなかった。この時期、マーシャル諸島の住民やこの海域で操業していた多くの漁船は被曝した。これらの被曝漁船は、被曝したマグロなどの漁獲物を持ち帰っており、最終的には、放射能検査の末、被曝した漁獲物は廃棄された。そして、3月1日の水爆実験は、この時期繰り返された原水爆実験の一つでしかなく、これらの原水爆実験によってフォールアウトされた放射性降下物=死の灰は、大気・海洋を汚染した。

「世界は恐怖するー死の灰の正体」は、この「死の灰」に対する日本社会における危機意識を表現しようとしたものといえる。監督は、偶然だと思うが福島第一原発事故の被災地の一つである現南相馬市で生まれ、「反戦的」とされ上映禁止となった「戦ふ兵隊」(1939年)などを監督した亀井文夫である。この時期、亀井文夫は砂川闘争を撮影した「砂川の人々」(二部作、1955年)「流血の記録・砂川」(1956年)、広島・長崎の被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)など、社会的な関心の強い映画を撮影していた。この「世界は恐怖するー死の灰の正体」もその一つといえよう。この映画は1956年に制作され、1957年に配給された。制作・配給は三映社である。ナレーションは徳川夢声。協力者として、三宅泰雄、猿橋勝子、山崎文男、草野信男、武谷三男などが登場しており、タイトルクレジットなどには丸木位里・俊夫妻が描いた「原爆の図」がモンタージュして使われている。

この映画は、2012年11月9日に東京外国語大学で開催された上映会で初めてみた。その際、いろいろと丁寧な解説があり、自身も障害者であり長年優生保護法に取り組んできた米津知子氏より「原発にNO!を 『障害=不幸』にもNO!を」という問題提起があった。

しかし、私が最初見た時は、この映画自体に嫌悪感を感じてしまい、米津氏の問題提起を咀嚼するどころの話ではなかった。だが、多少、時間がたち、冷静にみると、この映画は、1950年代の、いまここにある危機としての放射能への恐怖を知るための格好の資料ではなかったかと思うようになってきた。もちろん、後述するように、この映画は、今の観点からみれば、多くの問題をはらんでいる。それでも、1950年代の日本の人びとがもった放射能への恐怖をある意味では赤裸々に表現しているといえよう。まずあらすじを紹介しよう。なお、現在、この映画は以下のサイトで見ることができる。

この映画の冒頭は、熱帯魚ブルーグラーミーの繁殖の場面から始まっている。それを写した後、生物の種族繁栄の営みが、今危機を迎えていると述べられている。

次の場面で、放射線実験装置の中に入れられたジュウシマツのつがいに、コバルト60による放射線が照射されるところが映し出されている。ジュウシマツは12分後、もがき苦しみながら死ぬ。そして、ここで、「これが放射能です」というナレーションが入る。ある意味では、目に見えない放射能への恐怖を可視化したものであり、優れた演出とも解釈することができる(私個人は、この場面でこの映画に嫌悪感をもったのだが)。

この放射能は、すでに東京の大気に蔓延している。ここで、立教大学の屋上に設置された集塵機からプルトニウム237が、オリエンタル写真工場の空気清浄機の濾紙からプルトニウム239が検出されていることを、測定・実験現場の映像とともに示している。

特に放射能は雨に含まれており、1954年の第五福竜丸直後の降雨にすでにストロンチウム90が検出されていた。そして、この映画では、放射能測定の現場を映し出しながら、昨年までは実験があった後に検出されていたが、撮影当時になると実験がなくても多くのストロンチウム90が検出されるようになったことが指摘されている。その原因として、近年の核実験が規模が大きく、高空で行われるため、死の灰が成層圏にとどまり、いつまでも降下してくると説明されている。

放射能雨などで降下した放射性物質は土壌を汚染する。この映画では土壌から放射能が検出されたところが映し出されていた。土壌を汚染した放射能は、作物を汚染する。この映画では、セシウム137を稲に摂取させる実験を行った後、実際に普通の田んぼからとれた米にも放射性物質が検出され、年々増えていることが映し出されている。さらに、放射性物質で汚染された牧草を食べた牛の乳から放射能が出ているのは当然であるとしつつ、粉ミルクからも放射能が検出され、増加傾向にあることが示される。そしてナレーションでは、放射能では、どんな量でも遺伝障害を引き起こすと述べ、一人一日、ストロンチウム90を0.3pCi(なお、映画ではマイクロマイクロキュリーと言われているが煩雑さをさけるためpCiと表記した)、セシウム137を51pCi食事から摂取していると指摘するのである。

ここで、ハツカネズミにストロンチウム90の入った溶液を飲ませ、体にどれほど吸収されるかという実験の光景が映し出される。ネズミが溶液を飲ませる場面には乳児がミルクを飲ませる映像が付け加えられている。結局、ネズミは解剖されるのだが、その場面は麻酔の時点から開始されており、生々しい。他でも動物実験がさかんに行われるのだが、その際、このような生々しい場面が多く挿入される。ナレーションでは、「人工放射線が人間をおびかしているから、ネズミもとんだとばっちりです」と語られている。

結局、ネズミの場合、24時間後には70%、48時間後にはさらに5%が排出されるが、それ以上は排出されないということであった。ストロンチウム90はカルシウムににており、骨に吸収されるのである。その証拠として、ネズミの骨格を置いて感光した印画紙が示された。

続いて、放射能が肺から人体に吸収されることを調べることを目的としたウサギによる実験が示される。ネズミの実験と大同小異なので、ここでは詳細を省こう。同じく「生々しい」実験の光景で「まことにウサギも災難ですがやむを得ません」というナレーションが入っている。

そして、この二つの実験から、胃腸からも肺からも放射能は定着すると結論づけた。さらに、人間の骨から放射能を検出する検査が次の場面で行われている。死体の手なども映し出されており、これも生々しい。そして、日本人の骨からもストロンチウム90が検出されていること、しかも幼児の骨からより多く検出されたとしている。

次の場面では、ネズミにストロンチウム90の溶液を注射し、がんを発生する実験が映し出されている。その結果、首のリンパ腺にがんができたネズミが登場し、「不幸な生き物」とよばれている。しかし、これはネズミだけではないとし、広島で被曝し首のケロイドにがんを発症した女性が映し出されている。手の施しようがなく、奇跡をまつばかりだそうである。

さらに、次の場面では、ショウジョウバエに放射線を照射し、突然変異を起こさせ、どのように遺伝するかという実験が映し出されている。放射線照射で致死因子ができており、それが遺伝されていくことを警告しているのである。

続く場面は、金魚の受精卵に放射線をあてる実験である。それによって、頭が二つあるような奇形が生まれ、そこに「原爆の図」の画像が挿入され、「百鬼夜行」と表現されている。その後に、広島・長崎の原爆の後生まれた、双頭や無脳児、単眼児などの「奇形」児たちが映し出される。さらに、広島の原爆慰霊碑が映し出され、「やすらかにねむってください、あやまちはくりかえしませぬから」とナレーションされる。

その後の場面では、被爆者の女性から生まれた小頭症の二人の女児が紹介されている。このあたりは、放射能が受精後に深刻な影響を与えることを示そうとしているといえよう。

そして、東京の「宮城前」が写され、そこで生殖の「営み」(といっても、デートしているだけだが)をしている男女が映し出される。しかし、その宮城前の土壌から、1kgあたりストロンチウム90が190pCi、セシウム137が240pCi検出されたことを指摘している。ここでは、これらの放射性物質から出た放射線が性細胞を直撃し遺伝問題になると警告している。

続く場面では、採血される若い女性と、血液を使って実験することが映し出され、人間の血液からもセシウム137が検出されたことが指摘されている。そこで、空気、大地、三度の食事も死の灰が含まれ、われわれの体にも死の灰がたまっていく、今後どうなるのかとナレーションされている。

さらに、気球や飛行機を使って大気上層の放射能を測定する試みや、奈良の若草山で毎年切り取られるシカの角から放射能の年次変化を測定する試みが紹介されている。

最後に、東京の地面には、すでにビキニ環礁実験時の1954年と比べて20倍のストロンチウム90が蓄積されていること、そして、この時点で核実験を中止しても、この10年間は増える一方で現在の3倍となり、現在程度に減衰するのは70年後になること、実験を中止しなければ60年後には今の40倍以上となり、危険水準をはるかにこえることを指摘した。

さらに、ネズミが放射線を照射されて苦悶しながら死んでいく映像が挿入された後、最後に次のような「作者の言葉」が提示された。

死の灰の恐怖は、人間が作り出したものであって、地震や 台風のような天災とは根本的にちがいます。だから人間がその気にさえなれば、必ず解消できるはずの問題であることを、ここに付記します。

これが、「世界は恐怖する」のあらすじである。とにかく、あまり気持のいい映像ではない。米津知子氏は「でも私は、途中で見るのをやめたくなりました。原爆のために奇形になった胎児、障害をもった女の子の映像のところです。放射性物質とともに、恐怖の対象にされて拒まれていると感じたからです」(米津前掲書)と語っている。私自身もそう思った。さらに、ここで出てくる動物たちにもそういう感じをもった。今の時点からすれば、数々の問題点が出てくる映画ではある。

ただ、一方で、亀井文夫や、映画に協力した科学者たちが恐怖した死の灰による危機意識をみるにはいい資料であるとも感じている。核実験実施が頻発した1950年代において、放射能の恐怖は、広島・長崎の原爆のように過去のものでも、全面核戦争のように未来のシナリオでもなかった。それは、その当時の日本社会が直面していた危機であった。この映画では、まず目に見えない放射能が小鳥を致死させることをみせつけ、「目に見えない恐怖」を実感させる。そして、核実験による放射能は、成層圏を含む大気中にたまり、放射能雨という形をとって降下してくる。降下した放射能は、人間の呼吸する空気を直接汚染するとともに、土壌を汚染し、最終的には米や牛乳などの食品を汚染させる。ここで扱われている動物実験は、肺や胃腸を通じて人体に摂取された放射能が人体に蓄積され、直接にはがんや白血病などを引き起こすとともに、遺伝障害や「奇形」を生み出すことを実感させている。そして、さらに、その実例として被爆者におけるがん発症や奇形児・障害児出産が挙げられている。そして、現時点でも人体に放射能が蓄積され続けていること、さらに核実験を中止した場合でも放射能は増え続けることになり、核実験をやめない場合はもっと増え、危険水準を突破するだろうと指摘している。このように、核実験による目に見えない放射能の恐怖は、当時の人びとの生存に直結するとともに、遺伝や障害という形で、彼らの子孫の生存にも左右するものとしてうけとられていたのである。そして、この恐怖の多くが、直接放射線を照射されることではなく、空気や食物による内部被曝であること、がん、白血病発症や、遺伝・障害などの長期的影響であることは特筆されるべきことだと思う。そして、このような恐怖が、当時の原水爆禁止運動の基盤となり、各地の原発建設反対運動におけるエネルギーの源泉にもなったといえるのである。

さらに、このような放射能の恐怖は、3.11以後、日本社会で感じられた恐怖の源流になったといえる。あの時も(また現在でも)、放射性物質は大気中をただよい、放射能雨によって降下し、土壌を汚染する。土壌汚染の結果、放射性物質によって食品も汚染され、人体にも蓄積され、内部被曝を引き起こし、がんや白血病が起き、さらには遺伝などの形で子孫にまで影響を及ぼすことになる。このような恐怖のあり方の原型は、まさに「世界は恐怖する」で示されたような死の灰への恐怖であるといえる。

これは、もちろん、政府の公式発表「健康に直ちに影響がない」を信じ込むことよりははるかに健全な対応であるといえよう。しかしながら、映画において恐怖の対象として障害者が排除されると同様な形で、福島県民が排除されることにもつながってしまっているようにもみえるのである。

さて、皮肉なことに、現状は、この映画で警告している状況よりも悪化しているのである。この映画で、「宮城前」の土壌1kgよりストロンチウム90が190pCi、セシウム137が240pCi検出されたと指摘されている。これをベクレルに換算すると、それぞれ7bq、8.9bqとなる。今や、セシウム137の食品規制値が1kgあたり100bqであり、8.9bqであると食品ですら規制されない量なのである。千代田区のサイトによると、千代田区の各公園の砂場を対象とした2011年の測定では「放射性ヨウ素と放射性セシウム134、137で、これらの物質の合計値は土壌1kgあたり50.7~557ベクレル(平均208ベクレル)でした。」となっている。この合計値の約半分がセシウム137ということになるが、少ない場合でも約25bq、多い場合は250bqを超えており、平均値でも約100bqとなる。1950年代に「恐怖の対象」であった放射能汚染の3倍から20倍もの放射能汚染の中で、今の東京の生活は営まれているのである。福島であればより状況は悪化している。放射線管理区域基準以上のところにすら、福島県では住まなくてはならないのである。「世界は恐怖する」以上の恐怖に、今や直面しているといえよう。

参考文献:公益法人第五福竜丸平和協会「亀井文夫と映画『世界は恐怖する』、米津知子「原発にNO!を 『障害=不幸』にもNO!を」(共に2012年11月9日の映写会で配布された資料)

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2012年11月11日、全国各地の抗議行動と連動しつつ、永田町・霞ヶ関で「11.11反原発1000000人大占拠」と銘打った10万人規模の反原発抗議行動が行われた。この日の抗議行動には、日比谷公園から出発するデモが予定されていたが、東京都が野外音楽堂と日比谷公会堂利用者以外にはデモによる公園の一時利用を許可しない方針を打ち出し、東京地裁・東京高裁も追認したため、デモは取りやめとなり、永田町・霞ヶ関での抗議行動のみとなった。

この日の抗議行動では、各所に抗議ステージが設定された。通例となった金曜日の抗議行動は、官邸前と国会前(スピーチエリアとファミリーブロック)で主に行われているが、11日には、経産省前、文部科学省前、財務省前、外務省前、厚生労働省前、東京電力前、 Jパワー前(銀座)でも抗議の場が設けられた。もちろん、人の多いところはやはり官邸前と国会前であるが、15〜19時と比較的長い時間設定もあって、人びとは、それぞれ集団をつくり、各抗議行動の間を歩道を使って練り歩いていた。そして、ドラム隊や「経産省前テントひろば」など、それ自体が「デモンストレーション」となっていた。

ここで、取り上げるのは、文部科学省前で行われた抗議行動である。首都圏反原発連合のサイトには、各抗議活動の場の呼びかけ団体が記載されているが、文部科学省前の抗議行動の呼びかけ団体は脱原発国民の会となっている。この会のサイトでは、次のように自身を説明している。

脱原発国民の会は、福島県双葉町を勝手に応援し、高線量地域に放置されてる子供達を県外に避難、帰還不可能地域設定で西日本に双葉町が早く移住できる原発反対運動を広める目的でデモ及び抗議行動を主催致します。http://stopnukes.blog.fc2.com/

換言すれば、子供を中心とした双葉町民を高線量地域から避難させることを目的とした団体といえる。この団体が呼びかけ団体となって文部科学省前抗議行動が組織されたのだが、その抗議の場に、1954年のビキニ環礁における水爆実験によって被曝し、犠牲となった第五福竜丸の久保山愛吉の遺影を中心に、多くの顔写真が置かれ、その前にはろうそくがともされていた。また花束もささげられていた。それが、次の写真である。

文部科学省前抗議行動(2012年11月11日)

文部科学省前抗議行動(2012年11月11日)

文部科学省前抗議行動で掲げられた久保山愛吉の「遺影」(2012年11月11日)

文部科学省前抗議行動で掲げられた久保山愛吉の「遺影」(2012年11月11日)

久保山愛吉の遺影のそばには、有名な「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という遺言がかかげられていた。この久保山愛吉の遺影の周りの多くの顔写真は、子どもたちのものである。説明は何もなかったが、1945年の広島・長崎の原爆によって犠牲になった子どもたちの「遺影」と思われる。そして、これらの写真群の背後に「子どもを守れ」「福島の子供達を避難させて!」というプラカードがかかげられていた。

この「遺影」の「安置」は、意味深長である。もちろん、1945年もしくは1954年における原水爆による犠牲者たちを追悼することによって、見る者の視線はまず「過去」に向けられる。久保山愛吉をはじめ、過去の原水爆によって、多くの人ー特に子どもたちの生は断ち切られ、惨たらしい死を迎えることになった。そこでは「過去」の「歴史」が追憶されている。

しかし、「子どもを守れ」「福島の子供達を避難させて!」というプラカードは、「過去」に向かっていた視線を鏡のように反転させる。もし、このまま福島の子どもたちを高放射線地域に放置するならば、放射線による犠牲者が出ることが想定される。すでに、福島の子どもたちにおいて甲状腺異常が現れていることが報じられている。そうなると、この「過去」の「遺影」は、「未来」のものになってしまう。ここで、いったん「過去」に向かっていた「視線」は、「未来」に向けられるのだ。

そこで、この「過去」の「遺影」を追悼する心は、「未来」において、このような「遺影」を林立させまいという「現在」の決意に転化していくといえよう。そこで、まさに久保山愛吉の「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という言葉が切実にせまってくるのである。

このように、この原水爆犠牲者の「遺影」の「安置」は、直線的進歩という形ではない、「過去・現在・未来」を包含する「歴史」のあり方が暗示されているといえるのである。

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福島第一原発事故による放射能汚染の恐怖の原型として、1954年のビキニ環礁水爆実験による第五福竜丸他の日本漁船の被曝とその後の水産物の買い控えについて、かつて「東日本大震災の歴史的位置ー放射能汚染への恐怖の源流としての第五福竜丸における「死の灰」」と題して本ブログで紹介したことがある。そのことについては、下記を参照されたい。

東日本大震災の歴史的位置ー放射能汚染への恐怖の源流としての第五福竜丸における「死の灰」

この記事を書いた頃から、ずっと東京都夢の島公園にある東京都立第五福竜丸展示館を見学したいと思ってきた。昨日ー2011年12月7日、他の用事もあって、ようやく実現することができた。

まず、東京都立第五福竜丸展示館の設立趣旨を同館のサイトから紹介しておこう。

この展示館には、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料を展示しています。「第五福竜丸」は、昭和29年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。
 木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
 「第五福竜丸」は、昭和22年(1947年)に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、昭和42年(1967年)に廃船になったものです。
 東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。
<東京都 昭和51年(1976)6月10日開館>
http://d5f.org/top.htm

あたりまえのことだが、開館は美濃部亮吉が東京都知事に就任していた1976年であることに注目しておこう。
 

行きたい方もあるかもしれないので、ここで、どこにあるかをグーグルの地図で示しておこう。東京都立第五福竜丸展示館は、JR・東京メトロ・東京臨海鉄道の駅である新木場駅から、大体徒歩10分の位置にある。カナリーヤシなど、ちょっと南国的な植栽のある夢の島公園を横断して、マリーナのある海辺にいくと、第五福竜丸展示館が建っている。

これが、第五福竜丸展示館の全景である。基本的には鉄骨・鉄板造りのようだが、ほとんど屋根ばかりが目立つ構造で、塗装もあいまって竪穴式住居のような印象がある。

第五福竜丸展示館全景(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸展示館全景(2011年12月7日撮影)

入口には、まず第五福竜丸の大漁旗が展示されている。ビキニ環礁で被曝した際、漁獲したマグロも被曝し、結局廃棄処分せざるをえなかったことを考えると、いささか複雑な気分になる。

第五福竜丸大漁旗(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸大漁旗(2011年12月7日撮影)

そして、中に入ると、真ん中にスクリューや舵がある第五福竜丸の船尾部分がみえてくる。あまり船底まで船はみないので、なかなか迫力のある光景である。木造船のていねいに作りこまれた美しさがそこにはあるといえる。ただ、もちろんであるが、かなり傷んでいる。

第五福竜丸船尾(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸船尾(2011年12月7日撮影)

船尾部分から船首のほうむかっていく通路に、メイン展示がある。ここには、第五福竜丸にふりそそいだ死の灰、第五福竜丸の航海や被曝に関する同船自体の資料、第五福竜丸被曝を報じた読売新聞の記事、乗組員の被曝とその看護、無線長久保山愛吉の死、水産物の被曝調査と廃棄処分さらには買い控え、原水爆禁止をもとめる署名運動の開始、ビキニ環礁を含む原水爆実験場となったマーシャル群島の被曝状況、核実験などでの全世界における被曝者の状況などが、わかりやすくまとめられている。

第五福竜丸展示館のメイン展示(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸展示館のメイン展示(2011年12月7日撮影)

船首部分も外形は残っている。この船首部分から階段を上って、甲板部分をみることができる。

第五福竜丸船首(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸船首(2011年12月7日撮影)

甲板部分はそれほど広くはない。前部マストには帆が装備されていたようである。1954年3月1日、この甲板に死の灰が降下したのだ。

第五福竜丸前部甲板(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸前部甲板(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸ブリッジ(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸ブリッジ(2011年12月7日撮影)

この第五福竜丸展示館の船尾と船首に近いところに、中学生らが「世界平和」を祈願しておった千羽鶴が多数つるされていた。2007年前後のものらしい。その中に「世界がいつまでも平和でありますように 宮城県石巻市立石巻小学校」というラベルをつけた千羽鶴をみつけた。たぶん、もう中学校は卒業しているだろうが、この子たち自身は無事なのだろうか。この子たちのために千羽鶴を折らざるを得なくなっている状況なのだ。

石巻中学校生徒の折った千羽鶴(2011年12月7日撮影)

石巻中学校生徒の折った千羽鶴(2011年12月7日撮影)

さて、外にも展示物はある。まず、第五福竜丸のエンジン部分が展示されている。このエンジンは、1967年に廃船となった第五福竜丸から取り外されて第三千代川丸という船につけられたのだが、翌年この船が座礁・沈没し、海中に沈んだ。1996年にこのエンジンは引き上げられ、2000年よりこの地に展示するようになったのである。撮影した写真は、色が薄くなっているが、現物はかなり黒っぽいものである。

第五福竜丸のエンジン(2011年12月7日撮影)

第五福竜丸のエンジン(2011年12月7日撮影)

他に、展示館の外には、二つの碑が建っている。一つは、「マグロ塚」の碑である。この「マグロ塚」の碑は、1954年の第五福竜丸の被曝の際、廃棄処分となり、築地市場に埋められたマグロを供養するものである。展示版には築地市場に設置するのがふさわしいが市場が整備中(たぶん築地市場移転計画をさしているのだろう)のため、暫定的に第五福竜丸のそばに設置したと書かれている。なお、このブログでも紹介したが、築地市場にも「マグロ塚」のプレートはある。実際には、ここに設置されていたのだ。

「マグロ塚」(2011年12月7日撮影)

「マグロ塚」(2011年12月7日撮影)

さらに、被曝からほぼ半年後に死んだ久保山愛吉の記念碑もある。この記念碑には、久保山愛吉の「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という遺言が刻まれている。

久保山愛吉記念碑(2011年12月7日撮影)

久保山愛吉記念碑(2011年12月7日撮影)

この第五福竜丸展示館は、まさに第五福竜丸の被曝状況をはだにで実感できるものということができる。もし、機会があれば、一度はみてほしいと思う。展示も、前述したように、要領よくまとめられ、わかりやすい。ただ、結局のところ、原発など原子力の平和利用についての問題性にはほとんど言及されず、核兵器実験の被害と、それを食い止めるための運動が中心的に展示されているような印象がある。もちろん、それはこの館だけの問題ではない。この館の展示は、趣旨からみて、これでよいのだろう。むしろ、原発問題について、将来このような展示館が必要になっていくのではなかろうか。

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