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Posts Tagged ‘高木仁三郎’

さて、前回は1975年に原子力情報資料室が創設されたことを述べた。創設時の原子力情報資料室は、「専門家各人が資料をもちより、共通に閲覧し、必要に応じて意見交換する、一種のサロン的場」(高木『市民科学者として生きる』、岩波新書、1999年)をめざすものであったと高木は回想している。

しかし、創設まもない頃、高木は、代表であった武谷三男らと、原子力情報資料室の運営方針をめぐって論争した。やや長文になるが、ここでその経緯を紹介したい。

 

ところが、それに(原子力情報資料室…引用者注)自分の一生を賭けるつもりでいた私は、明らかに「サロン」には不満で、「全国の住民は日々にさまざまな情報を求めているのであり、また政府・電力会社の計画や原発の安全性を独立の立場から日々解析・批判していくことが社会的に求められているのではないか。これに対応するには、きちんとした専従スタッフの体制を敷くと共に、われわれ研究者自身がいわば自分たちの運動として資料室にかかわるべきではないか」と主張した。
 これに対して武谷先生は、次のように言われた。
 「科学者には科学者の役割があり、(住民)運動には運動の果すべき役割がある。君、時計をかな鎚代りにしたら壊れるだけで、時計にもかな鎚にもなりはしないよ」
 もちろん、ここでは、科学者・専門家が精密機械としての時計に、大衆的な行動の力である住民運動がかな鎚にたとえられていた。かなり強い調子で言われたので一瞬皆が固唾を呑んだ。私も少したじろいだが、恐いもの知らずの”遅れて来た人間”だった私は、
 「資料室はともかく、私個人はそういう役割人間であることを拒否したいと思います。少なくともかな鎚の心をも併せもった時計を目指したいのです。時計は駄目でもせめて、釘の役割でもよいです」。
 正確にこの通りではないが、そんな風に言った。なんとも生意気な発言だった。その場はまわりの人がとりなして終ったが、後から水戸巌さんに、「武谷先生に対しては、誰もあんな風には反論しないものだよ。ま、君は古いことを知らないから、はっきりものを言って、それはそれでよかったと思うけど」と言われた。水戸さんは武谷先生の一番若い弟子とも言える立場で、その世代以前の人にとっては、学問的にも思想的にも輝かしい業績があり指導的な地位にあった武谷先生は、深い尊敬の対象であり、軽々に反論などできない存在だった。
 武谷先生の名誉のためにも、誤解を招かないためにも付け加えて置きたいのだが、先生が私に言ったことの中には、「運動をやっているという自己満足で、専門性を鈍らせたり精進を怠ったりするなよ」という、貴重な忠言が含まれていた。その時の私にはそのように受けとめるだけのゆとりがなく、世代間の思想的違いとのみとらえて、がんばったのである。
 しかし、その後、私は常にこの時のことを頭に入れ、大見得を切った手前、ぜったいに「壊れた時計」にはなるまいと、常に心に誓って来た。その意味で、武谷先生の言葉は現実によい忠言になったと思う。
 なお、武谷先生はこのやりとりからしばらくあって後、資料室の代表を辞任したが、私との間に対立関係が生じたわけではなかった。先生は、現在に至る私の活動を評価してくれ、頻繁な行き来はないが、よい関係が続いていると私は思っている。(同書p164〜166)

武谷三男と高木仁三郎では、知識人・専門家のあり方について、大きく見解が異なっていたといえる。武谷は、自身も高木も「専門家集団」であり、彼らは直接に運動を行う存在ではなく、運動側を知識によってサポートしていくという形で意識していた。その意味で、専門家が情報を提供し、利用し、意見交換するためのものとして原子力情報資料室を武谷はとらえていた。武谷にとっては、専門家・知識人と、運動は、別々の役割を担うべきものであった。このような考えは、戦前来の知識人の自己認識といえよう。武谷の発言は、それを体現したものであった。

他方で、高木は、運動側に資料を提供することにとどめるのではなく、専門家もまた自身ものとして運動を担っていくべきであるというように考えていた。高木にとって、知識人・専門家と運動は別々の存在であってはならなかったのである。これは、まさしく、1970年代以降に生まれた、知識人のあり方についての新しい考え方であった。高木仁三郎は、単に、今日の脱原発・反原発運動の源流というだけでなく、知識人のあり方ーひいては科学・学術のあり方について、新しい考え方を提示した先覚者としても評価しなくてはならない。ここまで、高木について、延々述べてきたのは、このことを言いたいがためである。

しかし、このことは、簡単にできることではない。先ほど引用したところで高木が武谷の言葉について反省して述べているように、運動にたずさわることと、研究を深めていくということを両立することは、並大抵なことではないのだ。高木は、結局、専門家と市民という「二足のワラジ」の両立に悩んでいたことを本書で書き留めている。さまざまな活動を通じて「反原発のリーダー」として目されていく反面、身体的にも精神的にも高木は疲弊していった。一時期はうつ病になったこともあると、高木は告白している。そして、そのことを、高木は次のように述べている。

 

精神医学的なことは私には分からないが、個人的に考えると、私が鬱になった原因は、先述の「二足のワラジ」の両側に私が引き裂かれてしまって、時計としてもかな鎚としても自分が機能していないことに、ほとんど絶望的に悩まされたことにあった。そのうえに、私のこの問題意識は、まわりの誰にもうまく共有してもらえなかった。
 むしろ、原子力資料情報室の運営委員会内にも、資料室が運動側に傾斜しすぎていることに関係して、私への至極当然の批判も生まれ、それに端を発して、スタッフの役割、専門家の位置づけなど、蓄積していた意見の相違なども顕在化し、議論が錯綜した。私はついに行き詰まり、医師の助言もあって、三ヵ月近くの休暇をとった。1990年の夏頃のことであった。(同書p172〜173)

 そして、休暇中に、高木は、次のように考えるにいたったのである。

 

プルトニウムという原点に戻ろうと思った。それまでの反省として、自分の専門の間口をひろげ過ぎ、「時計」の精度が悪くなって来たことが、自分自身でよく分って自分を悩ませていたということがひとつにあった。もうひとつの反省としては、柄にもない「運動のリーダー」役を担いすぎ、しかもそれを内発的な動機というよりは、押しつけられた責任として実行しようとしすぎた。それはもう断ちきらねばならない。
 といって、もちろん、「専門家」に徹し切るつもりはなかった。一人の人間として、一市民活動家の立場は、すでに自分から取り除くことのできない身体の一部のようなものになっていた。それなら、専門家と市民、時計とかな鎚という二足のわらじをはくのではなく、やることの範囲を絞ったうえで科学者=活動家といった地平で仕事をすることも可能ではないか。いや、そこにしか自分が今後生きていく道はないのではないか。それまでは、ディレンマとしかとらえられなかった問題も、妙な肩の力みを除いてみると、案外止揚できるかもしれない。それだけの失敗の経験と苦しみは味わってきたのではないか。
 そう思うと、妙に気が楽になって、立ち直れるのではないかと思えて来た。
 そして、自分の営みが、基本的には市民の目の高さからの科学、すなわち「市民の科学」を目指すことであり、資料室は、市民の科学の機関であると位置づけることが、ごく自然のように思えて来た。(同書p174〜175)

まさに、「市民の科学」をめざすこと、これが、科学者と市民という「二足のワラジ」の矛盾に苦闘した高木の回答であったといえよう。ある意味では、先行する武谷三男から投げかけられた問いを、高木は、このように解こうとしたのであったのである。

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さて、前回のブログで、1969年に東京都立大学助教授に赴任した高木仁三郎が、「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」(宮沢賢治)をめざして、大学をやめようと考えるにいたったことを述べた。高木は、西ドイツのマックス・プランク核物理学研究所に留学し、東大原子核研究所時代以来抱いていた研究テーマをまとめた。そして、1973年に、慰留をうけながらも東京都立大学をやめた。高木は、その時の思いを、『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年)で、次のように回想している。

大学や企業のシステムのひきずる利害性を離れ、市民の中に入りこんで、エスタブリッシュメントから独立した一市民として「自前(市民)の科学」をする、というのが私の意向だった(同書134頁)

もちろん、生活を維持することには苦労していたと高木は回想している。雑誌『科学』(岩波書店)の科学時事欄執筆を匿名で担当する、他の雑誌に原稿を書く、翻訳に従事するなどで、ようやく生計を立てていた。ただ、『科学』については、後に「市民の科学」のための基礎知識を得たり、世界全体の科学技術を鳥瞰することに役立ったと高木は述べている。

しかし、アウトサイダーになった高木は、次のような苦労もしたのである。

 

今のようにインターネットなどなかった時代のことで、文献資料を得るのには苦労した。都立大学の図書館を利用させてもらおうと思い、知り合いの教授を紹介者として立て、図書館利用を正式に申しこんだが、「部外者には認めていない」とあっさり断られた。今だったら大学も市民に対してこんなに閉鎖的ではやっていけないと思うが、いったんアウトサイダーの刻印を押された人間には、大学・諸研究機関は、なべてこんな調子で、歯ぎしりさせられることが多かった。それにしても、私の心の中には、未だにこの都立大学の態度には一種の屈辱感が残っていて、その後、自分のことを「元都立大学助教授」と書かれる度に恥しい思いがした。(同書p138)

ただ、高木は「しかし、一方的に孤独感に悩まされる、という感じではなかった。そこには、内側にいたのでは見えなかった世界のひろがりがあった」(同書p138)と書き留めている。三里塚通いも続き、平和や環境問題に関する市民運動との交流も広がった。三里塚では、有機農法によって1反あまりの田づくりを行った。このことは、放射能の実験ではなく米づくりをしながら考えるという意味で新鮮な経験になり、後年エコロジストに傾斜する原点にもなったと高木は述べている。

そんな中、当時大阪大学に勤務しており、四国電力伊方原発差し止め行政訴訟の住民側特別補佐人になっていた久米三四郎より、1974年、高木仁三郎に、プルトニウム問題に取り組んでくれないかという要請がなされた。高木は、プルトニウム問題については前から思い入れをもっていたが、久米は、そのことは知らなかっただろうと、高木は推察している。久米の意図については、1970年代前半、原発建設がさかんになり、そのことで原発反対運動もさかんになっていたとして、次のように述べている。

人々は、電力会社や政府の宣伝とは別の、独立した情報を求めていたが、その助けになるような研究者・専門家が決定的に不足していた。そういう状況下で、一人でも仲間を増やしたい。そういう気持ちで久米さんは私の所にやって来たのだと思う。(同書p141)

この時の高木の対応は、複雑なものであった。次のように回想されている。

 

その場では、私は返事を留保した。私はそれまでの間、専門性と市民性という問題に悩んでいた。先述のように、連れ合いのハリ(中田久仁子、後、高木久仁子…引用者注)とも常に議論があり、市民側・住民側の立場から運動に参加するにしても、できたら原子力分野の専門家として再登場するという形でなく、一市民として参加できたらよいなと思っていた。いずれ原子力問題は避けて通れない思っていたが、その参加の仕方、私の志向する”市民の科学”へのアプローチが見えて来なかったためだ。
 だが、結局、私は久米さんの要請にある程度応える形で、限定的ながら、プルトニウム問題に取り組むことにした。なんといってもプルトニウムは、私のスタートとなった特別な物質であったし、シーボーグ(プルトニウムの発見者…引用者注)に魅せられたとともに、一抹の違和感を彼の本に抱いたことは、第3章で触れた。その違和感を、もっと踏みこんで解明してみようと思った。(同書p142)

高木自身は、この時点で、専門家というよりも、一市民として、運動に参加したいと考えており、それが上記のような複雑な対応をとらせたといえよう。科学者ー専門家としてふるまうこと、一市民運動家としてふるまうこと、この二つの志向は、高木の後半生を支配したモティーフだったといえる。

そして、高木は、プルトニウムの毒性(発がん性)の研究をはじめ、すでにプルトニウムの毒性の大きさを指摘していたタンプリンとコクランの説を高木なりに評価した「プルトニウム毒性の考察」を『科学』1975年5月号に掲載した。高木はプルトニウム論争に巻き込まれ、テレビの論争にも”批判派”として登場するようになった。

さらに、高木は、プルトニウムに関する多面的な問題(安全面、社会面、経済性、高速増殖炉計画など)を議論する「プルトニウム研究会」を組織した。この時の検討をもとにして、原子力に関する初めての本である『プルートーンの火』(現代教養文庫、1976年)を書いた。

すでに、1974年末には、高木は反原発の東京の市民運動の集まりにも顔を出すようになったと回想している。高木によると、当時の日本の反原発運動は原発立地予定地の住民運動を中心としていたが、「ようやくにして東京のような都会でも、原発問題を自分たちの問題としてとらえようとする市民運動がスタートしつつあった時で、運よくほとんどその初期から参加することができた」(同書p147)と述べている。

この当時、原発立地予定地の住民運動に協力して活発に活動していた専門家として、久米の他、武谷三男、小野周、水戸巌、市川定夫や、藤本陽一などの原子力安全問題研究会、全国原子力科学技術問題研究会を高木はあげている。高木は「それらの人々に比べたら、私はずい分、”遅れてやって来た反原発派”だった。」(同書p147)と述べている。

1975年8月24〜26日には、京都で日本初めての反原発全国集会が開かれた。この集会は、女川、柏崎、熊野、浜坂、伊方、川内など、原発計画に反対する住民運動団体が中心的に準備していたと高木は述べている。この全国集会に呼応して、前記の専門家の間にも、共通の資料室的な場をもとうという動きが起こってきた。この動きを強く押し進めたのは、反原発運動に取り組んでいた原水禁国民会議であり、その事務局の一部を提供してくれることになった。ここで、原子力情報資料室が誕生したのである。このことについて、高木は、次のように述べている。

…1975年の夏までに何回か話し合いがあり、結局武谷三男氏を代表とし、浪人的存在であった私が専従(ただし無給!)的役割(一応世話人という名称で)を担うことを了承して、その司町のビル(原水禁国民会議事務局が所在した神田司町のビル…引用者注)の五階で、原子力資料情報室は9月にスタートすることになった。…とりあえずの合意としては、「全国センター」的なものとして気張るのではなく、文字通りの資料室=資料の置き場とそこに集まってくる研究者たちの討論や交流の場(ある種サロン的なもの)とするということでスタートした。(同書p148〜149)

この原子力情報資料室創設時、基本的には高木が一人で運営していた。高木は、無給で電話の応対、資料の収集・整理、自身の学習に従事していた。当時の資料室は財政困難であり、彼自身の生活のためだけでなく、資料室のためにも稼がなくてはならなかったと語っている。高木は、創設時の原子力情報資料室は会費(会員40人程度)と原水禁からの若干の支援によって財政的に支えられていたが、原水禁から一定の独立性を保ちたいという会員の意向もあって原水禁からの支援は限定的なものであったと述べている。

しかし、高木は、この原子力情報資料室に「全人生」をかけていた。

 

ところが、私はなにしろ、資料室にかかわることを決めた時点で、そこに全精力、おおげさでなく全人生をかけ、そこをわが「羅須地人協会」にするという気持になっていたから、設立の趣旨を越えて走り出し、それがフライング気味だったことは、否定すべくもないだろう。(同書p150)

高木にとって、原子力情報資料室は、いうなれば宮沢賢治の「羅須地人協会」を継承するものーいや「羅須地人協会」そのものであったのである。そのような高木の思いと行動が、原子力情報資料室自体のあり方を決定づけていくことになったのである。

 

 

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さて、前回は、高木仁三郎が、日本原子力事業株式会社や東大原子核研究所で科学者として経験を積む過程の中で、原水爆実験などにより広範に放射能汚染が存在している現実にふれ、そのことより、それを推進したり回避したりすることによって進められていく「科学者」の立場性に懐疑をもったことを述べた。

高木仁三郎が、科学者の立場性に強く懐疑をもつようになったのは、1960年代後半であった。1960年代後半は、いわゆる「学生反乱」の時期であった。高木は、前回のブログで紹介した『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年)において、「全国いや全世界的な現象として起こった学生反乱は、より本質的な問題、『大学とは何か』『科学とは何か』『科学者は何をすべきか』を鋭く問いかけていた。その問いは、多分に未消化で、生硬なものだったが、そうであるだけに一層、心臓にささった棘のように未解決のままに私の胸を痛めた」(本書p109)と回想している。

そして、彼は、自身の根本的転換を求めて、乞われるままに、学生反乱中の東京都立大学理学部に助教授として1969年に赴任した。

そこで、まず、遭遇したものは、ある意味では企業とも類似した大学教員たちの共同体的意識であった。高木は、それを「暗黙のうちにある種の家族共同体的集団に共通の利害が形成され、それを守ることが自明の前提になる」(本書p115)と指摘している。この共同体的意識は「大学自治を守れ」「学問の自由を守れ」などと表現され、「大学解体」を唱える全共闘系の学生に対しても、彼らの活動を口実に大学の介入してくる警察権力に対しても使われるが、「守られるべき大学の自治とは何か」「守られるべき学問とは何か」という問いを発したとたんに、アウトサイダーとして共同性の外にはじかれてしまうものであったと高木は述べている。そして、高木は、いつのまにか「造反教員」のレッテルをはられてしまうようになった。

そんな中、高木は、何をなすべきかということを模索して、さまざまな社会運動に参加した。特に衝撃を受けたのは、成田空港建設反対した地元農民の運動である三里塚闘争であった。彼は、反対農民の土地を強制収用する成田市駒井野での第一次強制代執行について、このように回想している。

 

それは、きわめて可視的な構造であった。かあーっと巨大な口をあけて迫るブルトーザーは国家権力そのもので、その下に体ひとつで抵抗しながら自分の耕す土地にしがみつこうとする農民がいる。そして、それをなすすべもなく見つめる自分がいる。自分はどっちの側にいるのだろうか。心情的には農民の側にいるが、実際には明らかに自分は巨大システムの側にポストを占めているのではないか。(本書p113)

さらに、高木は、このように述べている。

 

ここにおいて、私は自分のとるべき立場がはっきりして来たように思った。しかし、果して、自分の「学問」は彼ら民衆にとって何ものかでありうるだろうか。私の脳裡に、かの崩されゆく北総台地の光景が、いわば第二の原風景ともいうべき形で焼きついている。鎖で体を木に縛ったり、地下壕に籠ったりする農民の抵抗は、異議申立てとしては正しい。そこには大義がある。しかし、これを永遠に持続していくことはできないのではないか。これを持続させ、農民が百姓として生き続けられるようにするためには、農民が大地の上に生き続けることが、緑野を破壊して空港をつくることより大事なことを、大義として理性的にも社会に認めさせる必要があるだろう。それこそ、自分のような立場の人間の行う作業なのではないか。(本書p119)

ここで、高木は「農民が百姓として生き続けられるようにするためには、農民が大地の上に生き続けることが、緑野を破壊して空港をつくることより大事なことを、大義として理性的にも社会に認めさせる必要があるだろう」ことを自分の課題として考えるようになったのである。

その時、出会ったのが、宮沢賢治であった。高木は、もちろん宮沢賢治を少年時代に読んでいたが、特別な感慨はなく、「雨ニモマケズ」の冒頭部分にストイックな道徳主義を感じて辟易していたと書き留めている。しかし、都立大学の同僚で詩人の菅谷規矩雄に薦められて、宮沢賢治を読み、次の言葉に出会った。

 

われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか(「集会案内」〔羅須地人協会関係綴〕 『校本宮沢賢治全集』第十二巻下p168)

高木は、「この言葉に出会った衝撃といったらなかった。これこそ、私自身が今直面している問題そのものではないか」(本書p120)と述べている。

ここで、この「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」という言葉が、どんな状況で発話されたかをみておこう。周知の通り、宮沢賢治は花巻農学校の教師をしていたのだが、1926年に辞任し、自ら耕作しながら農民に教え、共に学ぼうとして羅須地人協会を設立した。その羅須地人協会の集会案内の中に、この言葉は出てくるのである。この言葉は、宮沢賢治が農民に対して行った講義の演題であったのである。

この言葉に出会ってから、高木は宮沢賢治に傾倒していき、『宮沢賢治をめぐる冒険』という著書まで書いている(残念ながら未見)。

そして、宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』に仮託して、次のように高木は述べている。

宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美を創らねばならぬ

職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である。

 私はこれらの文章の芸術を科学に、職業芸術家を職業科学者に、美を真におきかえて、わがこととして読んだ。極端な理想主義と言えばそれまでだが、今、自分もまた、理想主義に徹するしかないのではないか。「職業科学者は一度は亡びねばならぬ」、と。(本書p122〜123)

周知のように、宮沢賢治の羅須地人協会は、特別な成果もなく終わった。しかし、高木は、宮沢の企図は失敗とか成功とかで論じるべきではないとしている。高木は「彼はとにかく農民の中に入り、その眼の高さから、芸術を、科学を実践しようとした…つまり農民と感性を共有するところから始めるしかないと考えた。それ以外のあり方は、ありえないというのが彼の決意だっただろう。」(本書p123〜124)と評価している。

その上で、高木は、次のように決意した。

 

私に言わせれば羅須地人協会は、ひとつの実験、自らの人生をまるごと賭けての「実験」だったと思う。実験ならば、失敗は当然のことで、むしろその失敗こそ、次に引き継がれて豊かな稔りの種ともなるだろう。実験とはそういうものだ。
 実験科学者である私は、私もまた象牙の塔の実験室の中ではなく、自らの社会的生活そのものを実験室とし、放射能の前にオロオロする漁民や、ブルトーザーの前にナミダヲナガす農民の不安を共有するところから出発するしかないだろう。大学を出よう、そう私は心に決めた。(本書p124)

前回のブログで述べてきたように、自らの課題でいえば放射能汚染の問題に触発されて科学者の「立場性」を懐疑するようになった高木は、学生反乱に直面して企業と同様に自己の組織の共同性を守ることに終始した大学教員たちにふれて、いよいよ科学者の立場性を強く批判するようになったといえよう。

しかし、それでは、どのように意味で科学が必要なのか。それを教えてくれたのが三里塚の農民であったといえる。「農民が百姓として生き続けられるようにするためには、農民が大地の上に生き続けることが、緑野を破壊して空港をつくることより大事なことを、大義として理性的にも社会に認めさせる必要があるだろう」ことこそが、高木のような立場の人間が行うべきこととして示されたといえる。

そして、宮沢は「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」という課題において、「どんな方法で」というところについても高木に啓示を与えたといってよいであろう。この言葉は、単に字面だけではなく、羅須地人協会という宮沢の実践の中で発話されたということも高木に衝撃を与えたのではないかと考えられる。高木自身の実践のモデルとして、宮沢の羅須地人協会が意識されることになったといえよう。三里塚農民と宮沢賢治との出会いが、科学批判だけでなく、よりポジティブな形でオルタナティブな科学のあり方を模索するようになったと考えられる。

 そして、高木仁三郎は、大学をやめて、原子力資料情報室を運営していく。高木は、原子力資料情報室を、彼自身にとっての羅須地人協会であると述べている。このことについては、次回以降述べていきたい。

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今でも「脱原発運動」の中心にいる原子力情報資料室をたちあげ、『プルトニウムの恐怖』などを著して、反原発運動を担ってきた高木仁三郎(1938〜2000年)の自叙伝ともいうべき『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年)を、遅ればせながら、初めて読んだ。本書は、がんと闘病しつつ、病床で執筆したものであり、高木の遺書ともいうべき本といえる。

この本は非常に興味深く、3.11以後の私自身の生き方にも参考になったところが多かった。

高木仁三郎がその人生において求めたものをひと言で言えば、「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」(宮沢賢治)ということであるといえる。このことに目覚めていった過程について、このブログで検討して行きたい。

高木は、東大理学部化学科を1961年に卒業し(在学中に1960年安保闘争に参加していることも回想している)、研究用原子炉を建設していた日本原子力事業株式会社(後に東芝に吸収される)に就職し、二酸化ウランなどの挙動などの研究を行った。この際には、多少の放射線被ばくは恐れないような研究ぶりで、プルトニウムの研究に魅力を感じていたりしていた。高木は、「原子力是非論については、私は逃げていて、態度を留保していた」(本書p92)と回想している。しかしながら、会社側からは、「これ以上この仕事はやらないでよい」「君はこの結果を発表して目立ちたがっているのではないか」「君の仕事は会社向きではないか」(本書p85)と言われてしまうにいたった。

会社の中で孤立と疎外を味わった高木は、1965年、東大の原子核研究所の助手に転職した。そこで、彼は「研究者の論理」にのめりこんでいったと回想している。

しかし、皮肉なことに、この「研究」を通じて、現実の世界がいかに放射能にまみれているかということを高木は見出すことになった。高木らの研究は、宇宙線μ中間子と地球物質との反応をみる(詳細は、本書を参照)というものなのだが、この研究においては、天然の放射線を遮蔽することが必要であった。その遮蔽物としては鉄が用いられたのだが、その鉄自体が放射能で汚染されていたのである。その源は、ほぼ二つであった。まず、原水爆実験の死の灰に含まれているセシウム137が汚染原であった。また、多くは製鉄時の溶鉱炉の液面計に由来するとされたコバルト60も、放射能汚染の原因であった。高木は、日常生活には差し障りがない程度であるが、研究には支障を来したという。高木は、ショックを受けた。結局、この場合は、放射能汚染のない時代に製造され沈没させられた戦艦陸奥からサルページされた鉄を、コバルト60の液面計のない町工場で鋳直して使ったという。このこと自身、まるで、「風の谷のナウシカ」のような話である。最早、日本において、放射能汚染のない鉄は作れず、昔の沈没された戦艦からサルページすることによってしか放射能汚染のない鉄を調達できなかったのである。

このような状況においても、放射能問題を正面から向き合うことを回避したと高木はいう。その理由として「研究者の論理」をあげている。

そんななかでは、とにかく論文を書いて業績を上げることが求められた。私も典型的なそんな研究者の論理にはまっていた…これは典型的な研究(者)の論理で、何が重要かよりも、何をやったら論文が書けるか、という方向にどんどん流されていく。研究者はすなわち論文生産者となる。私もいったん、完全にこの研究の論理にはまりこんだ。
(中略)
このようなところから、ほんとうに独創的なよい仕事が生まれるので、いちがいに否定すべきではないが、多くの場合、この中毒症状によって、研究者は、研究が研究を呼ぶ世界にはまりこみ、何のための科学か、とか、今ほんとうに人々に求められているのは何か、ということの省察からどんどん離れてしまうのである。(本書p102〜103)

しかし、それでも、研究を続け、海や山での各地の放射能の計測を続けると、いかに広範な範囲で、原水爆実験の死の灰によって、各地が汚染されていたことに気づかざるを得なかったと高木は述べている。

「許容量よりはるかに下のレベルですから大丈夫」と説明するが、「許容量」という概念からして、必ずしも人々に説得力がない。海や山は、地球そのものであるとともに、人々や生物たちの生きる場である。このまま、核軍備がエスカレートし、原子力産業が拡大していったら、汚染はどこまで進むのか。そもそも、宇宙や地球の歴史を研究対象とする研究者が、人類自身が起こしつつある放射能汚染の歴史に鈍感であってよいのか。
 「許容量以下…」の説明を人々にしていて、いったい自分はいつから国家官僚の手先になり下がったのか、とつくづく思った。東大助手も国家公務員だから、人々がそう見るのも当然である。(本書p106)

そして、水俣病・四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの公害事件の報道に接するようになった。そのことについて、彼は、こういっている。

 

しかし、私はその頃、問題は他人事であり得ないと思うようになっていた。イタイイタイ病=風土病説などをさしたる科学的根拠もなく唱えて、企業に擁護した著名な科学者のことを聞くと、強い憤りを覚える。この点は、多くの科学者もそうだろう。しかし、自分のこととなるとどうか。
 私自身、放射能汚染がからむような公害問題が生じた時、それと正面から向き合えるだろうか。いや、すでにお前は、一貫して放射能に関する社会的問題の場から身を遠ざけようとして、基礎研究とか論文生産の論理に逃げこんでしまったのではないか。そう自省した時、科学者であることによってかかえる利害性を無自覚にすでに自分がかかえてしまっていることに気づかざるを得なかった。科学者集団への帰属を受け入れ、その利害の立場に立っていたとしたら、自分が原体験に基づいて、あくまで自立した個の立場を貫こうと立てた志は、いったいどこへ行ってしまったのか。(本書p108〜109)

いわば、自身が直面した広範な放射能汚染、そして、いわば科学の「結果」として公害問題、これらのことに直面して、高木は、科学者の立場性を自覚せざるを得なくなったといえる。一見、中立的にみえる科学者集団のなかの「論文生産」の論理、それは、実際に直面していた環境における放射能汚染の問題を回避することによって成立していたのだと、高木は自己を含めた科学者一般を批判しているのである。前述した宮沢の言葉を借りていえば、こんなことは「われわれに必要な科学」ではないのである。

高木は、科学者ー自然科学研究者を中心として語っていると思うが、このようなことは、社会科学・人文科学研究者にもあてはまることだといえる。

そして、高木仁三郎は、1969年、東京都立大学にうつる。そこで、彼は、学生反乱にたいして闇雲に「大学人の共同性」を守ろうとする大学教員たち、三里塚で闘う農民たち、そして「宮沢賢治」に出会うことになる。

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