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本日9月18日は、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の記念日である。まるで、この日にあわせたかのように、尖閣諸島の帰属をめぐって、日中両国が対抗しあっているとする報道がなされている。

ここでは、現状ではなく、その前提となる尖閣諸島帰属の経緯を整理して検討しておこう。

その際、「尖閣諸島の領有をめぐる論点ー日中両国の見解を中心に」(国立国会図書館『調査と情報』565号、2007年)を中心にみていくことしたい。なお、本論は、立場上、日本政府側からみたまとめであるといえる。ここでは、まとめとして利便なものであるので活用したが、本論と私の見解は一致するものではない。(http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0565.pdf参照)

まず、「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、「1968(昭和43)年の、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)による学術調査の結果、東シナ海の大陸棚に豊富な石油資源が埋蔵されている可能性が指摘され、にわかに注目を集めるようになった。1970 年代に入ると、中国は同諸島に対する領有権を主張し始めた」としている。ただ、いつから中国が領有権を主張したのかといえば、「中華人民共和国政府外交部声明(1971年12月30日)」からとしている。実は、沖縄返還協定が1971年6月17日に調印され、翌年5月15日に発効した。背景には埋蔵資源問題があるかもしれないが、沖縄返還協定によって沖縄の復帰が確定的になったタイミングで尖閣諸島問題が主張されたともみることができる。

さて、その上で、「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、「日本政府が尖閣諸島に対する領有権の根拠としているのは、先占である。」として、「先占とは、国家が、無主地、すなわちいずれの国家領域にも属していない地域を、領有意思をもって実効的に占有することをいう。」と述べている。尖閣諸島は「無主地」であったという主張なのである。

 そして、中国側が尖閣諸島が明清期から自国に帰属する典拠としてあげている文献については、島名などをあげているだけのものであるとする。なお、興味深いことは、地理的に近接している琉球王国に帰属するものとすらみていないのである。本書は、このようにいっている。

中国は、1879 年の琉球の帰属に関する日清交渉において、琉球国の版図、いわゆる琉球36 島に尖閣諸島が含まれていないことを、日清双方が認めているという。
琉球 36 島は、人居の地であることと、首里王庁への貢納義務を負っていることが条件であり、これらの条件を満たした島嶼のみが王府領と明記された28。確かに、このような条件を満たしていない尖閣諸島は、琉球 36 島に含まれていなかった。しかし、同諸島が、明・清代の福建省、あるいは台湾省の行政範囲にも含まれていなかったのは、先述の通りであって、琉球 36 島に含まれていないことが、直ちに尖閣諸島の中国への帰属を意味するものではない。

考えてみれば、前近代において、「国境線」は存在せず、人々が居住したり利用したりする場所のみが「領有」できたといえるのである。その意味で、これは当たり前のことではある。ただ、一つ考えなければならないのは、それでも、琉球ー沖縄が日本に帰属しなければ、尖閣諸島の領有もなかったとはいえるだろう。そして、この指摘は、ある意味で、前近代の琉球王国の主体性を、明・清とともに否定していると解することができる。

さて、近代に入っての尖閣諸島の帰属問題をみていこう。これは、日本近代史では周知のことであるが、琉球王国は「両属の国」といわれ、明・清の朝貢国として、広い意味で中国帝国に帰属していたが、1609年に薩摩藩により征服され、それ以来、日本の幕藩制秩序にとりこまれた存在であった。しかし、1879年、日本政府は、強制的に琉球王国を廃止して沖縄県を置くという琉球処分を実施し、琉球ー沖縄を日本に編入したのである。

「尖閣諸島をめぐる論点」では、琉球処分後、日本政府公認の地図に琉球諸島に含めた形で尖閣諸島が描かれていることをさして、「領有意思」を持ち始めたとしている。

日本が尖閣諸島に対して領有の意思を持ち始めたのは、1879(明治 12)年の琉球処分の頃と思われる。この年に発行された『大日本全図』、及び同年発行の英文の『大日本全図』で、尖閣諸島は琉球諸島に含められている。これら 2 つの地図は、いずれも私人が作成し、内務省の版権免許を得て刊行された。
内務省地理局によって刊行されたものでは、1879(明治 12)年の『大日本府県管轄図』が、尖閣諸島を琉球諸島の中に含め、1881(明治 14)年の『大日本府県分割図』が、「沖縄県図」の中に、島の名は記さず、その形だけで、尖閣諸島を示している。内務省作成の地図において、尖閣諸島が日本の版図に含まれていることは、同諸島に対する日本の領有意思を示すものと言えよう。

 ただ、この見解は、非常に大きな問題を欠落させている。1879年の琉球処分後、旧琉球士族たちは強制的な日本への編入に反対し、清国も琉球ー沖縄を日本に編入したことに抗議し、その帰属をめぐって外交交渉を開始したのである。具体的な経緯は省略するが、翌1880年、日本は、通商条約である日清修好条規に「最恵国待遇」条項を追加させることとひきかえに、先島(宮古・八重山諸島)を清国に割譲することとした。清国側も一時合意したが、当時の有力者李鴻章の反対で、合意には至らなかったという。合意しなかったということは、琉球ー沖縄全体を帰属させることを清国はあきらめていなかったということになる。そして、その後も旧琉球士族たちの多くは清国帰属を希望していたといわれている。つまり、この段階では、尖閣諸島はおろか、琉球ー沖縄全体の帰属が、日清間の問題であったといえるのである。

そして、「尖閣諸島をめぐる論点」では、先島割譲案にはふれることのないまま、次のように論じている。

1885(明治 18)年、沖縄県令は、尖閣諸島の実地調査にあたり、国標建立について指揮を仰ぎたいとの上申書を山県有朋内務卿に提出した。内務卿は、これらの諸島が清国に属している証拠が見当たらず、沖縄県が所轄する宮古島や八重山島に接近した無人島嶼であるので、国標の建立は差し支えないとして、「無人島久米赤島他外二島ニ国標建立ノ件」を太政官会議に提出するための上申案をまとめた。続いて同年 10 月 9 日には、井上馨外務卿と協議し、その意見を求めた。10 月 21 日の外務卿の回答は次のような内容である。これらの島嶼は、清国国境にも近い小島嶼である。また、清国はその島名もつけていて、清国の新聞に、我が政府が台湾付近の清国領の島嶼を占拠したなどの風説を掲載して、我が政府に猜疑を抱き、しきりに清国政府の注意を促す者もいる。ついては、「公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ、清国ノ疑惑ヲ招キ候間、…(中略)…国標ヲ建テ開拓ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方可然存候。」この回答を受けた内務卿は、国標建設の件を太政官会議に上申するのを見送った。上記の井上外務卿の見解は、尖閣諸島が清国に属することを認める趣旨であろうか。これについては、当時小国であった日本の、大国清に対する外交上の配慮であり、朝鮮問題及び琉球処分という重大問題が介在する中、このような小さな問題で、今清国と事を構えるのは得策ではないという、外務省としては当然の発想であると指摘されている。

つまり、沖縄県令と山県有朋内務卿は、尖閣諸島を調査するにあたり、日本帰属を示す「国標」を立てることを望んだが、井上馨外務卿は、清国側は尖閣諸島には島名もつけていて、清国側の疑惑をまねきかねないから、国標を立てて本格的に開拓するのは控えるべきであるとしたのである。すでに述べたように、1879年の琉球処分以来、琉球ー沖縄全体の帰属問題が日清間の懸案事項であった。とりあえず、日本側が実効支配しているといえるのだが、それは、清国側の意向次第であったといえる。「尖閣諸島の領有をめぐる論点」でも、「なお、継続的な「現実の支配」に対する、他国、特に他方の係争国が与える承認や黙認は、その平穏性を示すことから、極めて重要なものと評価される」としている。

その後、尖閣諸島を本格的に開拓したいという希望者が出たが、許されなかったのである。

この状況を打破したのが、1894〜1895年の日清戦争であった。日清戦争の主要目的は、朝鮮に対する支配権を日清のどちらがもつかということであり、主要な戦場は朝鮮から中国北部であった。しかし、副次的には、台湾などの中国南部への進出もはかられ、日本は台湾に属する澎湖諸島を攻撃するとともに、1895年の下関講和条約では、遼東半島とともに台湾を清国から割譲させた。同年の三国干渉によって、遼東半島は返還せざるをえなかったが、台湾は日本の植民地として確定することになった。

そのさなか、尖閣諸島に標杭が立つことになった。「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、次のように述べている。

1894(明治 27)年 8 月 1 日、日清戦争が開戦し、その年末には勝敗がほぼ決定していた。そのような情勢下にあった 12 月 27 日、野村靖内務大臣は、1885(明治 18)年当時とは事情が異なるとして、「久場島及び魚釣島へ所轄標杭建設の件」の閣議提出について、陸奥宗光外務大臣の意見を求めた。翌 1895(明治 28)年 1 月 11 日、外務大臣は、外務省としては別段異議がない旨回答した。かくして本件は、1895(明治 28)年 1 月 14 日の閣議に提出され、沖縄県知事の上申通り、「久場島及び魚釣島」を同県所轄とし、標杭建設を許可する閣議決定がなされた。1 月 21 日には、内務、外務両大臣連名で、沖縄県知事に上申中の標杭建設を聞き届けるとの指令を出した。

これが、尖閣諸島が日本に帰属した経緯である。日清戦争まで、日本は清国との間で、琉球ー沖縄の帰属問題をかかえていた。日清戦争の結果、ある意味では、戦争の脅威によって、清国との合意なしに、琉球ー沖縄の帰属問題は決着した。その後は、台湾の帰属が問題になっていく。尖閣諸島の日本帰属は、その一連の問題として考えなくてはならない。日清戦争以前は、清国の意向により「国標」を立てるという領有意思のあからさまな宣言は差し控えられた。日清戦争によって、尖閣諸島のあからさまな領有宣言は可能となったのである。

しかし、「尖閣諸島の領有をめぐる論点」は、この日清戦争における下関講和条約やその経過で尖閣諸島のことは取り上げられた形跡がないといっている。まず、中国側の主張を「中国は、中日甲午戦争(日清戦争)を通じて、日本が尖閣諸島をかすめとり、さらに清朝政府に圧力をかけて、1895 年 4 月に馬関条約(下関条約)に調印させ、台湾とそのすべての付属島嶼及び澎湖列島を割譲させたと主張している」としている。その上で、

講和条約締結に向けた談判中、清国は、日本からの台湾、澎湖諸島の割譲要求に対しては、強く反対の立場を主張していたが、尖閣諸島の地位については何ら問題にしなかった。
もし、清国が尖閣諸島を自国領と認識していたならば、台湾や澎湖諸島と同様、尖閣諸島の割譲についても異を唱えていたのではないだろうか。この点、中国側の主張を支持する立場には、敗戦国である清国に、けし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとりはなかったのであろう、との見解もある。しかし、これに対しては、国際法的な抗議は、戦争の勝敗とは無関係であり、戦争中でも、日清講和条約の交渉過程においても、また、その後でも、中国が同諸島を自国領土として認識していたならば、当然に抗議その他何らかの措置をとるべきであった、と反論される。(中略)以上のことから、尖閣諸島は、下関条約第 2 条に基づき接受された「台湾及其ノ附属諸島嶼」には、含まれていなかったと考えられる。

このことがなぜ重要になるかといえば、1951年のサンフランシスコ講和条約では、台湾および澎湖諸島を日本は放棄することになっていたからである。確かに、下関講和条約では尖閣諸島について議論されていないとする「尖閣諸島の領有をめぐる論点」の主張は、文面上ではある種の正当性をもつともいえる。しかし、尖閣諸島もふくめた琉球ー沖縄全体の帰属問題自体が日清間の懸案事項であったのであり、それは日清戦争の中で暴力的に解決させられたといえる。その意味で、尖閣諸島は、中国人からみるならば、日清戦争で日本が獲得した領土として意識されることになると思われる。

このように、尖閣諸島の問題は複雑である。たぶんに日本政府側の観点からまとめたものと思われる「尖閣諸島の領有をめぐる論点」を読んでも、さまざま矛盾した論点が見出しうるのである。今言えることは、この問題は、日清戦争を契機とした日本のアジア侵略をどうとらえるかということを背景にしているということである。さらに、ある意味で主体性を否定されてきた、近隣の先島住民や、場合によっては台湾住民の意思はどういうものであるかということも問われなくてはならないと思うのである。

*なお「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、日清戦争後の尖閣諸島の開拓やアメリカ統治下の状況についても簡便にまとめているということをここで付記しておく。

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