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Archive for 2011年7月

さて、今回は、前回予告しておいた女川町市街地を対象として2011年5月27日に行われた女川町復興計画公聴会の景況をみておこう。この日の午前中には、前述のように女川町復興連絡協議会会員に対する公聴会が開かれた。そして、午後1~3時に、女川第二小学校において、女川・清水・宮ヶ崎・石浜地区(市街地北側)を対象とした公聴会が開かれた。ついで、午後4~6時に、女川高校において、鷲神・小乗・浦宿・出島地区を対象とした公聴会が開催された。鷲神・小乗は市街地南側、浦宿は万石浦側の集落、出島は離島部にある。

まず、市街地北側を対象とした公聴会の景況からみていこう。安住宣孝町長は、一日も早い復興が望まれるが、これほどの災害では復興に時間がかかることも承知されたい、自分の財産を捨てても町づくりに協力してもらう場面もあるが、生存権を生かされる新しい町づくりが必要であると述べた。その上で、以下のように主張した。

復興には大金がかかる。全国の皆さんも、今は熱い思いを持っており、どのような計画を立ててれば国民の皆さんの目を向けさせることができるかを考えている。今回の復興計画案は、あくまでも「たたき台」であり、結論を出している訳ではない。皆さんのご意見を聞かせていただくとともに、委員を信頼して欲しい。現状から少しでも脱却するために、閉鎖的な感情で考えられては困る。プランが国、県に信頼され、次の世代が期待を持てるような計画の姿を出したい。

さらに、町長は、半島部の公聴会では浜単位で居住地を確保してほしいという意見が出ているが、人口減少・高齢化が進んでいる状態では、行政サービス・コミュニティの問題が出てくると述べた。その上で、今回は町中心部の話をするとした。

町長は、復興には金がかかるので、国民総体が注目し、国や県に信頼されるようなプランが必要であると論じているのである。その意味では、そもそも、女川町独自の復興ではないのであり、国や県の予算が要請されているのである。

さらに、女川町復興計画策定委員会会長の鈴木浩(福島大学名誉教授)は、このようにあいさつした。

日本は、原子力問題で大きく揺れているが、私は、福島県復興ビジョン委員会の座長もやっている。反原発という思いもあるが、もっと自然エネルギーを活用する必要を感じている。
今回の震災の特徴は、日本経済の低迷、政治の混迷、地域社会の空洞化、地域コミュニティ低迷の中で起きた災害である。また、地震災害、津波災害が一度に起きた問題である。
復興ビジョンの中でも避難所から仮設住宅、そして定住までの流れになるが相当の時間がかかり、皆さんがどのような健康状態、生活、仕事をしていくのかという「つなぎ」、初動体制が重要である。今日示した中間案で皆さんを操ろうとする気は毛頭無いので、多くの皆さんの意見を聞かせていただきたい。

重要なことは、ここで鈴木会長が「反原発」の意識を前提にしつつ自然エネルギーの活用を主張している点である。すでに、5月1日に提示された女川町復興方針案でも「自立型エネルギーの整備 風力発電など自立型エネルギーの整備」と記載されており、5月9日の復興計画策定委員会にだされた復興方針案での拡充された形でかかれていた。長期停電による通信機能途絶を抑止するために、電力自給をおこなおうというものであった。ある意味では、現在の電力供給体制の代替を模索しようという意識がそこに窺える。

これに対し、住民からは、まず、このような意見が出た。

①ゾーニングの話に入る前に、今の状況は、仮設住宅に入れるかどうかと言う当面の生活に関することで不安を抱いている。住宅が流され、財産は土地しかない。その財産を元手に頑張っていきたい人もいると思う。仕事が無い状況では厳しいので、計画以前に、その対応について示して欲しい。
②清水地区で水産関係の鉄工業を営んでいる。仮工場を設置して良いのか?
③清水の奥に被災した家が残っている。嵩上げ等の話もあり、家をリフォームして良いのか、新築して良いのか、女川に住みたいが住み続けられるのか、計画の前に説明が必要である。

同一人物の話かどうかわからない。ただ、仮設住宅に入居できるかいなかの不安、土地しか残っておらず、その財産をもとにしか生活再建できないという訴え、現在の生業を再開してよいかいなかの疑問、清水町に残った家をリフォームしたいなどの要望がないまぜとなっている。

町長や鈴木会長は、仮設住宅の入居期限(二年間)の延長をはたらきかけることや、漁業者の有償がれき撤去などの「つなぎ」の仕事を実施すること、仮設店舗・仮設市場の設置、移転を前提とした形での生業の再開、被災した家屋のリフォームなど、当面の問題については理解を示した。しかし、例えば、仮設住宅問題については、非常に不安であったらしく、その後も何回も質問されていた。また、集合住宅を建設してほしいという意見もだされ、町長も前向きな姿勢を示していた。

一方、住宅地の高台移転について、町長は譲らない姿勢をみせている。

復興に必要な時期は地域で異なってくるが、宮城県が10年、女川町は8年を想定している。復興には時間がかかる…個々の生活についても喫緊の課題と捉えているが、個別の生活の話だけに終止してしまうと、進んでいかない側面もあることは理解していただきたい。
…新田、日蕨(いずれも女川市街地北側の清水地区内で、山側の地域)の奥でコミュニティが形成できるのかを考える必要がある。行政として電気、水道、医療、福祉等の効率的な問題もあるため、お互い歩み寄りながら個別交渉する場面もある。現状でプレハブを建てた人がいるが、そういうことを個別に行われたのでは、行政として対応しにくい…
…土地を強制的に整理すれば「しこり」が残る。造成後は、住むところは変わるが、従前の土地の権利をそのままに、新たな土地を提供するという考えでいる。等価方式等を今後検討していく。財源の確保のためにも、国に早急にプランを示し、認めてもらわなければならない。お盆前には、復興計画を確定したいと考えている。だから急いでいる。

等価交換方式で、住宅地の高台移転を推進するということであり、現住地のプレハブ建設などは認めないというのである。

町長と地区住民の間で問題になったのは、市街地北半部にある清水町の住宅地についてである。復興計画案でははっきり書いていないのであるが、このやりとりをみると、このようなものであった。清水町は、かなり海岸線から離れたところにあるが、標高が低いので、ここも津波被害にあった。その西隣の高台に運動公園が造成されている。町長の計画によれば、この運動公園に清水町の住宅地を移転し、現在の清水町に運動公園を移すというのである。

これについて、地区住民より反対の意見が出た。以下に示しておこう。

⑩各地区に造成を行い、居住地を設置して欲しい。
⑪40億円をかけた運動場を潰すことは無い。今の地区を生かせば良い。
(中略)
⑬スポーツ施設を移転するようだが何mの嵩上げ、どのくらいの期間がかかるのか。その期間スポーツができないのか。
⑭清水地区から嵩上げし住宅地にした方が、もっと早い復興になると思う。

このような意見に対して、町長は、このように答えている。

…地区毎のコミュニティ形成の問題もある。陸上競技場も相当の被害を受けており、修理には数億かかるため、移転を考えている。
(中略)
清水地区は、津波被害を受けた事実がある。清水地区は運動場であれば津波が来ても高台に逃げれば良いと考えており、移設を考えている。津波避難訓練をしても、500~600人程度の参加である。ソフトハードの両面から、新たな町は「常に津波を意識している」ということを意識したものにしたい。二度と同じ間違いは起こさない。

つまり、基本的は、半島部の漁村集落と同じ紛争が、ここ女川町の市街部でも起きていたといえよう。住民たちは、現状の宅地を前提として生活再建を考えている。また、既設の運動公園をとりこわすことについても忌避感を感じている。一方で、町長は、強行的に高台移転をすすめているといえる。漁業権問題はからんでいないことが違いといえよう。

このように、自分の居場所を確保するということ、それ自体がこの公聴会でもっとも議論されたことであった。それも、一つの闘いであろう。

そして、「町の産業が早めに動き、仕事ができるよう仮設店舗整備を進めて欲しい」、「復興計画を国に示すことで、国からの支援が厚くなると考えて良いか」という質問に答えて、町長と鈴木会長はそれぞれこのように答えた。

(町長)
町の産業の動きは二重債務の問題があり、長期間の時間がかかるが国にも要望している。産業界は、協同でまとまり動くことで、お金を効果的に引き出すことができる。「こういうことで意見を統一してきたのか」と思わせるような「まとまり」が重要である。例えば、二重債務の話でも、「女川町はどう困っているか、水産業はどう動こうとしているか」を問われ、個々にお金が出るものではない。水産業会一体となって、組合をつくって協同的に動くことで可能性が生まれる。現在、つなぎの仕事として、思いついたことを一つ一つ処理しているが、長期的な協同の視点も必要である。皆さんも各自の思いをまとめてほしい。

(鈴木会長)
政府が、復興支援法を議論している。その結果で被災地の復興内容は左右される。被災地の課題や要求の声を、どれだけ国が反映できるのかにかかっている。皆さんも関心をもって欲しい。

いうなれば、水産業へのテコ入れを「国」に要望するに際して、「協同」するというスタイルをとることが重要であると町長は主張している。鈴木会長も、国の方針によって左右されるといっている。結局は、国に依存するしか復興はないのである。

平時では、これは地方自治の問題である。しかし、現時点では、国に依存するしか、復興の道はないだろう。そもそも財政的基盤の弱い自治体であり、震災後税収も激減することが予想される。原発からの収入も、稼働してみたところで、復興費用全体をまかえるものではない。国費投入は必然なのである。

しかし、釈然としない思いはある。住民が居場所を確保したいという意欲と相反した形で復興はすすめてよいのだろうか。町長側の努力は認めるとしてもである。

次回以降、女川町市街地南側の公聴会についてみていこう。ここで、ようやく原発問題がとりあげられるのである。

なお、7月25~27日の三日間、仙台を根拠地にして、宮城県の津波被災地を巡見することを予定している。何も具体的には決まっていないが、たぶん、石巻や女川にも行くであろう。その間は、もしかすると、せいぜい巡見記録しかブログに出せないかもしれない。とりあえずおことわりしておく。

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2011年7月20~22日(つまり、このブログを書いている22日現在ということになるが)、女川町復興計画公聴会が開かれている。7月20日午前は高白浜(五部浦中心)で、午後は女川第二小学校(市街地中心)で、21日午前は女川高校(浦宿中心)で、午後は女川町復興連絡協議会会館で、22日午前は旧女川第三小学校(北浦中心)で行われることになっている。対象地域には送迎バスが出ることになっているとのことである。ただ、復興連絡協議会会館以外は、どれにでてもいいということになっている。

この女川町復興計画公聴会について、東京ではあまり報道されていない。ただ、テレビ朝日が20日夜の「報道ステーション」と21日朝の「やじうまテレビ」で報道されていた。

公式のホームページではないが、「テレビでた蔵」サイトでは、次のように要約している。私自身もみたが、大体、この内容であっていると思う。なお、これは報道ステーションの報道を要約したものであるが、「やじうまテレビ」報道も同様であった。

原発抱える被災地で 「復興」と「脱原発」…住民の苦悩
宮城・女川町では復興計画の意見交換会が役場で行われた。東日本大震災から4ヶ月以上経った今も不満を感じており、女川町の復興費用は推定で3350億円と見られている。この町にある女川原発は、東北電力の最初の原発として1984年に営業運転を始めていた。

宮城・女川町には原発による交付金で作られたものが多い。政治家の発言通り脱原発が進めば、女川町の歳入は大きく減る可能性がある。

女川町立病院は毎年町から約5億円の補填を受けており、復興費用で町の負担が増えれば病院が閉鎖する事態もありうる。女川原発がなくなると、女川町は成り立たないという。反対派は人名に関わるような被害を及ぼす原発は見直すのは当たり前という考えを示している

(http://datazoo.jp/tv/%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/500264)

無関心よりはいいと思うが……。私にとっては、なんとなく違和感がある記事である。これまでの女川町復興計画公聴会においては、まずは集落の高地移転、漁港集約化が問題となっており、さらに仮設住宅や仮設店舗の設置や漁港の整備などが中心になっているようにみえた。実際、多少原発問題は出ているのであるが、メインの問題にはみえなかった。メインの問題ではないということ自体が問題でもあろうが。

実際、公聴会の映像をみても「高台移転」は議論されていたが、原発問題を議論している印象は薄かった。

なお、財政問題であるが、毎日新聞のサイトは、7月15日付で、次のように報じている。

 

(前略)
「原発事故が発生すれば復興計画も意味のないものになる」

 5月27日、女川町が復興計画を策定するため、県立女川高校で開いた公聴会。町の「復興計画策定委員会」が5月に公表した復興方針に原発への言及がないことに、町民から疑問の声が出た。

 震災で緊急停止した東北電力女川原発は町中心部から車で約30分、牡鹿半島の中ほどに位置している。営業運転が始まったのは1984年。町は見返りに、多額の固定資産税と電源3法交付金という恩恵を受け、原発は最大2000人規模の雇用も生んだ。

 電源3法交付金は電源開発促進税法など三つの法律に基づき、原発などの発電所を受け入れた立地自治体に交付されている。09年度の女川町の歳入総額は約64億円。このうち、固定資産税と電源3法交付金を含めた原発マネーの割合は65%に達し、全国最高水準だ。

 町は潤沢な財源で避難所となっている町総合運動公園や観光拠点施設、町立病院といったハコモノを相次いで建設してきた。施設の維持・管理費だけでなく、施設で働く看護師や保育士などの人件費まで交付金でまかなう。「原発があるから予算が組めた」(町幹部)というのが実態だ。

 町の基幹産業だった水産業は、震災で壊滅的な被害を受けた。町財政の減収は避けられず、固定資産税と電源3法交付金の比重は増す。東京電力福島第1原発の事故で原発リスクが高まる一方で、復興計画を実現するため、町はこれまで以上に原発マネーに頼ろうとしている。

 しかし、福島第1原発の事故を受け、住民の意識は変わり始めた。女川原発に近い沿岸部に暮らす主婦(61)は「原発にもろ手を挙げ賛成、と言えなくなった」。息子は家業の漁業を継がず、女川原発で20年以上働いてきたが、やはり「脱原発」の議論が気になるという。

 選挙を控えた現職町議も住民意識の変化を敏感に受け止めている。阿部繁町議(46)は「今、脱原発を言わずにいつ言うのか。原発ありきでない町の復興計画にしないといけない」と話す。一方、町幹部は「原発の是非を巡る議論が始まれば、復旧・復興が遅れかねない」ともらす。

 「これまで選挙の時に原発なんか、話したことがない。でも、人間が制御できないものを造っていいの、と率直に思うのよね」

 当選6回を数える女川町議会の木村征郎議長(66)は、次期町議選の争点として原発論議が浮上するとの見方を示した。町財政の大前提だった原発を巡り、定数14の町議会も揺れている。【青木純】
(http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110715ddm002040081000c.html)

実際、このような発言が5月27日の女川町市街地を対象とした公聴会でなされており、まだしも説得力がある。ただ、この発言だけで、この公聴会を要約してよいのかといえば、それにも違和感がある。

確かに、脱原発かいなか、女川町にとっても重要な問題である。その気運が女川町に出ていることを伝えるのも重要であろう。これらの報道は、公聴会というよりも、原発問題についてのインタビューを中心に構成されている。その努力は認めるべきであろう。

しかし、復興計画公聴会で出された、女川町にかかえている問題はそれだけではないのである。3350億円が復興費用としてかかると算出されている。一方、町の予算は64億円で、その65%が原発関連とされている。確かに平時には重要な財源であるといえるが、復興費用全体を賄うものであろうか。

なんとなく、原発立地自治体という性格のみに着目した、ステレオタイプな報道に思えるのである。女川の場合、①津波被災地であること、②漁業の中心地であること、という二つの性格もあり、それと原発がどのようにからまっていくのかをみていく必要があるのではないか。

次回以降、原発問題も議論された、5月27日の女川町復興計画公聴会をみていきたい。また、現在開かれている公聴会についての報道があれば、紹介していきたいと考えている。

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 1970年代の原発建設反対運動が、反公害運動―市民運動の性格を帯びていたことをこのブログの中で述べてきた。

友人らと話してみたり、フェイスブックの議論をみていたりすると、反公害運動の源流としての足尾鉱毒事件への関心が非常に強くなっていると感じている。そこで、やや「東日本震災の歴史的位置」の趣旨から離れてしまうかもしれないが、私が『館林市史』資料編6(2010年 館林市)で執筆した資料解説をもとに、次の一文を書いてみた。

なお、よろしければ、『館林市史』資料編6-鉱毒事件と戦争の記録ーを購入していただければと思う。送料は別だが3000円で購入できると思う。あまり、多くの図書館に寄贈していないので、それぞれの図書館にでも購入希望を出していただければと思う。連絡先は374-8501 館林市城町1-1 市史編さんセンターである。本論では割愛した資料が載せられている。

『館林市史』資料編6

『館林市史』資料編6

足尾鉱毒事件は、とにかく大きな事件であり、私自身、すべての状況を把握しているとはいえない。特に、館林市史とは直接関係のない谷中村については、まだよくみていない。

解説全体では、足尾鉱毒事件の全体像を執筆したが、とてもブログで全体を語りえるとも思えない。機会があれば、その部分も紹介したい。

ここでは、田中正造と群馬県館林地域の人々との関係性にしぼってみてみることにする。あまり知られていないが、足尾鉱毒の被害地は栃木・群馬両県に及んでいた。有名な1900年の川俣事件に参加した人々の半数が群馬県民であり、事務所がおかれていた雲龍寺も現在の群馬県館林市内にある。とりあえず、館林の場所を確認しておこう。渡良瀬川の南岸にある。北岸が栃木県であり、田中正造の本拠地であった。そして、渡良瀬川下流、現在は栃木市内になっているところに谷中村があった。

足尾鉱毒反対運動は、その指導者である田中正造の影響が極めて強く現れたものであったといえる。いうなれば、田中正造に言及せずして足尾鉱毒反対運動を語ることは一般的ではなかったといえる。しかし、いかに民衆的心情を有しているといっても、そもそも立憲改進党―進歩党―憲政本党所属の衆議院議員として鉱毒反対運動を指導し、その後もいわば、自身の生活をかえりみず鉱毒反対運動に挺身した田中と、既存の地域社会秩序を前提として自身の生活・生命が危機に陥ったために運動に立ち上がった地域民衆とは、もちろん重なりあう部分も多いが、立場が違っているといえる。特に、1904年以降は、鉱業停止を前提として栃木県谷中村救済を課題とした田中正造と、治水問題としての解決を模索した館林地域の民衆とは立場の相違が顕著となってくるようになった。しかし、1913年に田中正造は、館林地域に隣接した栃木県足利郡吾妻村で倒れた。館林地域も含めた地域住民は、田中正造の看護組織をつくりあげた。そして、9月3日に田中が死去すると、地域住民ぐるみで壮大な葬式を営み、死後は「義人」としてたたえるようになった。ここでは、このような関係を、『田中正造全集』に収録された書簡や、市史編纂の過程で見いだされた大塚家文書などを中心として検討することをめざしている。なお、田中正造の書簡は『田中正造全集』第十四―十九巻に多くが収められており、田中正造に宛てて出された書簡は、同全集別巻に収録されている。ここでとりあげたものは、その一端にすぎないことをまず付記しておきたい。

田中正造は、下野国安蘇郡小中村(現佐野市)の名主の家で1821年に出生した。1877年以後さかんになる自由民権運動に積極的に参加し、1880に栃木県会議員になるなど、栃木県を代表する立憲改進党系の自由民権家となった。1890年の帝国議会開設後は、栃木三区(安蘇・足利・梁田郡)を選挙区とする衆議院議員として活動した。田中は、立憲改進党所属の衆議院議員として、藩閥政府を帝国議会において鋭く追求した。

1890年頃より足尾鉱毒問題は表面化していくが、田中正造は、1891年に開かれた第二回帝国議会に12月18日質問書を提出し、足尾銅山の鉱業停止を訴えた。そして、1892年に開かれた第三回帝国議会でも、鉱業停止を訴える質問を行った。

しかし、当時、館林地域を含めた鉱毒被害地では、古河の働きかけによる示談交渉が進行中であった。そのため、田中正造の議会活動と鉱毒被害地の動向は連動したものにはならなかった。1895年には、示談の欺瞞性がしだいに明確となってきて、鉱毒被害地においても鉱毒反対運動が顕著となってくるが、田中正造の活動とは独立したものであったように思われる。

田中正造の活動が鉱毒被害地の運動と連携したものになってくるには、渡瀬村雲竜寺に鉱毒事務所が設置された1896年以降となってくると思われる。これ以降、元来は少なかった館林地域を含む群馬県域の人々と田中正造との書簡の往復が多くなってくる。例えば、三野谷村の荒川高三郎と郷谷村の大塚源十郎に宛てた、1896年10月13日付田中正造書簡が残っている。二人は、県会議員として鉱毒反対運動に携わった。ただ、県会選挙においては互いにライバル視していたといわれる。また、運動事務所があった雲竜寺にも田中正造は書簡を送っている。そして、1897年頃より、大島村の大出喜平とも書簡の往復をするようになった。ここでは割愛せざるをえないが、田中正造は鉱毒反対運動のため多くの書簡を館林地域の人々に送っている。この頃の鉱毒反対運動は、田中正造が東京において質問演説や請願書紹介などの議会活動を担い、さらに東京の知識人や新聞世論に働きかける一方で、鉱毒被害地において、鉱毒事務所での会合・地域集会開催や請願書作成、鉱毒被害調査などの活動、さらには郡役所・県庁などへの陳情活動など実施していたといえよう。そして、東京と鉱毒被害地を結びつける示威行動としていわゆる「東京押し出し」が行われたといえよう。1900年におきた川俣事件裁判の被告となった多々良村の永沼政吉や先の大出喜平らに田中正造は書簡を送っている。

しかし、1904年には、田中正造と館林地域の人々との間で一つの亀裂が入った。元来、田中正造は立憲改進党―進歩党―憲政本党系に属し、群馬県でも中島祐八衆議院議員ら憲政本党系の政治家を応援していた。それは、鉱毒反対運動事務所もそうであったと考えられる。ところが、1904年3月1日に行われた総選挙において、田中正造は、太田町出身で、自由党―憲政党―立憲政友会に近い人脈をもつ武藤金吉を、鉱毒反対運動に挺身すると自身が誓約したとして、衆議院候補として推薦した。ただ、田中正造は武藤と中島が共に当選することを望んでいたようである。しかし、武藤金吉は、中島祐八を敵視した選挙活動を展開した。大出喜平は、鉱毒反対運動の分裂をおそれ、鉱毒反対派の人々における票の分配を田中正造自身によって行ってほしいと依頼した。結局、総選挙において武藤は中島に僅差で勝利した。武藤は、『義人全集』第一巻序で、選挙における油断・慢心をとがめた田中正造の一喝によって、選挙態勢を立て直し、当選できたと語っている。結局、大出喜平らは、恩があると思われる中島を応援し、その正当性を田中正造に書簡で述べている。これに対し、田中は、中島の落選は、新規票田の開拓などを指導したのに中島が怠ったなどと弁明する書簡を送っている。ただ、このことで、完全に田中正造と館林地域の人々が断絶したわけではない。1904年4月17日の書簡では、大出喜平・左部彦次郎がこの地域での演説会について周旋活動をしているのがわかる。なお、左部彦次郎は、群馬県利根郡池田村の左部家の養子で田中正造の側近として当時行動していた。

当選当初の武藤金吉は、足尾鉱毒反対運動に協力する姿勢をとっていた。1904年12月10日には、渡良瀬川沿岸特別地価修正の杜撰・不公平を批判した質問書を帝国議会に提出している。1905年2月7日の書簡で、武藤は田中正造に、谷中村問題の演説会を開催したこと、渡良瀬川沿岸地方特別地価修正漏れについての請願を院議に付していることを述べ、自身が特別地価修正について衆議院で質問したことについて、政府答弁を「無恥なる、無責任なる」と批判している。1907年1月28日には、足尾銅山の鉱業予防工事が不十分であることを指摘し、鉱業停止を命じないことの不当性を主張した質問主旨書を帝国議会に提出し、2月7日には、その主旨により帝国議会において質問演説を行った。

 1906年5月、渡良瀬川遊水地とするため、栃木県谷中村は廃村となり、藤岡町に合併された。さらに1907年1月には、旧谷中村民で立ち退きに応じない者に対し土地収用法に基づき強制立ち退きを行うことが公告された。そして、6月29日から7月5日にかけて、残留十六戸の家屋が次々と強制撤去されたが、これら十六戸の住民は即日仮小屋を建てて、抵抗する姿勢を示した。そして、7月29日に谷中村残留民や田中正造らは、土地収用補償額が不当に廉価であることを理由にして宇都宮地方裁判所栃木支部に訴訟を起こした。この裁判は、1918年8月18日に原告の要求を不十分ながらも認めた控訴審判決をえて終わった。

 一方、上流部の群馬県域では、この時期、全く別の様相を示していた。武藤金吉が大塚源十郎に書簡にて書き送っているように、武藤は1906年から政権与党であった立憲政友会に1907年8月に正式入党してしまうのである。武藤は、県会議員であった黒田孝蔵他多くの人々が立憲政友会に入党したことを誇示するとともに、邑楽郡民である大塚源十郎に対して治水事業における利益誘導をはかるために邑楽郡も一円政友会に入党してほしいと勧誘している。政友会入党後の武藤は、1907年末より内務省への陳情、栃木県知事との交渉、他県会への働きかけ、帝国議会への運動など、治水問題に対して積極的な関与を行った。そして、川俣事件以前から、栃木・群馬両県の渡良瀬川上流部における田中正造の同志であった、大島村の大出喜平、山本栄四郎や、郷谷村の大塚源十郎らは、谷中村廃村を前提とした治水工事に賛成し、武藤の活動を積極的にささえようとすることになった。

1908年2月29日に提出された渡良瀬川水害救治請願書は、この武藤の活動と呼応するものとみられる。この請願書は、渡良瀬川水害の激化は足尾銅山によるものとし、根本的な解決は鉱毒の流下と煙害の飛散を防止し樹木伐採を禁止することとしながらも、このことは長い年月にわたる政治道徳の改善が必要で、目下焦眉の急には対応できないものとして、鉱毒流下や煙害飛散さらに森林乱伐の禁止とならんで、利根川・渡良瀬川の早期改修を求めるものであった。この請願書には大塚源十郎他二五五六名が署名し、邑楽郡の各町村の町村長・助役が副署している。

もちろん、田中正造は怒った。1907年9月17日付田中正造書簡は、郷谷村長であったかつての同志大塚源十郎に送ったものであるが、「但し邑楽も亦近き未来に谷中の兄とも申べき有様に至るや必せり」と書かれており、何らかの皮肉を大塚に浴びせているように思われる。この時期には、谷中村の残留民の家屋が強制的に破壊されるとともに、館林地域が立憲政友会の基盤となっており、これらのことを風刺しているように考えられる。1907年12月3日付大出喜平・野口春蔵宛田中正造書簡では、谷中村を遊水池にする渡良瀬川改修工事が効果のないことを力説しつつ、この改修工事についての幻想に地域住民がとらわれるようになったとし、反対運動の中心であった邑楽郡大島村の大出喜平、栃木県安蘇郡界村の野口春蔵も欺かれるようになったと批判し、このことを山本栄四郎などにも伝えてほしいと述べた。

田中正造の批判に対し、館林地域の人々の意見として1907年12月29日の書簡で弁明したのが、山本栄四郎であった。この時、山本は大島村長であったとみられる。山本は、志と違い生活問題に余念がなく、大洪水で人類の滅亡がせまっているのに、政治家は利害獲得に狂奔し民衆を苦しめているとした。これらの悪人に渡良瀬川沿岸民がうち勝たねば、谷中の二の前であると山本はしつつ、邑楽郡としては一時的でも堤防の改良をはかって余命をつなぎ、さらに河身改良・鉱業停止を獲得していくべきであると述べた。その上で、田中の言っていることに大出・野口ともども力を尽くすことを誓うとした。

しかし、田中正造は、館林地域の人々を批判する姿勢を崩さなかった。しかし、1908年10月16日の書簡のように、田中正造は自分の傍らに昔の同志である大出喜平・山本栄四郎らがいないことを嘆く時もあった。

1909年9月には、旧谷中村の遊水池化を含めた渡良瀬川改修計画が政府から群馬・栃木・埼玉・茨城県に諮問され、各県では臨時県会を召集した。立憲政友会が制していた群馬県会は、諮問案が提案された9月10日当日、全員起立で渡良瀬川改修計画に賛成した。栃木県会は9月10日より審議に入った。田中正造は、谷中村地域の人々とともに、渡良瀬川改修計画に反対する運動をくりひろげた。しかし、以前、足尾鉱毒反対運動で田中の同志であった野口春蔵や大出喜平は、田中の面前で渡良瀬川改修計画に賛成する運動を行った。栃木県会では、碓井要作のように反対を主張する県会議員もいて即座には決しなかったが、9月27日に賛成多数で渡良瀬川改修計画は可決された。

 しかし、茨城県会は、9月29日に、この改修案の賛否を現状では決することができないという議決を行った。また、田中正造らの働きかけもあって、10月4日、埼玉県会も渡良瀬川改修計画を否決した。武藤金吉が、田中正造らの動きに抗しつつ、必死に茨城県会・埼玉県会を渡良瀬川改修計画に賛成させようと働きかけており、地域社会でも、大塚源十郎は、武藤のよびかけにこたえて活動していた。

11月30日、茨城県会は渡良瀬川改修計画に賛成する議決を行った。1910年1月には埼玉県会のみが問題となったが、結果的には2月9日に渡良瀬川改修計画に賛成の議決を行った。各県県会の賛成を受けて、政府は1910年3月に帝国議会に対して渡良瀬川改修費予算を提案し、帝国議会は可決した。このような過程をへて、鉱毒問題は、治水問題に転化させられたのであった。1910年より渡良瀬川改修工事は着手され、同年8月に発生した大水害により大幅な変更を余儀なくさせられた。

このように、1909年には、大出喜平ら館林地域の人々と、田中正造との意見の違いがより明白になった。しかし、それでも田中正造は、書簡において、山本栄四郎へ自らの行動や治水論を語っていた。そして、1910年水害に際しても、自らの治水論を大出喜平に説いていた。

特に興味深いのは、1911年1月8日付大出喜平宛田中正造書簡である。この書簡で田中正造は、大島村・西谷田村で、鉱毒被害民に北海道移住をすすめていると聞き、大出喜平にこのことに賛成したのかと怒気を込めて詰問した。谷中村をはじめとする鉱毒被害地では、政府は反対運動を弱体化させるため、北海道などへの移住をすすめていた。それに対して、大出喜平・山本栄四郎は、書簡で弁明した。大出・山本の両名は、田中の治水論の正当性を認めながら、現在の渡良瀬川改修工事は応急処置であり、田中の治水論とは矛盾しないとした。その上で、北海道などへの移住勧奨には自身は関与していないと両名とも述べている。大出は、移住勧奨への反抗は紛擾を招き、一村の平和を破壊するので黙止しているとしながら、武藤金吉が移住勧奨を批判していることを述べた。山本は、鉱毒被害地の現状では移住もしかたがないと諦めていると述べた。このように、治水問題で立場を異にした大出・山本は、それでも田中正造の正当性を最終的には認めていたのであった。そして、1912年3月6日の書簡において、大出喜平は、田中正造に足尾鉄道工事が渡良瀬川水源を破壊していることを批判する請願書の写しを田中正造に送った。自分たちなりに社会の公益に尽くしていることを田中にみせたかったのだろうと推測される。

しかし、大出喜平に多くの時間は残されていなかった。1912年11月21日付田中正造宛山本栄四郎書簡では、大出喜平が死病に陥っており、一度は田中に会いたいとしているが、今としては何ともできず、またこの私事で田中を煩わせることも遠慮したいので、せめて田中正造の肖像に揮毫をいれてもらい、自らの死後家に伝わるようにしてほしいと頼まれたことが記されている。山本は、できれば生前大出にあってほしいと田中に願った。しかし、この書簡の翌日である22日、大出は死去し、山本の願いはかなわなかったのである。「田中正造日記」によると、11月28日田中は大出家に弔問に訪れた〔『田中正造全集』第十三巻〕。なお、1913年3月18日の書簡によると、山本栄四郎もまた田中正造についていけなかったことを悔やんでいたことを田中正造に告げていた。

そして、この書簡が書かれてからそれほど時間のたっていない1913年8月2日、田中正造は、栃木県足利郡吾妻村下羽田の庭田清四郎宅で倒れた。倒れた直後、田中正造は谷中村に戻りたいと訴えたが、周囲の人々にとめられた。そこで、田中正造は用談があるといって付近の有志を集めてくれと申し出た。渡瀬村村長谷津富三郎・助役小林善吉が庭田宅によばれ、彼らにより、群馬県多々良村・渡瀬村・大島村・西谷田村、栃木県久野村・吾妻村・植野村・界村・犬伏町の代表者が呼び集められた。この九ヶ村は、この地域における足尾鉱毒反対運動の中核であった。そして彼らにより、田中正造の看護体制が決められたのである〔『田中正造全集』別巻・島田宗三『田中正造翁余録』下巻・木下尚江『田中正造翁』などを参考〕。

地域の町村役場や有力者は、田中正造の見舞金を贈った。それに対して礼状が出された。礼状は、田中正造の寄付で生家に学習会などの開催を目的として設置された小中農協倶楽部からも出された。田中正造の病状は郵便で伝えられた。

9月4日、田中正造は、看護人であり過去の同志であった栃木県毛野村の岩崎佐十に「お前方、大勢来て居るようだが、嬉しくも何とも思はねえ。お前方は、田中正造に同情して呉れるか知らねえが、田中正造の事業に同情して来て居るものは、一人も無い。―行って、皆んなに然う言へッ」〔木下尚江『田中正造翁』〕という言葉を最後に残して死去した。

田中正造の死は、郵便で各町村役場にも伝えられた。9月6日、鉱毒反対運動事務所が所在した雲龍寺で密葬が行われた。密葬といっても参列者五〇〇名を数えた。そして、佐野町春日岡山惣宗寺で開かれた一府五県の有志総会で田中正造の葬儀が同寺にて10月12日に行うことが決められた。委員長は同町の津久井彦七が勤めることになった。郷谷村長の大塚源十郎も葬儀委員となった。この葬儀は、会葬者三万人を数えたというが、資料二五六にあるようにつつがなく済み、四十九日をかねて残務処理のため常務委員が参集した。

田中正造の死後も谷中村での闘争は続いた。また、渡良瀬川改修工事を行っても鉱毒問題の根本的な解決ではなく、随時鉱毒問題は再燃した。しかし、田中正造の死は、狭義の意味での鉱毒反対運動の終焉を象徴するものであったといえよう。

田中正造の最後の言葉には、大出喜平や山本栄四郎への書簡と同様に、谷中村の破壊につながる渡良瀬川改修工事に賛成した地域民衆への田中正造の憤りが感じられる。しかし、田中正造は、そうはいっても、大出喜平や山本栄四郎らを切り捨てはせず、説得を続け、大出喜平の死に際しては弔問にいっている。

また、山本や大出などがそうであるように、最後の地の民衆が、全く田中正造の事業に同情がなかったとはいえないであろう。田中正造の主張に正当性を感じつつ、生活を守るために田中正造に従えないジレンマを抱えていたというのが、地域民衆の実情ではなかったのではなかろうか。それが、地域ぐるみの看護体制と壮大な葬式の開催に結果し、さらに田中正造を義人としてあがめる心性が形成されていくことにつながっていったと考えられるのである。

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被災前の女川港と南側の五部浦湾はどのような地域であったか。私のように、被災前に一度も行っていない人間は、過去の記録、映像などしか想像するしかない。インターネットで次の動画をみた。

(http://www.youtube.com/watch?v=Yu20bDkEyMk&feature=related)

約一年前の動画だそうである。桜が写っているので、たぶん季節は春だろう。出発点は女川港で、県道41号線を南下し、途中小さな漁港を経由して、最後には野々浜漁港に到達し、そこをじっくり写している。出発点と最終地点はわかるが、その途中の漁港の地名はよくわからない。

ここに写っている海岸付近の人家のほとんどが原形をとどめていない。なお、たぶん、女川湾の湾口堤防と思われるものが写っているが、現在ではあとかたもない。私もみなかったし、グーグルの航空写真でもみることはできないのである。

この動画からしかよくわからないのだが……。五部浦湾の各漁港は、小規模ながらも、かなり整備されていた印象を受ける。営々として、この地域で生きようとしてた人たちの心意気がみてとれる。この地域の漁港が、いつから本格的に整備されているのかはよくわからないのであるが、その努力が文字通り水泡に帰してしまったのである。

最後に、野々浜の現況の写真を出しておく。どれほどの被害があり、復旧するにはどれほどの営為が必要なのかをよく考えてほしい。

野々浜漁港(2011年6月5日)

野々浜漁港(2011年6月5日)

しかし、これらの漁港の復旧についての予算配分は、国や県の役人たちにまかされている。彼らは、この地域がどのような地域であるのか、イメージがあるのだろうか。

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鹿野政直『「鳥島」は入っているか』

鹿野政直『「鳥島」は入っているか』

前回、『「鳥島」は入っているかー歴史意識の現在と歴史学』(1988年、岩波書店)を題材として、歴史研究者鹿野政直氏が、「核時代」という概念のもとで、どのようにチェルノブイリ事故をみたのかを検討してきた。鹿野氏が「核時代」の著作として三番目にあげるのが、芝田進午の『核時代』Ⅰ・Ⅱ(1987年、青木書店)であった。

芝田の「核時代」について、鹿野氏はこのように説明している。

「1945年8月までは、人類にとっては、“よりよい生存”が課題とみなされていた」のにたいして、「以後は、“生存”そのものの保障・保証、<死>にたいする<生>の保障・保証が、人類の最優先・最緊要・最大の課題になった」とするのである。

芝田の「核時代」にとってのキイ概念は「ヒバクシャ」であった。芝田によると、核による死は、すべての細胞を殺しつくす絶体絶命の死であり、それゆえに、

“ヒバクシャ”は、他方では、同時に、生存のためにたたかわざるをえない人間存在にほかならず、「反原爆におもむく存在」「“核による死”とたたかう存在」、「生存にいたる存在」でもある。

と述べている。

芝田によれば、ヒバクシャは、広島・長崎の原爆投下による直接・間接の被爆者だけでなく、核実験による被爆者、ウランなどの精錬工場の被爆者、原発労働者なども含んでいる。さらに、「潜在的被爆者としての全人類」、「可能的被爆者としての全人類」と、ヒバクシャは「全人類」まで及んでいるのである。鹿野氏は、「こうして、『ヒバクシャ』は、“特殊”な存在ではなく、“普遍”的な存在となる。」と評価している。

しかし、鹿野氏は、「ただしこの本によるかぎり、チェルノブイリに言及なく、著者がそれをどう位置づけるのか、皆目窺えないのは不審である」と疑問を呈していることも忘れてはならない。

鹿野氏は、これらの著作を最終的にこのように位置づけた。

これらの著作には、現在を「核時代」とする歴史意識が、共通して強烈に流れ、それが著作への起発力になっている。そうしてその「核時代」は、すべてを絶滅の淵に立たせているとされ、絶滅か生存かの選択を賭けて、地球と人類、それらを統一したものとしての未来の世代という観念が浮上してきているのをみることができる。

鹿野氏によれば、「核は人類史を成立させつつある、との認識が、そこには示されているともいえるであろう。」とすら言っているのである。

そして、最後に、鹿野氏は、このように述べている。

その点でわたくしは、芝田のいう「ヒバクシャ」の普遍化という命題に同意する。それは、まず、被爆体験に倚りかかる姿勢からの、被爆体験を出発点とする姿勢への転換を促すだろう。「倚りかかる姿勢」は、それを掲げるとき、過去と現在をつうじてのさまざまのものが免責されるという心理を生みやすいが、それにたいして「出発点とする姿勢」は、みずからの内部の点検へと導かずにはいないだろう。それゆえにそれは、つぎに、「被曝国」という自己規定をお題目化して、現在の核政策に目をつぶることを許さない姿勢を造りあげてゆくだろう。そうしてそれは、十五年戦争を惹き起こし核爆発を浴びるにいたった国民としての、世界の未来に向かっての責任のとりかたを提示することにもなるだろう。「戦後」の風化に抗しつつ、つまりその意味で「戦後」への記憶を新たにしつつ、しかも「戦後」のかなたをみとおす立脚点はそこにある、とわたくしは考える。

これは、鹿野氏の将来への希望を表明したものであるといえる。しかし、20数年たった今、この文章を読んでいると、奇妙で居心地の悪い感慨に襲われる。自分も含めて、どれだけの人が、真にこのような言葉に気を留めて行動してきたのであろうか。そして「内部の点検」とは、どれだけの人が実施してきたのであろうか。

そして、これは、全く自己反省を込めてではあるが、なぜ鹿野氏のような見解が一般化されなかったのか、そして、原発の悪い意味での「画期性」が普遍化されてもなお、一般化されていないのかと問わなくてはならないであろう。

そして、このことは、単に原発問題だけにとどまらないのではないかと思っている。

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前回、歴史研究者鹿野政直氏が、1988年に出版した『「鳥島」は入っているかー歴史意識の現在と歴史学』(岩波書店、現在は『鹿野政直思想史論集』第7巻に収録)において、批判的な意味における「戦後」像の消失に直面しつつ、それを擁護しながら、「戦後」を超えるものとして弱者としての「される側」から強者としての「する側」をうつという認識枠組みを打出したことを述べた。そして、この「される側」の大きな主題として「公害」と「戦争」をあげ、この二つの結束点として「核時代」をみようと鹿野氏は提起した。この枠組みの中で、1986年のチェルノブイリ事故は把握されているということができる。

さて、具体的には、鹿野氏は、彼自身があげている「核時代」の著作からは、どのようなことを読み取ったのであろうか。

まず、挙げているのは、広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年、文芸春秋)である。1982年出版であるが、鹿野氏は1986年出版の文春文庫本で読んでいるので、たぶんにチェルノブイリ事件の衝撃によって、本書を手にとったと想像される。本書は、アメリカのネバタ州で行われていた核実験により、ユタ州の住民やロケに来ていた俳優たちが癌に罹患し、死亡していったことを掘り起こしたものである。鹿野氏は、本書について、このように評価した。

そうしてハリウッドの俳優たちや近在の住民のうちに、いかに癌による死亡者がふえたかを調べあげて、死の灰と癌とのおどろくべき関係を明らかにした。広瀬はいう。「死の灰には、発癌性のほかに、二つの特徴がある。ひとつは、長期性であり、もうひとつは濃縮性である」、われわれの身体は、たとえば「プルトニウムを肺か卵巣に濃縮させ」、「癌細胞の爆発的増殖を生み出」す。しかもわれわれは、「自分が当事者となって渦中にある時には、その深刻さに気づかない」。こう指摘しつつこの本は、「苦悶しつつこの世を去った人びとの霊と/現在・未来を通じてこの問題の渦中に置かれているすべての人びとの貴い生命に」捧げている。

今、この引用文を再読していると、これは、現在の問題であったことに気づかされる。これは、今さかんに議論されていることなのだ。それは、単に専門家―いや、今や信頼にたる専門家はどれほどいるのだろうかーの世界で議論されていることではなく、普通に社会で生きている人びとが日常的に恐怖をまじえて話し合ってことなのだ。このことを、すでに20年以上前から、広瀬隆は警告し、鹿野氏は着目していたのである。

前も言ったのだが、鹿野氏は本書の内容を早稲田大学大学院文学研究科で講義し、私個人も大学院生として聴講していた。今、本書を読んでいると、広瀬隆についてこの時期から着目した鹿野氏の炯眼に今更ながら驚嘆するとともに、自らの盲目さに恥じ入りざるをえない。

個人的な感慨を除いて考えてみても、歴史意識の問題として、広瀬隆を取り上げた最も初期の例ではなかろうか。

次に、「核時代」の著作として鹿野氏がとりあげているのが、田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年、技術と人間)である。本書は、直接チェルノブイリ事故の衝撃が、西ドイツ(ベルリン)を襲い、エコロジストと思われる著者が、どのような恐怖と不安にさいなまれ、思索と行動をくりかえしながら、しかしどんな結果しか得られなかったを記した本である。鹿野氏は、まず「放射能の雲が著者の住むベルリンの上空に達したとき、田代は『未来の世代』への責任を、行動の原点として自覚する。すると、いろいろなことがみえてくる」と述べている。

そして、本書から、あまり見解を交えずに、鹿野氏は抜き書きをしている。あまりに、現在の状況と酷似しているので、鹿野氏の抜き書きを、私もそのまま引用しておくことにする。

政治家たちは恐れているのは放射能の害ではなくて、私たち普通の人たちが放射能に恐怖心をもち、原発のような破壊的な科学技術に反対するようになることを恐れているのだ。

五月の雨は子どもを大きくするからと
母はわたしを外で遊ばせた
五月の雨は子どもを病気にするからと
私は娘を外に出さない
果物と野菜は健康だからと
母はわたしにサラダとイチゴをあたえた
果物と野菜は毒だからと
わたしは娘に冷凍食品と缶詰をあたえる

チェルノブイリの雲はいくつも国境を越えてやってきた。不安感に人種や国籍のちがいなどもちろん関係はない。不安と恐怖で結ばれた新しい国際共同体は、伝統的ないわゆる「連帯」と呼ばれるものとはちがう。人類の滅亡のヴィジョンを前にして、私たちひとりびとりの相互類似性、生きようとする裸の人間としての感性を基盤とした共同体が生まれた(中略)。人間の種としての共同体を遠望する日々であったともいえる。

ナチズムの過去をもつドイツで、若者はその時代を生きた親たちに、なぜあなた方は抵抗しなかったのかと問い質した(中略)。チェルノブイリの雲の下でミルクを飲んでいた幼児たち、また母親の胎内にいた者たちが、将来もし放射能による後遺症に苦しめられるとき、かれらは私たちに同じように問い質すことだろう。「私たちの体がこうなるのを防ぐために、あなたたちは何をしてくれたのですか」と。

チェルノブイリの放射能が私たちの日常にある日突然入りこんできたことは、私たちにとっていわば新しい時代の体験であった。私たちが現に生存しているこの世界が、もはや「純潔」ではあり得ないこと、世界は最終的破局を目前にしているのではなくて、すでに破局のただ中にあることがはっきりと示されたのだ。

これらは、2011年7月17日現在の福島や東京で書かれたものではない、ほぼ25年前、しかもチェルノブイリからかなり離れているはずのベルリンで書かれたのだ。しかし、これらの言葉は、全く、今のことを書かれているようにみえる。この既視感は、今私を打ちのめす。

2011年7月17日現在、放射性物質が付着したわらを食べさせた牛が放射能に汚染されたことがさかんに報じられている。もはや、どこにも、「純潔」なところなんてないのだ。

チェルノブイリ事故はさかんに報じられた。しかし、どれほど自分の身に起きるかもしれないことと考えた人がいたであろうか。鹿野氏は、まさに想像力の眼で、本書をみて、今日を予見するかのような文章を抜き書きしたのだ。

さらに、鹿野氏は、田代の思考が「ヒロシマ」にむかっていくことに着目している。以下の抜き書きがそれを示している。

ヒロシマ、それは生命の深部への切りこみであり、仮借のない攻撃であった。ヒロシマに始まった時代の意味、死者たちを含む被爆者たちからのメッセージは、いまになって思えば、ほんの少数の人たちにしか理解されていなかった。

至難のことであろうが、はてしなくシンドイことであるかもしれないが、ヒロシマの体験を共有化することがカギになる。それを避けて通ろうとする限り、私たちはあの強力な生物的本能、つまり「何ごともなかったかのような日常世界への復帰」の欲求から自由になることはできない。

また、多くの文章を費やしてしまった。次回以降、鹿野氏が、最終的にはどのような形で、チェルノブイリの問題を展望したのかということを記しておきたい。

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この前、歴史研究者の会合に出席した際、歴史研究者は同時代の災害や原発事故をどのようにみてきたのかということが話題になった。その時、確か、近代史研究者である鹿野政直氏の『「鳥島」は入っているかー歴史意識の現在と歴史学』(1988年、岩波書店。現在は『鹿野政直思想史論集』第7巻、2008年、岩波書店に所収)に広瀬隆などに言及していたことを思い出した。

帰宅して、『「鳥島」は入っているか』をひもといてみた。本書は、戦後歴史学における歴史認識と、本書の同時代である1970-1980年代の一般社会における歴史認識を対比して論じたものである。本書において、チェルノブイリ事故など契機とした広瀬隆などへの言及があるのは、四章構成の第二章「Ⅱ、『戦後』意識の現在」の第四節「4『戦後』意識のかなたに」である。下記に、第二章の章立てを示しておく。

Ⅱ「戦後」意識の現在
1批判としての「戦後」的日本史像の提示
2自己肯定としての「戦後」的日本史像へ
3「戦後」意識の終焉
4「戦後」意識のかなたに

今回のブログでは、この著作において、1986年におきたチェルノブイリ事故をどのように歴史研究者鹿野政直氏が受け止めたのかという点にしぼって検討してみることにする。もはや、これも歴史であり…いや歴史研究者が参照すべき歴史だと思う。そして、同時代にこの事故を受け止めたのかということは、特に歴史研究者でない人たちにとっても重要なことだと思う。

まず、どのような認識枠組みの上で、鹿野氏がチェルノブイリ事故を受け止めたのかを考えてみよう。この第二章では、第一節で、戦後歴史学が戦前への批判を基調とした戦後的日本史像を提示してきたことを述べた。しかし、高度経済成長以降、例えば司馬遼太郎のような戦後日本を自己肯定するような歴史認識がうまれ(第二節)、戦前への批判を基調とするような戦後像が消滅していった(第三節)と論じた。

このような中で、現実との緊張関係を有する歴史認識が成立する可能性はあるのかーこれが、第四節「4『戦後意識』のかなた」のテーマといえる。

鹿野氏は、まず第四節の冒頭で、このように1970-1980年代の歴史意識を概括した。

1970年代から1980年代をつうじて、こうして日本は“強者”としての自己を確立してゆき、それにともなって日本人は、ガリヴァ―的感覚にしだいに馴らされていった。物神崇拝と国家崇拝の精神は、かなりの程度にまでわたくしたちを浸している。

しかし、鹿野氏は、逆に、強者としての「日本」の対極にあるものもまた顕在化してきたというのである。

けれども日本のこうした“達成”は、その“達成”の対極にあるものを顕在化させずにおかなかった。それまで日本人の基本矛盾の意識は、文明の達成をめざすがゆえの歪み是正の感覚に根ざしていたといってよい。70年代になってからのそれは、文明をひとまず実現したゆえの、あらたな局面の解決をめざす方向で立ちあらわれてきた。少数の“異端”者の場合をのぞいて、ひたすらに価値でありつづけた「近代」が、「反近代」の旗幟によって衝撃的に反価値とされ、そのことをつうじて相対化されていったのは、そうした状況を典型的に示していた。

鹿野氏の場合、文明を問い直そうという姿勢は、ヴェトナム戦争を通じて現れてきたという。文明の残酷さと、文明の論理が万能ではないことを共に示したものがヴェトナム戦争であったとした。そして、本多勝一の『殺される側の論理』(1971年、朝日新聞社)を援用しつつ、日本がまきこまれようとしていた強者つまり「する側」の対極に、弱者としての「される側」を発見したのであった。ここで「される側」という認識枠組みを、鹿野氏は提示したということができる。

「される側」の論理について、鹿野氏は、このように述べている。

それを(ヴェトナム戦争)を契機として日本人は、「される側」という視点を獲得し、70年代をつうじてこの用語は、しだいに日常生活のなかに定着していった。それはいうところの“弱者”への視野の拡大であるとともに、彼らが“弱者”であるゆえに獲得している“強者”=文明をこえる立場の発見を意味した。
そこには、歴史を視る眼というもののひそやかな移動が、たしかにあった。そうしてそのような眼で日本をみるとき、繁栄する像の反面に増大する格差が浮上してきて、いずれがポジでいずれがネガか、また、いずれが実像でいずれが虚像かが、避けがたく問われはじめることにもなった。それは「戦後」ゆえに出現してきて、「戦前」とは異なるという意味での「戦後」の擁護にこだわり抜きつつ、しかも「戦後」を超えようとの志向に支えられていた歴史意識ということができよう。

鹿野氏は、「される側」の造形は、とりわけ「公害」という主題と「戦争」という主題に即して行われたと述べた。「公害」については「高度経済成長という『戦後』の達成ゆえに、その反面として浮上せざるをえなかった主題であり」、「戦争」については「大国化ゆえに忘却のかなたへと押しやられつつある『戦後』の初心を再構築しようと意識されてきた主題であった」と鹿野氏は論じたのである。

これ以降、「公害」の問題について、「戦争」の問題について、この時代の論調を紹介しつつ、思索が深められていくが、ここでは、残念ながら、割愛せざるをえない。

そして、「公害」と「戦争」の問題を論じた上で、鹿野氏は次のように提起した。

…その意味で前者(公害)は、自然的存在としての生命への加害であり、後者(戦争)は、社会的存在としての生命への加害であった…そうした点で両者は別個のものではなく、相互浸透的な関係において捉えられる。そのように「公害」×「戦争」の視野がひらかれるとき、それにもっともふさわしい主題「核時代にどう向かいあうか」、「核時代をどう生きるか」が、否応なく立ちあらわれてくる。しかもその場合、加害行為は加害者自身にも降りかかるうえ、加害の程度は、破壊の域を超えて抹殺にいたる。

このように、「される側」の主要な二つの主題である「公害」と「戦争」を結束点として、鹿野氏は「核時代」をあげているのである。その意味で、最重要な意義を「核時代」に与えているといえよう。

「核時代」について、鹿野氏は、まず最初に、広島・長崎の被爆体験の普遍化と核兵器の廃絶運動をとりあげている。しかし、そればかりではない。鹿野氏は、それに続いて、このように述べた。

けれどもこのような運動のひろがり・多彩化や認識の深まりは、原水爆時代の危機の深刻化の、盾の反面でしかなかった。核保有国ことに米ソ両国における核兵器開発競争は、世界世論の非難を浴びつつも持続し、また原子力は、兵器としてだけでなく、一つのエネルギーとして日常性に深く入りこむにいたった。そうした状況は、いまや人類が、火薬庫の上でも舞踏にもひとしい境域におかれているとの意識を生じさせた。そんな意識にもとづく著作として、わたくしには、広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(文芸春秋、1982年、ここでは86年刊の「文春文庫」本による)、田代ヤネス和温『チェルノブイリの雲の下で』(技術と人間、1987年)、芝田進午『核時代』Ⅰ「思想と展望」、同Ⅱ「文化と芸術」(青木書店、1987年)が印象深かった。

このように、鹿野氏にとって、前述したように「核時代」は、戦後の初心を擁護しつつ戦後をこえようとする「される側」の「公害」と「戦争」という二つの主題を統合するものであった。逆にいえば、「される側」という認識枠組みがあればこそ、チェルノブイリ事故の問題を、歴史学の問題として言語化できたともいえるのではなかろうか。

 やや、長くなってしまったので、次回以降のブログにおいて、鹿野氏が、ここであげた著作から何を読み取り、どのような結論に達したのかをみていきたい。

付記:鹿野政直氏は、大学院時代の恩師である。その上、この本の内容については、大学院時代に授業として講義を受けている。ただ、ここでは懐旧談をするつもりがないので、失礼ながら、敬称を「氏」とした。また、ここで記している内容も、大学院時代の授業の内容ではなく、2011年7月時点においての私の感想を述べている。

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