福島第一原発事故による放射性物質汚染の影響については、政権も福島県庁もマスコミも可能な限り小さくみせようとしている。例えば、日本テレビは次のような記事をネット配信している。
安倍首相、福島県産野菜の安全性をアピール
安倍首相は24日、東日本大震災の風評被害対策の一環として福島県産の野菜を試食し、安全性をアピールした。
安倍首相が試食したのは、福島県産のキュウリやトマトで、風評被害対策のキャンペーンの一環として首相官邸を訪れた福島県の佐藤知事らから贈られたもの。
安倍首相「(福島の野菜は)安全安心でおいしい。良い値段で売れるように、風評被害をみんなで吹き飛ばす。みなさん頑張って。応援します」
また、この後、経団連の夏季フォーラムに出席した安倍首相は、福島県産の食品ついて、「やっと店頭では買っていただけるようになったが、贈呈品としてはちゅうちょする方が多い。お歳暮にはぜひ福島県産品を」と呼びかけた。
http://news24.jp/articles/2014/07/24/04255827.html
こういう「福島は安全」キャンペーンの背後には、いろいろな思惑があるだろう。官邸は原発再稼働を目論み、福島県庁は住民の「早期帰還」をめざし、農業者たちは生産物の購買忌避を解消しようとしている。
他方で、福島の危機を主張する人びとについては、全力をふるって攻撃する。少し前にあった「美味しんぼ」をめぐる騒動がそうだった。このことについては、よくも悪くも周知のことであろうが、確認のため、NHKがネット配信した福島県知事のコメントを紹介しておこう。
2014年05月12日 (月)
美味しんぼ 福島県知事が「残念」と不快感12日発売の雑誌に連載されている漫画「美味しんぼ」の今週号の中で、登場人物が「福島県内には住むな」などと発言する場面があり、福島県の佐藤雄平知事が、「復興に向かって県民が一丸となっているときに風評を助長するような内容で、極めて残念だ」と不快感を示しました。
「美味しんぼ」は、小学館の漫画雑誌「週刊ビッグコミックスピリッツ」で昭和58年から連載されている雁屋哲さん原作で、花咲アキラさんが描く漫画です。
12日発売の今週号の中で、福島県双葉町の前町長や、福島大学の准教授が実名で登場し、「福島県内には住むな」とか、「人が住めるようにすることはできない」などと発言する場面が描かれています。
これに対し12日、さいたま市内で福島の復興支援を訴える講演を行った福島県の佐藤雄平知事が、講演のあとで報道各社の取材に応じました。
この中で佐藤知事は、「全国の皆さんが復興を支援してくださって、福島県民も一丸となって復興を目指しているときに、全体の印象として風評を助長するような内容で、極めて残念だ」と述べ、不快感を示しました。
そのうえで、今後の対応については、状況を見ながら検討すると答えました。
「美味しんぼ」を巡っては、先月発売された号でも、主人公が福島第一原発を取材したあとに鼻血を流し、双葉町の前町長が「福島では同じ症状の人が大勢いますよ」と語る場面が描かれ、双葉町が「そのような事実はなく、福島県民への差別を助長させることになる」として小学館に抗議しています。
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/187648.html
また、「在日特権を許さない市民の会」などのヘイトスピーチを行っている人びとも、反原発デモなどを「反日」として槍玉にあげている。現時点でも世論調査では日本社会の半分程度の人びとは、原発再稼働について反対であり、原発については不安を感じている。しかし、原発への不安が具現化した福島第一原発事故の影響については「否認」し、それを主張する人びとについて攻撃することが、一つの規範となっているようなのである。
さて、私の考える問題は、福島県における放射性物質汚染の影響を否認し、影響を主張する人びとを攻撃する認識論的根拠がどこにあるのかということである。このことについて、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの『危険社会』(法政大学出版局、1998年)を手がかりに考えてみよう。
以前、何度か、本書の内容を紹介した。本書は、自然破壊による「危険」を現代社会の最大の問題としてとらえたもので、チェルノブイリ事故直後の1986年に原著がドイツで出版され、大きな反響を読んだ。いま、本書を読み返しているが、私としても違和感のあるところもある。しかし、まだまだ教えられることも多い。
ベックは、本書の中の「スケープゴート社会」という項目で次のようにいっている。
危険に曝されても、必ずしも危険の意識が成立するとは限らない。その反対に、不安にかられて危険を否定することになるかもしれない。危険に曝されているという意識自体を排除しようとするかもしれない。これが富の分配に対して危険の分配が異なる点である。飢えを否定解釈してもそれによって胃袋を満たすことはできない。しかし、危険は(現実化していないかぎり)いつでも、ないものと否定解釈することできる。物質的な困窮の場合は、事実上の被害と主観的な体験や被害とが解きがたく一つになっている。危険の場合はそうではない。逆に、危険について特徴的なのは、まさに被害そのものが、危険を意識しない状態を引き起こす可能性があることである。危険の規模が大きくなるにつれて危険が否定され、過小評価される可能性が大きくなるのである。
これは、重要な指摘である。危険に曝されていればいるほど、かえって危険を否認する可能性があるというのである。それはなぜなのだろうか。ベックは次のように論じている。
危険は知識の中で成立するのだから、知識の中で小さくしたり大きくしたり、あるいは意識から簡単に排除したりすることができる。飢えにとってはそれを満たす食物にあたるものは、危機意識にとって、危険を排除することであり、あるいは危険がないと解釈することである。危険の排除が(個人のレベルでは)不可能な分だけ、危険を否定する解釈が重要性を増す。
ベックは本書の各所で述べているが、放射性物質その他有害物質などによる自然破壊における「危険」は、人間の感覚では通常感知されるものではなく、科学的な観測によって得られる数値を通じて認識される。例えば、シーベルトで表現される放射線量、ベクレルで表現される放射能は、急性症状が出るほどのものでない限り、人間の感覚で認識されるものではない。それは、その他の有害物質でもそうである。水俣病の発生の原因となった有機水銀で汚染された魚は、人間にせよ猫にせよ、食べてそのことが認識できるものではなかった。しかしながら、そのような目に見えない危険に曝された結果は、致命的なものと推測されている。よく、「言語論的転回」がさけばれた近年の歴史学で「表象」ということばが使われているが、まさに放射性物質などの有害物質による「危険」は「表象」なのである。
そして、このような「危険」は、スケープゴートを見つけ出すことによって解消されることが可能である。ベックは、さらに、このように指摘している。
飢えや困窮の場合と違って、危険の場合は、不確実性や不安感がかきたてられても、それを解釈によって遠ざけてしまうことも多い。生じる不安を現場で処理する必要はない。こちらへあちらへと引きずり回して、いつかその不安を克服する象徴的な場所や事物や人を捜して見つけられればよいのである。したがって、危険意識においては別の思考や行動にすりかえたり、別の社会的対立にすりかえたりすることが頻繁に起こりやすい。またすりかえることが必要とされる。そのかぎりで、政治的な無為無策とそれに伴う危険の増大が示すように、危険社会は「スケープゴート社会」への内在的な傾向を含んでいる。危険そのものではなくて、危険を指摘する者が世間の動揺を突然引き起こすのである。目に見える富によって目に見えない危険の存在が隠されてしまっているのではなかろうか。すべては知的な空想の産物ではなかろうか。知的な怖がらせ屋や、危険の脚色家のでっち上げではないのだろうか。本当は東ドイツのスパイや共産主義者、ユダヤ人、アラブ人、トルコ人、難民が結局のところ、裏で糸を引いているのではないか。まさに危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を「避雷針」にして、直接に処理することが不可能な目に見えない危険を処理することが行われてしまう。
私たちが直面しているのは、こういう事態なのではないか。放射性物質汚染の「危険」による「不安」を、それを指摘する人びとへの攻撃によって解消する。さらに、すべては「知的な空想の産物」で「知的な反日左翼のでっちあげ」であり、「本当は中国のスパイや共産主義者、朝鮮人、韓国人、在日が結局のところ、裏で糸を引いているのではないか」と思い込む。福島の放射性物質汚染は、個人どころか国家のレベルでも現時点では解消不可能だと思う。しかし、解消不可能であるがために、放射性物質汚染の危険性を過小評価し、その不安を「スケープゴート」をみつけることに解消しようとしているのである。このような論理は、ドイツのベックが、チェルノブイリ事件直前に考えていたことだが、2014年の日本社会でも残念ながら該当しているといえよう。