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1月7日、フランスの週刊誌シャルリー・エブドがイスラム教の預言者ムハンマドを侮辱した漫画を掲載してきたとして、ムスリムのアルジェリア系フランス人の兄弟2人に銃撃され、12人が犠牲となり、逃亡した2人の容疑者も、逃亡してパリ近郊の工場にたてこもったあげく、射殺された。犠牲者の一人である漫画家のジョルジュ・ウォリンスキ氏はチュニジア生れのユダヤ人で1940年に移住してきたという。また、この事件では、アルジェリア系移民の家庭で生まれたイスラム教徒の警官も犠牲になった。関連して、ムスリムのマリ系移民によりフランスの警官が殺害され、ユダヤ人のスーパーに立てこもり、人質4人が犠牲となり、容疑者も射殺された。

この銃撃事件について、アルカイドもしくはイスラム国などのイスラム過激派の関与があったとされている。それは、たぶん、そうだろう。ただ、シャルリー・エブド銃撃事件については、単なるイスラム過激派が起したテロ事件というにとどまらず、前述したように、ムハンマドを侮辱した漫画を掲載したということへの報復という側面も見受けられる。銃撃したのは、アラブ人などではない。フランスの植民地であったアルジェリア系のフランス人なのである。そして、既述のように、被害者には、アルジェリア系や同じくフランスの植民地であったチュニジア系の人びとが含まれている。

では、どんな「漫画」を掲載していたのか。ハフィントンポストが一部紹介している。著作権で保護されていると思うので、下記のサイトで画像をみてほしい。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/07/4-cartoonists-killed-charlie-hebdo_n_6433584.html

このサイトでは、「シャルリー・エブド」の編集長に就任したとして「笑いすぎて死ななかったら、むち打ち100回の刑だ」とつぶやいている「ムハンマド」(掲載直後に事務所に火炎瓶が投げ込まれた)、同性愛者として描かれている「ムハンマド」(イスラム教では同性愛はタブーとされている)が紹介されている。また、ヌード姿の「ムハンマド」を掲載したこともあった。さらに、ハフィントンポストは次のように伝えている。

シャルリー・エブド紙は2006年、「原理主義者に悩まされて困り果てたムハンマド」という見出し付きで、すすり泣くムハンマドの漫画を掲載し、物議をかもした。同号にはさらに、預言者ムハンマドの風刺画が12枚掲載され、イスラム世界からかつてないほどの批判が寄せられた(これは、もともとはデンマークのユランズ・ポステン紙が2005年に発表して問題になった預言者ムハンマドの風刺漫画を掲載したものだった)。

最終的には、フランス国内に住む500万人のイスラム教徒を代表する組織「フランス・イスラム評議会」が、同週刊紙を訴える事態となった。この号がきっかけとなって、シャルリー・エブド紙はテロリストの攻撃対象としてみなされるようになったと考えられている。

さらに最近の号では、イスラム国が預言者ムハンマドの首を切るマンガを掲載していた。

まず、これは一般的な知識だが、イスラム教では、いかなる意味での偶像崇拝を禁止するという点から、宗教的な場では神やムハンマドだけでなくすべての具象表現が禁止されている。その意味で、単に「ムハンマド」を画像として表現すること自体が、「反イスラム」的とみなされるといえるだろう。

そして、そういうことを度外視してこれらの漫画をみても、なぜ、これほど、ムハンマドに侮蔑的なのかと思う。報道されているイスラム国やタリバーンなどの状況は、もちろん批判されねばならない。このシャルリー・エブド銃撃事件自体も含めて、テロや戦争などの暴力、排他主義は認めてはいけない。しかし、これらことへの責任をムハンマドに直接問うべきものなのだろうか。そして、これらの漫画は、イスラム国やタリバーンなどとは無関係であるイスラム教を信ずる多くの人びとを傷つけることになるだろう。ハフィトンポストでは、暴力的なものも含めて、シャルリー・エブドに対してさまざまな抗議がなされてきたことが報道されている。

そして、シャルリー・エブドの編集長ステファヌ・シャルボニエ(通称シャルブ。本事件で死亡)とジャーナリストのファブリス・ニコリーノ(本事件で負傷)は、フランスの新聞ルモンドに、彼らへの批判に対する反論を2013年11月20日に寄稿している。あるサイトで翻訳されていたので、一部紹介しておこう。

まず、この反論では、自分たちはレイシズムではないと強調している。彼らは反レイシズムと全人類の平等を信奉しているとし、1968年の五月革命の申し子であり、右派のドゴール主義者たちの権力と戦い、批判的な精神を育ててきたという。そして、今でも、右派やレイシズムへの闘士であると自己規定しているのである。

シャルリー・エブドはむかついている。信じがたい中傷がどんどん広まっているという話が毎日のように聞こえてくる。シャルリー・エブドはレイシストの雑誌になったというのだ。
(中略)
改めて云うのも恥ずかしいぐらいだが、反レイシズムと全人類の平等に対する情熱がシャルリー・エブドの土台の約束事であり、これからもそれが変わることはない。
(中略)
それ以外の、基本的な価値観をまだ尊重しているひとのために、シャルリー・エブドの歴史について少しお話しよう。1970年当時のけったいなドゴール主義の権力によって週刊ハラキリが発行禁止になった後に創刊されたシャルリー・エブドは、1968年5月革命の子供である。これは自由と不遜な精神の子供で、カヴァンナ[創設者のひとり、2014年没]、カビュ、ウォランスキー[ふたりともテロで殺害]、レゼール、ジェベ、デルフェイユ・ド・トンといった明確なポジションをもった人々の手によって生まれたものだ。
まさか今からさかのぼって彼らに対する裁判を行おうとするひとはいるまい。1970年代のシャルリー・エブドのおかげで批判的精神を育てることができた世代があった。それはたしかに権威と権力者を馬鹿にしていた。ときには大口を開けて世界の不幸を笑うこともあったが、そのようなときにもいつも必ず人類とその普遍的な価値を弁護していた。
(中略)
右派を擁護しようと考えるものはシャルリー・エブドのなかにはだれもいないし、右派とは徹底的に戦うつもりだ。いろいろな姿をもつが実はひとつでしかないファシズムについては、もちろんこの連中をいちばんの敵であると考えている。それにこういう手合こそシャルリー・エブドに対する裁判を起こしてばかりいるのだ。
(中略)
どこにそのレイシストやらが隠れていると云うのだ。何も恐れることなく、私たちは永遠に反レイシズムの闘士であると云うことができる。党員証をもっているわけではないが、私たちはこの領域を自らの陣営とし、当然決してこれを変えるつもりはない。もしひょっとして(そんなことは起きるはずがないが)シャルリー・エブドにレイシスト的なことばやイラストが掲載されることがあったら、私たちはすぐに大騒ぎをしてここから出て行ってやる。当たり前だよ。
http://fukuinei.tumblr.com/post/107688280067

そして、なぜ、「イスラム教」とターゲットにするのかということについては、このように説明している。

しかしここで、いったいなぜなのか、理由を知らなければならない。なぜこんな馬鹿げた考えが伝染病のように広がっているのか。シャルリー・エブドはイスラモフォビアだと中傷者は云う。彼らのニュースピークでレイシズムという意味だ。ここでいかに知性の退化が広がっているのかがわかる。

もちろんシャルリー・エブドは同じ路線をつづける

40年前には、宗教でさえ罵り、憎悪し、侮辱するのが避けては通れない道だった。世界の動きを批判しようとするものは、必ず主な聖職者の大きな権力を問題にしなければならなかった。しかしある種のひとの云うことを聞くならば(この種のひとがたしかにどんどん増えてきているのだが)、今日ではこの問題については沈黙するべきなのかもしれないという。
シャルリーがローマ教皇の信奉者のイラストをたくさん表紙に使うのはまだいい。でもインドネシアにまで広がる地球上の数えきれない国の旗印であるイスラム教は、使わない方がいいのだそうだ。いったいどうしてだろう。イデオロギーを別とした場合、本質的なものとして、たとえばアラブ人であるという事実とイスラム教に帰属するということにどのような関係があるのだろうか。
もちろんシャルリー・エブドは、見て見ぬふりをすることをせず、同じ路線をつづけていく。たとえ1970年当時よりも今のほうが困難だとしても、シャルリー・エブドは、気に入ろうと気に入るまいと、司祭、ラビ、イマームのことを笑いものにしつづける。今や私たちは少数派なのだろうか。そうかもしれないが、ともかく私たちはこの雑誌の伝統を誇りに思っている。シャルリー・エブドはレイシストだと云う人々は、少なくとも名前を明かして公然と発言する勇気をもってほしい。そうしたらお答えできるでしょう。
http://fukuinei.tumblr.com/post/107688280067

ここに、イスラム教とその象徴であるムハンマドを攻撃する理由が開示されている。彼らのドゴール主義者への戦いは、フランスのカトリック聖職者への戦いでもあった。これは、それこそ40年前どころではなく、フランス革命の時代にまでさかのぼるアンシャンレジームの一角をしめる教権主義への戦いであり、共和国フランスにおける「世俗派」の歴史的伝統である(このような問題については、ピエール・ノラ編、谷川稔監訳の『記憶の場 フランス国民意識の文化=社会史』を参照されたい)。そして、欧米の近代国民国家は、さまざまな違いはあれ、おおむね政教分離を達成してきている。その意味で、教権主義への戦いは「進歩」的なものととシャルリー・エブド関係者は認識している。この反論で「イデオロギーを別とした場合、本質的なものとして、たとえばアラブ人であるという事実とイスラム教に帰属するということにどのような関係があるのだろうか」といっているが、これは、アラブ人をフランス人、イスラム教をカトリックに置き換えれば、意味が理解できよう。現代のフランスにおいて、フランスという政治共同体を組織することは、カトリックを信奉することとは別である。そして、このような政教分離は、アラブ人も達成しなくてはならないということになる。さらに、イスラム教というイデオロギーを批判しているのであり、「アラブ人」という人種を問題にしていないということにもなろう。いわば、「宗教」という「蒙」を「啓発」する「啓蒙」の立場に立っているのであり、「レイシズム」ではないということでもある。彼らは、自身の行なってきたフランスのカトリック聖職者への戦いに重ねあわせながら、イスラム教とその象徴であるムハンマドを攻撃しているといえよう。フランス人のユーモアについてはわからないが、彼らがムハンマドへの攻撃に情熱をそそぐ理由は理解できなくはない。

そして、シャルリー・エブドは、このような攻撃が可能になる根拠として、次のように言っていたとハフィトンポストは伝えている。

シャルボニエ氏はAP通信に、預言者ムハンマドを風刺する漫画の掲載決定について次のように主張した。「ムハンマドは私にとって聖なる存在ではない。イスラム教徒がこの漫画を見て笑わないのは仕方がない。しかし、私はフランスの法の下に生活しているのであって、コーランに従って生きているわけではない」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/07/4-cartoonists-killed-charlie-hebdo_n_6433584.html

フランスの法の下にいるということが、シャルリー・エブドがムハンマドへの攻撃を可能にしているということになる。それは、究極的には「表現の自由」ということになろう。

さて、このように、「宗教」を攻撃する(イスラム教だけには限られないが)表現の自由は認められている一方、イスラム教を体現する表現の自由はフランスにおいて抑圧されている。フランス社会は旧植民地諸国とりわけ北アフリカや西アフリカから多くの移民を受け入れてきた。移民といってもフランスで生まれたその子どもたちはフランス国民である。しかし、彼ら移民たちは、フランス国籍を取得してもさまざまな差別を受けている。その一例が、学校におけるムスリム女子生徒の宗教的スカーフ(ヒジャブ)着用の禁止である。政治社会学者の鈴木規子は、「SYNODOS」に2014年1月27日付で「フランスの共和主義とイスラームの軋轢から「市民性教育」について考える」という文章を寄稿している。この自体を概括する部分をここで紹介しておこう。

このようにフランスでは、すでに長期間フランスに滞在し、子どもも生まれ、教育を受けて成人し、フランス国籍ももっているのに、「移民」と呼ばれ、外見、名前、住所によって就職差別や人種差別にあっている人々と、フランス社会との間で軋轢が生じている。

そうした中で、移民の社会統合の難しさを表したのが「スカーフ問題」である。1989年にパリ郊外の公立学校に通うムスリムの女子生徒がイスラームのスカーフ(ヒジャブ)を被って授業をうけることが、非宗教性に反するとして問題となった。以来、教育現場で10年以上くすぶり続けてきたのだが、ついに国会で学校における宗教的標章の着用を禁止する法律が2004年に可決され、学校からスカーフが排除されることになった。

これは、学校という公共の場に顕在化したイスラームを、非宗教的な共和国がその理念に反するということで強制的に排除した事件であった。この間いかに市民を育成するかが課題となり、市民性教育もライシテを明言する内容になっていった。
http://synodos.jp/education/6632

鈴木は、EUにおける民主的市民性教育への取り組みや、フランスにおいてライシテとよばれている公の場における世俗性ー脱宗教性の追求などの流れの中で、このスカーフ問題をとりあげている。イスラム教の規範において、女性はスカーフ(ヒジャブ)を被ることになっている。スカーフ着用の強制も、当然ながら「自由」という規範に反するだろう。他方、フランスでは、非宗教的な共和国の理念に反するという理由で、学校という公共の場において、イスラムの価値を体現するスカーフの着用が禁止されたのである。

鈴木は、いわゆるライシテー世俗化・脱宗教化ーをフランス共和国が求めてきたことについて、「宗教的な違いによる社会的分断が露見したときに政教分離法が制定されたように、ライシテは社会的に影響力をもつカトリックを公的権力から切り離すと同時に、国家が宗教的中立性を保ち、マイノリティの社会統合を保障する考え方でもあったのである」と一定の合理性があるとしている。さらに、次のように指摘している。

「共和国の学校」は全面的にカトリックを駆逐したわけではなく、寛容さも残っていた…要するに、共和主義と宗教勢力のせめぎ合いが公立学校を舞台に行われてきたとはいえ、ライシテが適用されたのは「教育内容」、「学校という場」、「教師」に関する3点であり、生徒や家庭に対して非宗教性が強制されることはなく、宗教的実践を保障するような逃げ場も用意していた。

鈴木によれば、スカーフ着用禁止にいたったのは、教育的要請ではなく、政治やメディアの「共和主義」だったとしている。

こうした教師の考えとは別に、政治家やメディアは、イスラーム嫌悪の風潮に乗って、ライシテを共和主義者にとって都合よく解釈していった。それはスカーフ禁止法に至る経緯に見出せる。
(中略)
本来、学校という場所は市民を育成する場所である。法規制派たちの根拠でもあった「(ムスリムの)男性から守るべき対象とされた女性」である少女たちは、より一層守られなければならない立場である。それなのに、市民や「共和国」の政治家らによって、スカーフはライシテに反するイスラームの象徴とされ、学校から追放されてしまった。

そもそも公立学校で非宗教性を保障されたのは「教育内容」「教育の場」、「教師」であって、生徒たちの脱宗教化を求めているわけではない点を考えると、この事態が異常であることがよくわかる。すなわち、少女たちにスカーフを取れと要求することは、本来のライシテの原則には含まれていないのだ。「スカーフを取らない」から「ライシテに反する」という主張は、ライシテの正しい解釈ではなく、スカーフ論争の中で作られていったものと言わざるを得ない。
(中略)
さらに、スカーフ禁止法以後、この傾向はサルコジ大統領の下でエスカレートしていった。2010年にはイスラーム女性の全身を覆う「ブルカ」や「ニカブ」の着用についても公共の場で禁止する法が可決され、翌年4月にヨーロッパで初めて施行された[*15]。こうした一連のスカーフをめぐる法規制に、イスラームを排除したいという共和主義者による政治的な意図を感じざるを得ない。

スカーフ禁止法制定などの具体的な過程については、鈴木の文章を参照してほしい。いずれにせよ、イスラムを排除しようとする共和主義者の思惑によって、ライシテー公の場における世俗化・脱宗教化が拡大解釈され、イスラムの規範にのっとってスカーフを着用するという「表現の自由」が踏みにじられたのである。

結局、フランスにおいては、宗教を攻撃する「表現の自由」はあるが、イスラムの規範に則して身体を装うという「表現の自由」はないのである。このように、フランスにおける「表現の自由」は「非対称」なのである。「表現の自由」をめぐる問題は、個々人が判断するように考えられるが、決してそうではなく、「共和国」つまりは国民国家の理念にそうかどうか、いや、もっと正確にいえば、政治家やメディアなど公的決定に関われる人びとの集団的国家規範に沿っているかどうかで決まるのである。それは、自らを左派と規定しているシャルリー・エブドすらもそうなのである。なお、これは、フランスだけではない。政教分離の原則を侵犯して靖国神社を参拝し、特定秘密保護法制定や、マスコミ統制、さらには教育への介入によって、表現・思想・教育の自由を制限しようとしながら、中国・韓国に対するヘイト・スピーチについては「表現の自由」をたてにおざなりな対応をしている日本の安倍政権の姿勢は、フランスの共和主義と一見反対のものに見える。しかし、どちらも、「自由」を、彼らの考える「国民国家」の理念によって制限するということでは同じ構造を有している。このような状況は、アメリカなどの他の国民国家においてもみられるであろう。

そして、ムスリムの「移民」たちにとって、フランスの状況は、自らの宗教は自由に罵倒され、自らの宗教的自己表現は禁止されるというディストピアとして認識されることになろう。さらに、イスラム圏の諸国でも同じように把握されよう。この状況においては、フランス国内でも、世界全体でも、「表現の自由」を含む近代国民国家の理念を攻撃しようとする人びとはまだまだ現れることになろう。

フランスにおいて共和国の理念を主張する人びとはエリートとその影響で形成されたマジョリティである。一方、フランス国内で「移民」とされているムスリムたちはマイノリティとしての「民衆」であり、差別にたえている。それは、世界的に考えても同じである。近代的国民国家の市民たちと、それらの国家の旧植民地であり、今なお圧力にたえている多くの人びと。この人びとはムスリムだけではない。そこにある「非対称的」な関係。この「非対称的」な関係をどのように考えていくかということに、全世界の運命がかかっているといえよう。まさに、現代世界の構図が、このシャルリー・エブド銃撃事件で表出しているのである。

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さて、今回は、フランスの文学者ジャン・ジオノ(1895〜1970)の『木を植えた男』を題材にして、ディストピアからユートピアを作り上げる言葉の可能性について語ってみたい。本書は、荒廃したフランス・ブロヴァンス地方で、森を復興することを目的にして、後半生を通じて木を植えていった男の話である。以下のように、絵本として出版されている。私は旅先の旅館で本書に初めて接した。ただ、かなり有名な本で、大抵の公立図書館には収蔵されているようである。

話は、第一次世界大戦直前の1913年に遡る。本書の語り手である「わたし」は、フランスの地中海側にあるプロヴァンス地方の山間に足を踏み入れていた。そこは、「草木はまばら、生えるのはわずかに野生のラベンダーばかり」という、全くの荒れ地で、たどりついたところは「無残な廃墟」であり、泉もかれはてていた。「わたし」は水を求めて歩き、そこである羊飼いの男に出会った。羊飼いの男は、まず、「わたし」に皮袋にあった水を飲ませ、さらに、高原のくぼ地にあり深い湧き井戸がある自分の羊小屋につれていってくれた。「わたし」は次のように語っている。

男はほとんど口をきかなかった。孤独の人とはそうしたもの。
それでかえって、その存在を、つよく人びとに植えつけるものだ。
潤いのないこの地にあって、かれはまことに清涼な命の水とも思われた。

「わたし」はこの羊小屋に泊まることになった。元廃屋であった羊小屋はきっちりと修理が施され、部屋もさっぱりかたづいており、「犬も飼い主同様に、まことに静かな性格で、ごく自然になついてくれた」と「わたし」は記している。他方で、この地域全体については、次のように描いている。

そのあたりの四つか五つかの村々は、
車もかよわぬ山腹に、点在し、孤立していた。
村人は、きこりと炭焼きで暮らしていたが、生活は楽ではなかった。
冬も夏も気候はきびしく、家々はきゅうくつそうに軒を接して、
人びとはいがみあい、角つきあわせて暮らしていた。
かれらの願いはただ一つ、なんとかして、その地をぬけだすことだった。

男たちは、焼いた炭を二輪車で
都会に売りに出かけては、またとって返すのくりかえし。
まるで、水とお湯のシャワーを交互に浴びるようなもので、
どんなに堅い良心も、いつしかひびいってしまおうというもの。
どんなことにもめらめらと、競争心の火を燃やす。
炭の売上げをめぐっても、教会の陣どりをめぐっても、
争いのたえぬありさま。

おまけに吹きすさぶ強い風が、
たえず神経をいらだたせ、
自殺と心の病いとが
はやりとなって
多くの命をうばいさる。

この記述を見ると、この地域は、単に厳しい気候風土だけではなく、「炭売り」という形で行われる商品経済への従属によっても荒廃していたということができよう。まさに、「ディストピア」そのものである。

さて、再び、羊飼いの男についての話にもどろう。かれは、夜になると、袋の中からどんぐりを出し、よりわけて、100粒のどんぐりを選別した。そして、朝になると、羊のえさ場のかたわらにある小さな丘に登って、どんぐりを一つ一つ植え込んでいた。「わたし」は次のように語っている。

かれは、カシワの木を植えていたのだった。
「あなたの土地ですか?」と聞くと、「いいや、ちがう」とかれはこたえた。
「だれのものだか知らないが、そんなことはどうでもいいさ」と、
ただただかれは、ていねいに、100粒のどんぐりを植えこんでいった。

この羊飼いは、3年前から木を植え続けていた。すでに10万個の種を植え、そのうち2万個が発芽した。半分くらいは生き残るとして、この不毛の地に1万本のカシワの木が根づくことになるだろうとこの羊飼いの男は見込んでいた。

そして、「わたし」は、このように物語っている。

ところでそのとき、わたしは急に、男の年が気になりはじめた。
50以上には見えていたが、聞くと55歳だという。
名をエルゼアール・ブフィエといい、かつては、ふもとに農場を持って、
家族といっしょに暮らしていた。

ところがとつぜん、一人息子を失い、まもなく奥さんもあとを追った。
そこで世間から身をひいて、まったくの孤独の世界にこもり、
羊と犬を伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見いだした。
でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい。
木のない土地は、死んだも同然。せめて、よき伴侶を持たせなければと
思い立ったのが、不毛の土地に生命の種を植えつけること。

「わたし」は、30年もすれば1万本のカシワの木が育っているのだろうといい、ブフィエは、神さまが30年も生かし続けてくれれば、今の1万本も大海のほんのひとしずくということになろうとこたえた。そして二人は別れた。

「わたし」は第一次世界大戦に従軍し、1920年に再び、この地を訪れた。ブフィエは、「戦争なんぞはどこ吹く風、と知らぬ顔して木を植え続けていた」。彼の林はすでに長さ11キロ、幅3キロにまでなっていた。「わたし」は「それはまさに、この無口な男の手と魂が、なんの技巧もこらさずにつくりあげたもの。戦争という、とほうもない破壊をもたらす人間が、ほかの場所ではこんなにも、神のみわざにもひとしい偉業をなしとげることができるとは」と語っている。

その後、「わたし」は幾度となくこの地を訪問した。ブフィエの植えた林は、「自然林」として国家によって保護されたり、戦時中の「木炭バス」の燃料にされかけたりした。しかし、ブフィエは「第一次大戦同様、第二次大戦中も、ただ、黙々と木を植えつづけた」のであった。

「わたし」が最後にブフィエにあったのは、第二次大戦が終結した1945年7月であった。まるで、見違えるようになったこの土地について、「わたし」は次のように語っている。

1913年ごろ、村には、11、2軒の家があったが、
住んでいたのは、たった3人だけであった。
みな、粗野な人間で、それぞれがいがみあいながら、生活をしていた。

未来への夢もなく
気品や美徳を育くむような環境でもなく、
かれらはただ、死を迎えるために生きていた。

いまはすっかり変わっていた。空気までが変わっていた。
かつてわたしにおそいかかった、ほこりまみれの疾風のかわりに
甘い香りのそよ風が、あたりをやわらかくつつんでいた。
山のほうからは、水のせせらぎにも似た音が聞こえてきたが、
それは、森からそよぎくる、木々のさざめく声だった。
いや、水場に落ちるような水の音も、どこからか聞こえてくる。
いってみると、なみなみと水をたたえた噴水がつくられていた。
さらに驚いたことには、そのすぐそばに、1本の菩提樹が立っている。
葉の茂りぐあいからすると、芽生えて4年にもなるだろう。
それはまさしく、この地の再生を象徴するものだった。

さらにそのうえヴェルゴンの村には、
未来への夢と労働の意欲がみなぎっていた。
廃屋は、あとかたもなくかたづけられ、
あらたに5軒の家が建てられていた。
村の人口の、28人にふえて
なかには4組の若夫婦もいた。

植生の復興は、社会の復興につながったと「わたし」は語っているのである。この地域では、村が続々と再興され、「平地に住んでいた人たちが、高く売れる土地をひきはらって移り住み、このいったいに若さと冒険心をもたらした…人びとは生活を楽しんでいる。それら1万を越える人たちは、その幸せを、エルゼアール・ブフィエ氏に感謝しなくてはならないはず」と「わたし」は述べ、さらに、次のような言葉で、ブフィエを称えている。

ところで、たった一人の男が、
その肉体と精神をぎりぎりに切りつめ、
荒れはてた地を、
幸いの地としてよみがえらせたことを思うとき、
わたしはやはり、
人間のすばらしさをたたえずにはいられない。

魂の偉大さのかげにひそむ、不屈の精神。心の寛大さのかげにひそむ、たゆまない熱情。
それがあって、はじめて、すばらしい結果がもたらされる。
この、神の行いにもひとしい創造をなしとげた名もない老いた農夫に、
わたしは、かぎりない敬意を抱かずにはいられない。

「わたし」は、次のようにこの物語をしめくくっている。

1947年、エルゼアール・ブフィエ氏は、
バノンの養老院において、
やすらかにその生涯を閉じた。

この『木を植えた男』は年代記風に書かれており、現実に生きた人の個人史を書いたと思われるだろう。実際、1953年にジオノへ執筆を依頼したアメリカの『リーダーズダイジェスト』誌の依頼の趣旨は、「あなたがこれまで会ったことがある、最も並外れた、最も忘れ難い人物はだれですか」ということであった。しかし、ジオノが描いたエルゼアール・ブフィエがバノンの養老院で亡くなったという事実はなかった。つまりはフィクションなのである。そのことを知った『リーダーズダイジェスト』誌は掲載を拒否した。そこで、ジオノは著作権を放棄し、この物語を公開した。英語原稿は『ヴォーグ』誌に1954年3月に掲載され、世界に広まった。だが、フランスでは、ジオノ死後の1983年にようやく出版された。しかし、これらの版でフィクションであることを明示することは積極的にはなされず、多くの読者はエルゼアール・ブフィエが実在の人物であったと思い込んでいた(この過程については②を参照した)。

1987年に『木を植えた男』をアニメーション化したカナダのアニメーション作家であり、翻訳本の絵を書いているフレデリック・バックも、エルゼアール・ブフィエを実在の人物と思い込んで感動した一人であった。しかし、バックは、アニメーション化の途中で、この物語がフィクションであったことを知った。しかし、それでも、バックはこのアニメーション化をやめなかった。このアニメーションは、1987年アカデミー賞短編映画賞を獲得した。しかし、それよりも、重要な影響があった。②において、日本のアニメーション作家である高畑勲は、次のように指摘している。

すでに述べてきたように、この物語は1954年に出版されて以来、何ヶ国語にも翻訳されて森林再生の努力を励ましてきた。そしてフレデリック・バックのアニメーションが放映されたカナダでは一大植樹運動がまき起こり、年間3000万本だったものがその年一挙に2億5000万本に達した。『木を植えた男』は、人を感動させただけでなく、人を具体的な行動に立ち上がらせたのだ。

このように、実在しなかったエルゼアール・ブフィエを扱ったこの物語は、多くの実在するエルゼアール・ブフィエを誕生させたといえるのである。

たぶん、ジオノのねらいもそこにあったのだと思われる。1950年代はいまだ世界的にみてもエコロジーには関心がなかった。そんな中で進行する環境破壊の中で、権力の手を借りず、独力で木を植えて自然を復興させていく人物は必要であったが、そういう人物は実在していなかった。ジオノは、そういう人物も生き生きと語ることによって、フィクションを作り上げ、そのなかで、このことの必要性を形象化したのである。

この物語は実話ではない。しかし、結局は、現実になっていく。構図としては「ヨハネ福音書」などのそれを借りているといえる。「ヨハネ福音書」においては「初めに言があった…万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった…言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた」とある。そして、洗礼者ヨハネはキリストの到来を主張したが、しかし、実際のキリストに対面した時、「わたしはこの方を知らなかった」といっている。ヨハネをジオノ、キリストをエルゼアール・ブフィエに置き換えれば、この構図がより明瞭になるだろう。

といっても、ジオノは、キリスト教の構図を借用しているだけで、キリスト教の教理そのものを主張しているわけではない。彼は、たった一人の無名の個人が、独力で、自然を甦らせ、社会を復興させていく可能性を言葉で提示することに賭けていたといえる。エルゼアール・ブフィエの営為にとって、権力とは攪乱要因でしかなかった。ジオノは農村アナーキストの思想をもち、1930年代にプロヴァンスの山中で「新しい村」を建設する運動を従事したとされている(③参照)。そして、エルゼアール・ブフィエの営為は、二度の大戦で破壊することしかできなかった多くの人びとのあり方と対比されている。ジオノにとって、エルゼアール・ブフィエの営為こそが神にも等しい「人間の尊厳」なのである。

エルゼアール・ブフィエの死が象徴しているように、「木を植える」ことには物質的な見返りは何もないことが想定されている。しかし、「そこで世間から身をひいて、まったくの孤独の世界にこもり、羊と犬を伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見いだした。でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい」とあるように、孤独であるがゆえの「ためになる仕事」なのである。そして、このようなブフィエのあり方は、「炭焼き」に従事し利己主義によって引き裂かれている周辺住民と対比されている。

最終的に、エルゼアール・ブフィエは、自分の住んでいた荒れ地を楽園の地にかえた。この物語では、ディストピアがユートピアになったといえる。しかし、エルゼアール・ブフィエが実在の人物でないと同様、この土地も実在していなかった。ユートピアの語源通り「どこにもない土地」なのである。しかし、実在しない人物によるどこにもない土地を作り上げるフィクションが、言葉によって語られ、アニメーションとして表現されて、人びとの心に火を灯し、現実の行動につながっていった。無数のエルゼアール・ブフィエが実在するようになり、ユートピアを実現しようとする努力をはらうようになった。言葉のもつ一つの可能性がそこにあるといえる。

*『木を植えた男』には多数の日本語訳がある。今回は、次の三つを参照した。
①ジャン・ジオノ原作、フレデリック・バック絵、寺岡襄訳『木を植えた男』、あすなろ書房、1989年(絵本版)
②高畑勲訳・著『木を植えた男を読む』、徳間書店、1990年
③ジャン・ジオノ著、フレデリック・バック絵、寺岡襄訳『木を植えた男』、あすなろ書房、1992年

①は絵本版で、たぶんそのことを意識して、訳者が短く意訳し、日本では一般的ではないキリスト教的な表現などを省略している部分がある。②で高畑はそのことを批判し、フランス語の原文を掲げるとともに、より逐語訳に近い形の訳文を掲載している。そして、③では、絵本という形態を脱して、より完全に近い形で翻訳されている。ここでは、一般的に普及していると思われる①を訳文として掲げた。

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