雑司谷法明寺会式詣(『東都歳時記』)
堀の内妙法寺会式(『東都歳時記』)
「御会式新聞」第8号(1978年10月16日)の、同年9月5日に開かれた「座談会・お会式について」の中で、当時83歳であった新倉留吉は、次のように雑司ヶ谷のお会式を位置づけた。
―新倉 鬼子母神のお会式は信心家のお祭りではなく、う合の衆の行事だからね…だから鬼子母神のお会式はマンガ的で、自由奔放なんだが、池上、堀の内は信仰的で、まじめで宗教行事としての自覚が強いと思うね。
夜、万燈や太鼓をもって行列し、参詣するというスタイルは、明治期以降、雑司ヶ谷も池上本門寺や堀の内妙法寺と共通であったと思われる。しかし、それでも、そのような違いがあったといえる。
近世においては、雑司ヶ谷のそのような性格は、より鮮明であったといえる。斎藤月岑の『東都歳時記』(1838年(天保9))において、雑司ヶ谷法明寺の「会式詣」が描かれているが、その舞台は鬼子母神であり、それも境内に酒や土産物を売る露店が密集し、そこに着飾った男女が集まっているところが描かれている。
『東都歳時記』の本文の記述もそのような側面が強調されている。一部引用したが、もう一度あげておこう。
雑司が谷法明寺〔法会中開帳あり、音楽邌供養等法会厳重なり。十二日のころより支院飾り物あり、大行院を首とす。年ごとに種々の機巧をなす、何れも宗祖御一代の記によりて其さまを造りなせり。境内見せものかるわざ等出で、廿三日迄諸人群集し繁昌大かたならず。鬼子母神の境内には、茶店拍戸(れうりや)檐(のき)をつらね、行客を停て酔をすゝむ、川口屋の飴、麦藁細工の角兵衛獅子、風車等を土産とす。寺中其外飾り物をなす寺院は、観乗院、玄浄院、真浄院、知足院(以上支院なり)、清立院、宝城寺(十八日会式)にも会式修行飾物あり○今日(十月八日)同所鬼子母神更衣あり〕
開帳による法会のことも言及されているが、ほとんどが飾り物・見世物・軽業・飲食などの遊興的なことを述べている。これらの遊興は、能動的に参加するというよりも、受動的に拝観するという面が強いといえよう。
堀の内妙法寺のお会式について、『東都歳時記』は、「堀の内妙法寺。〔当月中参詣稲麻の如く、宝前供物等山の如し、会式中開帳あり、法会の次第左のごとし。〕としており、この後に8日より13日における法会の式次第が記載されている。挿絵においても、前面に法会を執行する僧侶たちが描かれ、その後ろ側に祈祷に参加する群集が配置されている。妙法寺のお会式では、より真摯に、より能動的に一般民衆がお会式に参加しているといえる。
池上本門寺のお会式について、『東都歳時記』は、「○池上本門寺会式、今日(十日)より十三日迄修行。〔十二日十三日開扉あり。十二日の夜通夜の人多し、夜中説法あり、十三日十四日には門前笊籠の市が立つ。当寺は宗祖上人入寂ありし霊跡にて大伽藍なり、今日祖師御更衣あり〕と記載している。挿絵はないが、比較的遠方の池上本門寺に泊まり込みで参加し、夜中の説法まで聞いたというので、かなり真摯かつ能動的に一般民衆はお会式に参加したといえる。
今日のお会式は、どちらかといえば池上本門寺の影響が強いのではないかと議論してきた。ただ、雑司ヶ谷のお会式においては、比較するならば、その後も遊興的な側面が残存していたのではないかといえよう。
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