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Archive for 2010年12月

本郷講中寄進の鬼子母神の狛犬(2010年12月10日撮影)

本郷講中寄進の鬼子母神の狛犬(2010年12月10日撮影)

さて、神仏分離後のお会式はどうなったのだろうか。明治前期のお会式については、池上本門寺の景況が新聞に掲載されている。すでに汽車が運行され、特別運転がなされ、それが交通手段となっている。ただ、万燈をもって集団で参詣し、池上本門寺に参籠するというスタイルは、幕末期とそれほど変わらない。
雑司ヶ谷お会式については、管見では読売新聞1892年10月4日号に出ている。それには、

◎ 雑司ヶ谷日蓮の会式 本月八日より廿三日まで雑司ヶ谷鬼子母神境内に安置しある安国日蓮大士の会式を執行するに付き近郷近町村講中有志者より安本亀八作の生人形日蓮大士一代記のかざり物等を寄附し猶毎夜数十本の万燈練り込み等ある由

と伝えられている。期間が8-23日となっている。すでに近世期より、将軍の命によってこの期間となっていたが、それを踏襲している。また、近郷講中より人形・飾り物が寄附されて展示されている。これも、雑司ヶ谷お会式の本来の形を踏襲している。しかし、一方で夜間の万燈練り込みが記載されている。これは、たぶんに幕末期以降の池上本門寺における会式のスタイルを受け継いだものといえる。明治中期の雑司ヶ谷のお会式は、近世期の雑司ヶ谷お会式のスタイルと、池上本門寺のスタイルが混合していたといえるであろう。
『高田町史』(1933年)では、「明治年間に至り次第に衰微傾向を呈したので、明治二十六年(1893)、信徒惣代が土地の有志と謀りて再興の策を施し、万燈も復興し、毎年十月八日から十八日まで十日間連日挙行した」とあるが、先の新聞記事とやや食い違っている。その前年には、万燈のあるお会式は挙行されていたのである。ただ、推測でいえば、この頃に、鬼子母神のお会式の再編が行われたのではなかろうか。『高田町史』によると1932年にお会式再興40年記念式が開催されたそうである。
1896年10月9日の読売新聞には「例年よりハ生人形陳列の箇処を増し夜ハ数十本の万燈を出し昼ハ茶番狂言等を奉納して参詣者の観覧に供せんと近町村を始め牛込小石川四ツ谷麹町等の各信徒ハ何れも意気込み居るとの事」と書かれている。この時も、元来の雑司ヶ谷お会式のもつ遊興的感覚が強かったことがわかる。一方、このお会式をささえる講社は、牛込・小石川・四谷・麹町などの、東京北部のかなり広汎な地域からきていることもわかる。熱心な日蓮宗信者にささえられた祭事でもあった。

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国家権力をめぐる政治闘争とは相対的に別個のものである紛争をどのようにとらえていくか。安丸良夫氏・牧原憲夫氏・鶴巻孝雄氏・稲田雅洋氏らの民衆運動研究は、政治運動である自由民権運動とは相対的に自立した民衆運動を描き出しており、その論理を「生活者」の論理として指摘している。それは、非常に重要な指摘といえる。
しかし、一方で、民衆自体に内在する「権力」関係については、十分描いているとはいえない。単に、傲慢な政治運動の指導のみで権力に取り込まれているとはいえないであろう。そのような、いわゆる生活の場における力関係の動向を分析する方法論が必要となろう。
多少、手前勝手な主張になるが、私が関与していたアジア民衆史研究会の2006年度大会では、「死をめぐるポリティクス」をテーマとして「ポリティクス」論を提唱しており、国家権力とは相対的に自立した生活の場における力関係を検討する方法論を提起しているといえる。この問題提起(佐野智規文責)では、「近世・近代移行期においては、『終極的には』国民国家の権力装置とそのイデオロギーがヘゲモニーを握る、それは概ね確かなことだと言えるだろう」と述べている。しかし、それを前提としながらも、「ここで検討したいのは、『終極』のやや手前の空間、死という出来事によって出現した、さまざまな力の接触と闘争の空間である。この空間への介入は複数の位相からやって来るため(死者の近親者という位相、所属していた地域、職業、信仰などの諸集団等)、『終極的には』支配的イデオロギーの主導の下に序列が形成されるとは言え、子細に観察すればその複雑かつ屈折したヘゲモニー闘争のダイナミズムを明らかにすることが出来るのではないか、そのような微細な闘争の集積はどこへ行くのか」と主張している。国家のヘゲモニーの下で行われる、複数の位相から行われる介入と、それによって展開される微細な諸闘争を検討することーこれが「ポリティクス」論の中で含意はされているといえよう。
もちろん、これは、抽象的な提起に過ぎず、具体的なものではない。しかし、国家のヘゲモニーの下で行われる微細な諸闘争をまず検討するための認識枠組みになりえると考えている。

参考:『アジア民衆史研究』第12集

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雑司ヶ谷大鳥神社(2010年12月10日撮影)

雑司ヶ谷大鳥神社(2010年12月10日撮影)

雑司ヶ谷鬼子母神は、神仏分離によって大きな変容を蒙った。近世の多くの神社は、修験(山伏)を含む仏教寺院が別当寺として管理するところが多かった。明治維新による神仏分離令により、そのような多くの神社では、仏教寺院による管理が廃止され、専門神職によって管理されるようになった。また、それまでの神社祭祀には仏教的儀礼が多く取り入れられていたが、新しく神道独自なものに切り替えられていった。
鬼子母神は、微妙であった。鬼子母神は雑司ヶ谷の産土神であり、本来祭礼も歩射と草薙という神事系のものであり、歩射は雑司ヶ谷村民の宮座によって運営されていた。しかし、鬼子母神は仏教の護法神であり、別当寺大行院の本寺である法明寺によって仏教色が強く植え付けられていた。そのため、鬼子母神は、神仏分離にあたって、仏教寺院として位置づけられるようになったのである。ここで、産土神としての鬼子母神は否定されたといえよう。
一方、鬼子母神境内社であった疫病除神である鷺大明神が鬼子母神門前の料亭に移築され、大鳥神社と改称された。その後、旧幕臣の矢島昌郁が自身の宅地を寄進し、現在地に移築された。この社が雑司ヶ谷の産土となっている。この神社の祭礼は9月の例祭と11月の酉の市であり、鬼子母神の祭礼は受け継いでいない。
参考:『豊島区史』(1951年)

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昨日、法政大学で開かれた「第72回民衆思想研究会」に参加した。同会の全体テーマは「越境する『共同体』ー北方域を中心にー」であった。第一報告は、塩屋朋子「秋田藩城下町久保田の感恩講にみる都市社会」であり、具体的には、近世後半の久保田(現秋田市)において、藩御用達町人を中核として、貧民救済を目的とした、自生的な「共同体」である「感恩講」が成立したことを論じている。第二報告は、新藤透「<場所共同体>の諸相ー『和風改俗』と関連させて」であり、和人によるアイヌの一方的な搾取の場であったととらえられてきた「場所」は、実際にはアイヌと和人の「共同体」を形成しており、幕府の「和風改俗」政策の受け皿となったしている。第三報告の坂田美奈子「アイヌ口承文学とともに考える<場所共同体>論ーアイヌ=エスノヒストリーの立場から」は、アイヌの口承文学からアイヌ・和人の生活の場としての「場所」が成立していたと指摘している。
この三報告に対して、比較的年長の世代は、かなり厳しく批判していた。例えば、国家権力の問題はどうなるのかなどと質問していた。まあ、そういう意見も出るだろう。
ただ、国家権力の作用をすべての局面にみるということのほうも問題なのではないか。今回の三報告は、日常的には国家権力と意識的に対峙しているわけではない現代の社会風潮を現しているともいえる。
さらにいえば、年長の世代も、今回の三報告も、強制力としての、「暴力装置」を介しての、「国家」が直接に関与しない場を予定調和的「共同体」として把握していることも問題ではないか。近現代においての「権力」とは、資本ー労働、男性ー女性、マジョリティーマイノリティなど、直接的には国家の強制力の発動がなく行使されている。そういった、現代社会を見る目で、過去を見ていかなくてはならないのではないか。その意味で、すべての歴史は現代史であるといえよう。

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さて、お会式における万燈は、どのように登場してきたのだろうか。雑司ヶ谷のお会式の近世の資料では、あまり出てきていない。講社による集団参詣の目印は、のぼりー幡であり、今日の万燈のような役割をはたしていた。
『高田町史』(高田町教育会、1933年)では、「文化年間からは、四方から万燈が夥しく行列して来り」とあるが、根拠を示していない。あるいは、前述の金子直徳の「若葉抄」(1811年(文化8)年以後成立)の「ねり供養、音楽法事」という記載が根拠なのかもしれない。ただ、金子は、寺に飾り物があったこと、講社の集団参詣の目印がのぼりー幡であったことを記している。彼は、雑司ヶ谷の住人であり、万燈が会式のメインとなっていれば、そのように記載したと思われる。
斎藤月岑も「東都歳時記」(1838年(天保9))で「音楽ねり供養」があったことを記しているが、彼の場合は寺院の飾り物を中心に記載している。「東都歳時記」でも「江戸名所図会」でも、挿絵に万燈は出てきていない。歌川広重の「名所江戸百景」の「金杉橋・芝浦」(1857年(安政4))でも、のぼりー幡はあるが万燈は出てきていない。文章や挿絵にないからといって、万燈を使っていなかった証左にはならないが、少なくとも、江戸の文人たちが注目するほどの風俗にはなっていなかったといえる。
ところが、歌川広重(二代)の「江戸名勝図会」の「池上」(1862年(文久2))では、のぼりー幡の背後に、上部に造花をつけた万燈があり、周囲には団扇太鼓をもった人々がいる風景が描かれている。万燈は、角張ったものや扇形のもので、単なる提灯ではなく、紋や絵が描かれている。現在のものと比べるとやや小振りであるが、明らかに万燈である。
また、歌川広重(二代)・歌川豊国(三代)の「江戸自慢三十六景」の「池上本門寺会式」(1864年(元治元))でも、万燈が描かれている。そこでは、万燈は二段重ねとなり、上部に造花が飾られている。また、ここでもやはり周囲に団扇太鼓をたたいている人たちが描かれている。現代のお会式の形態に近づいたといえる。
1857年の「名所江戸百景」でも、池上本門寺に向かうとおぼしき行列が金杉橋・芝浦を通過することが描かれていたが、そこでは万燈はなく、のぼりー幡が中心であった。このように考えると、万燈が一般化したのは、池上本門寺という場ではなかったかと推測できる。
その背景を考えてみよう。近世の雑司ヶ谷のお会式は、史料をみているかぎり昼間に行われるものであり、集団参詣の目印としてものぼりー幡で十分足りていたといえる。しかし、池上本門寺のお会式は、10月12日から13日にかけて参籠―泊まり込むものであり、夜間の説法などもあった。夜間の祭りというイメージが強くなっているといえる。そのような夜間の祭りになったからこそ、万燈が大々的に登場してきたのではないだろうか。
『大田区史』中巻では「近世の村々では、地縁を母体とした信仰的集団の、講中が結成された。本門寺の末寺を村内にもつ地区では、その集まりを題目講とよび、ささやかな飲食茶会をともなう月並(日蓮の忌日をあて十二日が多かった)の唱題行事が行われてきた。講中は、おおむね本門寺の歴代貫首が記した十界曼陀羅の掛け軸を所有し、講行事の際には、それを会場に掛けて本尊とした。こうした講中が、毎年十月十二日の夕、お会式の逮夜を期して、団扇太鼓と鉦を手に、題目と、独自の節回しの歌ではやしながら、講中手作りの万燈や、講名を染め抜いた幟を標識として、集団で本門寺に参詣したのである」と書かれている。こういうことが、雑司ヶ谷でもなかったといえないであろうが、商業化され、一般的になってしまった雑司ヶ谷お会式では多かったとも思えない。このようなお会式のありかたをかえた場が、池上本門寺という場であったのではなかろうか。
参考:『豊島区史』資料編3、「東都歳時記」、『大田区史』中巻、、『高田町史』、『特別展「よみがえる大田区の風景」目録』、『大田区史』中巻、『江戸名所図会』、

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名所江戸百景・金杉橋芝浦

名所江戸百景・金杉橋芝浦

これまで述べてきたように、近世における雑司ヶ谷のお会式は、見世物的・遊興的側面が強いといえる。しかし、もちろん、お会式は日蓮を追慕する宗教的行事であり、その側面を無視することはできない。お会式は、日蓮宗の講社による集団参詣の対象であった。現代のお会式は、基本的には講社による集団参詣という形式をとっている。そして、それぞれの講社の目印―アイデンティティを示すものとして、それぞれの万燈があるといえる。しかし、近世中葉のお会式においては、あまり万燈は出てこない。それにかわるものとして、のぼりー幡があったといえる。
金子直徳の「若葉抄」(1811年(文化8)年以後成立)では、法明寺祖師堂に「開帳仏御迎幡・のほり、四、五百本の余も出たり」とある。こののぼりー幡は、金襴・錦・猩々緋・縮緬などで作られ、上部には枝垂れ桜・牡丹などの造花が飾り付けられており、「江都の眼を驚す事なりき」とされている。金子によると、こののぼりー幡は、開帳にて諸国より参詣者が集まってくるが、あまり大勢でそれぞれの講中が集まりにくいので、紙などでのぼりを作り、講中が迷子にならないようにしたことが始まりであるとしている。このようなのぼりを作ったのは神田講中が最初で、木綿にて二本ののぼりを作り、「一天四海皆帰妙法」「五百歳中広宣流布」と書いていたという。こののぼりー幡は最初は木綿で作って書いていたが、しだいに木綿の染め抜きとなり、さらに、目立つように赤い縮緬に金糸などで刺繍するようになったという。そして、題材も題目・和讃だけでなく、四界菩薩や宗弘記なども扱うようになったという。金子によると、このようなのぼりが始まったのは「寛保の末」(1740年代)であったが、年々派手になっていたとしている。しかし、成田山不動尊開帳のとき、大喧嘩となり、一七八八年(天明八)年に、のぼりー幡は禁止されたとしている。
しかし、のぼりー幡の禁止は一時的なものであったらしく、斎藤月岑の「東都歳時記」(1838年刊行)の挿絵では、鬼子母神堂の背後に「安国日蓮大菩薩」と書かれたのぼりが立っている。また、歌川広重の「名所江戸百景」(1857年(安政4)刊行)において、「金杉橋・芝浦」の風景として、南側の池上本門寺に赴くのであろう会式の行列が描かれているが、その中心に位置するのは、日傘で飾られた「一天四海皆帰妙法 南無妙法蓮華経」と書かれたのぼりである。そして、周囲には「江戸講中」など、「講中」を示すのぼりがいくつもある。このように、のぼりー幡は、集団参詣する講社のアイデンティティのよりどころとして機能していたといえよう。

参考:『豊島区史』資料編3、「東都歳時記」、『大田区史』中巻、sohske.cocolog-nifty.com

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雑司ヶ谷鬼子母神・法明寺は、他寺院と競争しあっていた。例えば、現杉並区の堀之内妙法寺は、小川顕道の「塵塚談」(1814年(文化11))によると、彼が30歳くらいまでは(換算すると18世紀中葉)は地名を知る人すらいなかったが、祖師堂など伽藍を改築してからは、新宿から門前まで水茶屋・料理茶屋などの飲食店が建ち並び、日蓮宗以外の人々も尊尊宗して年々賑わうようになったとしている。一方、雑司ヶ谷鬼子母神は、彼の若年の頃までは参詣が多かったが、「近頃に至り殊の外淋しくなり、只堀の内のミ参詣多し」と述べている。彼は「仏神にも盛衰あり、不思議と云へし」と評している。19世紀にお会式に変化があると私は述べたが、このような衰退に対する対応であったのかもしれない。
斎藤月岑の『江戸名所図会』・『東都歳時記』にも妙法寺のお会式は記載されている。『東都歳時記』では、雑司ヶ谷が鬼子母神境内の露店や法明寺子院の飾り物を中心に描いているのに対して、妙法寺は、仏事の式次第が記載され、挿し絵もそれが中心となっている。今でも、妙法寺はさかんにお会式が行われている。
一方、日蓮が息を引き取った池上本門寺は、もちろん日蓮宗の大寺院であり、現在、最も盛大にお会式が行われている。しかし、斎藤の『江戸名所図会』には、会式の記載はみられない。お会式が行われていなかったわけではないだろうが、江戸市中から大挙していくということはまだ一般的ではなかったのではなかろうか。しかし、『東都歳時記』には、十月十日の項に「池上本門寺会式、今日より十三日迄修行。〔十二日十三日開扉あり。十二日の夜通夜の人多し。夜中説法あり、十三日十四日には門前笊籠の市立つ〕」とあり、夜に参籠するというイメージが打ち出されている。雑司ヶ谷のお会式は参籠するというイメージがあまりないが、池上本門寺のお会式は、夜参籠するというイメージがある。そして、歌川広重の『絵本・江戸土産』(1850年(嘉永3))では「毎年十月十三日、祖師の忌日により、前夜より堂内に籠る人夥しく、万を以て算ふべし」とされている。
その他、『東都歳時記』には、本所表町本久寺・深川浄心寺・谷中瑞林寺・本所法恩寺・青山仙寿院・丸山本妙寺・下総真間弘法寺・総州中山妙法華経寺・品川妙国寺・丸山浄心寺・大塚本伝寺・浅草どぶ店長遠寺・牛込原町願満・高田亮朝院・赤坂今井谷・小梅村常泉寺・雑司ヶ谷感応寺などのお会式などが記載されている。江戸よりかなり遠いところもあるが、それでも賑わったとされている。
参考文献:『豊島区史』資料編三、『江戸名所図会』、『東都歳時記』、『大田区史』(資料編)地誌類抄録

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鬼子母神境内の露店(2010年10月18日撮影)

鬼子母神境内の露店(2010年10月18日撮影)

他方、鬼子母神境内自体は、どのようにお会式にかかわっていたのだろうか。斎藤月岑の『江戸名所図会』(1834年(天保5))では、十月八日から十八日まで参詣群集したとし、これを「会式詣」とよんでいた。同じく斎藤の『東都歳時記』(1838年(天保9))では、「鬼子母神の境内には、茶店柏戸檐をつらね、行客を停て酔をすすむ。川口屋の飴、麦藁細工の角兵衛獅子、風車等を土産とす」と述べている。ここでは紹介しないが、同書の挿絵では鬼子母神境内が描かれており、飲食を中心とする露店によって境内が埋め尽くされている。かなり見世物化されてはいたが、一応法明寺境内が日蓮の生涯を語る「聖なる場」であるとすれば、鬼子母神は遊興中心の「俗なる場」であったといえる。そこは、例えば随筆「続飛鳥川」(年代不詳)に「歌比丘尼、うりひくに、歌ひくにハ、雑司ヶ谷会式に茶屋茶屋を廻る…売ひくにハ、二人ツツ屋敷を廻る遊女也」と書かれるような空間であった。
なお、ここでは、現代の鬼子母神境内の露店を画像として出しておくことにする。
参考:『豊島区史』資料編三

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江戸名所図会 雑司谷会式

江戸名所図会 雑司谷会式

19世紀初頭には、今のお会式の諸要素が出現していたとはいえるのだが、それがそのまま、現在のお会式につながったわけではない。むしろ、この時期は、法明寺境内で行われる「飾り物」が肥大化し、いわば見世物化していたといえる。18世紀のお会式でも、日蓮の生涯について境内の各寺院は「飾り物」として陳列していた。19世紀前半の化政から天保期にかけて、この「飾り物」が肥大化したのである。小日向廓然寺の僧であった津田敬順が江戸の名所を探訪した紀行文であり、1814年(文化11)―1829年(文政12)年の間に成立した「遊歴雑記」においては、このように書かれている。大行院をはじめとした法明寺境内の八つの寺院では、苦難や神仏の加護にみちた日蓮の生涯を人形に仕立て、本尊を片づけて山川・家宅・寺社・国々の背景を飾っていたとしている。そして、津田がみた時には、からくり仕掛けで人形芝居仕立てとなっており、拍子木の合図によって、動かされているというようになっていたということであった。本来は僧侶である津田は、「元来は勧善懲悪のためなのだろうが、今や人形芝居の趣向と同じだ。悲しいことだが、世が濁っていることの証拠だ。日蓮の人形をもてあそび物とし、飾り物の評判によって貴賤を集め、僧坊を貸座敷として財貨をむさぼっている。手すりによって見ている者は、仕掛けの善し悪しのみを論じるだけで、題目を唱える者はなく、皆が飾り物をみようとして押し合い群集しているだけだ」と批判的にみているのである。
この状況は、神田の町名主斎藤月岑が父祖の調査をもとに文を書き、長谷川雪旦が挿絵を描いた「江戸名所図会」(1834年(天保5))で描かれている。この挿絵では、寺院本堂の真ん中に舞台装置と人形が陳列され、多くの群集がみている。彼らは、万燈・まとい・太鼓などをもっておらず、拝んでいるようにもみえない。そして、別室では、僧侶の話(法話であろう)を聞いている小グループが描かれている。
同じく、斎藤月岑が編纂した「武江年表」正編(1850年(嘉永3))によると、天保年間(1830-1844)は、お会式の「飾り物」が中止されている。この時期、法明寺やその子院で鬼子母神の別当であった大行院について、さまざまな紛争が伝えられている。また、天保改革の時期でもあった。それらの要因で、一時期停止されたといえる。しかし、かなり早期に復活したらしく、「武江年表」続編(1878年(明治11)脱稿)では、1852年(嘉永5)の項に「雑司ヶ谷法明寺会式中、境内にとうがらしをもて大なる達磨をつくる」とあり、新たな「飾り物」が作られていたのである。
参考:『豊島区史』資料編三、zoushigaya.seesaa.net。

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19世紀に入ると、雑司ヶ谷のお会式には変化の兆しがみられる。雑司ヶ谷に住んでいた金子直徳により書かれ、一八一一年(文化八)以後に成立したとみられる「若葉抄」においては、鬼子母神の年中行事として会式が扱われるようになった。一〇月六―八日は会式に使う造花を扱うことを起源とする花市が開かれ、八―十八日まで会式期間とされた。なお、十月八日は鬼子母神の尊神御衣替という神事の日でもあった。しかし、「寺に飾り物」と書かれているように、鬼子母神境内はお会式における宗教的な場というよりも、度々将軍・大名・御殿女中らが参詣する際の幕屋や茶屋の幕屋がはられ、近在の商人の格好の商いの場であった。むしろ遊興的空間であったといえよう。
法明寺とその子院を中心にして行われるお会式にも変化があった。境内の飾り物や法要だけでなく、「ねり供養」「音楽法事」なども行われるようになった。「ねり供養」というのは、何らかの行列で行われる仏事である。この法明寺のお会式の実施は、四谷の檀家である伊藤小右衛門によって皆に知られるように高声で宣伝されたという。この「ねり供養」は僧侶によって行われたのか、在家信者によって行われたのかは不明であるが、現在の鬼子母神お会式の中心をなす「万燈練供養」という行列仏事の原型をなすものといえよう。
このように、19世紀初頭において、鬼子母神は「お会式」の場の一部に取り込まれるとともに、現在の行列による仏事「万燈練供養」の原型が生まれてきていたといえよう。

参考文献:『豊島区史』資料編三

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