雑司ヶ谷お会式については、管見では読売新聞1892年10月4日号に出ている。それには、
◎ 雑司ヶ谷日蓮の会式 本月八日より廿三日まで雑司ヶ谷鬼子母神境内に安置しある安国日蓮大士の会式を執行するに付き近郷近町村講中有志者より安本亀八作の生人形日蓮大士一代記のかざり物等を寄附し猶毎夜数十本の万燈練り込み等ある由
と伝えられている。期間が8-23日となっている。すでに近世期より、将軍の命によってこの期間となっていたが、それを踏襲している。また、近郷講中より人形・飾り物が寄附されて展示されている。これも、雑司ヶ谷お会式の本来の形を踏襲している。しかし、一方で夜間の万燈練り込みが記載されている。これは、たぶんに幕末期以降の池上本門寺における会式のスタイルを受け継いだものといえる。明治中期の雑司ヶ谷のお会式は、近世期の雑司ヶ谷お会式のスタイルと、池上本門寺のスタイルが混合していたといえるであろう。
『高田町史』(1933年)では、「明治年間に至り次第に衰微傾向を呈したので、明治二十六年(1893)、信徒惣代が土地の有志と謀りて再興の策を施し、万燈も復興し、毎年十月八日から十八日まで十日間連日挙行した」とあるが、先の新聞記事とやや食い違っている。その前年には、万燈のあるお会式は挙行されていたのである。ただ、推測でいえば、この頃に、鬼子母神のお会式の再編が行われたのではなかろうか。『高田町史』によると1932年にお会式再興40年記念式が開催されたそうである。
1896年10月9日の読売新聞には「例年よりハ生人形陳列の箇処を増し夜ハ数十本の万燈を出し昼ハ茶番狂言等を奉納して参詣者の観覧に供せんと近町村を始め牛込小石川四ツ谷麹町等の各信徒ハ何れも意気込み居るとの事」と書かれている。この時も、元来の雑司ヶ谷お会式のもつ遊興的感覚が強かったことがわかる。一方、このお会式をささえる講社は、牛込・小石川・四谷・麹町などの、東京北部のかなり広汎な地域からきていることもわかる。熱心な日蓮宗信者にささえられた祭事でもあった。