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Archive for 2010年12月

書房深谷克己先生から『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』(山川出版社、2010年11月20日 定価800円)をいただいたので、このブログで感想を記しておきたい。本書は、いい意味で、表題からくるイメージを裏切っている。こういう表題を見ると、近世の幕府政治家であった田沼意次の生涯を時系列的におった「評伝」をイメージするのが普通であろう。しかし、本書は、田沼意次が1786年に老中を辞職してから、1788年に失意のうちに死去するまでの2年間を中心に描いている。その中では、1877年の降魔祈祷願文、同年の家中教諭、さらに同年の遺訓を中心に描いている。最初の降魔祈祷願文で、田沼意次は、自身の失脚を嘆きつつも、自らには覚えがないとし、将軍お目見えの再開など、再び幕府政治家としての再起を祈願している。しかし、その直後に天明のうちこわしがあり、それを契機に政敵である松平定信の寛政改革が本格的に開始されることになった。そこで、田沼は、幕府政治家として生きていくのではなく、譜代大名の一人として生きることを決意して、家中に大名家として生きることを教諭した。しかし、同年中にも彼の悲運が続き、田沼意次は隠居を命じられ、大名として最低限の1万石に減封された。その際の心得として嫡孫意明に書き残したのが「遺訓」である。
田沼意次このような、最晩年の三つの資料から、深谷先生は、田沼意次の人間像を描き出し、さらに、大名としてのあり方を、田沼への批判も含めて議論している。時系列的な評伝よりも、より的確に田沼の人間像が理解できるといえよう。ある意味では、フラッシュ・バックを含めた映画的手法といえる。人生の最後に行った田沼の回想と遺志に焦点をしぼりつつ、その説明のために、彼の人生を振り返っている。降魔祈祷、家中教諭、孫への遺訓など、それぞれの場面で語る田沼意次の肉声が聞こえてくるようだ。本書を、映画のシナリオとしてみたらという、想像にかられるのである。
ただ、実際には、本書は、深谷先生の為政者としての藩主論を前提とし、そこを前提として田沼の大名としての不十分さを批判していることも忘れてはならない。このような、学問として深めていく読み方のほうが正当であろう。しかし、このような本書の構成が、テクスト的というよりも、イメージ的なものであるということも看過できないことである。そして、このような構成をとったことで、多くの語を費やすよりも、深谷先生の議論がわかりやすくなったともいえると思う。
短い本なので、多くの人に読んでもらいたいと思う。もし、田沼意次の伝記をもっと知りたければ、藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房)がある。

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[明治中期の新聞を読んでいるとお会式の思わぬ姿が浮かび出てくる。『二六新報』1902年10月11日号には、池上本門寺のお会式について、「当夜は読経の了ると▲御籠 と称し男女老幼暗き処に打集ふを例とし、此の機に乗じて風俗壊乱の挙動に及ぶ者年々歳々夥しきより、今年は同所に無数の点灯をなし如上の弊風を一掃せん筈なり」と書かれている。まあ、いろいろ評価はあろうが、男女交際の場でもあったといえる(もちろん、公式的ではないが)。
参籠はなかったと考えられる雑司ヶ谷鬼子母神のお会式にも、男女関係を暗示させるものが出ている。『読売新聞』1910年10月18日号の高木敏雄「鬼子母神の会式に就て」は、鬼子母神がユノやヴィーナスのような子孫繁栄の母神を出自にしていることを論じているが、その中で「雑司ヶ谷の会式にも、矢張此風俗の一部が保存されて、道路の両側に樹てられる多くの燈籠には必ず男女の情交に関係した絵が描かれている。而も此祭日に限って、此風俗壊乱的の絵画が公然許されているのは、必ずや相当の理由がある事と思ふ」と書かれている。鬼子母神という神格のためなのか、遊興的雰囲気のためなのか、池上本門寺の参籠の影響なのかはわからないが、男女関係が暗示されるような燈籠が陳列されていたとはいえるであろう。
ただ、現代の雑司ヶ谷鬼子母神のお会式を見る限り、そのようなことを暗示させる万燈などは存在していない。新聞でみる明治末年の状況とは大きくかわっているといえる。
ただ、男女なかよく行列に参列するという意味では、今もそのようななごりはあるだろう。

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さて、近代のお会式について、国家権力はどのように対応したのであろうか。当時の新聞である『二六新報』1902年10月11日号は、池上本門寺のお会式について、次のように伝えている。当時の池上本門寺のお会式は、東京全市から講社が参詣する場であり、そのために、大森駅までの臨時列車が出ていた。そのことについて、『二六新報』は、「当日は例の如く各講中隊を為し列を作り人波打て景気よく押しかくべければとて、品川芝の両署にては非番巡査を召集し新橋品川の両停車場を警戒し、本山上長栄堂前の掛茶屋は其の休息所に当て、又警視庁第三部よりも医員出張し病者負傷者の応急手当に備へ、又▲本山下 の池上小学校も同じく巡査休息所に当て、大森停車場脇病院は根年々休息場に当てられしも、同病院は今年癩病患者多き為同所を駐在所に変更し遺失物迷子等を茲処にて取扱ふ」と報じている。国家権力の末端としての警察は、まずは人混みを規制し、急病人を介護し、遺失物を預かり、迷子を保護するものとして立ち現れてくるといえる。いわば、お会式に集まる民衆を保護するものとして、国家は行動しているといえる。
他方で、『二六新報』は、「又例の肩にして狂ひ廻はる万燈は、先頃の府令に基き市内の祭礼等には此の挙を許さざりしも、同所は郡部の事とて大目に見のがすとの事、但し万燈を振り廻し或は通行人の妨害と認めらるる時は差止めらるること勿論なり」と伝えている。この一文は、なかなか微妙である。府令において、市内祭礼で万燈を振りかざすことは禁止されていたが、「郡部」ということで、特別に許可されているのである。しかし、それも、警察のまなざしで、目に余るという行為は規制するとしているのである。ここでの、警察の振る舞いは、「府令」を根拠にした民衆の行為を規制する権利を保有しつつ、ケースバイケース(ここでは「郡部」という理由で)で許容するというものであった。ここでは、国家は、民衆の行為を規制するものとして立ち現れているといえるのである。
もちろん、このような国家の二面性は、現代のお会式でもみることができる。現在でも、警備を理由に、警察は大動員をかける。実際、車道を行列する際、警官が保護している。一方で、行列の経路は、警察側が認可してはじめて可能となっている。民衆を保護することと、民衆を規制することの二面性―国民国家としての近代国家権力の特徴ということができる。

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本郷講中寄進の鬼子母神の狛犬(2010年12月10日撮影)

本郷講中寄進の鬼子母神の狛犬(2010年12月10日撮影)

さて、神仏分離後のお会式はどうなったのだろうか。明治前期のお会式については、池上本門寺の景況が新聞に掲載されている。すでに汽車が運行され、特別運転がなされ、それが交通手段となっている。ただ、万燈をもって集団で参詣し、池上本門寺に参籠するというスタイルは、幕末期とそれほど変わらない。
雑司ヶ谷お会式については、管見では読売新聞1892年10月4日号に出ている。それには、

◎ 雑司ヶ谷日蓮の会式 本月八日より廿三日まで雑司ヶ谷鬼子母神境内に安置しある安国日蓮大士の会式を執行するに付き近郷近町村講中有志者より安本亀八作の生人形日蓮大士一代記のかざり物等を寄附し猶毎夜数十本の万燈練り込み等ある由

と伝えられている。期間が8-23日となっている。すでに近世期より、将軍の命によってこの期間となっていたが、それを踏襲している。また、近郷講中より人形・飾り物が寄附されて展示されている。これも、雑司ヶ谷お会式の本来の形を踏襲している。しかし、一方で夜間の万燈練り込みが記載されている。これは、たぶんに幕末期以降の池上本門寺における会式のスタイルを受け継いだものといえる。明治中期の雑司ヶ谷のお会式は、近世期の雑司ヶ谷お会式のスタイルと、池上本門寺のスタイルが混合していたといえるであろう。
『高田町史』(1933年)では、「明治年間に至り次第に衰微傾向を呈したので、明治二十六年(1893)、信徒惣代が土地の有志と謀りて再興の策を施し、万燈も復興し、毎年十月八日から十八日まで十日間連日挙行した」とあるが、先の新聞記事とやや食い違っている。その前年には、万燈のあるお会式は挙行されていたのである。ただ、推測でいえば、この頃に、鬼子母神のお会式の再編が行われたのではなかろうか。『高田町史』によると1932年にお会式再興40年記念式が開催されたそうである。
1896年10月9日の読売新聞には「例年よりハ生人形陳列の箇処を増し夜ハ数十本の万燈を出し昼ハ茶番狂言等を奉納して参詣者の観覧に供せんと近町村を始め牛込小石川四ツ谷麹町等の各信徒ハ何れも意気込み居るとの事」と書かれている。この時も、元来の雑司ヶ谷お会式のもつ遊興的感覚が強かったことがわかる。一方、このお会式をささえる講社は、牛込・小石川・四谷・麹町などの、東京北部のかなり広汎な地域からきていることもわかる。熱心な日蓮宗信者にささえられた祭事でもあった。

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国家権力をめぐる政治闘争とは相対的に別個のものである紛争をどのようにとらえていくか。安丸良夫氏・牧原憲夫氏・鶴巻孝雄氏・稲田雅洋氏らの民衆運動研究は、政治運動である自由民権運動とは相対的に自立した民衆運動を描き出しており、その論理を「生活者」の論理として指摘している。それは、非常に重要な指摘といえる。
しかし、一方で、民衆自体に内在する「権力」関係については、十分描いているとはいえない。単に、傲慢な政治運動の指導のみで権力に取り込まれているとはいえないであろう。そのような、いわゆる生活の場における力関係の動向を分析する方法論が必要となろう。
多少、手前勝手な主張になるが、私が関与していたアジア民衆史研究会の2006年度大会では、「死をめぐるポリティクス」をテーマとして「ポリティクス」論を提唱しており、国家権力とは相対的に自立した生活の場における力関係を検討する方法論を提起しているといえる。この問題提起(佐野智規文責)では、「近世・近代移行期においては、『終極的には』国民国家の権力装置とそのイデオロギーがヘゲモニーを握る、それは概ね確かなことだと言えるだろう」と述べている。しかし、それを前提としながらも、「ここで検討したいのは、『終極』のやや手前の空間、死という出来事によって出現した、さまざまな力の接触と闘争の空間である。この空間への介入は複数の位相からやって来るため(死者の近親者という位相、所属していた地域、職業、信仰などの諸集団等)、『終極的には』支配的イデオロギーの主導の下に序列が形成されるとは言え、子細に観察すればその複雑かつ屈折したヘゲモニー闘争のダイナミズムを明らかにすることが出来るのではないか、そのような微細な闘争の集積はどこへ行くのか」と主張している。国家のヘゲモニーの下で行われる、複数の位相から行われる介入と、それによって展開される微細な諸闘争を検討することーこれが「ポリティクス」論の中で含意はされているといえよう。
もちろん、これは、抽象的な提起に過ぎず、具体的なものではない。しかし、国家のヘゲモニーの下で行われる微細な諸闘争をまず検討するための認識枠組みになりえると考えている。

参考:『アジア民衆史研究』第12集

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雑司ヶ谷大鳥神社(2010年12月10日撮影)

雑司ヶ谷大鳥神社(2010年12月10日撮影)

雑司ヶ谷鬼子母神は、神仏分離によって大きな変容を蒙った。近世の多くの神社は、修験(山伏)を含む仏教寺院が別当寺として管理するところが多かった。明治維新による神仏分離令により、そのような多くの神社では、仏教寺院による管理が廃止され、専門神職によって管理されるようになった。また、それまでの神社祭祀には仏教的儀礼が多く取り入れられていたが、新しく神道独自なものに切り替えられていった。
鬼子母神は、微妙であった。鬼子母神は雑司ヶ谷の産土神であり、本来祭礼も歩射と草薙という神事系のものであり、歩射は雑司ヶ谷村民の宮座によって運営されていた。しかし、鬼子母神は仏教の護法神であり、別当寺大行院の本寺である法明寺によって仏教色が強く植え付けられていた。そのため、鬼子母神は、神仏分離にあたって、仏教寺院として位置づけられるようになったのである。ここで、産土神としての鬼子母神は否定されたといえよう。
一方、鬼子母神境内社であった疫病除神である鷺大明神が鬼子母神門前の料亭に移築され、大鳥神社と改称された。その後、旧幕臣の矢島昌郁が自身の宅地を寄進し、現在地に移築された。この社が雑司ヶ谷の産土となっている。この神社の祭礼は9月の例祭と11月の酉の市であり、鬼子母神の祭礼は受け継いでいない。
参考:『豊島区史』(1951年)

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昨日、法政大学で開かれた「第72回民衆思想研究会」に参加した。同会の全体テーマは「越境する『共同体』ー北方域を中心にー」であった。第一報告は、塩屋朋子「秋田藩城下町久保田の感恩講にみる都市社会」であり、具体的には、近世後半の久保田(現秋田市)において、藩御用達町人を中核として、貧民救済を目的とした、自生的な「共同体」である「感恩講」が成立したことを論じている。第二報告は、新藤透「<場所共同体>の諸相ー『和風改俗』と関連させて」であり、和人によるアイヌの一方的な搾取の場であったととらえられてきた「場所」は、実際にはアイヌと和人の「共同体」を形成しており、幕府の「和風改俗」政策の受け皿となったしている。第三報告の坂田美奈子「アイヌ口承文学とともに考える<場所共同体>論ーアイヌ=エスノヒストリーの立場から」は、アイヌの口承文学からアイヌ・和人の生活の場としての「場所」が成立していたと指摘している。
この三報告に対して、比較的年長の世代は、かなり厳しく批判していた。例えば、国家権力の問題はどうなるのかなどと質問していた。まあ、そういう意見も出るだろう。
ただ、国家権力の作用をすべての局面にみるということのほうも問題なのではないか。今回の三報告は、日常的には国家権力と意識的に対峙しているわけではない現代の社会風潮を現しているともいえる。
さらにいえば、年長の世代も、今回の三報告も、強制力としての、「暴力装置」を介しての、「国家」が直接に関与しない場を予定調和的「共同体」として把握していることも問題ではないか。近現代においての「権力」とは、資本ー労働、男性ー女性、マジョリティーマイノリティなど、直接的には国家の強制力の発動がなく行使されている。そういった、現代社会を見る目で、過去を見ていかなくてはならないのではないか。その意味で、すべての歴史は現代史であるといえよう。

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