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Posts Tagged ‘深谷克己’

書房深谷克己先生から『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』(山川出版社、2010年11月20日 定価800円)をいただいたので、このブログで感想を記しておきたい。本書は、いい意味で、表題からくるイメージを裏切っている。こういう表題を見ると、近世の幕府政治家であった田沼意次の生涯を時系列的におった「評伝」をイメージするのが普通であろう。しかし、本書は、田沼意次が1786年に老中を辞職してから、1788年に失意のうちに死去するまでの2年間を中心に描いている。その中では、1877年の降魔祈祷願文、同年の家中教諭、さらに同年の遺訓を中心に描いている。最初の降魔祈祷願文で、田沼意次は、自身の失脚を嘆きつつも、自らには覚えがないとし、将軍お目見えの再開など、再び幕府政治家としての再起を祈願している。しかし、その直後に天明のうちこわしがあり、それを契機に政敵である松平定信の寛政改革が本格的に開始されることになった。そこで、田沼は、幕府政治家として生きていくのではなく、譜代大名の一人として生きることを決意して、家中に大名家として生きることを教諭した。しかし、同年中にも彼の悲運が続き、田沼意次は隠居を命じられ、大名として最低限の1万石に減封された。その際の心得として嫡孫意明に書き残したのが「遺訓」である。
田沼意次このような、最晩年の三つの資料から、深谷先生は、田沼意次の人間像を描き出し、さらに、大名としてのあり方を、田沼への批判も含めて議論している。時系列的な評伝よりも、より的確に田沼の人間像が理解できるといえよう。ある意味では、フラッシュ・バックを含めた映画的手法といえる。人生の最後に行った田沼の回想と遺志に焦点をしぼりつつ、その説明のために、彼の人生を振り返っている。降魔祈祷、家中教諭、孫への遺訓など、それぞれの場面で語る田沼意次の肉声が聞こえてくるようだ。本書を、映画のシナリオとしてみたらという、想像にかられるのである。
ただ、実際には、本書は、深谷先生の為政者としての藩主論を前提とし、そこを前提として田沼の大名としての不十分さを批判していることも忘れてはならない。このような、学問として深めていく読み方のほうが正当であろう。しかし、このような本書の構成が、テクスト的というよりも、イメージ的なものであるということも看過できないことである。そして、このような構成をとったことで、多くの語を費やすよりも、深谷先生の議論がわかりやすくなったともいえると思う。
短い本なので、多くの人に読んでもらいたいと思う。もし、田沼意次の伝記をもっと知りたければ、藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房)がある。

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