[明治中期の新聞を読んでいるとお会式の思わぬ姿が浮かび出てくる。『二六新報』1902年10月11日号には、池上本門寺のお会式について、「当夜は読経の了ると▲御籠 と称し男女老幼暗き処に打集ふを例とし、此の機に乗じて風俗壊乱の挙動に及ぶ者年々歳々夥しきより、今年は同所に無数の点灯をなし如上の弊風を一掃せん筈なり」と書かれている。まあ、いろいろ評価はあろうが、男女交際の場でもあったといえる(もちろん、公式的ではないが)。
参籠はなかったと考えられる雑司ヶ谷鬼子母神のお会式にも、男女関係を暗示させるものが出ている。『読売新聞』1910年10月18日号の高木敏雄「鬼子母神の会式に就て」は、鬼子母神がユノやヴィーナスのような子孫繁栄の母神を出自にしていることを論じているが、その中で「雑司ヶ谷の会式にも、矢張此風俗の一部が保存されて、道路の両側に樹てられる多くの燈籠には必ず男女の情交に関係した絵が描かれている。而も此祭日に限って、此風俗壊乱的の絵画が公然許されているのは、必ずや相当の理由がある事と思ふ」と書かれている。鬼子母神という神格のためなのか、遊興的雰囲気のためなのか、池上本門寺の参籠の影響なのかはわからないが、男女関係が暗示されるような燈籠が陳列されていたとはいえるであろう。
ただ、現代の雑司ヶ谷鬼子母神のお会式を見る限り、そのようなことを暗示させる万燈などは存在していない。新聞でみる明治末年の状況とは大きくかわっているといえる。
ただ、男女なかよく行列に参列するという意味では、今もそのようななごりはあるだろう。
雑司ヶ谷鬼子母神お会式ー明治期のお会式の一面
2010年12月17日 投稿者: Hisato Nakajima
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