1960年代、福島原発建設と同時期に、福井においても原発建設が進められていた。福井が公式に原発建設の候補地となったのは1962年で、初めは福井県嶺北地方の坂井郡川西町(現福井市)の三里浜地区が候補になったが、岩盤が脆弱なために放棄され、嶺南地方の敦賀半島に所在する、敦賀市浦底地区と美浜町丹生地区が原発建設の候補地となった。結局、前者に日本原子力発電株式会社敦賀発電所、後者に関西電力美浜発電所が建設され、双方とも1号機は1970年に営業運転が開始されている。この二つの原発は、福井県への原発集中立地のさきがけとなり、敦賀原発自体が二つ、美浜原発自体が三つの原子炉を有するとともに、近接して実験炉のふげん(廃炉作業中)、もんじゅが建設されることになった。さらに、若狭地方には、それぞれ四つの原子炉を有する高浜原発と大飯原発が建設され、福島を凌駕する日本最多の原発集中立地がなされることになった。
福井の場合、福島と違って、1960年代初めから、原発建設に対する懸念が強かった。福井県の労働組合やそれを基盤とする社会党・共産党の県議・市議たちは、原子力の平和利用ということは認めつつ、具体的な原発建設についてはさまざまな懸念の声をあげていた。また、地元においても、美浜町丹生などでは比較的反対する声が強かった。
他方、思いもかけない方面で懸念の声があがっていた。懸念の意を表明したのは、昭和天皇である。このことを報道した福井新聞朝刊1966年10月14日付の記事をここであげておこう。
原電、西谷災害など 北知事、陛下にご説明
町村北海道知事ら十二道府県知事は、十三日午前十時半から、皇居で天皇陛下に各県の情勢などを説明した。これは数年前から恒例の行事になっているもので、陛下を中心に丸く輪になってすわった各知事が、五分間ずつ各地の現状と最近のおおきなできごとを話した。陛下は北海道、東北地方などの冷害や台風被害などにつき質問されていた。
正午からは陛下とともに仮宮殿の別室で昼食をとった。
北知事の話 電源開発と昨年秋の集中豪雨禍で離村する西谷村の現状について申しあげた。電源開発計画は、九頭竜川上流に四十三年六月を目標に三十二万二千キロの水力発電が完成するほか、原子力発電は現在敦賀半島で六十七万キロの開発が進んでおり、このほかの計画も合わせると数年後には百二十万キロ以上の発電能力を持つ全国屈指の電力供給県になるとご説明した。陛下からは非常によい計画だが、これによって地盤変動などの心配はないかとのご質問があったが、じゅうぶん考慮しており大じょうぶですとお答えした。
また昨年九月の集中豪雨で大きな被害を出した西谷村について、防災ダム建設などもあって全村離村する計画をお話ししたが、これについてはご下問はなかったが、ご心配の様子がうかがえた。
(福井新聞朝刊1966年10月14日付)
「北知事」とされているのは、原発誘致を積極的にすすめた当時の北栄造福井県知事のことである。かいつまんでいうと、北知事は、当時の福井県で進められていた水力発電所と原発建設を中心とする電源開発について説明したのだが、その際、昭和天皇から「非常によい計画だが、これによって地盤変動などの心配はないか」と質問され、北知事は「じゅうぶん考慮しており大じょうぶです」と答えたということなのである。
ここで、昭和天皇は、福井県の電源開発について「地盤変動などの心配はないか」と懸念を表明している。あげられている文章からでは、水力発電を含めた電源開発全体についてなのか、原発に特化したものなのか判然としないのだが、「地盤変動」をあげていることから原発のことなのだろうと推測できる。
このように考えてみると、原発開発の創設期である1960年代において、昭和天皇は、原発について「地盤変動」ー具体的には地震などを想定できるのだがーを「心配」していたとみることができよう。
原発が建設される地元の人びとや、さらに昭和天皇ですら表明していた原発に対する「懸念」に、国も県も電力会社も正面から答えることはなかった。結果的に福井県の原発はいまだ大事故を起していない。しかし、それは、「地盤変動」が原因でおきた福島第一原発事故をみて理解できるように、「たまたま」のことでしかないのである。