さて、1960年末に関西研究用原子炉が大阪府熊取町に建設されることが決まり、福井県の誘致活動は挫折したのだが、その1年以上後の1962年2月27日、福井県知事北栄造は福井県の2月議会(当初予算案が審議される)の所信表明演説のなかで、次のように述べた。
(前略)現況を見ますと、まず各位並びに県内外有識者の御協力のもとに策定されました県総合開発計画もいよいよ第二年度目を迎え、活気と躍動に満ちた県政諸般の総合施策も逐次軌道にのり、着々その成果を収めつつあります。
たとえば置県以来の大事業たる奥越電源開発は、電発、北電の共同開発計画も決定し、着々その緒につきつつあるのでありますが、さらに本県の大動脈たる北陸線の複線電化、国道八号線を初め主要道路、港湾の整備充実、観光事業の一大躍進、大小工場特に呉羽紡績工場の誘致、さらには将来の県勢のきめ手となる原子力第二発電所誘致にも明るい見通しにある等、本県勢一大躍進の態勢は飛躍的に整備されつつあるのであります(後略)。
(『第百四回定例福井県議会会議録』p12)
つまり、ここで、北栄造は「原子力第二発電所誘致にも明るい見通しにある」ともらしたのである。
この「明るい見通し」について、具体的な内容が明らかになったのは、3月2日であった。この日、西山光治県議は自由民主党を代表して質問し、最後に次のように問いかけた。
(前略)最後に原子力発電所誘致についてでありますが、知事は予算案の説明にあたり、原子力第二発電所誘致にも明るい見通しがあると述べておられますが、単なる希望的観測であるか、具体的な見通しのもとに立って説明されたのか存じませんが、原子力発電所が実現いたしますとすれば、本県政躍進の一大拠点となると申しても、あえて過言ではないと信ずる次第でありますが、これに対し現在いかなる段階にあるか、将来の見通し等についても、あわせて具体的にお伺いいたします。
(『第百四回定例福井県議会会議録』p38)
西山の質問に対して、北は次のように答弁し、その段階における原発誘致の状況を説明した。
最後に原子力の問題でございますが、実は本日午前十一時半に新聞記者に発表いたしたのでございますが、それの要旨は、地元の御熱意、川西町の御熱意に応えまして、県といたしましては予算の関係、その他がございまして急速に行きませんので、これまた開発公社において五十万坪の土地を確保して、そしてボーリングを始める。これは三日か四日に向こうから人が来ていただきまして、どの土地を五十万坪ほしいか簡単に申しますと、そこをボーリングを五、六ヵ所いたす手はずになっておるということを実は発表いたしたのでございます。私の率直な考えを申しますと、それほどにまず有望ではあるまいか、それは地元なり県なりが、それだけの熱意を示して資料を持っていきますならば、会社が動いてくれまいか、政府が動いてくれまいかということでございます。三木長官にも、この前議長さんと、電発の委員長さんと三人で参りまして、いろいろと懇請を申し上げました。福井を最も有望な候補地にしょうという言明もいただいておるのでございます。現在がそういうことで、これは一ヵ月か一ヵ月半ぐらいボーリングにかかると思いますが、単なる誘致運動だけでは、これはできませんので、気象の条件、地質の条件、これらも会社ですでに調査済みであるように考えられます。そのボーリングをいたしまして、中の地盤がどうであるかということがわかりますれば、私おのずから、全国の一番かどうか知りませんが、一、二、三番目ぐらいの中には入る、そうして皆さんの御協力なり国会議員の御協力をいただいて、そして政治的にも動いていきますならば、ここにきまること、まあ困難のうちにも非常に明るい見通しも持っております。これは最初二十五万キロか三十万キロの発電をいたすようでございますが、五十万坪と申しますと、またまたこれを三つか四つやるぐらいの余裕が残っておるはずでございます。もしもきまりますれば、東海村の二倍の計画を第一次に行なうらしいのでございますが、何といたしましても地盤がわかりませんし、私も自信をもって交渉ができないのでございますので、自信を持ってできますように、早急に、よその県でまだ手の打たない先にさようにいたしたいのでございます。こうしたことは、原子力会社にも意思は伝えておるのでございまして、確かきょう午後二時に会社の方面におきましても、私が申し上げた程度の発表を中央で行なっておるように打ち合わせ済みでございます。そうした私は明るい見通しにあると思うのでございまして、議会の特別の御協力を賜わりたいことをお願い申し上げる次第でございます。
(『第百四回定例福井県議会会議録』pp51−52)
要するに、福井県の嶺北地方にある坂井郡川西町(現福井市)において、福井県開発公社が50万坪(約165万㎡)の予定地を確保し、日本原子力発電株式会社が東海村の次に建設する原発の候補地としてボーリング調査を開始することになり、当日記者発表したというのである。この北の発言で「地元の御熱意」「川西町の御熱意」を強調していることに注目しておきたい。そもそも原発敷地の適不適は原発事業者しかわからないものである。このブログでも述べているように、1960年、すでに北知事は北陸電力が坂井郡における原発建設を打診していることをもらしている。また、この地は同年の関西研究用原子炉建設の候補地であった。たぶんに、北電や日本原電などの原発事業者にとって、坂井郡川西町は原発候補地としてすでにリストアップされていたことであろう。川西町などが原電などと無関係に自主的な形で原発候補地として名乗りをあげることなどできようはずもない。
それなのに、なぜ、北知事は「地元の熱意」を強調するのだろうか。北は「地元なり県なりが、それだけの熱意を示して資料を持っていきますならば、会社が動いてくれまいか、政府が動いてくれまいか」と語り、自身と県議会議長さらに電源開発特別委員長の3人で所轄の三木武夫科学技術庁長官に陳情して「福井を最も有望な候補地」とする言質をとったことを紹介している。中央の会社や国を動かすには「地元の熱意」が必要という論理がそこにはある。この後、福井県議会をはじめ誘致自治体の議会では「原発誘致決議」がなされるが、それは「地元の熱意」を示すものなのである。すでに、関西各地で行なわれた関西研究用原子炉反対運動をみるように、「原子力」は一方において「忌避」されるものでもあったのだが、関西各地で忌避されていた「原発」を「地元の熱意」ーつまり主体性をもって迎えなくてはならないとされたのである。
そして、裏面においては、他県との競争意識が存在している。北は「早急に、よその県でまだ手の打たない先にさようにいたしたいのでございます」と語り、他県より先んじることを重要視しているのである。
このように、「政治的」な駆け引きがみられた反面、原発自体については、その危険性も含めて十分理解しているとはいえない。北は「これは最初二十五万キロか三十万キロの発電をいたすようでございますが、五十万坪と申しますと、またまたこれを三つか四つやるぐらいの余裕が残っておるはずでございます」と言っている。そもそも、原子炉の場合、爆発その他を予想して立ち入り制限区域を原子炉の出力に応じて広くとる必要があり、それが原発の敷地面積なのである。50万坪というのは出力1万キロワットという研究用原子炉が建設されることになっていた東海村の日本原子力研究所の予定敷地面積と同じである。この50万坪という敷地面積自体、アメリカの基準の約20%という過小なものであった。1万キロワットの原子炉でも過小な50万坪という面積しかない敷地に、その20〜30倍の出力の原子炉を建設し、さらに同じ敷地に複数の原子炉を建て増しするということを北栄造は希望しているのである。政治的な「駆け引き」ではそれなりに知恵を働かしているといえるのだが、原子力それ自体が何であるか、そこには知恵を働かせようとはしていないのである。
このように、1962年2月の福井県議会で、原発誘致方針が公表された。しかし、福井県の場合、福島県と比較すると、第一候補地にさしたる反対もなくすんなりと原発が建設されたわけではない。今後、その過程をみていこう。