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Posts Tagged ‘楢葉町’

昨日(11月23日)、3.11以後初めて福島県楢葉町に足を踏み入れた。福島第二原発の門前に行ってしまい、そこで検問されるというハプニングはあったが(特定秘密保護法があったら、どうなっていたかわからない)、昨年8月10日に警戒区域が解除されて避難指示解除準備区域となった楢葉町に立ち入ることは可能になったようである。

楢葉町で印象づけられるのは、除染作業の進行と、放射性廃棄物と思われる黒いビニール袋の山である。町中、いたるところ、農地や道路、常磐線の線路、民家の軒先などに、黒いビニール袋が山積みされていた。林野の中の空き地や、津波被災によって空き地になったところにも、沢山の黒いビニール袋が積み上げられていた。そして、「楢葉除染」というステッカーをはった車が行き交っていた、そして、除染作業者関係の建物が建設されていた。楢葉町で見かけた人たちの多くは除染作業員であった。次の写真は、下繁岡というところから撮影したものだ。厳密にいえば井出川という川の対岸なので、井出というところかもしれない。このような景況は、町の全域でみられる。

楢葉町における除染作業(2013年11月23日)

楢葉町における除染作業(2013年11月23日)

海岸部には、いまだ津波被災の跡がみられる。といっても、ほとんどの瓦礫は片付いていたが。次の写真も下繁岡で撮影したものである。

楢葉町の津波被災(2013年11月23日)

楢葉町の津波被災(2013年11月23日)

ただ、海岸部を除けば、民家にせよ、道路にせよ、3.11の爪痕はあまりみえなかった。3.11直後は、福島市などでも瓦が落ちた家などが頻繁にみられたが、そういうものはみられない。屋根修繕などはすでに完了しているようである。しかし、民家の多くの窓は閉められ、洗濯物もみられず、住民の行き来もほとんどない。避難指示解除準備区域では、立ち入りは可能だが、居住は原則的に制限されている。住民はまだ帰還できないのである。その中で、前述したように、除染作業と、積み上げられた黒いビニール袋にいれられた廃棄物の山ばかりが目立つのである。

除染作業の効果は限定的であり、一度の作業で年間1mSv以下の線量になるとは限らない。しかし、とりあえず、一般的には生活領域の線量低減にはつながるとはいえよう。しかし、この楢葉町では、そうとはいえないかもしれない。楢葉町は福島県の中間貯蔵施設の建設候補地の一つとされていて、県内の放射性廃棄物を受け入れることが想定されているのだ。

近隣の広野町やいわき市では、それほど放射性廃棄物の山は目立たない。楢葉町の場合、もちろん除染作業中ということもあるが、いたるところで放射性廃棄物の山がみられるのである。すでに、既成事実作りが先行されているのもかもしれない。

さて、この楢葉町に所在している木戸川というところは、3.11以前、鮭の放流事業で有名であった。3.11以前行ったことはないが、今回、木戸川にいってみた。

木戸川河畔のプレート(2013年11月23日)

木戸川河畔のプレート(2013年11月23日)

たぶん、ここに、遡上してきた鮭をつかまえる簗場が設置されていたのだろう。この前に木戸川漁協があり、鮭の慰霊塔などが建設されていた。

木戸川漁協前の記念碑(2013年11月23日)

木戸川漁協前の記念碑(2013年11月23日)

実際、木戸川には鮭が遡上してきていた。次の写真で水しぶきをあげているのが鮭である。

木戸川を遡上する鮭(2013年11月23日)

木戸川を遡上する鮭(2013年11月23日)

しかし、遡上できず、力つきた鮭もいた。この周辺では、肥料のような異臭がただよっていた。そして、たくさんのカモメがまっていた。

木戸川で力つきた鮭(2013年11月23日)

木戸川で力つきた鮭(2013年11月23日)

この鮭の遡上には、なんというか微妙な気持にさせられた。鮭からすれば「自然」の摂理にしたがっただけであり、「健気」としかいいようがない。しかし、放流した人間の側は、それを利用できないのである。

それでも、地元で鮭の放流を再開しようという動きがあることが報道されている。福島民報は10月9日に次の記事をネット配信している。

28年目標サケ放流再開 木戸川漁協、ふ化場整備急ぐ

 楢葉町の木戸川漁協(松本秀夫組合長)は、東京電力福島第一原発事故に伴い中止していたサケの稚魚放流を平成28年春を目標に再開する。8日までに仮事務所を置くいわき市で理事会を開き決めた。
 町内に3カ所あったサケふ化場が東日本大震災の津波で被災しており、松本組合長は「町の協力を得て改修などを行い、施設再開の見通しが早まれば一年でも前倒しして放流事業を始めたい」などと期待を込めた。
 同漁協はサケふ化場で育てた稚魚を震災と原発事故前は年一回、平均1400万~1500万匹を放流していたという。同漁協によると26~27年度は稚魚を他の施設から購入し、年間5千~1万匹を試験的に放流。27年度に施設を再開させ稚魚増殖を再スタートし、28年春、6年ぶりに本格的な放流を始める計画だ。
 今後は遡上(そじょう)するサケや水質のモニタリング、河川の除染などが課題になる。松本組合長は「サケは町の観光面でも大きな比重を占めていた。雇用の受け皿としても町の復興を後押したい」と話し第二次町復興計画と連動させることを強調する。
 同漁協は昨年度からサケのモニタリングを開始した。捕獲した約100匹全てで放射性セシウムは検出下限値未満だったという。今年は20日から12月18日まで全10回にわたり300匹を調査する予定。

( 2013/10/09 11:30 カテゴリー:主要 )http://www.minpo.jp/news/detail/2013100911406

この記事自体、微妙な感慨を持たざるをえない。その必死さは了解せざるをえないのだが、住民が家にもどっての鮭の放流事業ではないだろうか。人が住めるところであるということが、農業にせよ、水産業にせよ、工業にせよ、産業の前提になるのではないだろうか。

そして、この記事でも河川の除染が問題になっている。それは、上流部の山林の除染ということにも関連しているのである。楢葉町においては中間貯蔵施設の設置が想定されている。放射性廃棄物が集められるということと除染はやはり微妙な関係があるだろう。

楢葉町の木戸川に鮭は戻り、それを放流してきた住民たちはまだ戻れない。それが、楢葉町の現状といえるのかもしれない。

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福島第一原発の汚染水問題が議論されていた8月末、福島第一原発・第二原発が所在している立地自治体では、もう一つ大きな動きがあった。まずは、河北新報の次のネット配信記事(2013年8月30日付)をみてほしい。

福島第1・第2の立地4町 全基廃炉方針 東電に要求へ
 福島第1、第2の両原発が立地する福島県双葉、大熊、富岡、楢葉4町は29日、両原発の全10基の廃炉を国と東京電力に求める方針を確認した。全基廃炉は県と県議会が求めているが、立地町の要求は初めて。
 同県広野町であった4町の原発所在町協議会で各町長、町議会議長が確認した。各町議会に議論を促し、同意を取り付ける。
 東電の相沢善吾副社長は4町の意向を受け、「重く受け止める。原発の安定化を最優先に取り組み、エネルギー施策を見極めて国の判断に従う」と話した。
 廃炉が決まっているのは、事故を起こした第1原発の1~4号機。第1原発の5、6号機、第2原発の1~4号機の計6基は方針が定まっていない。
 協議会は第1原発の放射能汚染水漏れの再発防止を求める要望書を相沢副社長に渡した。

2013年08月30日金曜日
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2013/08/20130830t61038.htm

この記事の中で述べているように、事故を起こした福島第一原発1〜4号機の廃炉はすでに決定されている。しかし、福島第一原発5〜6号機、福島第二原発1〜4号機は、事故が起きたわけではなく、再稼働可能である。この再稼働可能な原発も含めて、原発が所在している双葉、大熊、富岡、楢葉の4町の原発所在町協議会は、福島にあるすべての原発の廃炉を東電に求めることにしたのである。

なお、この記事にもあるように、すでに福島県知事と福島県議会は、県内すべての原発の廃炉を要求していた。本ブログの「福島県知事による県内全原発廃炉を求める方針の発表ー東日本大震災の歴史的位置」(2011年11月30日)によると、紆余曲折をへながら、福島第一原発・第二原発の廃炉を求める請願を採択する形で、2011年10月20日に福島県議会は県内すべての原発の廃炉要求に同意する旨の意志表示を行った。この廃炉請願採択を受けて、11月30日に県内すべての原発廃炉を求めていくことを正式に表明している。

その点からいえば、これらの原発所在地において県内原発すべての廃炉を求めるというのは、かなり遅かった印象がある。しかし、それも無理からぬところがあるといえる。福島県全体とは相違して、原発立地自治体においては、雇用、購買力、補助金、税収などさまざまな面で原発への依存度は大きい。それゆえ、福島第二原発など再稼働可能な原発を維持すべきという声は、福島県議会以上に大きかったといえる。例えば、楢葉町長であった草野孝は、『SAPIO』(2011年8月3日号)で次のように語っていた。

双葉郡には、もう第二しかないんだ……。
 正確に放射線量を測り、住民が帰れるところから復興しないと、双葉郡はつぶれてしまう。第二が動けば、5000人からの雇用が出てくる。そうすれば、大熊町(第一原発の1~4号機が立地)の支援だってできる。
(本ブログ「「遠くにいて”脱原発”なんて言っている人、おかしいと思う」と語った楢葉町長(当時)草野孝とその蹉跌ー東日本大震災の歴史的位置」、2012年5月22日より転載)

福島第二原発という再稼働可能な原発が所在し、また、比較的放射線量が低い楢葉町と他の三町とは温度差はあるだろう。しかし、いずれにせよ、福島第二原発などの再稼働によって地域経済を存立していこうという考えが、福島第一原発事故により広範囲に放射性物質に汚染され、ほぼ全域から避難することを余儀なくされていた原発立地自治体にあったことは確かである。

そのような声があった原発立地自治体においても、再稼働可能な原発も含めた全ての原発の廃炉を要求することになったということは画期的なことである。しかし、これは、他方で、福島第一原発事故で避難を余儀なくされ、復興もままならず、多くの避難者が帰郷することはできないと意識せざるを得なくなった苦い経験によるものでもあろう。そして、また、この当時さかんに議論されていた汚染水問題が県内全原発廃炉要求を後押しすることになったとも考えられる。

ただ、河北新報の記事にあるように、この要求はいまだ、町長・町議会議長たちだけのものであり、各町議会で同意をとるとされている。このことに関連しているとみられる富岡町議会の状況が9月21日の福島民報ネット配信記事にて報道されている。

第二原発廃炉議論本格化 富岡町議会 一部に慎重論、審議継続
 富岡町議会は20日、町内に立地する東京電力福島第二原発の廃炉に関する議論を本格化させた。一部町議から「廃炉の判断を現時点で行うのは時期尚早」という意見が出て、継続的に審議することを決めた。
 20日に郡山市で開かれた町議会の原発等に関する特別委員会で塚野芳美町議会議長が「廃炉に関し町議会の考え方をまとめたい」と提案した。
 町議からは「原発に代わる再生可能エネルギーの担保がない」「原発に代わる雇用の場を確保しなければならない」など現時点で廃炉の姿勢を示すことに慎重な意見が出た。
 一方で「県内原発全基廃炉は当然」「廃炉と雇用の問題は別に議論すべきだ」など立地町として廃炉の姿勢を明確にすべきという意見があった。
 特別委員会の渡辺英博委員長は「重要な問題。今後も議論を続けて方向性を定めたい」と述べた。
 富岡の他、楢葉、大熊、双葉の4町でつくる県原子力発電所所在町協議会は8月、国と東電に対し、県内原発の全基廃炉を求める認識で一致している。

( 2013/09/21 08:59 カテゴリー:主要 )
http://www.minpo.jp/news/detail/2013092111011

ここでは富岡町議会のことしか報道されていないが、やはり「全県内原発廃炉」という方針には抵抗のある議員がいることがわかる。つまり、町議会レベルでは、いまだ流動的なのである。

他方、福島原発立地自治体における県内原発全機廃炉の声はそれなりに政府においても考慮せざるを得ない課題となった。9月30日、茂木敏充経済産業相は、東京電力福島第1原発の汚染水問題を巡る衆院経済産業委員会の閉会中審査において、福島第二原発廃炉を考慮せざるをえないと述べた。そのことを伝えている毎日新聞のネット配信記事をあげておこう。

福島第2原発:廃炉検討の考え示す 茂木経産相
毎日新聞 2013年09月30日 20時10分(最終更新 09月30日 22時40分)

 茂木敏充経済産業相は30日、東京電力福島第1原発の汚染水問題を巡る衆院経済産業委員会の閉会中審査で、福島第2原発について「福島県の皆さんの心情を考えると、現状で他の原発と同列に扱うことはできない」と述べ、廃炉を検討すべきだとの考えを示した。福島県は県内全原発の廃炉を求めており、県民感情に配慮した形だ。

 茂木氏は同時に、廃炉にするかどうかの判断について「今後のエネルギー政策全体の検討、新規制基準への対応、地元のさまざまな意見も総合的に勘案して、事業者が判断すべきものだ」と述べ、最終的には東電が判断するとの立場を強調した。

 福島県内には、福島第1、第2で計10基の原発があり、福島第1原発1〜4号機は既に廃炉が決定。同原発5、6号機については、安倍晋三首相が東電に廃炉を要請しており、これを受けて東電が年内に判断する。

 閉会中審査は27日に続いて2日目の開催。茂木氏のほか、原子力規制委員会の田中俊一委員長らが参考人として出席した。

 福島第2原発1〜4号機を全て廃炉にした場合、東電の損失額は計約2700億円。会計制度の見直しで、一度に発生する損失は1000億円程度まで減る見込みだが、福島第1原発5、6号機の廃炉でも数百億円の損失が一度に出る見通し。同時に福島第2の廃炉も行うと決算に与える影響は大きい。

第2原発廃炉については東電内でも「再稼働に必要な地元同意が見込めない以上、いずれ判断をする時期が来る」との意見が多いが、第1原発5、6号機の廃炉は1〜4号機の廃炉作業や汚染水対策に集中する目的があるのに対し、第2の廃炉は「仕事が増えるだけ。将来はともかく、今やれる話ではない」(東電幹部)との声もある。【笈田直樹、浜中慎哉】
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20131001k0000m010035000c.html

安倍政権は、原子力規制委員会が安全と判断した原発は再稼働していくというものであった。しかし、茂木経産相としては、「福島県の皆さんの心情を考えると、現状で他の原発と同列に扱うことはできない」として、再稼働可能な福島第二原発も含めて福島県内の全原発の廃炉を考慮せざるをえないと言わざるを得なくなったのである。

もちろん、今後の推移については、まだまだ紆余曲折があるだろう。地元ではいまだに原発による雇用などに依存しようとする声は小さくないと思われる。また、安倍政権は全体として原発再稼働を求めており、福島第二原発も再稼働対象に含めようとすることも今後あるかもしれない。といいつつ、やはり、地元自治体すらもすべての原発の廃炉を求めるようになったということの意義は大きい。やはり「時計の針は元には戻せない」のである。

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以前、福島第二原発建設反対運動において、建設予定地の富岡町毛萱などの地権者ー農民たちの抵抗が1970年に終息した後、むしろ一般住民の反対運動が展開されるようになったことを、本ブログで論じた。

その後、平工業高校教員であり、後に原発・火発反対福島県連絡会事務局長となる早川篤雄の「福島県楢葉町・富岡町の事例について」(『東北地方の「地域開発」政策と公害』、1973年)という論文を入手した。この早川の論文は、日本科学者会議福島支部などが主催してが973年2月3日にいわき市で開いた『東北地方「地域開発と公害」』シンポジウムにおける報告の一つである。この中で、多分、自身も当事者として参加したと思われる「公害から楢葉町を守る会」について詳述している。この会も一般住民の反対運動の一つといえる。

早川によれば、楢葉町の一般住民の反対運動は、地権者たちの抵抗が終息した後に開始されている。まず、早川の回想をみておこう。

 

「公害から楢葉町を守る町民の会」は、火発・原発の建設が本決まりとなって?、ブルの音が聞かれるようになって、ようやく生まれました。町長選挙が来年の夏に迫った、46年12月、“第1回「町長を囲む懇談会」”が楢葉町南地区(6日)と北地区(7日)で開催された。町長の町政説明の後で質問、意見を述べた者は85名(2日間)のうち28名であった。そのうち火発・原発の不安について訴えを述べた者は3名であった。この時の町長・町側の答弁に疑いと不安を深くした1人、松本巻雄氏(いわき中央高校)が住民運動を呼びかけたのである。(『東北地方の「地域開発」政策と公害』17頁)

 この論文より、一般住民における反対運動の端緒は、原発(福島第二原発)、火発(広野火力発電所)の建設が本決まりになったことであることがわかる。福島第二原発は1968年に建設計画が発表され、富岡町毛萱を中心とした地権者ー農民の反対運動が起きたが、1970年には地権者ー農民の反対運動は終息した。他方、東電の広野火力発電所は、1971年に広野町議会が誘致決議をし、その年のうちには、建設予定地の85%が確保されたといわれている。この時期の火力発電所は、煤煙処理施設などの公害防止施策が十分ではなく、原発以上に公害源と目されていた。そして、1971年末に表明された原発、火発問題についての町側の対応に疑惑と不安を持った、いわき中央高校教員の松本巻雄によって、住民運動を起こすことが提唱されたのである。

早川によると、1972年1月15日には松本他10名によって準備会が開催されたという。そして、2月11日には、会員130名で「公害から楢葉町を守る町民の会」が結成された。

「公害から楢葉町を守る町民の会」結成時の決議文が『楢葉町史』第三巻に収録されている。すでに、本ブログで紹介していているので、概略だけ紹介しておこう。この会は「美しい自然の山河と町民の平和な暮らしと、我々の子孫を守る」ことを目的とした。自然、町民生活、町民の子孫を守ることが、この会の目的であったのである。そして、活動内容としては、

一町民各位への啓蒙、宣伝活動
一公害の科学的調査、研究会、資料の蒐集
一楢葉町の自然保護
一各種公害の予防、防止対策と補償要求運動
一機関紙の発行
一全国各地の公害反対組織運動との連携
一その他公害から楢葉町を守る仕事に関すること

であった。町民への啓蒙・宣伝活動や、公害の科学的調査・研究に力点がおかれていたといえる。いわば、市民運動としての原発反対運動なのである
 
早川によると、この会は、環境庁長官、楢葉町長、楢葉町議会、福島県などに陳情をするとともに、楢葉地区労などと共闘して楢葉町有権者を対象にして火発・原発建設即時中止を求める署名運動を展開し、さらに“公害を知る講演会”を実施しているのである。

そして、早川は、「福島県楢葉町・富岡町の事例について」の中で、次のように一年間の活動を回顧している。

1年間の活動から得た?、もう一つはー大企業があって国があって県があって町がある。その大前提は当地域のようなもの言わぬ住民である。ーこれは私個人のおそすぎた目覚めである。
 41年12月に、福島原発1号機の建設が始められたこと、42年5月に、浪江・小高両町に東北電力の原発誘致問題が起こったこと、43年にはわが町にも原発が誘致されるらしいこと、そして浪江町の地権者や富岡町の毛萱地権者が猛烈な反対運動を繰り広げていたこと等々、私はそれぞれの時点からよく知っていました。電力開発は公共事業なんだから、これはやらねばならんだろうし、又これからのこの地域のためにもある程度の犠牲は仕方ないだろうぐらいに、正直なところ、そんなふうに考えていました。そして46年4月に、広野町に火発が誘致されるらしいと知ったときに、これは大変なことになる、下手にしたら住めなくなると、はじめて自分のこととして驚きました。それで、二、三の知人あるいは隣近所の人達と困ったことになったと、話し合ったりしているうちに、みんなも自分と同じくらいな考えと心配をしていることが判った時、重大な誤解をしていることに気づきました。誤解でなく、気付かなかったのである。火発で驚いてはじめて気が付いたのです。ところがそれでもまだ“これからの世の中”と“誰か”に賭けていました。ーあれは、アカだ。ーの殺し文句が未だに生きている地域でもあるからです。こうした情況が、昭和版「谷中村事件」の再演をここでも一つ許していたー毛萱にも広野にも地を吐くような思いで、土地を手放した?人がいたのである。『県勢長期展望』を見ると、ー本展望のメーンテーマは「人間尊重」であり……「福島県に住んで良かったとしみじみ思う社会」ーの建設を試みたとあります。どこの、だれが住むでしょうか。

・ 原発の不安=どういうことか漠然としてわかりにくい。(原子力なんて、われわれにはとても理解できない科学・技術である、と考えているので)
・ “原発反対”は、住民の立ち上がりだけでは相当困難である。
・ “双葉地区の特殊性”から一番先頭に立つのは、まず小・中・高の教職員以外にないと思われる。(『東北地方の「地域開発」政策と公害』18〜19頁)

まず、早川は「大企業があって国があって県があって町がある。その大前提は当地域のようなもの言わぬ住民である。ーこれは私個人のおそすぎた目覚めである。」と述べている。これは、1973年時点の発言だが、現在でもー3.11以後でもー変わらない状況が続いているといえよう。

そして、早川は、福島第一原発の建設、浪江・小高原発の建設計画、福島第二原発の建設計画、そして、地権者たちの反対運動があったことは承知していたが、「電力開発は公共事業なんだから、これはやらねばならんだろうし、又これからのこの地域のためにもある程度の犠牲は仕方ないだろうぐらいに、正直なところ、そんなふうに考えていました。」と、率直に反省している。

そのような早川の認識を変えたのが、広野火力発電所建設計画であった。早川は「46年4月に、広野町に火発が誘致されるらしいと知ったときに、これは大変なことになる、下手にしたら住めなくなると、はじめて自分のこととして驚きました。それで、二、三の知人あるいは隣近所の人達と困ったことになったと、話し合ったりしているうちに、みんなも自分と同じくらいな考えと心配をしていることが判った時、重大な誤解をしていることに気づきました。誤解でなく、気付かなかったのである。火発で驚いてはじめて気が付いたのです。」と述べている。広野火力発電所建設計画が表面化し、ようやく「下手したら住めなくなる」と、自分のこととして驚いたと早川は告白している。そして、それは、早川だけでなく、知人や隣近所の人びとが共有している思いだったのである。

これは、現在、日本全国の多くの人びとが考えている意識と共通するものがあるといえる。3.11の福島第一原発事故があり、「下手したら住めなくなる」という意識がうまれ、それによりやっと原発問題を自分のこととして考えはじめた人は多いのではなかろうか。私も、その一人であることを、ここで告白しておこう。

しかし、それでも、自分自身の行動により、異議申立をしようとする人びとは少なかった。早川は、「ところがそれでもまだ“これからの世の中”と“誰か”に賭けていました。ーあれは、アカだ。ーの殺し文句が未だに生きている地域でもあるからです。こうした情況が、昭和版「谷中村事件」の再演をここでも一つ許していたー毛萱にも広野にも地を吐くような思いで、土地を手放した?人がいたのである。」と述べている。

冷戦終結後、異議申立を「アカ」=共産主義者として抑圧することは少なくなったといえる(ただし、むしろ、今は「非国民」などとレッテル張りされているのかもしれない)。しかし、2012年末の総選挙にあるように、「“これからの世の中”と“誰か”に賭け」ることは横行している。その上で、公害のために村を犠牲にした「谷中村」事件は、今や、村落レベルをこえた形で「再演」されてしまっているのである。

その上で、早川は、当時の福島県の『県勢長期展望』に「福島県に住んで良かったとしみじみ思う社会」の建設を試みたとあることに、このように切り返す。ー「どこの、だれが住むでしょうか」と。

そう、いま、楢葉町において、どこの、だれが住んでいるのであろうか。そして、だれが「福島県に住んで良かったとしみじみ」と思っているのであろうか。今から40年前の、1973年の発言が、まるで予言のように思えてならないのである。

もちろん、そのような未来を実現させないことが「公害から楢葉町を守る会」の目的であった。当時において、懸命に活動していたといえる。しかし、結果的には、このような未来が実現してしまった。このことについて、私たちは、もっと深く考えていかねばならないと思う。

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さて、朝日新聞が、福島県の中間貯蔵施設候補地(双葉町、大熊町、楢葉町)の住民に、その是非をめぐってアンケート調査を行い、その結果を2012年12月31日付朝刊に掲載した。まず、1面に掲載されたアンケート結果を総括する記事を解説してみよう。まず、この記事の見出しでは、中間貯蔵施設建設にアンケートに答えた住民の7割が「理解」を示したことを強調している。

中間貯蔵施設の調査候補地住民 7割「建設計画に理解」 本社アンケート305人回答

 東京電力福島第一原発事故に伴う除染で出る汚染土を保管する中間貯蔵施設をめぐり、国が調査候補地にしている場所の住民に朝日新聞がアンケートを行ったところ、回答者の76%が施設の建設計画に理解を示した。多くの人が「避難先から戻るのが難しい」ことを理由に挙げた。新たな土地での生活再建を望む人が多い実態がわかった。▶31面=住民「もう帰れないなら」

続いて、アンケート方法について、この記事は記述している。中間貯蔵施設において想定される放射性物質のリスクは、いわゆる「風評」も含めて、それぞれの町内の広い範囲に及ぶと考えられるが、ここでは「近隣」程度に絞っていることに注目しておかねばならない。いうなれば、中間貯蔵施設建設によって土地などが買い上げ対象となり、リターンを得る可能性がある住民に限定しているといってよいだろう。しかも、郵送アンケートとはいえ、回答率は39%である。6割以上の人たちが回答していないのである。

 

アンケートは、環境省が示した福島県双葉、大熊、楢葉3町の調査候補地の地図から対象を絞り、近隣を含む住民に実施。12月上旬、788人に用紙を郵送し、305人から回答を得た(回答率39%)。ほぼ全員が自宅を離れている。

その上で、「理解できる」理由などを述べている。「理解」が76%で、「理解できない」が24%である。そして、「理解」の理由については、多くが「元に戻って暮らすことが難しい」「ほかの地域と比べて放射線量が高い」をあげている。つまり、元に戻って暮らすことのあきらめが、「理解」の理由になっているといえる。そして、「土地を買い取ってもらうことで生活再建を早めたい」ということも理由に多くあげられている。これは、東日本大震災、福島第一原発事故後の、この地域の住民の生活再建が遅れていることが背景として存在しているといえる。ゆえに、中間貯蔵施設の建設条件も、避難生活の解消や生活再建支援、さらに土地の買い取り価格であり、施設の安全性は二の次にされていることに注目しなくてはならない。
 

自宅やその周辺に中間貯蔵施設を建設する計画について「理解できる」「どちらかというと理解できる」と答えたのは76%。「理解できない」「どちらかというと理解できない」が24%だった。理解できる理由(複数回答)として82%が「元に戻って暮らすことが難しい」、62%が「ほかの地域と比べて放射線量が高い」を選んだ。「土地を買い取ってもらうことで生活再建を早めたい」が58%。「県内全体の除染を進めることが大事」も52%いた。
 ただ、理解できる人でもアンケートの自由記述では、戻れない現実に対するあきらめや、復興の遅れへのあせりを訴えている。
 建設する場合の条件を複数回答で尋ねたところ、70%が「避難生活の解消や生活再建への継続的な支援」、67%が「納得できる土地の買い取り価格」、63%が「施設の安全性の確保」を挙げた。

そして、中間貯蔵施設建設について「理解できない」と回答した人たちの約三分の一が「理解」に傾く場合もあることを報道している。このことによって、中間貯蔵施設への「理解」は増えることをより強調しているのである。そして、「理解できない」理由について、記事本文ではふれられず、付表(記事本文では棒グラフ)で述べている。

 

理解できない人に、条件が満たされた場合「理解」に傾く可能性があるか尋ねたところ、33%が「ある」と回答。条件に、複数回答で50%が「満足できる買い取り条件の提示」を挙げ、「最終処分場の決定」「生活再建への支援策の提示」が各36%。「どんな条件でも考えは変わらない」は19%だった。

付表「理解できない」「どちらかというと理解できない」理由は?
(複数回答、小数点以下は四捨五入)
最終処分場が決まっていないから           56%
説明が不足しているから               54%
施設の安全性に不安があるから            44%
土地の買い上げ条件が分からないから         43%
将来戻って暮らすつもりだから            31%

(木原貴之、木村俊介)

31面には、アンケートに回答してくれた人びとに対して取材して得られた「住民の声」が掲載されている。しかし、ここでも、強調しておかねばならないが、この「住民の声」は、まず、中間貯蔵施設建設で何らかのリターンがある可能性を有する人たちを中心としているのである。そして、「見出し」からはじまるこの記事の約三分の二は、中間貯蔵施設建設に「理解」を示した人たちの声でしめられている。

もう帰れないなら 中間貯蔵施設 住民の声

 東京電力福島第一原発の事故に伴う除染で出た汚染土を保管する中間貯蔵施設。国による調査の候補地や周辺に自宅がある住民には、「もう帰れない」というあきらめや苦悩と、自立や再建を望む気持ちが同居する。 ▶1面参照

大熊は好き でも離れなければならない
 住民の考えを尋ねたアンケートの用紙には、施設や復興、避難生活に対する思いがつづられている。
 《大熊は好き。でも離れなければならない》
 福島県大熊町から避難し、同県いわき市で暮らす女性(64)はこう書いた。 自宅は第一原発から約3キロで、放射線量が高い。
 《誰が何と言っても帰れない》
 新しい生活の場所を探そうと、いわき市内で10カ所近くの物件を見て回り、気に入った土地を買った。元の家について東電から払われる賠償金では足りない。一日も早く、納得できる買い取りを国にしてもらいたいと訴える。
 《生まれ育った土地に汚された土が置かれるのは正直なところ嫌。でも、ほかにどこに持って行くのか。生活再建のために、いっそ買い上げてもらう方がいい》
 双葉町の男性(52)は戻ることをあきらめている。長年、原発関連の仕事をしてきた。事故後、避難先のいわき市から第一原発に向かう時、人の住まない土地が荒れていくのをながめていて気がめいった。
 《あと5年もすれば、誰も帰ると言わなくなる。もしかすると、国は住民があきらめるのを待っているかもしれない》
 男性はそう思う。

もう2年。待ちくたびれた 早く生活立て直して
 先の見えない避難生活へのいらだちも目立つ。
 《がまんの限界。はやく決着をつけてほしい》
 コメ農家だった楢葉町の四家徳美さん(53)は悩んだ末、中間貯蔵施設に「理解」と回答した。
 「本心は、成田闘争のように体を張って最後まで抵抗したい。でも、ほとんどの人が帰るのをあきらめている。一人の反対でずるずると長引かせたくない」と話す。
 《ただ日々が過ぎていくだけで、待ちくたびれた。もうじき2年。国で『こう』と決めてもらい、一日も早く生活を立て直して》
 双葉町の40代女性はこう書いた。

ここであげられている「住民の声」で強調されていることは、元の土地に戻って生活することへのあきらめである。そして、何らかの形で「生活再建」をしたいということへの欲求である。中間貯蔵施設の候補地の住民にとって、土地買い上げがその手段となっているといえる。しかし、このような人びとにおいても、はしばしに中間貯蔵施設建設への不満、不安が表明されているのである。

この記事の残りの三分の一は、中間貯蔵施設建設を「理解できない」という人びと(一部違うが)の声が紹介されている。見事に、「アンケート」結果の比率に適合した形で紙面作りがされているといえる。ここでは、「代表者」しか協議していないことへの不満、最終処分場未決定への不安、「故郷の再生」と「施設」とは共存できないという指摘がなされているのである。

故郷再生と施設は共存無理 町を捨てていいのか
 施設をめぐる国の進め方に疑問を抱く声もある。
 《代表者だけで話し合われ、決まった後でしか住民に情報が来ない。どこまで我慢すればいいのか。人間の心をくみ取った対応をしてほしい》
 大熊町の40代女性はそう訴える。
 汚染土を30年後までに県外の最終処分先に出すとの国の説明を疑う人も多い。
 《地元で最終処分もできるよう考えるべきだ》
 こう書いた埼玉県に避難中の大熊町の女性(56)は、「故郷が奪われる悲しい気持ちは私たちだけでいい」と話した。
 《故郷の再生と施設建設は共存できない》
 施設に「理解できない」と答えた大熊町の男性(63)はこう書いた。「受け入れを認める人の意見も分かるが、こういう施設が集中する町に復興はない。本当に町を捨てていいのか」
(木原貴之、木村俊介)

この朝日新聞の「アンケート」報道は、二つの意味で問題を抱えているといえる。まず、中間貯蔵施設建設候補地の住民にアンケート対象をしぼったことである。この人びとは、中間貯蔵施設建設に伴う土地買い上げによってリターンを得る可能性を有しているのである。しかし、全ての町内の土地が中間貯蔵施設用地になるわけではないのであり、中間貯蔵施設に保管される放射性物質によるリスクは、リターンを得る人びとだけでなく、それぞれの町内の広い範囲に及ぶ。それゆえ、中間貯蔵施設建設によりリターンを得る人びとの声は、リスクをこうむる可能性をもつ「住民」の声一般ではない。これは、原子力発電所自体の建設でもそうであり、原発敷地などの地権者の得るリターンは、直接には原発建設によってリスクをこうむる可能性がある町内一般の住民の得るリターンではない。それでも、原発建設ならば、雇用などの形で、地権者以外の住民も間接的にリターンを享受することが想定できた。しかし、中間貯蔵施設の場合、周辺に居住することすら難しく、雇用といっても被ばく労働が強要されることになるのである。

ある程度、中間貯蔵施設建設により、それぞれの自治体に国から補助金が出るということはあるだろう。しかし、それも、中間貯蔵施設建設のリスクを引き受けなくてはならない住民への直接的なリターンとはならないのである。

さらに、朝日新聞のアンケート報道においては、中間貯蔵施設建設については、建設候補地の人びとにおいても「あきらめている」のであって、そのことを「理解」として報道していることの問題性を指摘しなくてはならない。リターンを得る可能性があるといっても、この人びとは中間貯蔵施設建設を「快く理解」しているわけではない。生まれ育った土地で暮らすことへの「あきらめ」と、生活再建への遅れへの「いらだち」が、中間貯蔵施設建設を「容認」させる要因となっているといえるのである。それは、「理解」といえるのか。「しょうもない」ということは、不満、不安がないということと同義ではない。もし、「中間貯蔵施設建設に対する不満、不安があるか」という質問があれば、「理解している」という人びともそのように回答したのではないかと思う。いわば、中間貯蔵施設建設への「理解」は、「あきらめ」と「いらだち」を抱えた人びとの弱みにつけ込んだものであるといえるのである

この「あきらめ」と「いらだち」は、建設候補地以外の住民ももちろん共有しているだろう。しかし、中間貯蔵施設建設によるリターンは、町内住民一般に及ぶものではない。住民一般の生活再建は、井戸川克隆双葉町長のいうように、東京電力が住民被害を正当に補償することがまず第一に求められることである。それが難しい場合でも、国なり県なりが町民総体の生活再建に乗り出すべきであって、中間貯蔵施設建設とは別次元であるはずといえるのである。

いわば、朝日新聞は、「客観報道」の形をとって、中間貯蔵施設建設に対する「住民」の「理解」を「創出」しようとしたといえるのである。

ただ、朝日新聞の批判だけでなく、私たち自身が考えることとして、このような人びとの「あきらめ」と「いらだち」によって、このような権力の施策に従属させていくことを、どこかで断ち切っていかねばならないとも思うのである。これは、別に中間貯蔵施設建設問題に直面した双葉郡内の人びとだけの問題ではない。このようなことは、日本社会のどこだってある。たぶん、東日本大震災の被害地の多くでも抱えていることだと思う。私自身の個人的な生もこのような問題を内包しているといえる。そのために何ができるのか。そのことこそ考えなくてはならない課題であるといえる。

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さて、昨2011年12月16日の野田首相による福島第一原発事故「収束宣言」を受けて、福島第一原発周辺地域の警戒区域(立入制限)、計画的避難区域(居住等制限)が見直されることになった。官邸の原子力災害本部が12月26日に発表した「ステップ2の完了を受けた警戒区域及び避難指示区域の見直しに関する基本的考え方及び今後の検討課題について」では、このように説明している。

現在、東京電力福島第一原子力発電所の半径20km に設定されている警戒区域は、引き続き同原子力発電所の状況が不安定な中にあって、再び事態が深刻化し住民が一度に大量の放射線を被ばくするリスクを回避することを目的に設定されたものである。
ステップ2の完了により、原子力発電所の安全性が確認され、今後、同原子力発電所から大量の放射性物質が放出され、住民の生命又は身体が緊急かつ重大な危険にさらされるおそれはなくなったものと判断されることから、警戒区域は、基本的には解除の手続きに入ることが妥当である。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/genshiryoku/dai23/23_06_gensai.pdf

つまり、警戒区域は、すでに拡散された放射性物質によってもたらされた放射線量ではなく、さらなる福島第一原発の過酷事故により、住民が大量に被ばくするリスクを回避することを目的として設けられたので、「収束宣言」以後は不必要なものとしているのである。なお、計画的避難区域は「既に環境中に放出された放射性物質からの住民の被ばくを低減するため、事故発生から1年の期間内に累積線量が20ミリシーベルトに達するおそれのある地域」であり、年間20mSvを基準として設定されたとしている。

その上で、年間20mSvを基準として「避難指示解除準備区域」を設けることにしたとしている。他方、20〜50mSvの区域を居住を制限する「居住制限区域」、50mSv以上を立入を制限する「帰還困難区域」とした。「避難指示解除準備区域」を設けた正当性をこのように説明している。

① 住民の帰還を進めるに当たり、まずは地震・津波に起因するインフラ被害による住民への危険を回避する必要があることは言うまでもないことである。
このため、道路や防災施設などについて最低限の応急復旧を急ぎ、必要な防災・防犯対策を講じた上で、区域特有の課題に取り組むこととする。
② さらに、放射性物質による汚染に対するおそれを絶えず抱えている住民の心情をかんがみれば、こうした物理的なリスクの排除のみならず、放射性物質による影響に関する住民の安全・安心の確保は帰還に当たっての大変重要な課題であると考えられる。
③ 原子力安全委員会は、本年8月4日に示した解除に関する考え方において、解除日以降年間20ミリシーベルト以下となることが確実であることを、避難指示を解除するための必須の要件であるとの考えを示した。
④ この度の区域見直しの検討に当たっては、年間20ミリシーベルトの被ばくリスクについては様々な議論があったことから、内閣官房に設置されている放射性物質汚染対策顧問会議の下に「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」を設け、オープンな形で国内外の幅広い有識者に意見を表明していただくとともに、低線量被ばくに関する国内外の科学的知見や評価の整理、現場からの課題抽出などを行った。
その結果、事故による被ばくリスクを自発的に選択できる他のリスク要因と単純に比較することは必ずしも適切でないものの、リスクの程度を理解する一助として評価すると、年間20ミリシーベルト以下については、健康リスクは喫煙や飲酒、肥満、野菜不足など他の発ガン要因によるリスクと比較して十分に低いものである。年間20ミリシーベルトは、除染や食品の安全管理の継続的な実施など適切な放射線防護措置を講ずることにより十分リスクを回避出来る水準であることから、今後より一層の線量低減を目指すに当たってのスタートとして用いることが適当であるとの評価が得られた。
⑤ こうした議論も経て、政府は、今回の区域の見直しに当たっても、年間20ミリシーベルト基準を用いることが適当であるとの結論に達した。
⑥ しかしながら、放射性物質による汚染に対する強い不安感を有している住民がいることも事実であり、これを払拭するための積極的な施策が必要である。
このため、健康管理の着実な実施への支援に加え、国は、放射性物質の健康影響に関する住民の正しい理解の浸透と対策の実施のために、県や市町村と連携して、政府関係者や多方面の専門家がコミュニティレベルで住民と継続的に対話を行う体制の整備や地域に密着した専門家の育成、透明性の確保及び住民参加の観点から地域への放射線測定器の配備を行うこととする。

この区域を設定する上に当って一番重視したことは地震・津波によって破壊されたインフラの復旧であることとしている。これは注目すべきことである。放射線による区域内での被ばくは二義的なもので、「さらに、放射性物質による汚染に対するおそれを絶えず抱えている住民の心情をかんがみれば、こうした物理的なリスクの排除のみならず、放射性物質による影響に関する住民の安全・安心の確保は帰還に当たっての大変重要な課題であると考えられる」としているように、心情的な問題としているのである。

その上で、この区域における放射線量の上限基準を20mSvとしている。これは、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告によるものである。サイト「原子力百科事典」(高度情報科学技術研究機構運営、略称ATOMICA)により、少し検討しておこう。この勧告については、このように概括されている。

ICRP勧告(1990年)による個人の線量限度の考え (09-04-01-08)
<概要>
 ICRP(国際放射線防護委員会)による線量限度は、個人が様々な線源から受ける実効線量を総量で制限するための基準として設定されている。線量限度の具体的数値は、確定的影響を防止するとともに、確率的影響を合理的に達成できる限り小さくするという考え方に沿って設定されている。水晶体、皮膚等の特定の組織については、確定的影響の防止の観点から、それぞれのしきい値を基準にして線量限度が決められている。がん、遺伝的疾患の誘発等の確率的影響に関しては、放射線作業者の場合、容認できないリスクレベルの下限値に相当する線量限度と年あたり20mSv(生涯線量1Sv)と見積もっている。公衆に関しては、低線量生涯被ばくによる年齢別死亡リスクの推定結果、並びにラドン被ばくを除く自然放射線による年間の被ばく線量1mSvを考慮し、実効線量1mSv/年を線量限度として勧告している。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=09-04-01-08

公衆の限度線量は1mSv以下であり、20mSvは放射線作業者の限度線量なのである。ただし、これは、平常時のものである。緊急時の公衆の限度線量は、ATOMICAではこのように定義されている。

緊急時被ばく状況(事故などの非常事態での職業被ばくと公衆被ばく)と現存被ばく状況(非常事態からの回復、復興期を含めて既に被ばくが存在する事態)においては、表5に示すように、計画被ばく状況とは異なる防護体系が適用される。非常事態では線量限度や線量拘束値を用いずに状況に応じて適切な参考レベルを選定して、防護活動を実施する。なお、参考レベルとはそれ以上の被ばくが生じることを計画すべきでない線量またはリスクレベルをいう。
 1990年勧告の後、約10年間に様々な状況に対する30に及ぶ制限値が勧告された。例えば、緊急時の公衆被ばくに関しては、5件の項目に対して介入レベルが勧告されている(表6)。しかし、この防護体系は複雑過ぎるため、2007年勧告では1mSv以下、1~20mSv、20~100mSvの3つの枠を定義し、状況に応じてそれぞれの枠内で適切な線量拘束値または参考レベルを設定し、防護活動を行うことを勧告している。緊急時の公衆被ばくの参考レベルとしては、表6に示すように、20~100mSvの枠内で状況に応じて選定することとしている。
 2011年3月の福島第一原発事故においては、周辺住民の被ばく限度として、国は20~100mSvの枠のうち最小の値である20mSv/年を選定した。ICRPは、この枠内で参考レベルを選定する場合、放射線のリスクと線量低減活動について住民に説明し、個人の線量評価を実施することを勧告している。

結局、年間20mSvは、緊急時の公衆の限度線量なのである。こうやってみてみると、「収束宣言」自身がいかなる意味があったのかわからなくなってくる。なお、がん・白血病・遺伝的障害などについては、このように説明されている。

細胞レベルの損傷は、極低線量(あるいは低線量率)の被ばくによって引き起こされるため、障害が発生する確率は、被ばく線量(あるいは線量率)に比例して増加することになる。実質的にほとんど障害が発生しない線量は存在するが、障害発生の確立がゼロとなるしきい線量は存在しないと考えられる。したがって確率的影響は、被ばく線量を合理的に達成できる限り低く制限することによって、その発生確率を容認できるレベルまで制限することになる。

そして、ATOMICAでは、年間被ばく線量の多寡による年死亡確率を表として示している。例えば、75歳時の100万人あたりの年死亡者数では、年間20mSvならば1900人、5mSvならば470人、1mSvならば95人とされている。年間20mSvにおいても0.19%死亡者数が増加するだけだが、もし首都圏のように1000万人の人口規模ならば、約2万人死亡者が増加するということになる。そして、確かに低い確率であるが、低放射線量でも死亡者は増加するのである。

年齢別条件付き年死亡確率

年齢別条件付き年死亡確率

ということで、年間20mSvは緊急時の(それこそ、福島第一原発事故直後のような時期)の基準でしかないといえる。なお、この
ATOMICAは文科省の事業であり、別に原発反対派のサイトではないことを付記しておこう。

そして、前述の原子力災害本部の「ステップ2の完了を受けた警戒区域及び避難指示区域の見直しに関する基本的考え方及び今後の検討課題について」では、「避難指示解除準備区域」について、このような方針で望むことにしたと説明している。

① 避難指示解除準備区域
(基本的考え方)
(i) 現在の避難指示区域のうち、年間積算線量20ミリシーベルト以下となることが確実であることが確認された地域を「避難指示解除準備区域」に設定する。
同区域は、当面の間は、引き続き避難指示が継続されることとなるが、除染、インフラ復旧、雇用対策など復旧・復興のための支援策を迅速に実施し、住民の一日でも早い帰還を目指す区域である。
(ii) 電気、ガス、上下水道、主要交通網、通信など日常生活に必須なインフラや医療・介護・郵便などの生活関連サービスがおおむね復旧し、子どもの生活環境を中心とする除染作業が十分に進捗した段階で、県、市町村、住民との十分な協議を踏まえ、避難指示を解除する。
解除に当たっては、地域の実情を十分に考慮する必要があることから、一律の取扱いとはせずに、関係するそれぞれの市町村が最も適当と考える時期に、また、同一市町村であっても段階的に解除することも可能とする。
(立入規制など区域の運用)
(ⅰ) 同区域の汚染レベルは、年間積算線量20ミリシーベルトを下回っていることが確認されており、現存被ばく状況に移行したものと見なされる。
このため、主要道路における通過交通、住民の一時帰宅(ただし、宿泊は禁止)、公益目的の立入りなどを柔軟に認める方向で検討する。
(ii) 加えて、事業所の再開、営農の再開について、公共インフラの復旧状況や防災・防犯対策などに関する市町村との協議を踏まえ、柔軟に認めることを検討する。
なお、これらの立入りの際には、スクリーニングや線量管理など放射線リスクに由来する防護措置を原則不要とすることも検討する。
(除染及びインフラ復旧の迅速な実施)
(i) 国は、特別地域内除染実施計画に基づき迅速に除染を実施する。実施に当たっては、子どもの生活環境や公共施設など優先度の高い施設を中心に、地域ごとの実情を踏まえた取組を進めることを検討する。
(ii) インフラ復旧・整備については、まずは早急に状況を把握し、住民の帰還のために必要なインフラの復旧を行うなど、生活環境の整備を迅速に実施することを検討する。
(局所的に線量の高い地点の扱い)
(i) 避難指示解除準備区域が設定される地域においても、局所的に線量の高い地点が存在し得る。
こうした地点については、避難指示が継続されている地域内に存在する地点であることにかんがみ、居住制限区域(後述)や特定避難勧奨地点を設定することはせずに、優先して除染を実施することにより早期の線量低減を図ることを検討する。
(ii) なお、避難指示区域外において現在設定されている特定避難勧奨地点についても、その解除に向けた検討を開始する。

つまり、避難指示準備解除区域においては、現時点での居住は許さないが、①インフラ復旧、②子どもの生活環境地点や特別に線量が高い地点などを中心とした部分的な除染を前提にして避難指示を解除するということになっている。全面的な除染は避難指示解除の条件とはなっていないのである。結局のところ、東京圏(年間1mSv、ICRPの平常時公衆の被ばく限度)の約20倍の年間20mSvが現状では基準となっている。

前回のブログでは、福島県の自治体では、現状では年間5mSと東京圏の約5倍となっていることを述べた。ここでは、さらに東京圏の20倍が、事実上の被ばく限度とされ、それを前提にして「復興」が進められているのである。

今のところ、「避難指示解除準備区域」で、「避難指示」が解除され、居住が許可されたところはない。ただ、福島民報は、8月10日に「避難指示解除準備区域」に再編された楢葉町では、町内の除染作業者などの「避難指示解除準備区域」の宿泊を認めるように要望していることを伝えている。年間20mSvを居住の基準とすることへの布石といえよう。

町内宿泊を国に要望 除染作業員や防犯関係者に対して楢葉町
 今月10日に警戒区域が避難指示解除準備区域に再編された福島県楢葉町が、除染作業員や防犯関係者らに限り町内に宿泊できるよう国に要望していることが30日までに分かった。
 再編後は町内への出入りは自由だが宿泊は禁止されている。国は例外的に宿泊を認めるか調整しており、近く方針を公表するとみられる。一方で避難指示解除準備区域を持つ他の一部の自治体は慎重な姿勢を見せており、国が宿泊を認めるかは不透明だ。
 町によると9月から国直轄で本格的な除染作業が始まる。多い日で1500人を超す作業員が出入りするという。
 町は宿泊が認められれば作業員らの通勤時間が大幅に短縮されるとともに作業時間を確保できると期待する。さらに再編に関して多くの町民が不安に感じていた24時間態勢の防犯対策を強化できるとしている。町は再編後、町民の立ち入りを午前9時から午後4時までにするよう協力を呼び掛けている。

( 2012/08/31 09:47 カテゴリー:主要 )
http://www.minpo.jp/news/detail/201208313395

前回のブログで、東京圏の除染基準は1mSvであるのに、福島県内の自治体では、現状では年間5mSvであり、ダブルスタンダートであると指摘した。実は、現在「避難指示解除準備区域」という名のもとに、原発周辺町村では東京圏の20倍の基準が設定されようとしているのである。そして、年間1mSvという基準は、国ー環境省の基準であり、ICRP の平常時公衆の被ばく限度線量でもある。ICRPの勧告でも20mSvは緊急時の公衆の基準であるが、それが固定化されようとしているのである。人びとの安全性を保障するかの基準は、同一国内にあっても同じではない。もはや、東京圏ー福島県ー原発周辺町村は、ダブルならぬトリプルスタンダートということになっている。

先ほど、例として、年間20mSvならば、100万人ならば75歳時に1900人死亡者が増加するとし、1000万人ならば約2万人増加する計算であるとした。他方、10万人ならば190人ということになる。これは、人口の少ない地域に原発が建設された理由の一端であるといえる。いくら確率が低いといっても、被ばく人口が多ければ、社会的影響も大きくなり、がん増加などの原発の危険性がくっきりと浮かび上がることになる。人口が少ないということは、被ばく人口も少ない。その分、社会的影響も小さく、がん増加などはその他の原因の中に埋もれてしまう。といっても、その地域に居住し、がん発病などのリスクを背負ってしまった人びとの苦悩には変わらないのであるといえるのだ。

付記:死亡確率については、例としてあげた。ここでは、①放射線量と死亡確率は比例し、しきい値はない、②被ばく人口が多ければ、死亡者数も増えるということを理解しておいてほしい。

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さて、このブログの中で、原発を推進してきた双葉町長たちー岩本忠夫や井戸川克隆らーが、 3.11以後、東電への憤懣や原発推進をしてきたことに対する後悔の念を感じていることを紹介してきた。

しかし、福島第一原発事故により離郷せざるをえなかった人たちすべてがそのような認識をもっているわけではない。そのことについては、開沼博氏が「「フクシマ」論』(2011年)で紹介している。開沼氏は、例えば「原発には動いてもらわないと困るんです」(原発労働者家族)などの発言を紹介しつつ、「原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めるを叫び、彼らの生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない。(開沼前掲書p372)と述べている。

このような考えを、より自己の責任を明確にして語った人物がいる。楢葉町長(当時)であった草野孝である。草野は、「SAPIO』2011年8月号で、このように述べている。

人口約7700人の福島県双葉郡楢葉町は福島第一原発の南側に位置し、周辺20km内の「警戒区域」にあたる。町内には、原発事故への対応拠点であるJヴィレッジや現在運転停止中の福島第二原発が立地する。町民たちは、県内のいわき市や大沼郡会津美里町での避難生活を余儀なくされている。だが、遠く離れたところから、口先で「脱原発」を叫ぶのは容易い。草野孝・町長(76歳)が切実な事情を語る。
 * * *
――都心などでは「脱原発」「反原発」を掲げるデモ行進も多い。
「遠くにいて“脱原発”なんて言っている人、おかしいと思う。我々は必死に原発と共生して、もちろん我々もその恩恵でいい暮らしをした。だが同時に、東京の人たちに電気を送ってきたわけだ。何十年先の新しいエネルギーの話と、目の前の話は違う。あるものは早く動かして、不足のないように東京に送ればいい。我々地域の感情としてはそうなる」
――とはいえ、第一原発であれだけの事故が起きた。第二原発についても不安は覚える。
「もちろん、津波防御のための工事やチェックは必要だ。国がしっかりと第一原発の教訓を生かしていくべきところ。第二原発は崖と崖の間に位置していて、真っ平らなところにある第一原発とは地理条件が違う。今回の津波の被害も第一より軽微だった。
 そうした違いがあるのに、“脱原発”ばかり。結局“復興”が二の次になってはいないか。双葉郡には、もう第二しかないんだ……。
 正確に放射線量を測り、住民が帰れるところから復興しないと、双葉郡はつぶれてしまう。第二が動けば、5000人からの雇用が出てくる。そうすれば、大熊町(第一原発の1~4号機が立地)の支援だってできる。
 それなのに、国も県も、何の情報も出さないし、相談もしてこない。新聞やテレビのニュースで初めて知ることばかり。町民の不満は限界に近づいている。言ってやりたいよ。“ばが(馬鹿)にすんのもいい加減にしろ”――と」
■聞き手/ジャーナリスト・小泉深
※SAPIO2011年8月3日号
http://www.news-postseven.com/archives/20110724_26396.htmlより引用

草野は、自分たちは原発と共生して、いい暮らしをしてきたとあけすけに語り、その点から、遠くから脱原発を主張することはおかしいと主張する。そして、なるべく早期に警戒区域内でも帰宅可能の場所は住民を戻すべきとし、その住民の雇用を確保するために、福島第二原発の再稼働の必要性を叫んでいるのである。

これは、昨年8月前後の発言である。しかし、今年3月に放映されたNHKのドキュメンタリーの中でも、福島第一原発事故について謝罪に訪れた東電の責任者に対して、福島第二原発の再稼働を直訴していた。

基本的に、草野は、3.11以後においても、「原発との共生」=「いい暮らし」という意識のもとに、他地域の反対派の意見を拒否しつつ、なるべく住民を早期に戻すことを主張し、さらに福島第二原発の再稼働を期待したといえよう。

そして、草野は、2012年2月12日、いわゆる放射能汚染物質の中間貯蔵施設を積極的に楢葉町に受け入れることを主張した。次の読売新聞のネット記事をみてほしい。

中間貯蔵施設、楢葉町長が受け入れ条件伝える

 東京電力福島第一原発事故に伴う放射能で汚染された土壌などを保管する中間貯蔵施設について、福島県楢葉町の草野孝町長が平野復興相に対し、2か所に分けて設置するなど施設受け入れに関する条件を自ら伝えていたことがわかった。

 草野町長によると、12日に平野復興相がいわき市にある町の仮役場を訪れた際、草野町長が「国が現在考えている中間貯蔵施設だけでは規模が足りないのではないか」として、福島第一、第二原発が立地する4町(双葉、大熊、富岡、楢葉町)内の2か所に分けて設置してはどうかと提案した。これに対し、平野復興相は即答を避けたという。

 国は、中間貯蔵施設を原発が立地する双葉郡(8町村)に建設することを県などに要請しているが、郡内の首長で、受け入れについて具体的に言及したのは初めて。草野町長は15日、読売新聞の取材に「楢葉町が受け入れ方針を決めたということではない。早く中間貯蔵施設をつくってほしいという意味で言った」としたうえで、「国から正式に話があれば(受け入れを)検討せざるをえない」と話している。

(2012年2月15日13時56分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120215-OYT1T00499.htm

草野の考えを推察するならば、中間貯蔵施設を早期に設置し、除染活動を本格化して、なるべく早く住民を戻すということであったと思われる。しかし、このことについて、楢葉町議会は3月15日、反対した。次の読売新聞のネット配信記事をみてほしい。

福島県楢葉町議会は15日、東京電力福島第一原発事故で発生した汚染土の中間貯蔵施設について、町内への設置に反対する意見書を全会一致で採択した。

 国は、同町と双葉町、大熊町の3か所に設置することを提案しているが、反対の意見書が採択されたのは初めて。

 意見書では、施設が設置されれば「地域の放射能汚染の危険が拡大し、町のイメージダウンが全国に広まる」などと懸念。「放射線レベルが年100ミリ・シーベルト以上の土地再利用が不可能な汚染地域に設置を」と、町外への設置を求めている。

 草野孝町長は12日の町議会一般質問で、「国にどのような貯蔵をするのかなど、きちんと説明してもらい、議会や住民と相談して結論を出したい」などと答弁している。

(2012年3月15日18時54分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120315-OYT1T00852.htm

草野と町議会は、3.11以前において、それほど隔たった考えを有していたとは思えない。しかし、3.11以後においても、草野は放射能汚染のリスクを軽視し、中間貯蔵施設を積極的に受け入れ、住民を地域に早期に戻し、福島第二原発を再稼働するというプランを考えていたのではないかと思う。しかし、町議会は、そもそも放射能汚染のリスクを軽視してはならないという入り口のところで、町長の方針に異を唱えるようになったといえる。

そして、4月7日に、細野豪志環境相が楢葉町議会に中間貯蔵施設受け入れを要請したが、逆に町議会は反発した。毎日新聞福島地方版のネット記事をみてほしい。4月15日には町長選が予定されていたが、草野不出馬の町長選の二人の候補者はともに町議会議員の出身で、ニュアンスの違いはあったが、中間貯蔵施設建設に反対することを表明するようになった。

東日本大震災:中間貯蔵施設、環境相が楢葉町議に説明 批判、疑問相次ぐ /福島
毎日新聞 2012年04月08日 地方版

 「なぜ、この時期に中間貯蔵施設8件の話なのか。思いやりがない」。町長選(15日投開票)さなかの7日、いわき市内であった楢葉町議会8件全員協議会での細野豪志環境相らによる説明会。先月、全会一致で反対意見書を可決した町議から批判と疑問が相次いだ。

 草野孝町長が環境省に申し入れ実現した。説明は施設の受け入れと同時に、雇用の確保や道路建設、研究・情報公開センター設置にも及び、町議に翻意を促す“えさ”をまく格好になった。

 会津美里町の仮設住宅などから駆けつけた町議らは「医療費無料化など国が孫子の代まで健康管理に責任を持つことが大前提」「あてもない最終処分場を福島に造らないと断言する国の姿勢は、先送り政治の典型」などの批判も。さらに、「施設ができて放射能汚染が続けば町民の帰還が遅れる」「双葉郡全体の存続を考えた場合、放射線量が高い地域1カ所に設置すべきだ」などの意見が続出。予定を大幅にオーバーし2時間に及んだ。
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20120408ddlk07040061000c.html

このような経過は、草野孝の元々の考えであった、住民の地域への早期帰還というもくろみにも影響を及ぼしたと考えられる。地域住民の帰還の前提として、警戒区域指定を解除する必要があり、そのために4月11〜13日にかけて住民説明会がひらかれたが、その席で、草野孝町長と住民は対立した。住民は帰還よりも除染を優先してほしいと主張したのだ。福島民報のネット配信記事は、そのことを示している。

町長解除準備、住民除染優先 楢葉の避難区域再編 説明会が終了
2012年4月14日 | カテゴリ: 福島第一原発事故

 楢葉町の草野孝町長は13日、会津美里町で開いた避難区域再編に関する住民説明会終了後、町内の警戒区域を月内にも避難指示解除準備区域に再編するよう国に伝えたい意向を示した。ただ、同日を含む3回の説明会では、住民側から「除染を優先すべき」などの理由で反対、慎重意見が相次いだ。町は17日の町災害対策会議で区域再編に向けた協議を始める方針だが、再編が5月以降にずれ込む可能性もある。
 最終回となる会津美里町での説明会には同町に避難している住民約110人が臨んだ。このうち、楢葉町の自宅に侵入され現金などが盗まれたという主婦(56)は「家が荒らされた上に家族はばらばらになった。家に帰りたい気持ちは強いが、孫や家族を思うと(警戒区域解除よりも)除染を優先してほしい」と涙ながらに話した。
 29日の任期満了に伴い引退する草野町長は終了後、報道陣に対し「(警戒区域が避難指示解除準備区域に移行すれば)立ち入りが自由になり、除染やインフラ整備が進む」と月内再編の意義を強調した。防犯対策については「通行証を発行するなど警察と連携をより密にする。反対意見はしっかり聞き対策を考える」とも語った。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/04/post_3672.html

草野は4月に行われた町長選には出馬せず、4月中に退任することが決まっていた。そのため、4月13日の段階では、在任中に警戒区域解除の道筋をつけようとしていた。しかし、4月15日の町長選後、警戒区域解除を断念せざるをえなかった。

避難区域再編:楢葉町、政府案容認を撤回
毎日新聞 2012年04月17日 12時13分(最終更新 04月17日 18時52分)

 東京電力福島第1原発事故に伴う避難区域再編問題で、大半が警戒区域になっている福島県楢葉町は17日、災害対策本部会議を開き、全域を避難指示解除準備区域(年間被ばく線量20ミリシーベルト以下)に見直す政府案を受け入れる方針を撤回した。草野孝町長は報道陣に「今月中に再編することができないのは残念だが、町民の不安が大きい。再編については次期町長に委ねるしかない」と述べた。

 任期満了で29日に勇退する草野町長は当初「一日も早く帰還したいという町民の願いもあり、インフラ復旧を進める必要がある」として、政府に協力姿勢を示し、任期中の再編に意欲的だった。

 だが国が11〜13日に開いた住民説明会では、全町避難を強いられている町民から「除染やインフラ復旧、防犯対策を先にすべきだ」「放射線量が高く安全が確保されていないのに、賠償が早期に打ち切られる」などの反対意見が続出。15日の町長選でも、政府案反対を掲げた新人候補が当選した松本幸英氏に199票差まで肉薄した。
http://mainichi.jp/select/news/20120417k0000e040209000c.html

このような経過は、徐々ではあるが、草野町長のような考え方が、地域社会においてヘゲモニーを失っていく過程を示していると思われる。草野は放射能のリスクを軽視した上で、住民早期帰還、中間貯蔵施設建設、福島第二原発再稼働という方向性で「復興」を考えていたといえる。しかし、町議会や住民は、草野よりは放射能のリスクを考慮しながら、草野のような考え方に疑問をもつようになったと考えられる。もちろん、草野のような考え方が楢葉町からなくなったとは思えないし、今後復活してくる可能性もあるといえよう。しかし、現時点に限れば、草野は、自身の引退もあって、「蹉跌」したといえるのだ。

このように、被災地の人びとの考え方は多様であり、流動的である。そのことを踏まえつつ、さらに、このような多様な意見が出てくる根源を常に考え、その先を思い描きながらも、どのような立場にコミットしていくかは、私も含めて、それぞれの人の「立場性」といえよう。

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さて、再度、高橋哲哉氏の『犠牲のシステム 福島・沖縄』(2012年)について考えてみよう。高橋氏が、立地地域住民や原発労働者の観点から、原発を「犠牲のシステム」と規定するのは、現時点からみて妥当といえる。

問題は、高橋氏が「原発のリスクと等価交換できるリターンは存在しない」としていることである。高橋氏のいように、原発のリスクは、従事している労働者や、近隣に居住している生存・生活をまず脅かすものであり、さらには、地球規模での人類の生存を脅かすものである。そのことは、最初の原発である東海第一原発の立地が決定された1950年代後半より部分的には認識されており、原発立地はおおむね過疎地を対象としていくことになる。それは、事故の際の「公衆」に対する放射線被曝者を少なくするという観点からとられた措置であり、いうなれば「50人殺すより1人殺すほうがいい」という思想を前提にするものであった。

原発のリスクが顕在化すれば、高橋氏の主張は全く正しい。しかしながら、原発のリスクは、おおむね顕在化していない。たぶん、原発の放射線リスクに最も日常的に接している原発労働者ですら、直接の知覚は、彼らが被曝した放射線量の測定結果であることが通例である。立地地域住民にとっては、大規模な事故に遭遇して、ようやく原発のリスクを認識できる。しかし、その時ですら、やはり、放射線や放射性物質の測定結果として直接には知覚されるであろう。原発のリスクを蒙った結果としての、がん、白血病の発症や、遺伝子異常などは、かなり後に出現し、その因果関係を実証することも難しい。さらに、より遠方で、原発の電力に依存している大都市圏の住民にとっては、そもそも原発の存在すら意識されないのである

その意味で、原発のリスクとは、日常的には潜在化したものである。他方で、原発のリターンは、目前に存在している。原発労働者には「雇用」であり、立地地域住民にとっては、それに加えて、電源交付金や固定資産税などの財政収入、原発自体やその労働者による需要などがあげられよう。そして、国・電力会社・経済界にとっては、安定した電力供給というリターンがある。その意味で、原発のリターンは目に見えている。

ある意味で、リスクを想定しなければ、リターンは大きい。そこで、次のようなことが行なわれるといえる。原発に対するリスクを前提にリターンが与えられるが、そのリスクは「安全神話」によって隠蔽される。国・電力会社側としては、リスクがあるので原発は過疎地に置かれ、そのために立地地域の開発を制限しようとするが、原発立地を推進していくために、そのことは隠蔽される。他方、原発立地を受けいれる地域においては、リスクがあるためにリターンを要求するが、しかし、そのリスクは隠蔽される。リスクを真正面からとらえたら、彼らの考える地域開発はおろか、既存の住民の離散すら考えなくてはならない。「安全神話」という「嘘」を前提として、リスクとリターンが「等価交換」されているのである。

福島第一原発事故は、この「等価交換」の欺瞞を根底からあばき出したといえる。原発のリスクによって脅かされていたものは、原発立地住民や原発労働者たちの生存であり、生活そのものであった。そして、リターンとしての雇用・財政収入などは、原発のリスクによって脅かされることになった生存・生活があってはじめて意味をなすものであった。確かに、開沼博氏が『「フクシマ」論』(2011年)でいうように、原発からのリターンがなければ、原発立地地域の住民や原発労働者の生活は成り立たないかもしれない。しかし、それは、原発のリスクによって脅かされた生存・生活がなければ意味をなさないのである。

いわば、原発というシステムにおいては、「安全神話」という「嘘」を前提として、地域住民・原発労働者の生存・生活自体と、より富んで生きることが「等価交換」されていたといえる。高橋氏のいうように、そもそも事故を想定して過疎地に原発を建設するということ自体、差別であり、「犠牲のシステム」にほかならないが、それを正当化するものとして、「安全神話」という「嘘」を前提とした二重三重の意味で欺瞞的な「等価交換」があったといえよう。

もとより、「等価交換」は、近代社会にとって、支配ー従属関係を正当化するイデオロギーである。資本家と労働者との雇用契約という「等価交換」は、資本家による搾取の源泉である。また、いわゆる「先進国」と「後進国」の「等価交換」も、前者による後者の搾取にほかならない。まさに、「等価交換」は、近代社会の文法なのである。

そして、結局、「等価交換」という名の「不等価交換」を強いられている側は、不利であっても、この関係を維持するしかない。いかに、劣悪な労働条件のもとに低賃金を強いられている労働者でも、何も収入がないよりはいいのである。このことは、結局のところ、原発立地地域住民にもあてはまっていったといえる。例えば、大飯原発などでも、未だにリスクとリターンの等価交換がなされようとしている。それは、等価交換によってはじめて生活が維持できるという、近代社会の文法があるからといえるのである。

たぶん、問題なのは、福島第一原発事故は、このような、「嘘」を前提とした「等価交換」が、実は「不等価交換」であり、自らの生存・生活を危機にさらすリスクにあてはまるリターンなど存在しないことを白日のもとにさらしたことだと思う。そして、このことは、原発問題だけには限らないのである。まさに、等価交換という近代社会の文法自体を、私たちは疑っていかなくてはならない。

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前回のブログでは、高橋哲哉氏の『犠牲のシステム 福島・沖縄』において、福島第一原発事故において第一義的に責任を負わねばならない人びとは、原発の災害リスクを想定しながらも、有効な対策をせず、さらには無責任に「安全神話」を宣伝して原発を推進していった「原子力ムラ」の人びとであると措定していることを紹介した。ある意味では、原発民衆法廷など原発災害の法的責任を追求するためには有効な論理といえるだろう。

他面で、大都市や立地地域住民は、無関心であるがゆえに、原発の災害リスクを認識していなかったと述べている。高橋氏によれば、原発の災害リスクと補助金の等価交換は存在せず、立地地域住民は「安全」であるとされているがゆえに、原発建設を受け入れていったとしている。そして、大都市の住民も「安全」であるとされているがゆえに、原発から供給されている電力を良心の呵責なしに享受できたとされている。

しかし、原発の災害リスクを大都市や原発立地地域の住民が認識していなかったといえるのだろうか。もちろん、十分に認識しているというわけでもなく、「安全神話」に惑わされているということも大きいとは思うのだが。

まず、高橋氏と全く違う論理が展開されている開沼博氏の『「フクシマ」論』(2011年)において、原発災害のリスクがどのように扱われているのかをみておこう。本ブログで紹介したこともあるが、開沼氏は原発からのリターンがないと原発立地地域社会は存立できなかったし、これからもそのことは変わらないと本書で主張している。高橋氏とは対局の論理ということができる。

それでは、開沼氏にとって、原発のリスクはどのようにとらえられているか。開沼氏は、原発労働者の問題を例にして、次のような問題を提起している。

 

流動労働者の存在に話を戻せば、仮に作業の安全性が確保されたとしても、それが危ないか否かという判断を住民が積極的に行なおうという動きが起こりにくい状況がある。そこには、原子力ムラの住民が自らを原子力に関する情報から切り離さざるをえない、そうすることなしには、少なくとも認識の上で、自らの生活の基盤を守っていくことができない状況がある。それは、そのムラの個人にとっては些かの抑圧感は伴っていたとしても、全体としてみれば、もはや危険性に対する感覚が表面化しないほどにまでなってしまう現実があると言えるだろう。(本書p104)

いうなれば、原発のリスクを「認識の上で」切り離し、表面化しないことによって、自らの生活の基盤を守るという論理があるというのである。

では、原発のリスクを表面化しないことは、なぜ、自らの生活の基盤を守ることになるのか。開沼氏は、清水修二氏の『差別としての原子力』(1994年)で表現された言葉をかりて、「信じるしかない、潤っているから」(p109)と述べる。つまり、リターンがある以上、原発災害リスクはないものとする国や電力会社を「信じるしかない」というのである。

そのことを卓抜に表現しているのが、開沼氏が引用している、地域住民の次のような発言である。

 

そりゃ、ちょっとは水だか空気がもれているでしょう。事故も隠しているでしょう。でもだからなに、って。だから原発いるとかいんないとかになるかって。みんな感謝してますよ。飛行機落ちたらって? そんなの車乗ってて死ぬのとおなじ(ぐらいの確率)だっぺって。(富岡町、五〇代、女性)

 まあ、内心はないならないほうがいいっていうのはみんな思ってはいるんです。でも「言うのはやすし」で、だれも口にはださない。出稼ぎ行って、家族ともはなれて危ないとこ行かされるのなんかよりよっぽどいいんじゃないかっていうのが今の考えですよ。(大熊町、五〇代、女性)(pp111-112)

いわば、原発が存立し、そこからのリターンがあるがゆえに、リスク認識は無効化されているということができる。開沼氏は、次のようにまとめている。

全体に危機感が表面化しない一方で、個別的な危険の情報や、個人的な危機感には「仕方ない」という合理化をする。そして、それが彼らの生きることに安心しながら家族も仲間もいる好きな地元に生きるという安全欲求や所属欲求が満たされた生活を成り立たせる。
そうである以上、もし仮に、「信じなくてもいい。本当は危ないんだ」と原子力ムラの外から言われたとしても、原子力ムラは自らそれを無害なものへと自発的に処理する力さえ持っていると言える。つまり、それは決して、強引な中央の官庁・企業による絶え間ない抑圧によって生まれているわけではなく、むしろ、原子力ムラの側が自らで自らの秩序を持続的に再生産していく作用としてある。(p112)

繰り返しになるが、原発立地によるリターンが地域社会存立の基盤になっているがゆえに、原発のリスク認識は無効化されているというのである。国や電力会社側の「安全神話」は無条件に信じられているのではなく、原発からのリターンを継続するということを条件として「信心」されているといえよう。

開沼氏の主張については、私としても、いくつかの異論がある。このような原発地域社会のあり方について、反対派や原発からの受益をあまり受けていない階層も含めて一般化できるのか、原発災害リスクによって生活の基盤が失われた3.11以後においても、このような論理が有効なのかということである。特に、福島第一原発事故の影響は、電源交付金や雇用などの直接的リターンを受けられる地域を大きく凌駕し、あるいみでは国民国家の境界すらこえている。その時、このような論理が有効なのかと思う。まさしく、3.11は、原発災害リスクに等価交換できるリターンが存在しないことを示したといえる。その意味で、高橋哲哉氏の認識は、3.11以後の論理として、より適切だといえる。

しかし、まさに3.11以前の福島原発周辺の地域社会では、このような論理は通用していたし、他の立地地域においては、今でも往々みられる論理であるといえる。その意味で、歴史的には、原発のリスクを部分的に認識した上での「リスクとリターンの交換」は存在していたといえよう。そして、高橋氏のいうように、現実には破綻した論理なのだが、それが今でも影響力を有しているのが、2012年の日本社会の現実なのである。

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さて、前回は、1960年11月29日に原発受け入れ方針を福島県知事佐藤善一郎が表明したことをみていた。これに対し、福島県議会はどのように対応したのであろうか。

前々回のブログで前双葉町長岩本忠夫が、1971年に日本社会党所属の県議会議員として登場し、原発建設批判を行ったことを述べた。それからみると、日本社会党などが原発建設に反対し、自民党などが賛成していたように想定されるかもしれない。

しかし、全く違うのである。1960年半ばまでの福島県議会では、原発建設をほとんどが歓迎していたのだ。その一例として、原発建設受け入れ方針が表明された1960年11月29日直後の、12月13日の福島県議会における、山村基の発言をみておこう。

 

質問の第一番目は、原子力発電所誘致問題でございますが、質問に入る前に、本問題についての知事のとられた労苦に対してはまことに多としております。のみならず、今後大いに期待し、希望し、そうして来年の知事選挙には、なおかつ佐藤知事がまた県政を担当していただくことが双葉郡民の大体における希望じゃないかということを申し伝えておきます。

単純化すれば、佐藤知事の原発建設受け入れ方針の表明をもろ手をあげて歓迎し、双葉郡民は佐藤知事の再選を支持するであろうと山村は述べたのである。

その上で、山村は、楢葉町龍田海岸、浪江町幾世橋海岸などをあげて、双葉郡には大熊町以外にも適地があるとした。なお、この両地点は、その後発表された福島第二原発、計画された浪江・小高原発の建設地点と重なる。そして、山村は、このようにいったのである。

こうした双葉郡、相馬郡にわたって原子発電所のまことにいい条件のところが少なくとも三カ所はございます。聞くところによれば、東京電力、それから東北電力と双方で発電所を作るというような話でございますけれども、そうだといたしましたならば、二カ所の土地というものが設定されるだろうと思いますが、県はこの土地に調査を進めてみるお考えがあるかどうかお尋ねしたいと思います。

東北電力が原発立地を進めているという話を前提に、県も調査をすすめるつもりがあるかを聞いているのである。いわば、もっと原発誘致を進めてほしいと、暗に訴えているといえよう。

この山村の質問に対し、佐藤善一郎知事は、このように答えている。

 

原子力発電所につきましては、その実現について調査研究を進めている段階でございます。本県でも現在その立地条件を検討中でございます。私は双葉郡、これは率直に申し上げまして本県の後進郡だと申し上げてよろしいと思うのであります。従って、ここの開発につきましては、いろいろと皆様とともに考えておりまして、最も新しい産業をこの地に持っていきたいと考えております。

つまりは、現在、原発立地のため調査を続けているとし、県内でも後進地域であるため、新しい産業を誘致したいと知事は答えているのである。単に、電源開発だけではなく、後進地域とされる双葉郡に新しい産業を誘致することー一応、原発誘致における、福島県側の建前を知事は述べているのである。県議会では、原発誘致に反対する声はなかった。全体としては、福島県議会は、原発誘致を認めていたといえるであろう。

さて、この山村基は、どのような人物だったのだろうか。山村の議論全体は、双葉郡を代表してされており、たぶん双葉郡選出の県議会議員であったことがわかる。また、県知事は山村が医者であることに言及している。さらに、自民党の大井川正巳は「もっとあの避難港を促進させるとするならば、やはり、血は水よりも濃いというたとえの通り、山村議員がわが党に入党して、そして大幅に自民党現政府から予算獲得するということが一番手近でありますので、この際考えていただきたい」と述べているので、保守系無所属であると考えていた。

しかし、調査を続けていくうちに、興味深いことが判明した。『福島県議会史』昭和編第六巻(1976年)に1959年4月23日に執行した県議選当選者一覧が掲載されているが、それによると、山村基は双葉郡浪江町出身で「日本社会党所属」であったことがわかる。山村は、少なくとも一度は社会党に所属していたのだ。

ただ、山村の発言には、ほとんど社会党らしさは感じない。良くも悪くも双葉郡の利益代表という印象がある。後に「無所属クラブ」という会派に入っていることがわかるので、すでに日本社会党を脱党していたのかもしれない。

いずれにせよ、前述したように、他の議員から原発誘致を批判する発言はなかった。県議会で、原発誘致の問題点を検証する営為はみられず、「後進地域」とされる双葉郡の発展を期待する、地元出身の山村基により原発誘致を認め、推進していく発言がなされたのであった。なお、正直にいえば、他地域選出の県議会議員たちは、この時期においては、概して原発誘致についてあまり個人的な関心をもっていない様子がうかがえる。結局、双葉郡を中心とした「開発」幻想の中で、佐藤善一郎の原発誘致方針は県議会の中で認められていくのである。

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さて、以前のブログで、福島第二原発の公聴会について述べた。『東京電力三十年史』(1983年)を見返してみると、公聴会について述べているところがあるので、紹介しておきたい。

福島第二原子力発電所の建設 [初の公聴会] 福島第二原子力の一号機は、昭和四十七年八月に内閣総理大臣に対する原子炉設置許可申請を行い、安全審査に付されていたが、原子力委員会が四十八年五月に公表した「原子炉の設置に係る公聴会開催要領」の適用第一号となり、同年九月十八、十九日の両日、福島市で初の公聴会が開催された。これは、原子炉の安全審査などに地域の意向を反映させようとするもので、同委員会としては、在来炉に比べ出力規模が大きいことから公聴会の開催の実施に踏み切り、福島県がこれに協力した。
公聴会に対して、反対グループの対応は二つに分かれ、一方は公聴会に参加して反対意見を陳述する立場をとり、他は公聴会の開催阻止に動くという立場をとった。
十八日は、早朝から千数百人のデモ隊が一時会場周辺を取り巻き、機動隊も出動したが、公聴会は予定どおり開催された。席上、当社は、原子力開発の必要性、安全性、経済性、とくに一号機の信頼性について詳細に説明するとともに、安全と環境保全に関する諸施策を述べ、地元の理解と協力を懇請した。
公聴会は、翌十九日夕刻までまる二日間にわたり、三九人の陳述人が、賛否双方から原子力発電所の設置に関する意見、要望を述べて閉会した。
この公聴会における陳述意見は、安全審査に反映され、また、関係省庁の意見も付された原子力委員会の検討結果説明書が公表された。こうして原子炉設置許可申請は四十九年四月、一年八か月ぶりに許可された。

このように記述している。前から思っていたことだが、『東京電力三十年史』は、他の電力会社の社史などと比べてよくできていて、一応は歴史叙述になっている。恩田勝亘『原発に子孫の命は売れない』(1991年)ともそれほど大きく齟齬はない。ただ、当時「早朝から千数百人のデモ隊が一時会場周辺を取り巻き、機動隊も出動した」ことは、この叙述でしったことである。デモ隊と機動隊との対峙の中で、公聴会は実施されたのである。

しかし、もちろん、『原発に子孫の命は売れない』にあった、陳述人が賛成派25人、反対派15人と、賛成派が多く選ばれるとともに、傍聴人が関係町村役場の手によって賛成派・中立派住民だけで占められるように仕組まれたことなどは、全く出ていない。なお、陳述人中欠席したのは、反対派の舛倉隆一人であったようである。このような仕組まれた公聴会が、前述したようにデモ隊と機動隊との対峙の中で開催され、原発建設を正当化していったのである。

広瀬隆は、『東京に原発を!』(1986年)において、公聴会の一般的な姿について、このように記述している

だがこれではいかにも危険だと指摘されはじめた昨今では、地元民の発言を反映させようと「公開ヒアリング」の制度が設けられたが、質問の時間が十分間、回答も十分間に限られ、しかもこれ一回きりの応答で次の話に進んでしまうので、なにも言わないのと同じ結果になる。なおおそるべきは、この公開ヒアリングが行われると、それによって“全地元民の賛成が承認された”ということになるのだ。周囲にはシンジケートの暴力団機動隊と私服警官が配置され、彼らはヒアリングの入場者を身体検査し、その重装備によって一般の市民に威圧感を与え、少しでも腹を立てる短気な者があれば、首根っこを押さえて引きずり出す始末である。手帳を持ち、物も言わずに立っている陰気な男があれば、それは百パーセント私服警官である。ヒアリング会場の周囲を観察すると、その警官の数にわれわれは驚きを覚える。
 これが、われわれの見聞した民主主義の姿のようだ。

なお、福島第二原発三号機・四号機増設につき、1980年2月に、原子力安全委員会主催で第二次公開ヒアリングが福島市において開かれ、19人の陳述人が意見を述べたと『東京電力三十年史』は記載している。たぶん、同じような状況であったであろう。

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