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2015年5月4日、日本政府が「世界文化遺産」に推薦していた「明治日本の産業革命遺産」について、ユネスコの諮問機関であるイコモスが、登録が適当と勧告した。そのことを伝える毎日新聞のネット配信記事をみておこう。

世界文化遺産:「明治日本の産業革命遺産」に登録勧告
毎日新聞 2015年05月04日 20時21分(最終更新 05月05日 01時02分)

 ◇登録なら15件目 自然遺産も含めると国内19件目に

 日本が世界文化遺産に推薦していた「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」(福岡、長崎、静岡など8県)について、世界遺産への登録の可否を調査する諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス、本部・パリ)は4日、「登録が適当」と国連教育科学文化機関(ユネスコ)に勧告した。

 勧告は「西洋から非西洋国家に初めて産業化の伝播(でんぱ)が成功したことを示す」「1853年から1910年までのわずか50年余りという短期間で急速な産業化が達成された段階を反映している」として普遍的価値があると評価した。6月にドイツのボンで開かれる第39回ユネスコ世界遺産委員会で正式決定する。イコモスが登録を勧告した場合、世界遺産委員会でもそのまま認められる可能性が極めて高い。

 「産業革命遺産」が登録されれば、日本の世界文化遺産は昨年の「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)に続き15件目、世界自然遺産も含めた世界遺産は国内19件目となる。

 産業革命遺産は、通称「軍艦島」で知られる「端島(はしま)炭坑」(長崎市)▽長州藩が西洋式帆船を造るために設置した「恵美須ケ鼻造船所跡」(山口県萩市)▽薩摩藩が手がけた機械工場や反射炉の遺構で構成する「旧集成館」(鹿児島市)▽幕末に実際に稼働した反射炉で国内で唯一現存する「韮山(にらやま)反射炉」(静岡県伊豆の国市)−−など、日本の近代工業化を支えた炭鉱、製鉄、造船などの23施設で構成される。

 このうち稼働中の施設(稼働資産)は、官営八幡製鉄所(北九州市)▽三菱長崎造船所(長崎市)▽橋野鉄鉱山・高炉跡(岩手県釜石市)▽三池港(福岡県大牟田市)−−など8カ所あり、日本の世界遺産候補では初めて入った。

 勧告は遺産の名称を「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」と変更するよう求めた。さらに、端島炭坑について優先順位を明確にした保全措置の計画の策定▽各施設での来訪者の上限数の設定▽来訪施設の増設・新設の提案書の提出−−などを勧告した。イコモスは、各国から世界遺産に推薦された案件の価値を評価する専門家組織で、昨年9〜10月に産業革命遺産を現地調査した。

 今年の世界文化遺産登録を巡っては、政府内で、内閣官房が推薦する「産業革命遺産」と、文化庁推薦の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(長崎、熊本両県)が検討対象になった。推薦は各国で年1件のため菅義偉官房長官の「政治判断」で産業革命遺産が選ばれた。「長崎の教会群」は2016年の登録を目指している。【三木陽介】
http://mainichi.jp/feature/news/20150505k0000m040041000c.html

この「産業革命遺産」には、産業革命と関係が薄い山口県萩市の松下村塾(吉田松陰が開いた私塾で伊藤博文などを輩出した)というものも含まれているのだが、中心は、製鉄・造船・石炭産業などの分野における産業革命の「遺産」ということになっている。イコモスは「西洋から非西洋国家に初めて産業化の伝播(でんぱ)が成功したことを示す」「1853年から1910年までのわずか50年余りという短期間で急速な産業化が達成された段階を反映している」と評価している。いわば、非西洋地域における「産業化」=「近代化」を「顕彰」しようということなのであろう。

といって、これらの「遺産」についてプラスの面だけで評価すべきなのだろうか。例えば、これらの「遺産」に含まれている元官営八幡製鉄所について、宮本憲一『戦後日本公害史論』(岩波書店、2014年)に依拠してみてみよう。確かに、1896年に建設が決定され、1901年に稼働した八幡製鉄所は、当時において「東洋最大の製鉄所」であった。建設当時は1229人しかいなかった八幡村は、1907年に市制を施行し、戦時期には人口30万人になっている。戦後、高度経済成長初期までは、通産大臣が就任の際、八幡製鉄所に挨拶にいったという。宮本は「鉄は産業の米であり、鉄は国家である」という戦前からの支配力は変わらなかったと評している。

 他方で、煤煙などの大気汚染は深刻であった。1960年前後、工業地帯では1㎢あたり月50トン以上の煤塵が降下したという。健康維持のためには10トン以下でなくてはならないというから、その五倍以上なのである。煤塵の重みで住宅の瓦が落ちることもあったという。そして、八幡の雀は黒いとされていた。

しかしながら、八幡製鉄所は、そういう大気汚染にまったく責任を感じていなかった。『八幡製鉄所五十年史』は、次のように言っている。

半世紀を通じ八幡市には製鉄所を対象として煤煙問題は起こらなかった。波濤を焦がす炎も、天にみなぎる煙もそれは製鉄所の躍進であると同時に八幡市の歓喜であった。八幡市と製鉄所の50年の連鎖は、類なき完璧を示したものといことができる。(『八幡製鉄所五十年史』、1950年)

煤煙は製鉄所の躍進を示すものであり、八幡市の歓喜の対象であるというのである。

さすがに、戦後には、大気汚染などの公害を防止する動きが生まれた。1955年、八幡市などを所管する福岡県は福岡県公害防止条例を制定した。しかし、福岡県経営者協会は、現状の至上課題は鉱工業の拡大発展であり、公害防止条例の運用によってそれらが阻害される恐れがあるので、原則的態度として条例施行は時期尚早であると要望した。

1955年には九州大学が八幡市を中心として大気汚染の観測をはじめたが、何者かの手によって観測機が全機破壊されるという事件が起きた。宮本憲一は、当時の福岡県衛生部の公害担当部技師の証言をかきとめている。この事故の際、技師は
八幡製鉄所最高責任者に、条例ができた以上、こういう暴力的抵抗は困ると申し入れた。ところが、八幡側は、自分の会社がやったことではないとしながら、「八幡市に住んでいて製鉄所に文句をいう者は市から出ていってもらう、公害で困るというなら、補償金を出して文句をいう人の土地を買ってしまう」(宮本憲一『戦後日本公害史論』、2014年)と豪語したという。技師は宮本に「ここは法治国家か」と嘆いたという。結局、1958年から煤煙対策が行われ、ようやく1963年にかけて電気集塵機設置などが進められ、燃料が石炭から石油に転換することもあって、煤煙対策は進められるのだが、こんどは燃料の石油による二酸化硫黄による大気汚染が激しくなったということである。

このように、八幡製鉄所は、産業振興を目的として大気汚染などの環境破壊をすすめ、それどころか、地域内で異議申し立てする人々を追放することも辞せないという、日本の産業化の負の面を代表してもいるのである。

もちろん、イコモスのいうように産業化のプラスの面を評価することもできるだろう。どれほど、日本の産業化過程に批判的な見解をもったとしても、やはり「産業化」は現代日本社会の前提である。他方、日本の近現代の「文化財」対策については、なんらかの「お墨付き」がないと恣意的に破壊されたり、改造されたりするということもある。その意味で、今回の「産業革命遺産」は、松下村塾のごとき趣旨に無関係なものは別として、日本の産業化過程の正と負の二側面に思いをいたすものとしてとらえるべきだと私は考える。

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以前、福島第二原発建設反対運動において、建設予定地の富岡町毛萱などの地権者ー農民たちの抵抗が1970年に終息した後、むしろ一般住民の反対運動が展開されるようになったことを、本ブログで論じた。

その後、平工業高校教員であり、後に原発・火発反対福島県連絡会事務局長となる早川篤雄の「福島県楢葉町・富岡町の事例について」(『東北地方の「地域開発」政策と公害』、1973年)という論文を入手した。この早川の論文は、日本科学者会議福島支部などが主催してが973年2月3日にいわき市で開いた『東北地方「地域開発と公害」』シンポジウムにおける報告の一つである。この中で、多分、自身も当事者として参加したと思われる「公害から楢葉町を守る会」について詳述している。この会も一般住民の反対運動の一つといえる。

早川によれば、楢葉町の一般住民の反対運動は、地権者たちの抵抗が終息した後に開始されている。まず、早川の回想をみておこう。

 

「公害から楢葉町を守る町民の会」は、火発・原発の建設が本決まりとなって?、ブルの音が聞かれるようになって、ようやく生まれました。町長選挙が来年の夏に迫った、46年12月、“第1回「町長を囲む懇談会」”が楢葉町南地区(6日)と北地区(7日)で開催された。町長の町政説明の後で質問、意見を述べた者は85名(2日間)のうち28名であった。そのうち火発・原発の不安について訴えを述べた者は3名であった。この時の町長・町側の答弁に疑いと不安を深くした1人、松本巻雄氏(いわき中央高校)が住民運動を呼びかけたのである。(『東北地方の「地域開発」政策と公害』17頁)

 この論文より、一般住民における反対運動の端緒は、原発(福島第二原発)、火発(広野火力発電所)の建設が本決まりになったことであることがわかる。福島第二原発は1968年に建設計画が発表され、富岡町毛萱を中心とした地権者ー農民の反対運動が起きたが、1970年には地権者ー農民の反対運動は終息した。他方、東電の広野火力発電所は、1971年に広野町議会が誘致決議をし、その年のうちには、建設予定地の85%が確保されたといわれている。この時期の火力発電所は、煤煙処理施設などの公害防止施策が十分ではなく、原発以上に公害源と目されていた。そして、1971年末に表明された原発、火発問題についての町側の対応に疑惑と不安を持った、いわき中央高校教員の松本巻雄によって、住民運動を起こすことが提唱されたのである。

早川によると、1972年1月15日には松本他10名によって準備会が開催されたという。そして、2月11日には、会員130名で「公害から楢葉町を守る町民の会」が結成された。

「公害から楢葉町を守る町民の会」結成時の決議文が『楢葉町史』第三巻に収録されている。すでに、本ブログで紹介していているので、概略だけ紹介しておこう。この会は「美しい自然の山河と町民の平和な暮らしと、我々の子孫を守る」ことを目的とした。自然、町民生活、町民の子孫を守ることが、この会の目的であったのである。そして、活動内容としては、

一町民各位への啓蒙、宣伝活動
一公害の科学的調査、研究会、資料の蒐集
一楢葉町の自然保護
一各種公害の予防、防止対策と補償要求運動
一機関紙の発行
一全国各地の公害反対組織運動との連携
一その他公害から楢葉町を守る仕事に関すること

であった。町民への啓蒙・宣伝活動や、公害の科学的調査・研究に力点がおかれていたといえる。いわば、市民運動としての原発反対運動なのである
 
早川によると、この会は、環境庁長官、楢葉町長、楢葉町議会、福島県などに陳情をするとともに、楢葉地区労などと共闘して楢葉町有権者を対象にして火発・原発建設即時中止を求める署名運動を展開し、さらに“公害を知る講演会”を実施しているのである。

そして、早川は、「福島県楢葉町・富岡町の事例について」の中で、次のように一年間の活動を回顧している。

1年間の活動から得た?、もう一つはー大企業があって国があって県があって町がある。その大前提は当地域のようなもの言わぬ住民である。ーこれは私個人のおそすぎた目覚めである。
 41年12月に、福島原発1号機の建設が始められたこと、42年5月に、浪江・小高両町に東北電力の原発誘致問題が起こったこと、43年にはわが町にも原発が誘致されるらしいこと、そして浪江町の地権者や富岡町の毛萱地権者が猛烈な反対運動を繰り広げていたこと等々、私はそれぞれの時点からよく知っていました。電力開発は公共事業なんだから、これはやらねばならんだろうし、又これからのこの地域のためにもある程度の犠牲は仕方ないだろうぐらいに、正直なところ、そんなふうに考えていました。そして46年4月に、広野町に火発が誘致されるらしいと知ったときに、これは大変なことになる、下手にしたら住めなくなると、はじめて自分のこととして驚きました。それで、二、三の知人あるいは隣近所の人達と困ったことになったと、話し合ったりしているうちに、みんなも自分と同じくらいな考えと心配をしていることが判った時、重大な誤解をしていることに気づきました。誤解でなく、気付かなかったのである。火発で驚いてはじめて気が付いたのです。ところがそれでもまだ“これからの世の中”と“誰か”に賭けていました。ーあれは、アカだ。ーの殺し文句が未だに生きている地域でもあるからです。こうした情況が、昭和版「谷中村事件」の再演をここでも一つ許していたー毛萱にも広野にも地を吐くような思いで、土地を手放した?人がいたのである。『県勢長期展望』を見ると、ー本展望のメーンテーマは「人間尊重」であり……「福島県に住んで良かったとしみじみ思う社会」ーの建設を試みたとあります。どこの、だれが住むでしょうか。

・ 原発の不安=どういうことか漠然としてわかりにくい。(原子力なんて、われわれにはとても理解できない科学・技術である、と考えているので)
・ “原発反対”は、住民の立ち上がりだけでは相当困難である。
・ “双葉地区の特殊性”から一番先頭に立つのは、まず小・中・高の教職員以外にないと思われる。(『東北地方の「地域開発」政策と公害』18〜19頁)

まず、早川は「大企業があって国があって県があって町がある。その大前提は当地域のようなもの言わぬ住民である。ーこれは私個人のおそすぎた目覚めである。」と述べている。これは、1973年時点の発言だが、現在でもー3.11以後でもー変わらない状況が続いているといえよう。

そして、早川は、福島第一原発の建設、浪江・小高原発の建設計画、福島第二原発の建設計画、そして、地権者たちの反対運動があったことは承知していたが、「電力開発は公共事業なんだから、これはやらねばならんだろうし、又これからのこの地域のためにもある程度の犠牲は仕方ないだろうぐらいに、正直なところ、そんなふうに考えていました。」と、率直に反省している。

そのような早川の認識を変えたのが、広野火力発電所建設計画であった。早川は「46年4月に、広野町に火発が誘致されるらしいと知ったときに、これは大変なことになる、下手にしたら住めなくなると、はじめて自分のこととして驚きました。それで、二、三の知人あるいは隣近所の人達と困ったことになったと、話し合ったりしているうちに、みんなも自分と同じくらいな考えと心配をしていることが判った時、重大な誤解をしていることに気づきました。誤解でなく、気付かなかったのである。火発で驚いてはじめて気が付いたのです。」と述べている。広野火力発電所建設計画が表面化し、ようやく「下手したら住めなくなる」と、自分のこととして驚いたと早川は告白している。そして、それは、早川だけでなく、知人や隣近所の人びとが共有している思いだったのである。

これは、現在、日本全国の多くの人びとが考えている意識と共通するものがあるといえる。3.11の福島第一原発事故があり、「下手したら住めなくなる」という意識がうまれ、それによりやっと原発問題を自分のこととして考えはじめた人は多いのではなかろうか。私も、その一人であることを、ここで告白しておこう。

しかし、それでも、自分自身の行動により、異議申立をしようとする人びとは少なかった。早川は、「ところがそれでもまだ“これからの世の中”と“誰か”に賭けていました。ーあれは、アカだ。ーの殺し文句が未だに生きている地域でもあるからです。こうした情況が、昭和版「谷中村事件」の再演をここでも一つ許していたー毛萱にも広野にも地を吐くような思いで、土地を手放した?人がいたのである。」と述べている。

冷戦終結後、異議申立を「アカ」=共産主義者として抑圧することは少なくなったといえる(ただし、むしろ、今は「非国民」などとレッテル張りされているのかもしれない)。しかし、2012年末の総選挙にあるように、「“これからの世の中”と“誰か”に賭け」ることは横行している。その上で、公害のために村を犠牲にした「谷中村」事件は、今や、村落レベルをこえた形で「再演」されてしまっているのである。

その上で、早川は、当時の福島県の『県勢長期展望』に「福島県に住んで良かったとしみじみ思う社会」の建設を試みたとあることに、このように切り返す。ー「どこの、だれが住むでしょうか」と。

そう、いま、楢葉町において、どこの、だれが住んでいるのであろうか。そして、だれが「福島県に住んで良かったとしみじみ」と思っているのであろうか。今から40年前の、1973年の発言が、まるで予言のように思えてならないのである。

もちろん、そのような未来を実現させないことが「公害から楢葉町を守る会」の目的であった。当時において、懸命に活動していたといえる。しかし、結果的には、このような未来が実現してしまった。このことについて、私たちは、もっと深く考えていかねばならないと思う。

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