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田中正造や在日朝鮮人問題などを専攻しつつ、反原発運動や指紋押捺反対運動などに携わりつつ、2015年になくなった熊本大学文学部長・教授の小松裕さんの追悼シンポジウムを母校の早稲田大学で10月1日に開きます。私、中嶋久人も実行委員の一人となっております。直接、小松さんをご存知ない方も、ぜひおいでください。下記ブログで詳細はお伝えする予定ですが、本ブログでも転載する形で告知していきたいと思います。よろしくお願いします。中嶋久人

https://tsuitoukomatsu.wordpress.com/

小松裕写真(2001年11月25日坂原辰雄氏撮影)

故小松裕氏写真(2001年11月25日坂原辰雄氏撮影)

 

追悼・小松裕 その歴史学から何を学ぶか ー 研究と社会との接点を求めて

 

日時:2017年10月1日(日)13:00〜17:00(開場12:30)

所在地:早稲田大学早稲田キャンパス14号館101教室

主催:小松裕追悼シンポジウム実行委員会

【報告】

1、小松裕の田中正造研究の現代的意義 菅井益郎(國學院大學元教员)

2、小​​松裕のアジア認識・在日朝鮮人認識への関心 木村健二(下関市立大学名誉教授)

3、実践する歴史学 – 小松裕とハンセン病問題 藤野豊(敬和学園大学教員)

4、熊本大学文化史研究室」と小松さん 植村邦彦(関西大学経済学部教授)

【討論】

*当日は資料代として1000円を申し受けます。

◆懇親会のご案内◆イル・デパン17:30~(予定)ご参加の方は、下記の連絡先へメールでお申し込みください。(〆切:7月末日)連絡先:小松シンポジウム実行委員会tsuitou.komatsu@gmail.com(担当:大久保)

ご案内

追悼・小松裕 その歴史学から何を学ぶか – 研究と社会との接点を求めて

2015 年 3 月、歴史家の小松裕さんを喪って、早くも2年が過ぎようとしています。享年60、熊本大学文学部長のまま逝かれ、その歴史研究も時を停めました。しかし、彼が追い求めた学問の姿は、いまのような時代にこそ求められるのではないでしょうか。

小松裕さんは、半生をかけて、歴史研究と社会との接点を模索してきました。専門である日本近代史では、自由民権百年記念運動・指紋押捺反対運動・ハンセン病問題への取組みなど、人権と民主主義を追求する運動を研究者の立場から担い、支えてきました。それはやがて、「いのち」を見据えた日本近現代史の歴史叙述として結実します。同時に、熊本という場所に深く根ざしながら、地域の歴史研究を担いつづけてきました。熊本大学では、西洋の 社会思想と日本の近代思想を学ぶことを目的に史学科に新たに設置された「文化史研究室」を拠点に、新しい歴史学の創造に力をつくしました。そのようにして30年近く、歴史研究 者の責務として地域への発信と啓発を欠かさぬ姿勢を貫きました。

小松さんのライフワークである足尾鉱毒反対運動の指導者、田中正造についての研究は、 こうした研究と社会とを結びつけようとする努力のたまものでした。詳細な実証研究から見出された正造の、そして渡良瀬川流域の人々の豊かな思想は、「3.11」以降、産業文明を問い直す動きが高まるなかで、あらためて貴重な示唆を与えてくれています。小松さん自身、反原発の運動でも先頭に立って活躍していました。

しかし、時代は小松さんが目指したものとは真逆に向かって進んでいるかに見えます。ナショナリズムが高まり、他者を排斥する動きがかつてないほど強まっています。それらに便乗し、かつ扇動して、「戦後日本」を一面的に否定し去ろうとする動きも顕著です。これらの背後には、近現代史を中心とした歴史意識をめぐる幾多の衝突や断層がありますが、いずれも日本社会の今後を左右する根幹にかかわることです。歴史学は、あらためてその有効性を問われています。

このような状況に対峙するためにも、私たちは、小松さんが遺された仕事とその姿勢から 多くを学べるはずです。そこでこのたび、その人となりとお仕事を偲びながら、いま歴史研究に何ができるか、みなさんとともに考え、語り合う場を企画しました。懇親会の席もご用意しましたので、小松さんを知る方も、あるいは著作から知った方も、どうかこの機会に大勢お集まりいただき、小松さんの学問と人生を語り合いましょう。ぜひ一人でも多くのみなさまのご参加をお願いします。

2017年5月

小松裕追悼シンポジウム実行委員会
新井勝紘(元専修大学) 大門正克(横浜国立大学) 大久保由理(日本女子大学) 大日方純夫(早稲田大学) 戸邉秀明(東京経済大学) 中嶋久人(早稲田大学)

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さて、前回のブログで、主に小田原琳の「闘うことの豊穣」(『歴史評論』2013年7月号)の中で紹介されている2013年3月15日の金曜官邸前抗議におけるシュプレヒコールをもとに、3.11によって「反核」が「反核兵器」から「反原発」を意味するようになったことを論じた。

その要因として、私は「『原子力の平和利用』とされてきた原発が反核意識の中心におかれるということは、反核意識が『平和』『日常』そのものを問い直さなくてはならないものとなったということを意味しているといえる。翻って考えてみれば、福島第一原発事故とそれによる放射性物質の汚染という問題が、今まで『平和な日常』とみなしてきた自分自身の眼前に及んできたということを意味してもいるだろう。」と指摘した。

それでは、「福島第一原発事故とそれによる放射性物質の汚染という問題が、今まで『平和な日常』とみなしてきた自分自身の眼前に及んできた」ということは、どういうことを意味するのだろう。改めて、自問自答してみた。

もう一度、小田原の主張をみてみよう。小田原は、3.11以後学んだこととして、次のことをあげている。

福島第一原発事故を機に、多くのひとびとが、原子力=核利用の非合理性と非道徳性を学んだ。都市生活を支える電力を供給するための原発が、経済的自立を奪われた地方に建設されていたこと。運転中にも、廃炉作業が必要であること。事故以前より確実に高くなった線量下で生活するという経験は人類史上まれに見ることであり、したがってその危険性について、信頼できる科学的知見は歴史的に存在しえないこと。地震と津波によって多くの命が失われ、大切なものを失ったたくさんのひとびとがいること。そのうえ、原発事故から強制的に、あるいは自主的に避難して、不安な生活を送らなければならない多くのひとびとがいること。安全か、安心か、確信のもてぬままに、不安と葛藤のなか被災地で生きつづけるひとびとのこと。それらのひとびとの声に、ほとんど応答することのない政治と、それを支えるメディアや経済界を実体として感知し、それに対する怒りの表現として、官邸前抗議行動がある(小田原前掲書p68) 。

前回のブログでとりあげたシュプレヒコール同様、一見耳慣れたことのように思える。しかし、実は、極めて新たな感性に基づいたものでもある。この中では、まず、「生活」ということが主題となっている。「都市生活」を支える「電力」。「高線量下の生活」。そして、被災地における「避難生活」。このように、まず「核」とは3.11以後の「生活」の中に存在しているものとして意識されている。いうなれば、戦争/平和という「将来」の危機ではなく(なお、冷戦下では、全面核戦争の危機は眼前のものと認識されており、また今でも原子力の軍事転用は大きな問題であるが)、すでに「生活」の中に「核」の危機は存在しているのである。そして、それは、「都市生活」という言葉で表現されているように、自らの外部ではなく、内部にも存在しているものである。

このような危機感は、たぶん、福島第一原発が廃炉処理されるという数十年間続くものであろう。地震があっても、台風が来ても、常に自分のところだけではなく、福島第一原発のありようが懸念される。食物についても、居住地についても、つねに「危機」の中で生活をしなくてはならないことが実感されてしまう。東京オリンピックが開催されようが、消費税が増税されようが、核に対する危機感は生活の中で厳然として存在し続ける。考えまい、忘れようとすることもなされるが、そのような危機感の抑圧は、歪んだ形でそのエネルギーが噴出されていくことになると考えられる。

このように、常に核の「危機」を意識して「生活」をするということ、これが3.11が私たちに与えた一つの「条件」であるといえるのである。そして、その中で、すべてが変わっていかざるをえないと私は思う。

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3.11以前、仕事などで福島第一・第二原発を間近に見ながらも、私は原発に対する危機意識を十分もつことはなかった。このことは、私にとって重い問題である。しかし、たぶん、一般的にもそうだったであろう。

3.11以前、「反核」といえば、「反核兵器」のことを意識するほうが多かったのではないかと思う。チェルノブイリ事故(1986年)後の1987年、広瀬隆はチェルノブイリ事故の危険性を警告した『危険な話』(八月書院)の中で、次のように指摘している。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(p54~55)

そして、広瀬隆自身が「核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる」として批判されてもいた。共産党系の雑誌『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に掲載された「座談会・自民党政府の原発政策批判」において、「赤旗」科学部長であった松橋隆司は、チェルノブイリ事故後に原発を含めた「核絶対反対」という方針を打ち出した総評ー原水禁を批判しつつ、明示的ではないが広瀬隆の言説について次のように指摘した。

また「原発の危険性」という重大な問題を取り上げながら、原子力の平和利用をいっさい否定する立場から、「核兵器より原発が危険」とか、「すでに原発のなかで核戦争が始まっている」といった誇張した議論で、核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる傾向もみられます。(p80)

直接的には私個人は関係してはいなかったが、このような志向が私においても無意識の中で存在していたと考えられる。1980年代の「反核運動」については参加した記憶はあるが、「反原発運動」については、存在は知りながらも、参加した記憶がない。このことについては、社会党ー原水禁が原発反対、共産党ー原水協が原発容認(既存の原発の危険性は認めているが)という路線対立があったことなど、さまざまな要因が作用している。しかし、翻って考えてみると、「将来の危機」としての戦争/ 平和などの対抗基軸で世界を認識していた戦後の認識枠組みにそった形で原子力開発一般が把握されていたと考えられる。もちろん、これは当時の文脈が何であったを指摘するもので、現在の立場から一面的に批判するという意図を持っていないことを付記しておく。

さて、3.11は、このような原子力開発への認識を大きく変えた。核戦争という「将来の危機」ではなく、原発事故と放射性物質による汚染という「いまここにある危機」が意識されるようになった。「反核」とは、まずは「反原発」を意味するようになったのである。

このことは反原発運動におけるシュプレヒコールにおいても表現されている。下記は、小田原淋によって書き留められた2013年3月15日の金曜官邸前抗議におけるシュプレヒコールの一部である。

原発いらない 原発やめろ 
大飯を止めろ 伊方はやめろ 
再稼働反対 大間はやめろ 
上関やめろ 再処理やめろ 
子どもを守れ 
大飯を止めろ さっさと止めろ 
原発反対 命を守れ 
原発やめろ 今すぐやめろ 
伊方はやめろ 刈羽もやめろ 
大飯原発今すぐ止めろ 
ふるさと守れ 海を汚すな 
すべてを廃炉 
もんじゅもいらない 大間建てるな 
原発いらない 日本にいらない 
世界にいらない どこにもいらない 
今すぐ廃炉 命を守れ 農業守れ 
漁業も守れ だから原発いらない
(小田原琳「闘うことの豊穣」、『歴史評論』2013年7月号、p66)

小田原は、この中に大飯原発再稼働や建設中もしくは再稼働間近と予想される原発への抗議、原発を止めない理由の一つとされた再処理政策への批判、放射性物質による環境汚染や健康被害への不安、原発輸出に対する異議申し立てがあると要約し、「きわめて短いフレーズのなかにひとびとが原発事故後に学んだ知識が凝縮されている」(同上)と評価している。このようなシュプレヒコールは、金曜官邸前抗議に足を運んだ人にとっては目新しいものではない。しかし、もう一度テクストの形で読んでみると、このシュプレヒコールの主題は、「反核兵器」ではなく、「反原発」であることがわかる。つまり「反核」の中心は、平和時に存在している原発への反対になったのである。

ただ、それは、それまでの「反核兵器」という意識が薄れたということを意味してはいない。金曜官邸前抗議においては、もちろん、広島・長崎への原爆投下については議論されており、使用済み核燃料再処理問題についても原爆の材料となるプルトニウム生産能力を確保しようとする意向があることもスピーチにおいて指摘されている。「反原発」という課題の中に「反核兵器」という課題が包含されたといえるだろう。

いずれにせよ、このような反核意識における「反核兵器」から「反原発」への重点の移動は、あまりにも日常的でふだん意識しないものではあるが、3.11によって引き起こされた大きな変化の一つであったといえる。それまでの「反核」は、戦争/平和という認識枠組みの中で把握されていた。すでに、原発立地地域における反原発運動において、「原子力の平和利用」の名目で行われてきた原発建設のはらむ問題性は指摘されていたが、反核全体においては「従」の立場に置かれていたといえる。結局、自らの日常が存在していた「平和」の中に存在していた諸問題は「反核」の中ではあまり意識されてこなかったのである。

しかし、「原子力の平和利用」とされてきた原発が反核意識の中心におかれるということは、反核意識が「平和」「日常」そのものを問い直さなくてはならないものとなったということを意味しているといえる。翻って考えてみれば、福島第一原発事故とそれによる放射性物質の汚染という問題が、今まで「平和な日常」とみなしてきた自分自身の眼前に及んできたということを意味してもいるだろう。そして、そのような「日常的」な次元での意識変化が、反核意識の中での「反核兵器」から「反原発」への重点の変化につながっていったと考えられるのである。

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本ブログでもとりあげたことがあるが、在日特権を許さない会(在特会)などが主催する在日コリアンを排斥するデモが、東京の新大久保や大阪の鶴橋などを中心に行なわれている。そのことについて、新大久保も管轄している東京都の猪瀬直樹知事の2013年3月29日における記者会見で質問が飛んだ。産經新聞は3月31日付のネット配信記事で詳細に伝えているので、まず、その部分を紹介しておきたい。なおーーは記者の質問で、「 」が猪瀬の答である。

--新大久保のコリアンタウンで、在特会と称する人たちの主催による、在日コリアン排斥を目的とする街宣デモが行われている。200人ほどで練り歩き「朝鮮人は皆殺し」「首をつれ」などのプラカードを掲げ、「ゴキブリ」「日本から出て行け」といったシュプレヒコールをあげている。地元、観光客はみなおびえきっている。一部の国会議員はこれを憂慮し、民族差別デモを許可しないよう、東京都公安委員会に要請している。民族差別デモが平然と行われているこの国で、民族の祭典であるオリンピックを誘致する資格があるのかどうか。知事の見解を。

 「僕も見たことないが、品がない表現。ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。人を傷つけるなどしなければ、とりあえずは合法活動ということになる」

 --ただ、外国では民族を扇動するようなデモは固く禁じる法律があるところもある

 「だからそれは法律のバックがあるからね。今のところ日本の法律では、人に危害を加えたりしなければ、警察の取り締まりの対象にならない」

 --それについて知事はどう考えているか。

 「だからそういう下品なデモで、品のない言葉を吐くわけ。でもわずか200人ぐらいの人。東京の1300万人のうちのわずか200人。もちろんそれはよろしくないとは思う」

 --知事として何か具体策をとるとか。

 「対策というのは、法律に基づかないとできないから。もちろんそういうことに対して『それはおかしいじゃないか』ということを僕は思っている」

 --東京都公安委員会は都が管轄だと思うが

 「それは公安委員会の方が判断しなければいけない問題だから」

 --知事が働きかけるとかそういうことは考えていないか

 「今のところ法律的にそれを取り締まるものがないということ」

 --都政としてはこのままか

 「都政の問題じゃなくて、警察とか法規に基づいてデモが暴走したりしたらそれは逮捕とかできるわけだが、相手に危害を加えるとか器物を破損しているとか、そういうことが起きているかどうか注意深く見守りたいと思う」

 --見守るということですね

 「見守るというか、そういうことが起きているかどうか。そういうことが起きていれば、それは犯罪になるから」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130331/lcl13033107010000-n3.htm

簡単にいれば、結局、取り締まる法律がないから、犯罪行為にならない限り、「「朝鮮人は皆殺し」「首をつれ」などのプラカードを掲げ、「ゴキブリ」「日本から出て行け」といったシュプレヒコールをあげている」在特会の人種差別的なデモを見守るということにつきるだろう。猪瀬は、「ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。」としている。そして、「民族差別デモが平然と行われているこの国で、民族の祭典であるオリンピックを誘致する資格があるのかどうか」という問いについても、都民1300万人に対して、200人の集団に過ぎないと答えているのである。

まず、このような猪瀬の見解が、現在の日本政府が、人種差別に対してとっている姿勢をベースにしているということをここでは確認しておきたい。1965年に採択された「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」(人種差別撤廃条約)に、日本は1995年に批准した。しかし、この条約では、第四条で、人種差別思想の流布、人種差別の煽動、人種差別にもとづく暴力行為、それに対する資金援助、人種差別を助長・煽動する団体の組織的宣伝活動を法律で禁止することを求めているのであるが、日本政府は、この第四条に対し、次のような「留保」をつけた。

「日本国は、あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約第4条の(a)及び(b)の規定の適用に当たり、同条に「世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って」と規定してあることに留意し、日本国憲法の下における集会、結社及び表現の自由その他の権利の保障と抵触しない限度において、これらの規定に基づく義務を履行する。」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/99/4.html

そして、具体的には、名誉棄損その他、刑法など現行法で取り締まることができる範囲内でしか規制しないとしたのである。猪瀬の発言は、大枠では、日本政府の解釈にそったものとしてみることができる。

この日本政府の「留保」自体が問題であり、人種差別撤廃委員会から、人種差別の言動を取り締まる立法を迫られている。このことについては、別の機会にみてみたい。

ここでは、猪瀬個人にしぼってみておきたい。猪瀬は「ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。」と主張している。しかし、本当に、猪瀬は、そのような対応をとっていたのであろうか。

猪瀬が副知事であった2012年11月、東京都は、日比谷公園を出発地とする反原発デモを、公園の一時使用を許可しない形で阻止した。このことを『週刊金曜日』が11月21日にネット配信した記事でみておこう。

毎週金曜日の首相官邸前デモなどを主導してきた首都圏反原発連合が一一月一一日に予定している「11・11 反原発1000000人大占拠」は、東京都が日比谷公園の一時使用を不許可としているため開催が危ぶまれる状況となっている。

 二日、衆議院第一議員会館で行なわれた会見で反原連のミサオ・レッドウルフさんらが経緯を説明した。これまでと同じやり方で日比谷公園の指定管理者に使用許可書を提出した際、「東京都から、デモの一時使用受付はしないよう言われた」という。反原連は一〇月二六日、都に対し使用許可の申請をしたが、都は三一日、「公園管理上の支障となるため」として不許可の通知を出した。

 主催者らは「(実現できなければ)運動全体にとってかなりのダメージになる」「(圧力に屈して)できなくなるという前例はつくりたくない」として東京地裁に申し立てる決断をしたという。しかし二日夕刻、東京地裁は主催者らの主張を却下。主催者側は即時抗告を出したが、五日には東京高裁が地裁判決を支持したことで一一日の日比谷公園でのデモは不可能となった。

 東京都は八月より従来の方針を切り替え、日比谷公園をデモの出発地点とする場合、日比谷公会堂や日比谷野外音楽堂の使用を条件につけることにしている。国際政治学者の五野井郁夫氏は「大きな場を借りなければ集会ができないとすれば、お金がない人間は集会ができなくなる」と訴えた。

 中東の民主化デモ「アラブの春」などを取材してきたジャーナリストの田中龍作氏は「独裁政権下にあるエジプトでもタハリール広場の使用を認めてきた。東京都の実態は異常としか思えない」と話す。

(野中大樹・編集部、11月9日号)
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=2670

もちろん、この時、猪瀬は副知事にすぎない。最大の責任者は石原慎太郎都知事(当時)である。しかし、猪瀬もまた、11月8日、彼のツイッターで次のように述べている。

亀井静香氏から1カ月ほど前に電話があり、日比谷公園を反原発デモの出発地として許可しろと言うから、あなたお巡りさん出身だから知っているでしょ、学生運動が盛んな時代、明治公園に集まり青山通りから国会付近へ行き日比谷公園は流れ解散の「一時使用」でしょ、と記憶を確かめてやりました。
日比谷公園でなく日比谷野外音楽堂はメーデーなどいろいろ利用されている。亀井さん、野音を取れば?と勧めたら、もう埋まっているのだよと言うからそれは単に不手際でしょと返して、明治公園から日比谷公園までデモする根性なくてなにが反原発だ、日比谷から国会なんてやる気があるの?です。
デモの常識。明治公園は日本青年館横のかなり広いスペース、数万人は集まれる。地面はコンクリート。休日にフリーマーケットなどで使われている。青山通りから虎ノ門経由で国会周辺、日比谷公園へ。日比谷は花壇と噴水だから流れ解散の場。集会の自由あたりまえ、やる側の根性とセット。
http://matome.naver.jp/odai/2135261591756465301より転載。

つまり、猪瀬は、このツイッターにおいて、反原発デモに介入し、阻止した石原都知事の側にたって、反原発デモの阻止を正当化しているのである。「ただ、デモは届け出をして手続きをやれば、できることはできる。」ということは、反原発デモには適用されていないのである。

このように、猪瀬は、人種差別的な在特会のデモは「見守り」、反原発デモは「阻止」しているのである。いわば、デモに対して、猪瀬は二重基準で行動しているといってよいだろう。

ただ、どのような形で、このような人種差別に対応していくかということについては、より慎重に考えていかねばならないだろう。在特会デモへの規制が、一般のデモ規制強化につながっていく危険性もあるのである。

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