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Posts Tagged ‘足尾鉱毒問題’

なぜ、リスクのある原発が福島などの地方で建設されたのか。拙著『戦後史のなかの福島原発』(大月書店、2014年)は、そのような問いに答えるものであった。拙著では、原爆投下(1945年)や第五福竜丸事件(1954年)によって、日本社会において漠然とした形であったが放射能のリスク認識は一般化しつつあり、大都市部などの中央において原子炉・原発の立地は政府も住民も忌避することになっていたが、人口が少なく、経済が成長していないと認識されていた茨城、福島、福井などの地方においては、リスク認識をもちつつも、そのリスクゆえにより大きなリターンー地域開発・雇用・補交付金・固定資産税収・消費市場・寄付金などーを得ようとすることで、原発立地を受け入れていったと結論づけた。

こういう関係は、原発だけに限られる問題ではない。戦後社会、いや日本の近代社会では、中央ー地方の関係性において、中央の必要に応じて地方が再編され、その再編を通じて、地域開発や交付金などのリターンを獲得するという構図が成り立っていた。一つだけ例をあげれば、足尾鉱毒問題がそれである。足尾銅山の生産する銅は、単に経営者古河市兵衛の利益になるだけではなく、当時の日本の有力な外貨獲得源でもあった。政府は、結局、谷中村を犠牲にする治水事業という地方利益を鉱毒地域に与えることによって、足尾銅山操業停止要求を鎮静化したのである。

さて、3.11以後はどうなったであろうか。原発事故のリスクは、地域社会が予想する範囲を大きく超えていた。福島県浜通りにあった原発立地自治体の住民は避難を余儀なくされた。政府や福島県主導で、避難指示を解除し住民の早期帰還を促す政策が実施されようとしているが、結局、福島第一原発の廃炉作業すらままならない状態で、多くの住民が早期に帰還できるとは思えない。拙著でも引用したが、3.11前に原発増設を推進していた井戸川克隆双葉町長(当時)は、2012年1月30日の国会事故調において「原発立地をして、確かに交付金いただいて、いろんなものを整備しました、建てました、造りました。それを全部今は置いてきているんです。過去のものになってしまったんです。じゃ、今我々は一体何を持っているかというと、借金を持っています…それ以外に失ったのはって、厖大ですね。先祖伝来のあの地域、土地を失って、全てを失って、これを是非全国の立地の方には調べていただきたい」と語った。地域社会総体の消滅ということが、原発の真のリスクであったのである。それは、交付金などの地域社会で獲得してきたリターンを無にするものであった。

そして、こういうこともまた、原発だけには限られないのである。2014年5月8日、2040年には若年女性が2010年の半分以下になる「消滅可能性都市」が日本の自治体の半数近くなるという日本創成会議の試算が発表された。産經新聞のネット配信記事で概要をみておこう。

2014.5.8 17:43

2040年、896市町村が消滅!? 若年女性流出で、日本創成会議が試算発表

 2040(平成52)年に若年女性の流出により全国の896市区町村が「消滅」の危機に直面する-。有識者らでつくる政策発信組織「日本創成会議」の人口減少問題検討分科会(座長・増田寛也元総務相)が8日、こんな試算結果を発表した。分科会は地域崩壊や自治体運営が行き詰まる懸念があるとして、東京一極集中の是正や魅力ある地方の拠点都市づくりなどを提言した。

 分科会は、国立社会保障・人口問題研究所が昨年3月にまとめた将来推計人口のデータを基に、最近の都市間の人口移動の状況を加味して40年の20~30代の女性の数を試算。その結果、10年と比較して若年女性が半分以下に減る自治体「消滅可能性都市」は全国の49・8%に当たる896市区町村に上った。このうち523市町村は40年に人口が1万人を切る。

 消滅可能性都市は、北海道や東北地方の山間部などに集中している。ただ、大阪市の西成区(減少率55・3%)や大正区(同54・3%)、東京都豊島区(同50・8%)のように大都市部にも分布している。

 都道府県別でみると、消滅可能性都市の割合が最も高かったのは96・0%の秋田県。次いで87・5%の青森県、84・2%の島根県、81・8%の岩手県の割合が高く、東北地方に目立っていた。和歌山県(76・7%)、徳島県(70・8%)、鹿児島県(69・8%)など、近畿以西にも割合の高い県が集中していた。

 増田氏は8日、都内で記者会見し、試算結果について「若者が首都圏に集中するのは日本特有の現象だ。人口減少社会は避けられないが、『急減社会』は回避しなければならない」と述べ、早期の対策を取るよう政府に求めた。
http://www.sankei.com/life/news/140508/lif1405080009-n1.html

日本創成会議のサイトによると、これは単なる日本社会総体の少子高齢化による人口減少というだけでなく、「日本は地方と大都市間の「人口移動」が激しい。このまま推移すれば、地域で人口が一律に減少することにならず、①地方の「人口急減・消滅」と②大都市(特に東京圏)の「人口集中」とが同時進行していくこととなる」(http://www.policycouncil.jp/pdf/prop03/prop03.pdf)ということでもあると説明している。つまりは、人口減少のなかで、大都市ー中央に人口がより集中することによって、地方の人口が急減し、消滅の危機を迎えるということになっているのだ。大げさな言い方をすれば、中央ー地方の関係性のなかで、地方の地域社会自体が「消滅」に向かっているといえるのである。

そして、それは、大都市ー中央の衰退につながる。日本創成会議のサイトでは、「都市部(東京圏)も近い将来本格的な人口減少期に入る。地方の人口が消滅すれば、都市部への人口流入がなくなり、いずれ都市部も衰退する」と主張されている。

前述してきたように、大都市ー中央の利害によって地方の地域社会が再編され、そのことによって地方もリターンを獲得してきた。その最も顕著な例が原発立地にほかならない。しかし、今後、地方の地域社会自体が消滅していくならば、そのような構図自体が成り立たなっていく。そして、それは、中央それ自体も衰退していくということなのである。福島第一原発事故による原発自治体の問題は、そのようなことの予兆としても見るべきなのではなかろうか。

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つい先日(2013年8月11日)、仕事のついでに足尾鉱毒問題において遊水池として「廃村」させられた旧谷中村に行ってみた。この旧谷中村遺跡は何度か訪れたことがある。しかし、3.11以後はいったことがなかった。

今、いってみると、大きな樹木が生えている塚がたくさん立ち並んでいることに目をみはった。次の写真をみてほしい。

旧谷中村の「水塚」(2013年8月11日撮影)

旧谷中村の「水塚」(2013年8月11日撮影)

これは、ただ一つのものを写したものだが、このような大きな樹木が生えた塚がそこら中にある。全てではないかもしれないが、これらの多くは、旧谷中村の住居跡なのである。

この地域は、足尾鉱毒問題が起こる以前から、渡良瀬川の水害にさらされてきた地帯であった。そのため、住居には堤防などの高地が必要であった。隣接する群馬県板倉町には、水害から一時的に避難するために、住居の裏に高台を築き、そこに避難用の家屋を建てている。これは水塚(みづか)とよばれている。

同じような生活文化は、隣村の旧谷中村にもあったと考えられる。住居には高地が必要であったのである。もちろん、神社や寺院にも高地は必要であった。例えば、次の写真は雷電神社跡(もちろん、神社そのものは残っていない)であるが、かなりの高地にあることがわかるだろう。

雷電神社跡(2013年8月11日撮影)

雷電神社跡(2013年8月11日撮影)

はっきりと整備され、遺跡であることがわかるものもある。次の写真は、谷中村役場が置かれた大野孫右衛門屋敷跡であるが、きれいに整備され、標柱もある。布川了『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』(改訂2009年)では、「谷中村役場跡は広場の左手に行ったところにある。大地主で、村長も務めた大野孫右衛門の屋敷の水塚の一棟が、谷中村役場にあてられていた」(p105)とされている。たぶん、大野家の屋敷の裏が土盛りされ、そこに水塚として避難用家屋が建てられ、それが谷中村役場になったのであろう。

旧谷中村役場・大野孫右衛門屋敷跡(2013年8月11日撮影)

旧谷中村役場・大野孫右衛門屋敷跡(2013年8月11日撮影)

しかし、ほとんど多くの住居跡は、単なる樹木の生えた塚にしかみえなくなり、自然のものか人工のものか区別できなくなっている。もちろん、全部を歩き回ったわけではないし、夏草におおわれて掲示板などが見えないものもあるかもしれない。『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』では「役場跡の下の道を北に歩きだせば、三〇近い住居跡が明治に亡びたまま、竹やぶや雑木の、いわゆる『やしきボッチ』として連なっている」(p105)と書かれ、「谷中村集落図」(p106)が掲載されている。

谷中村集落図

谷中村集落図

現時点では、樹木(たぶん屋敷林の名残り)が生えた塚が住居跡であり、葭原になってしまった湿原がかつての水田跡なのだろうと推測する他はない。まるで、自然がそのまま残されているかのような光景。しかし、これは、かつて、生活していた人びとを追い出し、その結果生まれた「自然」なのである。

旧谷中村遺跡の光景(2013年8月11日撮影)

旧谷中村遺跡の光景(2013年8月11日撮影)

そして、他方、完全に水没した地もある。戦後、渡良瀬遊水地が改修され、「谷中湖」ができた。その際、谷中村遺跡全体の水没もはかられたが、必死の抵抗運動で、谷中村遺跡全体の水没はまぬがれた。現在、谷中湖はハート形をしているが、それは谷中村遺跡を保存するためである。しかし、それでも、谷中村の下宮・内野地区は水没せざるをえなかったのである。次の写真は谷中湖である。この、非常に人工的な水面の下に、谷中村の一部は眠っているのである。

谷中湖(2013年8月11日撮影)

谷中湖(2013年8月11日撮影)

今、この谷中村遺跡を含んだ渡良瀬遊水地は、水鳥などの生息地である湿地を保護するラムサール条約の登録地になっている。もちろん、ラムサール条約登録には何の異論もない。しかし、足尾銅山の鉱毒による自然破壊の結果生まれた渡良瀬遊水地の「自然」を保護するというのは、非常に皮肉なことに思えるのである。

そして、この谷中村遺跡の状況は、また、福島で再現されようとしているのである。

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