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Posts Tagged ‘環境’

新型コロナウィルス肺炎感染拡大に対して、世界の多くの国々がとっているのが、市民の外出を必需品買い出し以外は制限する都市封鎖ーロックダウンである。爆発的感染がみられた中国、イタリア、スペイン、フランス、アメリカや、予防的にインドなどで行われた。日本の緊急事態宣言による外出自粛の要請も、法的強制力の有無の違いはあるものの、同様の意図があるといえる、この措置は、経済活動を含む社会的活動全般を抑制するもので、そのことによって、政府・企業・市民が多大な経済的困窮に直面することになった。その意味で、この都市封鎖ーロックダウンは、それぞれの社会にとって、社会的危機につながっていくことになった。

他方で、皮肉なことに、この都市封鎖ーロックダウンによる経済活動の抑制は、地球環境を一時的に改善することにつながった。そのことについては、前回の投稿で自分の生活圏である東京の状況をみてみた。ここでは、まず、世界で最初に爆発的な感染を抑制するため武漢市ー湖北省の都市封鎖ーロックダウンを2020年1月23日に実施した中国の状況をみてみよう。CNNは、2020年3月18日、スタンフォード大学のマーシャル・バーク准教授の推計をもとに、次のような記事を配信した。

 

新型ウイルス対策で中国の大気汚染が改善、数万人が救われた可能性
2020.03.18 Wed posted at 11:55 JST

(CNN) 中国が新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために打ち出した厳重な対策のおかげで、大気汚染が改善されて5万~7万5000人が早死にリスクから救われた可能性があるという推計を、米スタンフォード大学の研究者がまとめた。

この推計は同大学のマーシャル・バーク准教授が、社会と環境の関係をテーマとする学術サイトの「G―Feed」に発表した。「大気汚染の減少によって中国で救われた命は、同国で今回のウイルス感染のために失われた命の20倍に上る可能性が大きい」と指摘している。

中国は大気汚染対策に力を入れているが、依然として世界の中で最悪級にランクされていた。世界保健機関(WHO)の推計では、汚染された大気に含まれる微小粒子状物質のために死亡する人は年間およそ700万人に上る。中国経済環境省によると、新型コロナウイルスの発生源となった湖北省では今年2月、大気の状態が「良好」だった平均日数が、前年同月に比べて21.5%増えた。

米航空宇宙局(NASA)や欧州宇宙機関(ESA)の衛星画像を見ても、中国の主要都市で1月~2月にかけ、車や工場、工業施設などから排出される二酸化窒素の量は激減していた。

バーク准教授は微小粒子状物質「PM2.5」に着目し、2016~19年にかけて中国の4都市で測定された大気汚染に関するデータをもとに、汚染物質は立方メートル当たり15~18マイクログラム減ったと算定した。

過剰推計を防ぐため、この減少値を10マイクログラムに抑え、都市部の住民のみが大気汚染改善の恩恵を受けると推定。2008年の北京オリンピックで中国政府が厳重な排出規制を導入した際に健康状態が改善されたことを示す過去のデータも取り入れて、影響を算出した。その結果、新型コロナウイルス対策による2カ月間の大気汚染改善のおかげで中国で救われた命は、5歳未満の子どもが1400~4000人、70歳以上の大人は5万1700~7万3000人と推定した。

ただ、新型コロナウイルス感染拡大の影響は、直接的な死者のみにとどまらず、経済状態の悪化や医療機関を受診しにくくなるなどの影響もあるとバーク准教授は言い、「パンデミックのない経済運営の中で覆い隠されていた健康面の代償が、パンデミックのせいで目に見えるようになった」と指摘している。

https://www.cnn.co.jp/world/35150996.html(2020年5月12日閲覧)

 

この記事においては、中国において都市封鎖後に工場や自動車から排出される二酸化窒素やPM2.5などの大気汚染物質が激減したことを報じている。前回のブログで指摘した東京の大気汚染の改善は、中国の汚染状況の改善が大きく寄与しているといえる。この記事は、中国の大気汚染改善という事実の指摘にはとどまらない。バーク准教授は、この大気汚染状況改善によって、大気汚染を原因として失われる中国人の命が「5歳未満の子どもが1400~4000人、70歳以上の大人は5万1700~7万3000人」と推定している。5月12日現在で新型コロナウィルス肺炎感染による中国の死亡者数は4633人と発表されておりーこの数値には疑問の余地があるがー、その10倍以上の人命が皮肉なことに新型コロナウィルス肺炎によって救われたということになる。バーク准教授は「パンデミックのない経済運営の中で覆い隠されていた健康面の代償が、パンデミックのせいで目に見えるようになった」と主張している。ただ、この記事では、経済状態の悪化や医療機関受診の困難さなど、新型コロナウィルス肺炎のパンデミックによる人々の命に対する悪影響も指摘している。

 

続いて、北部地方における爆発的な感染によって、3月9日に全土がロックダウンされたイタリアの状況をみてみよう。前回のブログで引用したウェザーニューズ社配信(4月22日)の「4月22日は地球の日(アースデイ) 新型コロナで地球環境は改善か」では、中国・アメリカ・日本の状況とともにイタリアの状況を伝えている。同記事によると、

新型コロナウイルスの感染が蔓延したイタリアでも二酸化窒素排出量が激減しました。欧州宇宙機関(ESA)が二酸化窒素排出量変化(10日間における移動平均値)の動画をホームページ上で公開しています。1月の平常時(図1)と感染が拡大して移動制限と工場操業停止が行われた3月(図2)を比較すると、特にイタリア北部地域で二酸化窒素排出量が顕著に減少していることがわかります。https://weathernews.jp/s/topics/202004/210055/(2020年5月13日閲覧)

という状況である。この状況は、たぶん、ロックダウンが実施されたスペイン・フランス・イギリスでも共通しているであろう。

続いて、アメリカの状況をみておこう。アメリカの各都市も、新型コロナウィルス肺炎の爆発的な感染を封じ込めるために、3月よりロックダウンされるようになった。それが大気汚染にどのように影響したのか。CNNは2020年3月24日に次のように伝えている。

 

米大都市の大気汚染も改善、衛星画像が映し出す新型コロナ対策の効果
2020.03.24 Tue posted at 11:31 JST

(CNN) 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて何百万人もの米国人が在宅勤務に切り替え、学校や公共の場も閉鎖される中で、大気汚染が改善された様子を衛星画像が映し出している。

(衛星画像は省略)

衛星画像は3月の最初の3週に撮影されたもので、前年同時期に比べて米国上空の二酸化窒素の量が減ったことを示していた。米環境保護局によると、大気中の二酸化窒素は主に燃料を燃やすことによって発生し、自動車やトラック、バス、発電所などから排出される。

ウイルス感染拡大防止のために外出禁止などの厳重な対策を打ち出したカリフォルニア州では特に、二酸化窒素の濃度が目に見えて低下していた。新型ウイルスの影響が大きいワシントン州西部のシアトル周辺でも、過去数週間の二酸化窒素の濃度は大幅に減少した。

二酸化窒素の変化を表す画像は、デカルト研究所が加工した衛星画像を使ってCNNが作成した。

大気汚染の改善については、米航空宇宙局(NASA)や欧州宇宙機関(ESA)の衛星画像でも、中国が打ち出した厳重な対策のおかげで二酸化窒素の排出量が激減したことが示されていた。米スタンフォード大学の研究者は、このおかげで5万~7万5000人が早死にリスクから救われた可能性があると指摘している。

NASAの研究者は「特定の出来事のためにこれほど広い範囲で激減が見られたのは初めて」と述べ、「全米で多くの都市が、ウイルスの感染拡大を最小限に抑える対策を講じているので、驚きはない」と話している。

https://www.cnn.co.jp/usa/35151251.html(2020年5月13日閲覧)

 

アメリカでも、ロックダウン以降、二酸化窒素が前年に比べて大幅に減少したのである。この記事でも、中国が大気汚染改善により多くの人命が救われた可能性があることに言及されている。

それでは、3月25日より全土がロックダウンされたインドではどうだろうか。インドは中国と同様に大気汚染が著しいとされていた。このインドの大気汚染について、CNNは、2020年4月10日に、次のように伝えている。

 

インド北部から数十年ぶりにヒマラヤ眺望、新型コロナ対策で大気汚染改善
2020.04.10 Fri posted at 11:01 JST

(画像などは省略)

(CNN) インド北部のパンジャブ州で、200キロ近く離れたヒマラヤ山脈が数十年ぶりに見晴らせるようになり、市民を感嘆させている。同国では新型コロナウイルス対策のロックダウン(都市封鎖)で全土の大気汚染が大幅に改善していた。

同州ジャランダルや周辺地域の住民は、自宅から撮影したヒマラヤ山脈の写真をインターネットに投稿している。「インドのロックダウンのおかげで大気汚染が晴れ、ほぼ30年ぶりにヒマラヤ山脈がはっきり見える。素晴らしい」という書き込みもあった。

インドでは新型コロナウイルス対策のため工場が閉鎖され、道路から車が消え、空の便も運航を停止したため、ここ数週間で大気汚染が劇的に改善していた。

デリーでは規制が始まった初日に微小粒子状物質「PM10」が最大で44%減少。全土のロックダウンの第1週目は、85都市で大気汚染が改善した。

ジャランダルの大気の状態は、全土のロックダウンが発表されてからの17日間のうち16日で「良好」と評価されている。これに対して前年の同じ期間の17日間は、大気の状態が「良好」だった日は1日もなく、今年3月1日~17日にかけても3日しかなかった。

インドは2週間以上前から都市封鎖に入り、モディ首相は国民の外出を全面的に禁止すると発表していた。

https://www.cnn.co.jp/world/35152184.html(2020年5月14日閲覧)

 

このように、デリーではPM10がロックダウン初日から44%減少するなど、各都市の大気汚染状況は改善され、インド北部の都市であるジャランダルでは、それまで見えなかったヒマラヤ山脈が見えるようになったということである。

なお、新型コロナウィルス肺炎感染による死亡率は大気汚染によって悪化すると、ナショナル・ジオクラフィックが2020年4月11日に伝えている。もし、そうだとすると、都市封鎖ーロックダウンによる大気汚染状況の改善は、新型コロナウィルス肺炎の医療的ケアの一助にもなったといえよう

 

新型コロナの死亡率、大気汚染で悪化と判明、研究

衝撃的な影響の大きさ、だが都市封鎖で汚染は改善、緩和後の環境対策に一石
2020.04.11

 世界中で猛威をふるう新型コロナウイルスは、医療崩壊から極端な貧富の格差まで、現代社会の弱点を突きながら拡散している。しかし、無視されがちなある大問題との関係は、少々複雑だ。それは、大気汚染がパンデミック(世界的な大流行)を悪化させた一方、そのおかげで、一時的でも空がきれいになっているということだ。

 米ハーバード大学T・H・チャン公衆衛生大学院の研究者が、1本の論文を公開した。査読を受けて学術誌に発表されたものではないが、それによると、PM2.5と呼ばれる微粒子状の大気汚染物質を長年吸い込んできた人は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による死亡率が大幅に高くなるという。

 大気汚染の科学に関心を持つ人々には意外ではない。とはいえ、その影響の大きさは衝撃的だった。

 研究者らは、米国の人口の98%をカバーする約3000の郡について、大気中のPM2.5の濃度と新型コロナウイルス感染症による死者数を分析した。すると、PM2.5の濃度が1立方メートルあたり平均わずか1マイクログラム高いだけで、その死亡率(人口当たりの死者数)が15%も高かった。

「汚染された大気を吸ってきた人が新型コロナウイルス感染症にかかったら、ガソリンに火をつけるようなものです」と、論文の著者であるハーバード大学の生物統計学教授フランチェスカ・ドミニチ氏は言う。

 PM2.5は体の奥深くまで侵入して高血圧、心臓病、呼吸器障害、糖尿病を悪化させる。こうした既往症は新型コロナウイルス感染症を重症化させる。また、PM2.5は免疫系を弱体化させたり、肺や気道の炎症を引き起こしたりして、感染や重症化のリスクを高める。(参考記事:「新型コロナ、重症化しやすい基礎疾患の致死率は?」)

 ドミニチ氏らは、現在のパンデミックの中心地であるニューヨーク市のマンハッタンを例に、大気汚染の影響を説明した。マンハッタンではPM2.5の平均濃度が1立方メートルあたり11マイクログラムあり、4月4日時点で1904人の死者が報告されている。

 研究チームの推算によると、過去20年間のPM2.5の平均濃度があと1マイクログラムでも少なければ、死者数は248人も少なかったはずだという。もちろん、犠牲者の数は4月4日以降も増え続けている。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/041000226/(2020年5月15日閲覧)

 

このように、新型コロナウィルス肺炎の爆発的な感染を抑え込むために世界の各地域で行われた都市封鎖ーロックダウンは、皮肉なことに、近年の世界的課題であった地球環境の改善に一時的ではあれ肯定的な結果をもたらした。中国などの例によれば、新型コロナウィルス肺炎感染による死亡者の10倍以上が、大気汚染による死亡から救われたことになる。こうなると、そもそも、新型コロナウィルス肺炎パンデミック以前の世界とは何であったかという問いが惹起せざるを得ないのである。

さて、次回は、新型コロナウィルス肺炎対策としての都市封鎖ーロックダウンが、動物の世界にどのような影響を与えたかをみておこう。

 

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田中正造や在日朝鮮人問題などを専攻しつつ、反原発運動や指紋押捺反対運動などに携わりつつ、2015年になくなった熊本大学文学部長・教授の小松裕さんの追悼シンポジウムを母校の早稲田大学で10月1日に開きます。私、中嶋久人も実行委員の一人となっております。直接、小松さんをご存知ない方も、ぜひおいでください。下記ブログで詳細はお伝えする予定ですが、本ブログでも転載する形で告知していきたいと思います。よろしくお願いします。中嶋久人

https://tsuitoukomatsu.wordpress.com/

小松裕写真(2001年11月25日坂原辰雄氏撮影)

故小松裕氏写真(2001年11月25日坂原辰雄氏撮影)

 

追悼・小松裕 その歴史学から何を学ぶか ー 研究と社会との接点を求めて

 

日時:2017年10月1日(日)13:00〜17:00(開場12:30)

所在地:早稲田大学早稲田キャンパス14号館101教室

主催:小松裕追悼シンポジウム実行委員会

【報告】

1、小松裕の田中正造研究の現代的意義 菅井益郎(國學院大學元教员)

2、小​​松裕のアジア認識・在日朝鮮人認識への関心 木村健二(下関市立大学名誉教授)

3、実践する歴史学 – 小松裕とハンセン病問題 藤野豊(敬和学園大学教員)

4、熊本大学文化史研究室」と小松さん 植村邦彦(関西大学経済学部教授)

【討論】

*当日は資料代として1000円を申し受けます。

◆懇親会のご案内◆イル・デパン17:30~(予定)ご参加の方は、下記の連絡先へメールでお申し込みください。(〆切:7月末日)連絡先:小松シンポジウム実行委員会tsuitou.komatsu@gmail.com(担当:大久保)

ご案内

追悼・小松裕 その歴史学から何を学ぶか – 研究と社会との接点を求めて

2015 年 3 月、歴史家の小松裕さんを喪って、早くも2年が過ぎようとしています。享年60、熊本大学文学部長のまま逝かれ、その歴史研究も時を停めました。しかし、彼が追い求めた学問の姿は、いまのような時代にこそ求められるのではないでしょうか。

小松裕さんは、半生をかけて、歴史研究と社会との接点を模索してきました。専門である日本近代史では、自由民権百年記念運動・指紋押捺反対運動・ハンセン病問題への取組みなど、人権と民主主義を追求する運動を研究者の立場から担い、支えてきました。それはやがて、「いのち」を見据えた日本近現代史の歴史叙述として結実します。同時に、熊本という場所に深く根ざしながら、地域の歴史研究を担いつづけてきました。熊本大学では、西洋の 社会思想と日本の近代思想を学ぶことを目的に史学科に新たに設置された「文化史研究室」を拠点に、新しい歴史学の創造に力をつくしました。そのようにして30年近く、歴史研究 者の責務として地域への発信と啓発を欠かさぬ姿勢を貫きました。

小松さんのライフワークである足尾鉱毒反対運動の指導者、田中正造についての研究は、 こうした研究と社会とを結びつけようとする努力のたまものでした。詳細な実証研究から見出された正造の、そして渡良瀬川流域の人々の豊かな思想は、「3.11」以降、産業文明を問い直す動きが高まるなかで、あらためて貴重な示唆を与えてくれています。小松さん自身、反原発の運動でも先頭に立って活躍していました。

しかし、時代は小松さんが目指したものとは真逆に向かって進んでいるかに見えます。ナショナリズムが高まり、他者を排斥する動きがかつてないほど強まっています。それらに便乗し、かつ扇動して、「戦後日本」を一面的に否定し去ろうとする動きも顕著です。これらの背後には、近現代史を中心とした歴史意識をめぐる幾多の衝突や断層がありますが、いずれも日本社会の今後を左右する根幹にかかわることです。歴史学は、あらためてその有効性を問われています。

このような状況に対峙するためにも、私たちは、小松さんが遺された仕事とその姿勢から 多くを学べるはずです。そこでこのたび、その人となりとお仕事を偲びながら、いま歴史研究に何ができるか、みなさんとともに考え、語り合う場を企画しました。懇親会の席もご用意しましたので、小松さんを知る方も、あるいは著作から知った方も、どうかこの機会に大勢お集まりいただき、小松さんの学問と人生を語り合いましょう。ぜひ一人でも多くのみなさまのご参加をお願いします。

2017年5月

小松裕追悼シンポジウム実行委員会
新井勝紘(元専修大学) 大門正克(横浜国立大学) 大久保由理(日本女子大学) 大日方純夫(早稲田大学) 戸邉秀明(東京経済大学) 中嶋久人(早稲田大学)

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最近、必要があって、環境関係の書籍を乱読している。その中で、最も感銘深かったのは、原著が1962年に出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(青木簗一訳、新潮社、2001年)であった。レイチェル・カーソンは、本書執筆中に癌を発病し、1964年に亡くなっているので、事実上彼女の遺著でもある。

『沈黙の春』の内容について、ごく簡単にまとめれば、第二次世界大戦後において顕著となった、DDTなどをはじめとした殺虫剤・除草剤などの農薬を飛行機などを利用して大規模に散布することについて、それは、ターゲットとなった害虫や雑草だけでなく、無関係な昆虫・魚類・哺乳類・鳥類・魚類・甲殻類や一般の植物をも「みな殺し」にして生態系を破壊するものであり、その影響は人間の身体にも及ぶのであって、他方で、ターゲットとなった害虫や雑草を根絶することはできないと指摘しているものである。よく、『沈黙の春』について農薬全面禁止など「反科学技術的」な主張をしたものといわれることがあるが、カーソン自身が「害虫などたいしたことはない、昆虫防除の必要などない、と言うつもりはない。私がむしろ言いたいのは、コントロールは、現実から遊離してはならない、ということ。そして、昆虫といっしょに私たちも滅んでしまうような、そんな愚かなことはやめよーこう私は言いたいのだ。」(本書p26)、「化学合成殺虫剤の使用は厳禁だ、などと言うつもりはない。毒のある、生物学的に悪影響を及ぼす化学薬品を、だれそれかまわずやたら使わせているのはよくない、と言いたいのだ。」(本書p30)というように、殺虫剤一般の使用を禁止してはいない。彼女は、農薬散布よりも効果ある方法として、害虫に寄生・捕食する生物の導入や、放射線・化学薬品その他で不妊化した昆虫を放つことなどを提唱しているが、それらもまた科学技術の産物である。

このように、彼女の主張は「科学」的なものである。ただ、一方で、倫理的なものでもある。彼女は、マメコガネ根絶のために行われたアメリカ・イリノイ州などでの農薬散布について叙述し、次のように言っている

 

イリノイ州東部のスプレーのような出来事は、自然科学だけではなく、また道徳の問題を提起している。文明国といわれながら、生命ある、自然に向って残忍な戦いをいどむ。でも自分自身はきずつかずにすむだろうか。文明国と呼ばれる権利を失わずにすむだろうか。
 イリノイ州で使った殺虫剤は、相手かまわずみな殺しにする。ある一種類だけを殺したいと思っても、不可能なのである。だが、なぜまたこうした殺虫剤を使うのかといえば、よくきくから、劇薬だからなのである。これにふれる生物は、ことごとく中毒してしまう。飼猫、牛、野原のウサギ、空高くまいあがり、さえずるハマヒバリ、などみんな。でも、いったいこの動物のうちどれが私たちに害をあたえるというのだろうか。むしろ、こうした動物たちがいればこそ、私たちの生活は豊かになる。だが、人間がかれらにむくいるものは死だ。苦しみぬかせたあげく、殺す。…生命あるものをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるのであろう?(本書pp120-121)

本書では、それぞれの農薬、そして、それらが大規模に散布された結果としての生態系の破壊、さらには、散布された農薬が人間の身体を害し、遺伝的な影響を与えていくことが科学的に叙述されている。そして、その科学を前提にして、このような問題を放置していてよいのだろうかという、倫理的な課題が提起されている。多くの生物は、結果まで考えて生きているわけではない。人間は、ある種の結果を想定して行為することによって生きている。自らの営為による生態系の破壊、人類の破滅が科学的に想定された場合、それを避けるということは、人間の倫理的な責任ということができよう。その意味で、本書は、一般化するならば、科学を追求した結果として人間の倫理的な問題が問われていくことを示した書といえるのである。

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歴史研究者北条勝貴氏は、『環境と心性の文化史 下 環境と心性の葛藤』(北条・増尾伸一郎・工藤健一編、勉誠出版、2003年)の総説「自然と人間のあいだでー〈実践〉概念による二項対立図式の克服ー」において、人間の営為の原因を自然環境にもとめる環境決定論・自然主義論と、環境を改変してゆく人間の能力を重視する主体主義・人間主義論との二項対立を批判しつつ、人間の実践を関係項とした自然/文化という根源的関係項として捉えることを提起した。例えば、北条氏は次のように述べている。

廣松渉氏は、マルクス思想のなかに曖昧な状態で残されていた根源的関係態としての認識法を的確に切り取り、自然環境と人間主体との産業による相互規定態=〈環境的ー人間主体〉生態系として整理している。物理的な自然環境だけでなく、社会環境から象徴環境までを視野に入れた整理・補完は見事というほかない。しかし、通時的・共時的な〈環境的ー人間主体〉生態系と定義しなおされた歴史の変化が、労働手段の進化による歴史の構造的編制・段階的視点の変化と説明されるとき、そこには、技術による人間の自然からの解放は歴史外的(超越論的)な必然であるとの進歩史観が見え隠れしてはいないだろうか。二項対立を統一体として捉える弁証法的思考図式には、各テーゼを実体化してしまう危険性が伴う。自然/人間という二実体の関係ではなく、両項を成立せしむる根源的関係態へと回帰させることが、二項対立を克服するヒントを内在しているのではなかろうか。
 根源的関係態に置かれた自然/文化の媒介項となる心性は、環境に対する認知と行動、すなわち実践を通じて生成・変化する。この実践こそが、環境と心性の葛藤する具体的なフィールドー現象としての根源的関係態なのである。(本書p2)

その上で、北条氏は次のように指摘している。

生命圏平等主義を唱えるエコロジーの深層にも、持続型社会・循環型社会をキーワードとする、人間社会の保全を第一目的に据える意識が横たわっている。…結果として我々は、〈地球に優しい〉という欺瞞に満ちたスローガンを掲げながら、生かさぬように殺さぬように自然環境からの搾取を続けることになる」(本書p.p20-21)

この文章はほぼ10年前に書かれたものだが、3.11以後の2013年の今日、これを読んでみると、その卓見に驚かされる。この10年、思い直してみれば、「地球に優しい」とされてCO2を排出する火力発電から原子力発電への転化が進められてきた。「地球に優しい」という発想は、一見、人間に対する「環境決定論」の立場にたつようにみえる。そして、そのように提唱者たちもそう考えていたのだろう。しかし、それは、結局のところ、「自然」に対する人間の支配を絶対化するものでしかない。北条氏がいうように、それは、「自然」と「文化」の双方を実体化をさせているといえよう。

現実にはどのようなことが起きていたのだろうか。北条氏にならって考えるならば、原子力発電もまた、自然/文化が人間の実践を媒介として相互に関係する「根源的関係態」の中で成立していたといえる。ただ、原子力発電は、原子炉の中の放射性物質という、いわば人間の作り上げた第二の自然とでもいうべきものを制御して行われるものであった。その意味で、いわゆる工場と同じである。そのような場は、本来、人間の手によって制御されることが前提となって成立しているはずであったといえる。

この人間の実践は、原発建設や管理に従事する労働者たちや、原発立地を受け入れた地域住民によって行われている。このような労働者や地域住民の営為がなければ、放射性物質という「自然」を制御して行われる原子力発電は成り立たない。そして、また「環境決定論」的なCO2削減至上主義も成り立たないことになる。

さて、原発についての人間の実践が、国家/資本の支配関係によって成り立っていることも指摘しておかねばならない。国家/資本は、自然に働きかける実践の担い手である人間を支配することで、自然をも支配するということになる。他方で、そのような形で「自然」を支配した国家/資本は、そのことで人間に対する支配を再度強めていくことになろう。こういうことは、マルクス主義のイロハであり、私がとりたてて書くようなことではないが、とりあえず確認しておこう。

3.11は、自然は人間の手で完全に制御しえるという錯覚を打ち砕いたといえる。それは、例えば、東日本大震災の津波被害全体にもいえることである。東北各地で巨大な堤防が作られていたが、実際の津波はそれをこえた。

原発についてより深刻なことは、東日本大震災によって、原子炉という人間の作り上げた第二の自然というべきものを制御する術を失ってしまったということである。そして、それは、スリーマイル島事故やチェルノブイリ事故と違って、ヒューマンエラーではなく、東日本大震災による地震・津波が引き起こしたということである。人間は、自らの作り出した第二の自然すら、自らの意思で制御できない。もちろん、地震や津波による被害は、工場や火力発電所などでもおこることである。現に、東北各地の火力発電所や工場も東日本大震災によって被災した。しかし、それらと根本的に違うのは、地震や津波は契機にすぎず、原子炉の中の放射性物質の反応によって「自然に」炉心溶融が引き起こされたということである。放射性物質を臨界状態にする現在の地球ではありえない(なお、20億年前の地球には天然原子炉が存在したといわれている)第二の自然を人はつくりあげたが、それを制御することできなかったのである。

いわば、原子炉や放射性物質という人間の作り上げた無機質の第二の自然ですら、自然/文化が人間の実践を媒介として相互に関係する「根源的関係態」の中で成立していることがあきらかになったといえる。

これは、一方で、放射性物質などにたいする人間の支配などというものの不確実性を如実にしめしたものということができる。他方で、そのような人間の実践自体への国家/資本の支配をゆるがすことになったといえる。そのことからいえば、3.11直後、福島第一原発の各原子炉がほとんど制御不能の状態に陥っており、的確な情報提供が無用の被曝を防ぐ上で必要であったにもかかわらず、政府の発表が情報隠蔽と過少評価に終始したのも当然であろう。まず、国家/資本は、人間の支配を維持することに固執したのであるといえる。しかしながら、完全に隠蔽しえるものではない。1960年の安保闘争以来最大の社会運動といわれる反原発運動が惹起されたのである。これもまた、自然/文化が人間の実践を媒介として相互に関係する「根源的関係態」として把握して理解すべきことであろう。

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