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Posts Tagged ‘教科書問題’

10月12日、ニューヨークタイムズは、安倍政権の教育政策を批判する記事を掲載した。その一部を下記に紹介しておこう。

日本の教育現場では国際感覚に優れた人材の育成が求められる一方で、同時に国家主義的教育の実施も要求され、教育政策の立案現場には困惑が生じています。
日本では『愛国的教育』の実践への圧力が強まる中、教科書の内容を書き換える作業が進められ、近隣諸国の不興を買っています。
しかし日本では同時に、大学の国際競争力を高めるためその国際化と広く門戸を開く取り組みが行われています(後略)
(マイケル・フィッツパトリック「安倍政権の教育現場への介入が生む混乱と困惑」 / ニューヨークタイムズ 2014年10月12日、日本語訳はhttp://kobajun.chips.jp/?p=20395より)。

この記事の主眼は、安倍政権においては、いわゆる教育の「国際化」をしているにもかかわらず、それとは矛盾した形で、教科書の書き換えなどの教育の愛国化が進められているということにある。本記事では、「アジアの近隣諸国は、新たな『愛国主義的教育』が日本を平和主義から国家主義体制へと変貌させ、戦争時の残虐行為については曖昧にしてしまう事を恐れています。そして戦後の日本で長く否定されてきた軍国主義について、その価値感を復活させたとして安倍首相を批難しています」とし、さらに「日本の新しい教科書検定基準と記述内容は、アメリカ合衆国を始めとする同盟国においてさえ、幻滅を呼んでいます」と指摘した。

このニューヨークタイムズの記事に対し、10月31日、下村博文文科相は文科省のサイトで反論した。下村は、反論の冒頭で、次のように述べた。

平成26年(2014年)10月12日のインターナショナル・ニューヨークタイムズ紙において、日本の教育戦略が分裂しているとの批判記事が掲載されました。記事では、「日本はナショナリズムとコスモポリタニズムを同時に信奉しており、教育政策立案者たちの不明瞭な姿勢を助長している。彼らは、彼ら自身が『愛国的』と呼ぶ主義にのっとって教科書を改訂し、その過程でアジアの近隣諸国を遠ざけている」としていますが、それは全く事実と異なっています。

我が国は、ナショナリズムを助長するのではなく、グローバル社会に適応するための人材の教育に大きく舵(かじ)を切って取り組んでいます。その改革のポイントは次の3つです。すなわち、英語教育、大学の国際化、そして日本人としてのアイデンティティの確立のための伝統、文化及び歴史の教育です。(下村博文文科相「平成26年(2014年)10月12日付 インターナショナル・ニューヨークタイムズ紙の記事について」、2014年10月31日)(http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1353247.htm)

これに続いて、いかに日本の教育が国際化に努力しているかを縷々述べている。このことについては省略する。

そして、「日本人としてのアイデンティティの確立のための伝統、文化及び歴史の教育」についてこのように述べている。

その際に、日本の学生は海外で日本のことを語れないとの経験者の声が沢山出ていますが、真のグローバル人材として活躍するためには、日本人としてのアイデンティティである日本の伝統、文化、歴史を学ばなければ、世界の中で議論もできませんし、日本人としてのアイデンディディも確立できません。残念ながら、日本の若者はこのような状況に遭遇することが多くなっています。

これは、日本の個々の学生の問題ではなく、日本の教育において、日本の伝統、文化、歴史をしっかりと教えてこなかった日本の学校教育の問題であるととらえています。各国・各民族には、当然相違があります。しかし、多様な価値観を持つ国際社会の中で、それらを認めながら生きていくためには、日本の価値観をしっかりと教えることで、他国の価値観を尊重する姿勢を持たせなければなりません。そうでなければ、伝統、歴史、文化の違いを語れません。

インターナショナル・ニューヨークタイムズ紙では、「ナショナリズム」との言葉を使って批判していますが、日本の伝統、文化、歴史を教えることは、「ナショナリズム」との言葉に当てはまらないと考えます。なぜなら、日本のアイデンティティを教えることは他国、特に近隣諸国を侮蔑、蔑視する教育ではないからです。日本古来の価値観としては、世界に先駆けて7世紀に聖徳太子が17条憲法を制定していましたが、その根本は「和の精神」です。

2011年の東日本大震災の被災者のその後の行動が象徴するように、日本人の精神の根底には、「絆(きずな)」、「思いやり」、「和の精神」があることは世界の人達にも認識していただいていると考えています。

つまり、日本の伝統、文化、歴史を学校教育で教えることは、「ナショナリズム」との表現に当てはまらないものです。我が国が古来の伝統、文化、歴史を大切にすることと、国際社会で共生することは、相矛盾せず、逆に、日本への理解を深める教育をすることがグローバル化した世界で日本人が活躍するために重要であると認識しています。

21世紀の国際社会において日本及び日本人が果たすべき役割は、日本古来から培ってきた「和の精神」、「おもてなしの精神」です。2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは、是非、それを世界の人達に見てもらう、そのような教育をすることによって、より広く、日本の教育の方向性が世界の人達に共有性をもってもらえる改革を進めていきたいと考えています。

この文章では、日本人が国際化するために日本の価値観を学ばせており、他国ー近隣諸国を蔑視するものではないから「ナショナリズム」教育ではないとしている。「『愛国的教育』の実践への圧力が強まる中、教科書の内容を書き換える作業が進められ」ているというニューヨークタイムズの批判には全く答えていない。偏狭であるかどうかは別として、「日本の伝統、文化、歴史を教える」こと自体、ナショナリズムではないということはいえないと思う。

といっても、私が最も驚いたのは「日本古来の価値観としては、世界に先駆けて7世紀に聖徳太子が17条憲法を制定していましたが、その根本は『和の精神』です」というところであった。確かに「十七条憲法」の冒頭に、「一曰、以和爲貴、無忤爲宗(一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ)」(Wikipediaより)とかかげられている。「十七条憲法」については、聖徳太子が604年に作ったと720年に成立した国史である『日本書紀』に記述されているが、記述自体にさまざまな疑問が投げかけられている。ただ、聖徳太子が作ったどうかは別として、この時代の朝廷において、統治の重要な原則として「和を以て貴しと為す」が意識されていたとはいえよう。

しかし、これは、「日本古来の価値観」のものなのだろうか。儒家の祖である孔子(紀元前552-479年)とその門弟たちの言行を記録した「論語」には「有子曰。禮之用。和爲貴(有子曰く、礼の用は和を貴しと為す)」(http://kanbun.info/keibu/rongo0112.htmlより)とある。ここで、「和為貴」といっているのは、孔子の門弟である有子(有若)である。つまり、7-8世紀に「十七条憲法」が作られるはるか昔から、中国の儒家たちはいうなれば「和の精神」を主張していたのであった。それを取り入れて「十七条憲法」が作られたということになる。たぶん、全く意識していなかったであろうが、下村は「十七条憲法」を引き合いに出して「和の精神」を「日本古来の価値観」とすることによって、日本古来の価値観の淵源は「論語」にあると主張したことになるのだ。

これは、直接には下村もしくは文科省の「無知」に起因するといえる。しかし、そればかりではない。儒教的な倫理を日本古来のものと誤認している人々は日本社会に多く存在している。圧倒的な中華文明の影響のもとに成立してきた日本社会において、その文化的アイデンティティなるものを追求していくと、実際には中国起源のものになってしまうという逆説がそこにはある。そして、もし「和の精神」なるものが「世界の人達に共有性」をもってもらえるものならば、それは、日本古来の価値観であるからなどではない。中国においても日本においても通用していたという「普遍性」を有していたからといえよう。

付記:Wikipediaの「十七条憲法」の記述でも、その第一条で「論語」を引用していると指摘されている。

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