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昨日、10月13日には、台風19号が九州に上陸し、14日朝にかけて四国・近畿・東海・北関東・東北を抜けていった。私個人は、その日に会議があったので京都におり、会議終了後、18時5分に京都を出発する東海道新幹線のぞみ248号に乗車して東京に帰る予定であった。しかし、12日の夜、JR西日本は、近畿にある在来線の全区間で、13日の14時から16時にかけて順次運休していく方針を発表した。まず、それをみてほしい。

京阪神各線区】 お知らせ2014年10月12日 14時00分更新
大型で強い台風19号が10月13日(月)~14日(火)に近畿地方を直撃する予報となっています。
京阪神地区の在来線各線区では、10月13日(月)の14時頃から順次列車の運転本数を減らし、16時頃から終日、全列車(特急・新快速・快速・普通)の運転を取りやめさせていただきます。
ご利用のお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、10月13日(月)のお出かけは控えて頂きますようにお願い申し上げます。

また、その後の台風の進路・速度や設備の被害状況によっては10月14日(火)朝についても、運転見合わせや大幅な列車遅れの可能性があります。

今後の台風情報、列車運行情報にご注意下さい。
http://trafficinfo.westjr.co.jp/kinki_history_detail.html?id=00020031&sort=1

この一報によって、状況は激変した。近畿在住の会議参加者から、帰宅時の交通手段が確保できないので参加をとりやめるという連絡があった。私も、より早い便で帰ることにして、13日朝に京都駅の切符売り場に向ったが、1時間近くも並ばざるをえず、会議に遅刻する有り様だった。会議自体も、終了予定時間を1−2時間も繰り上げることになり、13時前に終った。

私自身は、前述したように予約を切り換え、14時35分京都発のぞみ130号に乗車する予定にしており、多少時間があったので、京都駅ビル内の飲食店で昼食をとった。ところが、驚いたことに、13時30分ラストオーダーで、14時に閉店するというのだ。13時30分前に入店したので、とりあえず、昼食をとることができた。駅ビル内の他の飲食店や土産物屋も、多くは14時頃閉店する掲示を出していた。

京都駅ビル内ケーキ屋の閉店掲示(2014年10月13日)

京都駅ビル内ケーキ屋の閉店掲示(2014年10月13日)

ただ、京都滞在中、ほとんど雨に打たれたことはなかった。14時頃、京都駅前のホテルに荷物をとりにもどったが、その際、多少激しい風雨にあった。しかし、それだけだった。激しい風雨といっても、最大級の豪雨ではなかった。

私が乗車したのぞみ130号は広島始発だが、遅れることもなく、14時35分に京都駅を出発した。たぶん、この頃は、JR西日本の近畿地区の在来線は順次運休になっていたはずだ。そして、さして遅れることもなく、17時頃に東京駅に着いた。その時点では首都圏内の交通も特に乱れておらず、自宅最寄り駅の西武池袋線練馬高野台駅に18時頃到着した。少し雨が降っていたが、かさをささずに自宅まで歩いた。自宅のある東京都練馬区が激しい風雨にさらされたのはそれ以降、つまり13日夜から14日未明にかけてである。確かに激しい風雨であったが、雨漏りが発生した前回の台風18号ほどではなく、外にあった植木鉢数個が倒れた程度であった。

確かに、「自然災害」には違いないが、私個人の経験では、「自然災害」それ自体というよりも、災害情報と、それによるJR西日本の台風対策に強く影響を受けたことになった。

このような経験は、私個人だけではないだろう。私とともに京都駅の切符売り場にならんでいた人たちも、同様の経験を体験したはずだ。近畿在住の人びともまたそうだっただろう。産經新聞は、JR難波駅周辺で、終電を逃した人びとや百貨店の退店をせまられた人びとの景況を次のように伝えている。

台風19号 「運休は午後4時からじゃ…」3時45分が最終になったJR難波駅では詰め寄る人も
産経新聞 10月13日(月)18時50分配信

 台風19号が近畿地方に接近した影響で、大阪・ミナミの百貨店や商業施設も、閉店時間を大幅に繰り上げるなどの対応に追われた。

 「間もなく本日の最終電車が出発します!」

 JR難波駅(同市浪速区)では、3時45分の最終電車の出発時刻が近づくと、駅員が駅構内をまわって大声で乗客に呼びかけを行った。それでも、終電を逃してしまった人は多く、中には「運休は4時からじゃないのか」と、駅員に詰め寄る人もいた。

 八尾市の飲食店アルバイト、竹内まゆさん(28)は、JRが全面運休する時間に合わせて仕事を早退したが、終電にはわずかに間に合わず、「もう少し急いで入ればよかった。私鉄とバスを乗り継いで帰るしかないですね」と話し、まだ運行を続けている近鉄の駅に足早に向かった。

 午後2時、岸和田市の会社員、茂永陸さん(24)は、友人と昼食のために「なんばパークス」(大阪市浪速区)を訪れたが、レストラン街はすでに台風の影響で閉店。

 商店街に移動して食事は済ませたものの、商業施設などは店終いを始めており「台風だから仕方がない。あまり遅くならないうちに帰ります」と、諦めた様子で南海電車の駅へ向かった。

 「高島屋大阪店」(同市中央区)では、閉店時間を3時に繰り上げた。台風が接近する中でも店内は多くの買い物客でにぎわっていたが、従業員は3時に合わせて退店の案内を開始。閉店後も知らずに訪れるお客に対し、申し訳なさそうにお客に頭を下げていた。

 腕時計の修理に同店を訪れたが、入店を断られた同市住之江区の看護師の女性(41)は「今日しか来られる日がなかったのに、どうしよう」と困り果てた様子だった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141013-00000548-san-soci

台風19号は、大阪府岸和田市に20時30分頃再上陸した。結果的にみるとJR西日本の対策は功を奏したといえる。

台風19号:大阪・岸和田に再上陸
毎日新聞 2014年10月13日 20時58分(最終更新 10月13日 23時57分)

 大型の台風19号は13日午後8時半ごろ、大阪府岸和田市付近に再上陸した。

 同8時時点では、兵庫県淡路市付近を時速約50キロで北東に進み、中心の気圧は980ヘクトパスカル。最大瞬間風速は40メートル。中心から半径240キロ以内は風速25メートル以上の暴風になっている。

 気象庁によると、今後も同じ速度で北東に進み、14日昼ごろまでに関東・東北地方を通過して太平洋上に抜けるとみられている。
http://mainichi.jp/select/news/20141014k0000m040024000c.html

しかし、個人的な経験でいうと、京都で激しい風雨にさらされたのは14時頃からだった。その直前、雨はやんでいた。家にかえって検索してみると、夕刻において近畿圏の私鉄はさほど運休していなかった。東海道・山陽新幹線も運休はしていなかった。隣接するJR東海愛知・岐阜・三重県の在来線の運休は、朝日新聞のネット配信記事をみると20時頃までだったようである。近畿地区とは4時間のズレがある。

JR東海、全ての在来線運行中止 台風19号接近
2014年10月13日23時05分

 大型で強い台風19号は、東海地方に13日夜にも最接近する見通しだ。交通は大きく乱れている。

 13日の運休や欠航は、午後10時40分までのまとめで次の通り。

 JR東海は午後8時ごろまでに、愛知、岐阜、三重の東海3県のすべての在来線の運行をとりやめた。午後9時ごろには静岡エリアの東海道線の浜松―熱海間も運休し、全ての路線が運転見合わせとなった。

 近畿日本鉄道では午後8時ごろまでに愛知、三重両県内の全路線で運休。名古屋鉄道では特急ミュースカイと空港線、名古屋線の豊橋―伊奈間、豊田線の梅坪―赤池間で運行をとりやめた。あおなみ線や城北線も運休した。

 中部空港では、沖縄や九州、札幌などとの間の国内線92便、国際線23便が欠航した。

 中部空港と三重県の津、松阪両市を結ぶ高速船「津エアポートライン」や、三重県の鳥羽市と愛知県の伊良湖港を結ぶ伊勢湾フェリー、鳥羽市の離島の間を結ぶ鳥羽市定期船は全便欠航した。

 中日本高速道路によると、新名神高速は亀山ジャンクション―甲賀土山インターチェンジ間の下り線が通行止めとなった。

 名古屋みなと振興財団によると、名古屋港水族館、名古屋海洋博物館、南極観測船ふじ、名古屋港ポートビル、ポートハウスはいずれも午後2時で閉館した。

 名古屋市によると、名古屋城、東山動植物園、徳川園、久屋大通庭園「フラリエ」など17施設が午前11時半で閉館となった。
http://www.asahi.com/articles/ASGBF4WNGGBFOIPE22L.html

この、JR西日本の運休方針について、日本経済新聞は次のように報道している。

前回台風の影響を教訓に JR西、13日夕から運休
連休最終日で早めに周知
2014/10/13 2:23

 台風19号の接近に備え、JR西日本が在来線24線で13日夕方以降の運休を決めた。1週間前に浜松市付近に上陸した台風18号では運休などが相次ぎ、京阪神地区の約40万人の足が乱れた。「予想以上の影響が出た」(近畿統括本部)ことを教訓に異例の措置に踏み切る。

 対象となるのは大阪、奈良の全域と滋賀、京都、兵庫、和歌山、三重などの一部地域で運行する特急、新快速、快速、普通列車。同日午後2時ごろから運転本数を減らし、4時ごろに全面運休する。

 特急は「サンダーバード」「はるか」など京阪神発着の計118本が運休する。山陽新幹線は、午後からは速度を落としての運転や一部区間の運転見合わせの可能性もあるという。

 JR西は台風18号の際、京阪神地区では計9線の全区間運休などを上陸前日に決定。東海道線(京都―大阪)では始発から約70%に本数を減らして運行する予定だったが、風が規制値を超えるなどしたため、約30分運転を見合わせるなどし、大幅にダイヤが乱れた。

 また13日が3連休の最終日にあたることもJR西の判断に影響を与えた。行楽などで遠方から関西に戻る乗客も多いとみられ「早めに運休を周知することで、移動手段の変更などの対策をとってもらいたい」という。

 JR西は12日午後、各駅で運行取りやめを伝えるポスターを掲示。構内アナウンスも流すなど対応に追われた。在阪の私鉄関係者からは「驚いている。影響が広がりそうだ」といった声が出た。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC12H03_S4A011C1AC8000/

JR西日本としては、前回の台風18号の経験に鑑みて、この措置をとったようだ。新幹線の運休がなかったのも、「行楽などで遠方から関西に戻る乗客も多いとみられ「早めに運休を周知することで、移動手段の変更などの対策をとってもらいたい」という」ということがあったのだろう。

ただ、個人個人がリアルに感じている「自然災害」のあり方と、今回の早期の在来線運休方針が体感的にずれがあり、なんとなく「振り回された」感が残ってしまったとも思う。

こういうことは難しい。実際に災害の脅威にさらされてしまえば、何の措置もとれないということもある。9月の御嶽山噴火では、地震などの前兆があったのに、十分登山者に情報がゆきわたらず、警戒レベルもひきあげられなかった。実際の被害に直面する前に対応したJR西日本、十分情報伝達ができなかった気象庁と対照的であるが、それぞれの是非をあげつらうつもりはない。もし、自然災害が予知通りでなかったとしたら、対応策をとったこと自体が批判されるであろうからである。

私自身がここで考えたいのは、自然災害というのは、一つに個人個人の直接の経験でもあるが、もう一つに、その情報・表象としても経験されるということである。そして、自然災害への社会的対策というのは、後者の側面が中心となって立案されるということである。地震・津波・台風などの自然災害は、事前の災害予測にしたがって耐震工事や堤防建設などがなされ、予報・予知にしたがって、避難や交通機関運休などの措置がとられる。

こういう自然災害経験のあり方は、科学技術の発展した近現代に強められたことであるが、原理的には、人類社会のはじまりからあったことであろう。嵐の際、洪水になりやすい川や、崩れやすい山などは、たぶん、伝承を通じて、世代をこえて、情報として伝えられていたことであろう。自らが体験してはいない災害の情報・表象によって、被害を最小限に限定する営為はずっと続けられていたことであろう。

たぶん、古代や中世の社会では、そのような伝承をもとに、呪術や祈祷の体系が作られたのではなかろうか。それは、経験則ではあるだろうが、自然のあり方を「予知」する機能が含まれていたといえる。古代エジプトではシリウスの出現時期でナイル川の増水を予知したという。そして、シリウスは神格化された。日本でも、山肌の残雪の模様(例えば農鳥)で種まき時期を知ったという。そういう意味で、自らの体験ではないことで、「自然」になんらかの対策をとるということはずっとなされていた。現代の科学技術は、その最新の後継者であるといえるだろう。

そして、このような災害経験のあり方は、社会体制の問題に結びつく。直接の被災前に在来線の運休を決めたJR西日本、御嶽山噴火の警戒レベルを引き上げなかった気象庁、これは、それぞれの体制の問題でもある。自然災害と人びとの社会体制は、情報・表象を通じて関係しあっているのである。

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橋下徹・松井一郎が、現在、大阪市と大阪府の統治者となり、大阪維新の会を結成して、「大阪都構想」などを押し進めようとしている。9月16日には台風18号が日本列島に襲来し、大阪でも一時期大和川の水位が上昇し避難勧告が出たが、橋下徹大阪市長は、洪水対策は「組織」で対応するとして、「自宅待機」のまま大阪都構想実現のために必須とされる堺市長選について延々とツイッターでつぶやき、対立候補である竹山修身現堺市長が選挙活動を中断して大和川視察に赴いたことを嘲笑していた。

さて、大阪の統治者は、いつも、このような振る舞いをしていたのだろうか。古事記や日本書紀などによると、大阪の地に宮殿を置いたとされるのは5世紀の仁徳天皇=大鷦鷯尊(日本書紀)であった。万葉集では「難波天皇」ともよばれている。仁徳天皇個人が実在したか、また実在したとしても古事記や日本書紀が描くような人間像であったかは不明としかいいようがない。大阪周辺の百舌鳥古墳群(伝仁徳天皇陵所在)や古市古墳群には5世紀の巨大古墳がいくつもあり、確かにこの時期は大阪は日本列島における王権の所在地であったとはいえるのだが、今伝えられているのは、古事記や日本書紀が成立した8世紀の統治者たちが認識していた「仁徳天皇像」でしかない。しかし、それでも、古代の統治者たちが、何を模範としていたかをみることができよう。

このことを前提にして、古事記や日本書紀の記述を読むと、興味深いところが見受けられる。まず、古事記の現代語訳をみてほしい。

さて、天皇は、高い山に登って、四方の国を見渡して、「国の中に、炊煙がたたず、国中が貧窮している。そこで、今から三年の間、人民の租税と夫役をすべて免除せよ」とおっしゃった。こうして、宮殿は破損して、いたるところで雨漏りがしても、全く修理することはなかった。木の箱で、その漏る雨を受けて、漏らないところに移って雨を避けた。
 後に、国の中を見ると、国中に炊煙が満ちていた。そこで天皇は、人民が豊かになったと思って、今は租税と夫役とをお命じになった。こうして、人民は繁栄して、夫役に苦しむことはなかった。それで、その御代をほめたたえて、聖帝の世というのである。(『新編日本古典文学全集1・古事記』、小学館、1997年)

この説話のような出来事が本当にあったかどうかはわからない。しかし、このような出来事は8世紀の古代の統治者たちにとって「模範」とされ、「聖帝の世」と認識されていたことは確かなことである。仁徳天皇は、少なくとも自分の目でみて人民の貧富を判断し、その上で、租税・夫役を期間をくぎって免除する措置をとったのである。

さて、古事記は簡略な記述であるが、日本書紀はかなり細かくこの出来事を記述している。描写が細かいからといって、それがより真実を伝えているとは限らない。日本書紀編纂者によって文飾されたところもかなり多いだろう。しかし、それでも、8世紀の統治者たちは何を統治の正当性としていたかを知ることかできるだろう。日本書紀において、仁徳天皇は、次のように、語っている(正確にいえば、日本書紀編纂者が仁徳天皇に語らせているのだが)。

天皇の曰はく、「其れ、天の君を立つるは、是百姓の為めなり、然れば君は百姓を以ちて本と為す。是を以ちて、古の聖王は、一人だにも飢ゑ寒ゆるときには、顧みて身を責む。今し百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ百姓富みて君貧しといふこと有らず」とのたまふ。

天皇は「そもそも、天が君(君主)を立てるのは、人民のためである。従って、君は人民を一番大切に考えるものだ。そこで古の聖王(中国古代の神話的君主たち)は、人民が一人でも飢え凍えるような時は、顧みて自分の身を責める。もし人民が貧しければ、私が貧しいのである。人民が豊かなら、私が豊かなのである。人民が豊かで君が貧しいということは、いまだかつてないのだ」と仰せられた。
(『新編日本古典文学全集3・日本書紀②』、小学館、1996年)

つまり、天皇も含めた君主一般は、百姓ー人民のために存在しているとしている。百姓ー人民が本なのである。そして、百姓ー人民の貧富は君主の貧富に関連するとしたのである。それゆえに、仁徳天皇は、税金・夫役を免除して、百姓ー人民の生活再興を優先したとされているのである。

このような考えは「儒教的民本主義」といえる。中国古代の儒家の一人である荀子は、「天の民を生ずるは君の為に非ざる也。天の君を立つるは民の為を以て也」(「荀子」大略篇、『新編日本古典文学全集3・日本書紀②』、小学館、1996年より)といっている。8世紀の日本書記の編纂者たちは、仁徳天皇に仮託して、自分たちの統治の正当性概念を宣言しているのだ。

古事記・日本書紀によると、仁徳天皇には治水関係の事績が多い。仁徳天皇は、茨田堤(うまらたのつつみ 寝屋川付近の淀川の堤)、丸爾池(わにのいけ 奈良県天理市和爾町付近とされている)、依網池(よさみのいけ 大阪市住吉区庭井あたりとされている)、難波の堀江(淀川・大和川の水を海に通すための運河)、小椅江(をばしのえ 大阪市天王寺区小橋町付近 大和川の氾濫を防ぐための運河)、墨江の津(大阪市住吉区住吉神社付近の港)をつくったとされている。このような営為は、もちろん、仁徳天皇以後も続けられ(なお、統治者の営為だけではないだろうが)、現在の大阪が作られていったのである。このような治水事業の実施も「民の為」といえるであろう。万葉集では仁徳天皇を「難波天皇」とよんでいるが、その名称はふさわしいといえる。大阪のような低地においては、まず治水なのである。仁徳天皇の時代は、巨大古墳が数多く作られ、そのためにも多くの税金や夫役が投じられたはずであるが、そのことに古事記や日本書紀はふれていない。古事記や日本書紀を編纂した8世紀の統治者たちにとって、仁徳天皇の事績として記憶されるべきことは、税金を免除して人民ー百姓の苦難を救ったことと、このような治水事業を実施したことなのである。

このような民本主義は、8世紀の統治者だけがもっていたわけではない。日本の古代においては、仏教や律令や文物とならんで、儒教もまた中国から取り入れられた。特に、日本書紀の記述は、中国からの儒教的影響にもとづくものといえる。中世においては儒教の影響は弱まったが、近世に入ると再び幕藩制権力によって「仁政」として意識されるようになった。そして、逆に人民ー百姓のほうも「仁政」を要求して一揆や訴訟を起こすようになった。その意味で、このような儒教的民本主義は、日本社会の「伝統」の一つになったといえる。例えば、現代日本社会では、統治者/被統治者の区別を前提にして、被統治者側から減税を要求したりする。それは、一方では民主主義的政治システムを前提にした新自由主義的な意識に基づくものであるが、他方で、統治者は、被統治者のために犠牲をはらうべきとする伝統的な儒教的民本主義に下支えされているのかもしれない。そして、このような儒教的民本主義の伝統は、国家の側が人民を重税などで過度に搾取したり、戦争や独裁などで人民に苦痛を与えたりすることへの抵抗の原理にもなりうるといえる。

しかし、儒教的民本主義の限界もまたあるだろう。まずいえることは、儒教的民本主義は、統治者/
被統治者の峻厳な区別に基づいているということである。被統治者の意志に基づいて統治されることはありえない。儒教的民本主義では、仁徳天皇のような場合でも、統治者の一方的な恩恵にすぎず、統治者/被統治者の秩序は崩れないのである。

また、橋下徹や松井一郎、さらには安倍晋三首相のような現代の統治者たちも、よく「民間」という言葉をよく口にする。国家の規制・税金から「民間」を解放せよという論理を彼らは有している。儒教的民本主義における国家/「民」という対立図式は、彼らの中にもある。しかし、その場合の「民」とは「民間企業」なのである。「民間企業」とは、資本による労働者への支配から成り立っている。「民間企業」の活動が活発になるということは、資本による労働者への支配が拡大するということになるだろう。

そして「民間企業」=資本を、「民」一般にすりかえて、「民間企業」に有利な規制緩和や税制改正、公共事業の進展を訴え、それにより選挙で多数を獲得し、「民」一般の多くを加害するような政策を推進することもなされている。これは、前近代の社会で成立した儒教的民本主義の中では理解できない状況といえる。儒教的民本主義において形成されてきた「民」の伝統的概念とは何かということ、これは歴史学をこえて問い直さなくてはならない課題である。

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