さて、2014年2月10日、安倍晋三首相が翌11日の建国記念の日を迎えるにあたってメッセージを発表した。朝日新聞が2月10日にネット配信した記事によると、「建国記念の日に合わせて現職の首相がメッセージを出すのは初めてのこと」とされている。
まず、ここで「建国記念の日」は何なのかを確認しておこう。報道の多くもあまりふれていないのであるが、この「建国記念の日」は、本来、九州から大和に「東征」し、第一代の天皇となったとされる神武天皇が即位したことを記念する「紀元節」がもとになっている。元々、神武天皇についての記述は古事記・日本書紀の中の神話とされており、実在した人物とみなすことはできない。しかし、古代国家においては「天皇制」の起源として認識されていた。さらに、幕府を倒した明治維新は「王政復古」をスローガンとしており、「神武天皇」にかえることを国家の正当性としており、ゆえに1872年11月に神武天皇即位を記念した祭典を行うことを決めた。当初は1月29日であったが、翌年3月には「紀元節」と命名され、同年10月に「2月11日」に変更されたのである。そして、紀元節は、天皇制国家による統治の正当性の源泉として重視された。他方、このような神話に国家の正当性の源泉を置いたため、歴史教育はいわゆる「皇国史観」によって行われ、いわゆる実証的な歴史学による記述は排除されていたのである。
この紀元節は、戦後の連合国による占領の下、GHQの指令によって1948年に祝日としては廃止された。その後、幾度も「建国記念日」として復活をはかられたが、社会党などが反対して実現できなかった。1966年、安倍晋三の大叔父である佐藤榮作を首相とした佐藤内閣は、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」として、建国の事象そのものを記念するように受け取られる形で祝日法の改正案を出し、国会で成立させた。しかし、佐藤内閣ですらも、自身で「2月11日」を「建国記念の日」と明言することはできず、附則で「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」とし、建国記念日審議会に諮問し、その答申で『建国記念の日」を決定することになっていた。そして、建国記念日審議会は「2月11日」にする答申を出し、1966年12月9日に佐藤内閣はその日を「建国記念の日」とする政令を出した。ここに「建国記念の日」が成立したのである。
明治政府が、自らの正当性の根拠として、第一代天皇の神武天皇の即位にあたるとされた日を祝うことは、よくも悪くも理解できることである。しかし、国民主権の戦後においては、第一代天皇の即位日を「建国」として記念することは適当とはいえないだろう。そもそも、この日にすべき学術的根拠がない。それに、国民主権を前提とすれば、より適当な日があるだろう。例えば、戦後の古代・中世史家であった石母田正は、次のようにいっている。
もしアメリカ流、ソ連流、中国流にやるとすれば、私の個人の見解では、人民に主権があるということを明確に規定した新憲法制定の日を私は、国民の、国家の誕生にするくらいの気概があってこそ、われわれは古い一ー三世紀の古代史を学ぶ勇気も出てくるのでありまして、もう一ぺん紀元節を、旗日と日曜が続いたらもう一日休ませてやるというくらいのアメを作られたからといって、もう一ぺん、雲にそびゆるなんとか、という歌をうたう根拠は、われわれ日本人にはなかろうというふうに私は考えています。(「日本国家の成立」 岩波市民講座1964年12月17日 『石母田著作集』第四巻所収)
安倍晋三の大叔父である佐藤榮作首相は、結局のところ、みずからは「2月11日」と明示せず、建国記念日審議会にまかせるやりかたで、「2月11日」を「建国記念の日」としたのである。佐藤以来の歴代首相は、保守的な者も含めて、「建国記念の日」にメッセージを出したりはしなかったが、たぶん、そのような経過もあってのことだと思われる。今回、安倍首相が「建国記念の日」についてのメッセージを出したのは、それ自体、彼の掲げる「戦後レジームからの脱却」の一環ということができる。
続いて、安倍首相のメッセージをみておこう。とりあえず、その全文をここであげておこう。
平成26年2月10日
「建国記念の日」を迎えるに当たっての安倍内閣総理大臣メッセージ「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨により、法律によって設けられた国民の祝日です。
この祝日は、国民一人一人が、我が国の今日の繁栄の礎を営々と築き上げた古からの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を誓う、誠に意義深い日であると考え、私から国民の皆様に向けてメッセージをお届けすることといたしました。古来、「瑞穂の国」と呼ばれてきたように、私達日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣を祈り、美しい田園と麗しい社会を築いてきた豊かな伝統があります。
また、我が国は四季のある美しい自然に恵まれ、それらを生かした諸外国に誇れる素晴らしい文化を育ててきました。
長い歴史の中で、幾たびか災害や戦争などの試練も経験しましたが、国民一人一人のたゆまぬ努力により今日の平和で豊かな国を築き上げ、普遍的自由と、民主主義と、人権を重んじる国柄を育ててきました。このような先人の努力に深く敬意を表すとともに、この平和と繁栄を更に発展させ、次の世代も安心して暮らせるよう引き継いでいくことは我々に課せられた責務であります。
十年先、百年先の未来を拓く改革と、未来を担う人材の育成を進め、同時に、国際的な諸課題に対して積極的な役割を果たし、世界の平和と安定を実現していく「誇りある日本」としていくことが、先人から我々に託された使命であろうと考えます。「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、改めて、私達の愛する国、日本を、より美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにしています。
国民の皆様におかれても、「建国記念の日」が、我が国のこれまでの歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、自信と誇りを持てる未来に向けて日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします。平成26年2月11日
内閣総理大臣 安倍 晋三
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/discource/20140211message.html
今まで、神武天皇即位ー紀元節ー建国記念の日という歴史的系譜を追ってきたが、それが全く無視されていることに一驚する。ここでは、「天皇」のことは全く出ていない。ここで回顧されているのは「我が国の今日の繁栄の礎を営々と築き上げた古からの先人」であり、語感からするならば、過去の「日本人」であって、天皇を意味する(日本人の中にも「天皇」は含まれるのかもしれないが)とは思えない。
その上で、歴史としては、まず「古来、『瑞穂の国』と呼ばれてきたように、私達日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣を祈り、美しい田園と麗しい社会を築いてきた豊かな伝統があります。また、我が国は四季のある美しい自然に恵まれ、それらを生かした諸外国に誇れる素晴らしい文化を育ててきました」と指摘している。これは、歴史というよりも「ポエム」であろう。どこの国でも、「共同性」のもとに、自然を生かしながら、社会や文化を築いてきたのであって、このことは日本の専売特許ではない。他方、これも日本だけではないが、歴史においては、内戦や階級対立・民族対立が存在しているのである。
さらに「長い歴史の中で、幾たびか災害や戦争などの試練も経験しましたが、国民一人一人のたゆまぬ努力により今日の平和で豊かな国を築き上げ、普遍的自由と、民主主義と、人権を重んじる国柄を育ててきました」という。一体全体、古代から近代までの日本の歴史の中で「普遍的自由と、民主主義と、人権」が重んじられてきたといえるのであろうか。たかだか「戦後日本」のことでしかないのである。そして、戦後以前の「戦争」は、みずからおこしたものではなく「試練」の一つでしかないのである。
最後の部分で、彼自身としては、「『建国記念の日』を迎えるに当たり、私は、改めて、私達の愛する国、日本を、より美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにしています」と述べている。その上で「国民の皆様におかれても、『建国記念の日』が、我が国のこれまでの歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、自信と誇りを持てる未来に向けて日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします」と主張している。「先人の努力への感謝」と「未来の日本の繁栄への希求」という論理は、この短い文章の中で何度も表出されている。
本ブログで、以前、フランスの歴史家ピエール・ノラが、フランスの国民国家統合を強めていた「国民史」について、「過去の遺産としての国民と未来の企図としての国民であり、言い換えれば、『ともに偉大なことを成した』という意識と『これからも偉大なことを成そう』とする意識」(ノラ「コメモラシオンの時代」 『記憶の場』Ⅲ、2003年、原著1992年)が結び付けられていたと指摘していることを紹介した。この安倍首相の「建国記念の日」メッセージの意図は、まさにそうであり、彼自身は、19〜20世紀の帝国主義的戦争につながっていった国民国家の復活をめざしていると考えられる。しかし、このメッセージは、「建国記念の日」のルーツすら無視した、ほとんど「現在」の延長線上でしか把握されない「歴史」認識に基づいているのである。
*なお、Wikipediaの「建国記念の日」と「紀元節」の項目を参照した。