1950年代後半、福島県議会でも原水爆実験禁止が決議されるようになったが、その先頭にたったのは、やはり日本社会党所属の県議たちであった。「原水爆実験禁止に関する要望について」という意見書案が可決された日である、1957年7月3日の福島県議会で、日本社会党所属県議の会田亮は、質問項目の中に原水爆実験禁止をとりあげた。会田は、このようにいっている。
さてこの原水爆実験禁止でありますが、言うまでもなく、われわれ日本人は広島、長崎、ビキニの実験と三回にわたつてその惨害を受けた世界最初の原爆被害者でありまして、今年になつても、去る六月十九日に十六歳の高等学校の生徒の死亡を加えまして、すでに十二名の犠牲者を出しております。この悲惨事をわれわれ日本人はもちろん、世界の人々に再び繰り返すまいと、全世界の有識者、平和愛好者は原水爆の製造、実験及び使用を永久に禁止すべく、全情熱を傾けて立ち上がったのでございます。
このように、福島県議会で可決した原水爆禁止実験決議につき、三度の被爆体験を契機として展開された、原水爆禁止運動を前提とするものとしているのである。
当時の人びとにとって、原水爆の脅威は、過去のものでも、未来のものでもなく、現在に存在するものであった。会田亮は、日本遺伝学会及び日本人類遺伝学会による「放射線はたとい少量でも遺伝的に有害である、私たち遺伝学に関心を持つものは、これらの緊要切実な問題について世の注意を促し、適切な対策を一日も早く立てられることを切望してやまない」という見解を紹介している。その上で、彼は、次のように主張している。
…4月3日には武谷博士は、昭和30年3月から観測を続けている空気中の死の灰調査資料に基づく結論として、相次ぐ水爆実験によつて吹き上げられた死の灰の量は、やがて地上に落下するその量は、現在までのものでも、人類の安全を脅かすぎりぎりのところまできていると述べています。6月21日の東京大学における日本学術会議の発表によれば、ストロンチウム90は年々2倍に達し、セシウム137も同じく1割ずつ増加し、しかも最も重大なことは米に一番含有量が多いと、戦慄すべき警告を発しているのであります。
現在、原子炉事故で懸念されていることと同じようなことを、1950年末の人びとは原水爆実験について思っていたのだ。少なくとも大気中の核実験が過去のものとなったーもちろん、核戦争の脅威は現在でもあるがー今日では想像つかないことではある。その頃にも、ストロンチウム90やセシウム137の降下は脅威だったのだ。
福島第一原発事故直後、大気中の核実験が行われた1950年代の放射線量を引き合いに出して、現在の放射線量は心配がないなどという学者をテレビなどでけっこうみかけた。いやはや、1950年代の人たちだって、放射線量の増加は懸念のまとであったのだ。
さて、また、会田の質問にもどろう。会田は、全世界で行われている核兵器禁止運動について話し、1955年、1956年に行われた第一回、第二回原水爆禁止世界大会について言及し、1957年8月には第三回原水爆禁止世界大会が開催される予定となっていることを述べた。その上で、会田は、各県では県知事が先頭にたっているとしつつ、福島県は過去の大会にはなはだ冷淡であったとした。その上で、福島県としては今後、どのように対処するのであろうとといかけた。
さらに、会田は、質問の最後にこのようにいった。
以上質問いたしました要旨について、事平和問題にははなはだしく不感症であり、社会保障の諸政策にはまたことごとく冷淡であるのが現在の自由民主党の基本的な性格でありますけれども、事あるごとに与党の諸君から人情知事と称せられる大竹知事が、辞任を目前に控えましていかなる考えがあるか、代理者の誠意ある答弁をお願いいたす次第であります。(拍手)
ある意味で、自民党知事であった大竹県政を批判する質問であったといえるのである。
これに対して、すでに辞任を表明していた県知事大竹作摩は答弁しなかった。それにかわって、副知事山口光三は、次のように答えている。
次に原水爆実験禁止の件でございます。御指摘のように、人類を不測の惨害から救うということはだれしも願うことでありまして、全国知事会におきましてもこれを取り上げ、原水爆の実験禁止について強くその実行を促して参つたのでありますが、その意に反しましたことはまことに遺憾と存ずるのであります。今後ともこの種実験の阻止につきましては皆様とともに努力して参りたいと思う次第であります。
副知事の弁であるが、福島県政としても積極的に原水爆実験禁止に関わっていくという答弁をしたのであった。前述したように、同日の意見書案も総員起立で可決されている。日本社会党系の人びとによって提起されても、自由民主党系の人びとは、少なくとも建前としては、原水爆実験禁止に賛成せざるをえなかったのだ。
それは、ある意味で、原水爆実験による「死の灰」の降下が、眼前の危機としてみなされたゆえであろう。ゆえに、日米安保体制を原理的に肯定していた自由民主党系の人びとにとっても賛成せざるをえなかったといえよう。
ともあれ、1954年の第五福竜丸事件を契機にした原水爆禁止を求める運動の中で、放射線に対する恐怖感は確立していったといえる。しかし、いまだ、稼働する原子力発電所がないこの時期、いまだ原発への警戒感につながっていかなかった。後述するが、1960年末以降、原発への不安が表面化していくことになるのである。
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