国立国会図書館で、樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』(2002年3月)という資料を発見した。この資料は、1号機建設に関係した東電社員の回想録をまとめたものである。ほとんどが、1号機建設や運転にかかわる技術的な問題を扱っているが、地域社会との関連では、東京電力調査事務所で当時土木課長を勤めていたSの回想が興味深い。なお、出版された場合、通常著者の個人名を出すが、現状では東電社員が社員というだけで個人攻撃されているようなので、ここではイニシャルだけを掲載しておく。
Sは、東京電力調査事務所ができる前より福島第一原発の開発に携わっていた。Sは、
昭和38年には用地交渉中であったので、現地調査は東電の人とさとられないように若い女子社員を連れピクニックをする格好をして日曜日にサイト内を歩いた。5千分の一の航空写真化地形図を頼りに中央の沢を下って海岸に出ると、塩水を汲み上げていたパイプの配管が寸断されたまま沢の途中に残っていた。沢の上方に古ぼけた掘立小屋(若衆宿跡?)がありその北方に平坦で広大な塩田用地(元陸軍訓練所飛行場)があった。
沢の海への出口以外は海側すべて崖が屹立しており…用地内は大きな木がなく土地は痩せており…
と回想している。
Sにとって、大熊町は次のように映っていた。
大野駅前通りの商店街はみずぼらしい古い家が散見され、人通りも少く閑としていた。人々の生活は質素で人を招いてご馳走するといえば刺身が一番のもてなしであり、肉屋には牛肉がなく入手したければ平市か原町市へ行かねばならなかった。この地方は雨が少いので溜池が多く耕地面積が少いので若い人は都会へ出て行き、給料取りは役場、農協、郵便局のみで福島県では檜枝岐地方と対比してこの地域を海のチベットと称していた。しかし、人々は大熊町まで相馬藩に属しており、隣接町村が天領であるのに比べて「我々は違う」という気位の高さを誇っていた。
Sは、1963年(昭和38)暮にも大熊町を訪れ、現地測量を行った。その際は県の開発部から一人同行した。Sによると、宿舎に、突然町長(当時・故人)が四斗樽をもって現れたという。大熊町長は、「陣中見舞に酒を持ってきました。私は東電原子力発電所に町の発展を祈念して生命をかけて誘致している。本当に東電は発電所を造ってくれるのですか」と問いかけ、その気迫に圧倒されたとSは回想している。Sは、頭の中を整理して、「必ず建設しますからご安心下さい。我々土木屋が来たのは建設準備の第一歩です。基準点の測量するのが事の始まりです」と答えたという。しかし、その後も町長は、何回も「建設してくれますか」と尋ねたという。
町長は、測量するには足が必要であるから、私の車を使ってくださいと帰り際に言い置いた。翌朝、差回された車はデボネアの新車であった。また、それ以外、作業員も大熊町で世話してもらったとのことである。
しかし、測量してみると、地図上では大熊町にあるはずの基準点が双葉町内にあり、そこで県の担当者が双葉町役場に了解を得ようとしたが、双葉町の課長が、大熊町の作業員ではなく、双葉町の作業員でなければ、測量をさせないと主張し、頑として聞き入れなかったという。そこで、県の担当者とともにSは双葉町長に会い、挨拶してお詫びをし、町長は快諾したとのことである。そして、その夜について、Sは次のように回想している。
その夜は双葉駅前の旅館に泊まった。夕食時双葉町長が来て会食した。県の人が「大熊町長は陣中見舞に四斗樽を持って来たよ」と云ったら双葉町長はそれでは今夜の酒代は持たせて戴きますと云った。原子力にかける情熱は大熊町と双葉町では大きい開きがあった。もっとも当時の用地買収では大熊町分が大半で双葉町分はごく僅かであった。その後双葉町内敷地が大きく追加買収された。
県の人は出来るだけ地元両町が熱心に誘致していることを我々東電側に印象づけようと心配りに努めていた。
さて、『大熊町史』のいうように、用地買収は比較的速やかに進んだ。Sは、このように回想している。
用地買収は大熊町長の陣頭指揮で町議会、町当局、有力者を総動員された結果、大熊町内地権者の了解は短期間に終了した。一方北側にある国土興業(西武系)所有の旧塩田跡地は堤康次郎氏の反対で了解が得られなかったが、氏が亡くなられてしばらくして用地が解決したので昭和39年に調査所が設置され大先輩I(イニシャルのみ記す)氏が所長になり次長以下事務系は猪苗代電力所の人が中心であった。
Sの回想は、今まで把握できなかった福島第一原発を誘致した側の景況をいきいきと描き出している。まず、県の担当者が、測量をするSに同行し、地元自治体との連絡をはかり、さらに、地元自治体に対して、東電への協力姿勢をみせるようにあおっていた。しかし、地元といっても一枚岩ではない。大熊町長は四斗樽をもって歓待する一方で、原発誘致に生命を賭していると述べ、東電側に原発立地の確約をせまっていた。それに対して、東電側も、町長の意向にそった形で答えた。大熊町では、高級車の新車を「足」として提供し、測量の作業員も周旋したのである。
他方、初期計画では原発敷地に大きくかからない双葉町では、温度差があった。双葉町の課長は、双葉町の作業員でないと双葉町の測量はさせないと主張し、東電側への接待も県担当者が要求したから行ったというスタンスをとっている。ただ、これは、原発立地への反対を示しているのではないだろう。双葉町の作業員にしか測量をさせないということは、建設反対ではなく、大熊町に多くの利益が与えられることへの懸念を示しているといえないだろうか。そして、東電では、双葉町の買収面積を増やしている。
なお、前回、原発立地に堤側の働きかけがあったと推測したが、Sの回想によると、堤康次郎は反対しており、康次郎が1964年に死去して、ようやく買収できたと述べている。堤義明が敷地売却に積極的であった可能性もあるが、とりあえず、国土計画全体としては積極的に敷地売却を志向していたとはいえないのである。
このように、当事者の証言は重要である。もちろん、美化もあり、隠されたところもあるだろうが、この本は東電関係者のためのものであり、東電関係者にわざわざ事態を偽って語りはしないであろう。このような回想・証言を集めて、より多角的に原発の歴史を可能な限り語っていきたい。
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