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チッソ水俣工場は、1932年からアセトアルデヒドの生産を開始し、1950年代から1960年代を中心に、1968年の生産中止までメチル水銀を含んだ廃水を無処理で不知火海に流し続けた。周知のように、このメチル水銀が不知火海にいた魚貝類に蓄積され、それを食した人々が水俣病を発症していったのである。

1958年まで、この水俣工場からの廃水は百間排水口を通じて南側の水俣湾に流されていた。前のブログで述べたように、水俣市坪段で1956年5月に水俣病が公式確認されるが、この時期に水俣病による健康被害が顕著だった地域は、この坪段や湯堂・茂道など、水俣市の南側の漁村を中心としていた。そして、この水俣病の原因について、水俣工場の廃水に起因しているのではないかという声が高まると、1958年にチッソは排水口を北側の水俣川河口に変更した。その結果、水俣病による健康被害は、不知火海北部にもより一層拡大していくことになったのである。

2015年8月21日、このチッソ水俣工場百間排水口を訪問した。水俣市内においては、水俣市立水俣病資料館・国立水俣病情報センターという二つの資料館、そして「水俣メモリアル」と題された慰霊空間、さらに「水俣病慰霊の碑」という四つの公的な水俣病コメモレーション施設があるが、坪段などの水俣病多発地域にせよ、チッソ附属病院などチッソの施設にせよ、実際の水俣病発生という現場を公的にコメモレーションする掲示などはほとんどみられないといえる。

しかし、さすがにこの水俣病の「爆心地」(熊本学園大学水俣病研究センター編『新版 ガイドブック 水俣を歩き、ミナマタに学ぶ』、熊本日日新聞社、2014年、p23)といえる百間排水口には、その場所を示す掲示板があった。次の二枚の写真をみてほしい。

チッソ水俣工場百間排水口

チッソ水俣工場百間排水口

百間排水口掲示板

百間排水口掲示板

この百間排水口のそばに小さな地蔵と「水俣病巡礼八十八ヶ所一番札所」と題された石碑が安置されている。

水俣病巡礼八十八ヶ所一番札所

水俣病巡礼八十八ヶ所一番札所

水俣病巡礼八十八ヶ所一番札所

水俣病巡礼八十八ヶ所一番札所

この石碑は次のような字句が刻まれている。

 

水俣病巡礼八十八ヶ所
一番札所
 阿賀の岸から不知火海へのお地蔵様
 水俣病事件犠牲者へ捧ぐ
 鎮魂之聖地
 遺恨浄土之地
 慟哭永遠之地
  平成六年十二月吉日
 水俣病患者連盟委員長 川本輝夫

前述のガイドブックでは、この「一番札所」の由来が記されている。水俣病被害者として運動を続けてきた川本輝夫は、水俣の88ヵ所に地蔵を建立したいと願っていた。川本の願いを聞いた、新潟水俣病の被害地である安田町の人たちは、阿賀野川上流で石をさがし、安田町の石工に地蔵を彫らせ、この百間排水口に安置したのである。1994年のことである。

なお、安田町の人たちは、それから4年後ー1998年ということになるがーに水俣の石で作った地蔵を阿賀野川のほとりに建てたいと考えるようになり、水俣川の上流で石をさがし、新潟に持ち帰って、水俣の地蔵を彫った前述の石工に再び地蔵を作らせ、阿賀野川のほとりに安置したという。

多くの人が非命の死をとげ、現在もたくさんの人びとが病苦に苦しめられている水俣病について理解するということ、そしてそれをコメモレーションするということは、この水俣病の「爆心地」百間排水口のそばに設置された「水俣病巡礼八十八ヶ所一番札所」が示すように、鎮魂の営為と重なっているといえよう。川本輝夫は水俣の地に88ヶ所の札所を建立することを望んでいた。しかし、まだ一番札所しか設置されていないというのが現状なのである。

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