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Archive for 2011年1月

愛宕グリーンヒルズMORIタワー(2011年1月4日撮影)

愛宕グリーンヒルズMORIタワー(2011年1月4日撮影)

MORIタワー内部(2011年1月4日撮影)

MORIタワー内部(2011年1月4日撮影)

プラザ(2011年1月4日撮影)

プラザ(2011年1月4日撮影)

さて、ここから、愛宕グリーンヒルズの各地区をめぐっていこう。まず、オフィス地域のA地区をみてみよう。ここには、オフィスビルのMORIタワーがそびえたっている。地上42階地下2階、建築面積2426㎡、高さ187mの超高層ビルである。B地区のフォレストタワーとともに、アメリカの建築家シザー・ベリにより外観がデザインされたとのことで、超高層の圧迫感を緩和することを意図しているそうである(清水昭夫)。ホームページによると蓮の葉をイメージしているとのこと。まあ、確かに比較的細身で、上部はより細くなっており、圧迫感を与えないという意図はうかがえる。青光りする概観は、六本木ヒルズに似ているが、それよりも小さい。
もちろん、中も一般的なオフィスビルの仕様である。いまどき、それ以外のやり方はないだろうが。低層階は店舗が入居し、最上階の42階にもレストランが入っている。
それ以外にも、崖地部分を利用して、愛宕山に埋め込まれた地上2階のプラザがある。建築面積597㎡なので、それほど大きいものではない。スーパーとして「成城石井」が入居している。中に入っていないが、そんなに大きくはないので、すべての生活必需品がそろうということはないだろう。そのほかの店舗も飲食店が多い。六本木ヒルズのような商業施設が充実しているということではない。
その他、光文社ビルなどが所在している。表通りからみると、デザインは優れているが、普通のオフィス地域のようにみえる。しかし、一歩、裏に入ってみると、A地区には異空間が広がっている。次からみていこう。

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愛宕グリーンヒルズ配置図(『都市計画』51-2)

愛宕グリーンヒルズ配置図(『都市計画』51-2)


ここで、清水昭夫「新しい都市景観の創造(歴史と融合した愛宕グリーンヒルズ)」(『都市計画』51-2 2002年6月25日)にしたがって、愛宕グリーンヒルズ全体を概観してみる。図をみてみよう。なお、西が上であることに注意されたい。まず、施行区域は38450㎡で、愛宕神社は含んでいない。愛宕神社の南側の地域である。建築面積は10763㎡だが、延床面積は167685㎡、容積対象は140563㎡で、10倍以上となる。建築面積からいえば、確かに半分以下となっている。

清水は、愛宕グリーンヒルズを四つの地区にわけている。まず、南側のA地区には、MORIタワー(オフィス)・プラザ(商業店舗)・清岸院・光文社があり、主に業務機能が集約されて配置されている。北東側のB地区には、フォレストタワー(住宅)・傳叟院・愛宕山エレベーターがあり、主に住宅機能が集約されて配置されている。中央部はC地区とされ、青松寺が所在する。北西部はD地区とされ、もともと所在したNHK放送博物館がある。

図でいうと、上側が愛宕山上となる。標高差はかなり大きく20m以上ある。崖地といってよいだろう。このように愛宕グリーンヒルズは配置されているのである。

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愛宕グリーンヒルズ内の歩行者通路(2011年1月4日撮影)

愛宕グリーンヒルズ内の歩行者通路(2011年1月4日撮影)

さて、前回、愛宕グリーンハイツという寺社地を使っての大規模開発の森ビル側の戦略目標として、商業地と寺社地を利用して、高容積率を要する超高層住宅を建設することにあったのではないかと考察した。しかし、たぶん、それだけではないだろう。そこをもう一度考えてみよう。

森ビル設計部の清水昭夫は、「新しい都市景観の創造(歴史と融合した愛宕グリーンヒルズ)」(『都市計画』51巻2号 2002年6月25日)で、愛宕グリーンヒルズの開発理念を次のように語っている。

愛宕山の既存の地形と緑を保全し、都心の貴重な景観資源として活用すると共に、定住人口を回復し安全で快適な街づくりを目指すことを開発理念としている。

後段の「定住人口を回復し」云々は、森ビルの都市開発事業で総じていわれていることである。アークヒルズにせよ、六本木ヒルズにせよ、森ビルは、常にそのように主張して、超高層住宅を建ててきたといえる。

愛宕グリーンヒルズの固有な戦略目標は、「愛宕山の既存の地形と緑を保全し、都心の貴重な景観資源として活用する」ということができる。景観の保全は、青松寺との交渉時から課題であった。しかし、森ビルは、それだけではなく、保全した景観を「景観資源」として活用することをはかっているといえよう。

では、どのように景観を保全をしようとしているのか。清水は、このように述べている。

MORIタワーおよびフォレストタワーは、沿道から見える愛宕山を本来の姿として再現する為に高層化し、隣棟間隔を大きく開放して配置している。
また、2本のタワーを高層化した結果、敷地面積の約半分のオープンスペースが生み出され、そのオープンスペースは歩行者通路や広場・または公園的に整備され愛宕山の緑を修復すべく緑化を行っている。
外構計画にいたっては、愛宕山の緑再生の為に、従前の樹木の再植樹や、愛宕山で育った苗木の植樹を行い、また従前の区道側の間知石を開発地区内で再利用するなどしている。
商業店舗であるプラザも、愛宕山に埋もれるように配置する事により、従前の間知石の切通しを再現しており、本開発は、歴史的景観をさまざまな観点から保全するように配慮している。

清水は、愛宕グリーンヒルズの半分はオープンスペースであるとしている。かなりすごい話だ。また、再植樹などもかなり手を入れているといえる。そして、景観資源には、「緑」だけではなく「歴史的景観」も含んでいるのである。ゆえに、キャッチフレーズを「歴史と融合した愛宕グリーンヒルズ」としているといえよう。

高容積率の超高層建築と歴史的景観の保全。この二つの戦略目標の追及が、どのような街づくりになるのか。次からは、愛宕グリーンヒルズの現況を縷々みていきたい。

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愛宕MORIタワー(2011年1月4日撮影)

愛宕MORIタワー(2011年1月4日撮影)

愛宕グリーンヒルズのような、寺社地を利用する大規模開発についての、森ビル側の戦略目標は何か。著名な六本木ヒルズなどとちがって、愛宕グリーンヒルズについてはあまり文献がない。その一つに2002年10月の第8回物学研究会で行われた森ビル社長森稔の「新東京:都市の形」(http://www.k-system.net/butsugaku/pdf/056_report.pdf)がある。その中で、森は、長距離通勤をまねく容積率制限などの都心集中抑制政策と耐久性の少ない住宅を増設した郊外における一戸建て住宅建設推進政策を批判している。その上で、

そこで私たちはちょっとしたシミュレーションを行ってみました。
ひとつは、3ヘクタールの土地の上に100平方メートル平均の一戸建て住宅を300戸作った場合を模型にしてみました。するとちょうど世田谷や杉並などの典型的な住宅密集地に似た街並みになりました。これらの住宅を仮に40階建てのマンションに集約してみると、わずか4パーセントの土地の上に収まってしまいます。この高層の建物の地下にはパーキングや倉庫といった日光を必要としない施設を作り、低層部分はショッピングモールを作ることができます。空いた土地には低層の高品質な建物を作って、学校やコミュニティのためのスペースを設けることもできます。さらに空いている土地はテニスコートや公園に転用できます。要は建物を集約して高層化することによって、同じ広さの土地をこれだけ魅力的に有効に使うことができるのです。この状態でも容積率は700パーセント程度です。

と、森ビルが考える理想の住宅建設を語っている。要するに300戸の一戸建て住宅を40階の超高層住宅にまとめれば、敷地の4%しか使わず、地下にはパーキングや倉庫、低層部分にはショッピングモールが設置できるとしている。そして、空いたスペース(森の試算では96%になるのだが)には、学校・コミュニティ施設・公園・テニスコートなどが立地できるというのである。
しかし、この計画を、例えば、杉並や世田谷などの住宅地域で実施することについては、「容積率」上問題を生じる。第一種住居専用地域の上限容積率は200%、第二種住居専用地域の上限容積率は300%、住居地域の上限容積率は400%であり、森の試算による容積率700%には遠く及ばない。40階の超高層住宅は、かなりの容積率を要するというわけであり、低容積率の住居地域では建設できない。それゆえに、森ビルなどは容積率の緩和を主張しているのであるが。

そして、森は、愛宕グリーンヒルズについて、このように語っている。

「愛宕グリーンヒルズ」は、事務所、住宅の超高層ツインタワーを中心とする容積率600パーセントほどの再開発です。高層化を実現することによって、NHK放送博物館につながる緑道、愛宕山に登るエレベーターなどを設置し、同時に愛宕山周辺の景観の再整備ができました。このために愛宕神社や青松寺への参詣人が増えたと聞いております。

愛宕グリーンヒルズの容積率を600%としていることに注目されたい。ここは商業地域であり、容積率は400-1000%であるはずである。もちろん、容積率はそれぞれの地域で異なっている。また、総合設計制度などを利用すれば、もともとの容積率から緩和できる。ゆえに、もともとの容積率がどの程度であったかはわからないのであるが、商業地域であるがゆえに、容積率600%の建設が可能となったといえる。
さらに、容積率を600%にとどめることを可能にしたのは、青松寺境内などを低層建築物もしくはオープンスペースとして確保し、この低容積率部分を全体の建築計画に含めることによって、超高層建築部分の容積率を押し下げるということであったといえる。現在、愛宕グリーンヒルズには42階建ての超高層ビルが2棟建っているが、それは、青松寺などがはじめて達成されたといえるのである。現在、寺社などの低容積率の建物をめぐって、使用していない容積率を譲渡する空中権売買が行われていると聞いている。この愛宕グリーンヒルズの場合、法的に空中権の売買にあたるかどうかは不明であるが、考え方としては共通しているといえる。

このように、①容積率が大きい都心の商業地域であり、②青松寺などの寺社地が存在したということで、ようやく、森の念願である超高層住宅の夢が実現したといえる。しかし、単に超高層住宅を建てることだけが森ビルの戦略目標ではなかったと考える。それは、次に議論していきたい。

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青松寺仁王門と愛宕グリーンヒルズフォレストタワー(2011年1月4日撮影)

青松寺仁王門と愛宕グリーンヒルズフォレストタワー(2011年1月4日撮影)

愛宕グリーンヒルズは、愛宕山周辺の青松寺などの寺社地を利用して、超高層ビルを建設した、森ビルの都市再開発事業の一つである。森ビルのホームページで、開発経緯は、次のように説明されている。

約19年前、周辺の個々の建替えが行われることにより由緒ある寺院のたたずまいや愛宕山が隠れてしまうことを危惧した青松寺から、森ビルが相談を受けたことが、このプロジェクトの始まりです。結果的には約70軒以上の権利者の敷地を統合し、青松寺、傅叟院、清岸院、日本放送協会(NHK)、光文社他3者と森ビルとの共同事業にて進めることとなり、1988年に愛宕地区再開発地区計画として都市計画決定を受けました。『愛宕山の既存の地形と緑を保全し、都心の貴重な景観資源として活用するとともに、定住人口を回復し防災上安全で、快適なまちづくりをめざす』ことを開発の基本コンセプトとし、愛宕山や寺院に対する歴史的景観との融合が課題となりました。
開発街区は、愛宕MORIタワー・プラザ・清岸院・光文社を含む主に業務機能を集約して再配置されたA地区、愛宕フォレストタワー・傅叟院・愛宕山エレベーターを含む主に居住機能を集約して再配置されたB地区、再構築される青松寺をC街区、既存のNHK放送博物館をD街区として4つの地区に位置づけています。建物の配置計画としては、愛宕MORIタワー、愛宕フォレストタワーは、隣棟間隔を大きく開放して配置し、敷地の約半分のオープンスペースを確保し愛宕山の緑を修復しています。シーザー・ペリ氏のデザインした2本のタワーは、景観上も圧迫感を緩和し、愛宕山を示すランドマークとなっています。

この経緯によると、青松寺側の主導によりこの再開発事業がはじまったようにみえる。たとえ、そうであったとしても、森ビル側の利害はないのだろうか。そのことは、次の記事で書くことにしよう。

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さて、前回紹介した資料は、雑司が谷地域でお会式を支えた講社の実態を伝えている。まず、戸張(政)によると、御嶽中島講は40軒程度の家で組織され、その代表の12-13人で、造花づくりなどの準備を清立院で行ったと述べている。
一方、戸張(政)より約15歳年長の吉田は、講中の各家では年番をつとめることになっており、準備はその家でも行ったといっている。さらに、吉田は、雑司が谷では、御嶽中島・南古木田・清土・六家町・上り屋敷・原・水久保という講社があり、それら(吉田は六つとしているが、あげられた講社は七つ)がまとまって妙法結社を組織していたとしている。そして、妙法結社内の各講社にも年番があり、それにあたると、下総中山の鬼子母神(法華経寺)、安房の誕生寺、鎌倉の竜口寺、身延山などに参詣に行ったと述べ、中山では、酒食の接待を受けたことを回想している。
一方、妙法結社では、お会式の際、法明寺門前にのぼりをあげるとしている。妙法結社全体の世話人は、後藤権二郎と安井銀太郎がしていたとしている。そして、妙法結社では、堀之内妙法寺と池上本門寺に万燈を奉納しに参詣したと吉田はのべている。いわば、大山講や伊勢講などと同様な代参講の形式をとっているといえるが、戸張(政)は知らないとしている。これは、雑司が谷の例であるが、この当時、地域外からくる講社も同様の形態ではないかと思われる。つまりは、参詣を中心とした講が、お会式を担ったと考えられるのである。
この講社名であるが、「新編武蔵国風土記稿」にある、雑司ヶ谷村の「小名」には、「古木多」「原」「水久保」「中島」「清土」とあり、五つが近世の小字名に由来することがわかる。なお、上り屋敷は、1916年の一万分の一地形図に山手線西方の地名としてでているので、これも小字名である。六家町は、たぶん四家町の誤記であろう。そうなると、目白通り沿いの高田四家町が該当することになる。つまり、この講社名は、雑司が谷地域の地名に由来しているのである。
さて、この講社名を前述の地図でみてみると、中島御嶽は雑司が谷霊園の南側の現雑司が谷1丁目を中心とした地域である。古木田は、その南側の現雑司が谷二丁目となる。清土は、地形図には出ていないが、この地名は鬼子母神出現の地であるから、現雑司が谷一丁目に隣接する文京区目白台2丁目で不忍通り沿いとなる。六家町が四家町ならば、目白通り沿いの雑司が谷2丁目・高田2丁目ということになる。上り屋敷は、山手線の西側の現西池袋2丁目で、上り屋敷公園が所在している。水久保は、雑司が谷霊園の北側で、現在では南池袋4丁目・東池袋4・5丁目あたりである。原については、よくわからないが、法明寺の北側に「中原」「東原」という地名があるので、その周辺ではないかとおもわれる。そうなると、南池袋2・3丁目ということになる。大体、雑司が谷鬼子母神・法明寺を囲んだ形で雑司が谷の講社は所在していたといえる。
吉田は、雑司が谷では10月1日に寄合があり、その時は、鬼子母神境内の茶屋から接待があったことを回想している。雑司が谷境内は、いわば接待側であったのである。講社名で、鬼子母神や法明寺の地元はみられないことと照応しているといえる。今日では、そのものずばりの地元の「大門宮元講」があるが、この時期は、参詣する各地域の講社をもっぱら接待していたといえるのである。
内田の回想によると、奉公人でもお会式の準備過程から参加できたようである。そのことも、この座談会では確認できる。
こうしてみてみると、戦前期のお会式を担った講社の実態がここにでていると思われる。雑司が谷では、各講社は地縁的な団体で、奉公人も参加できたが、本来の形は代参講の形態をとっていたと思われる。各講に年番がいた。そして、これら講社を統括する存在として妙法結社が存在し、雑司が谷お会式だけなく、池上本門寺や堀之内妙法寺のお会式にも万灯奉納を行っていたのである。一方、鬼子母神境内を中心とした地域は、お会式の接待側にまわっていたのである。

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ここから、何回かにわけて、「御会式新聞」第17号(1987年10月15日)に掲載された座談会「三嶽中島講 古老に聞く」を紹介しておきたい。戦前のお会式に参加した講社の実態が、この座談会によくあらわれている。まず、冒頭から、原文通りにみていくことにしたい。ここでは、お会式の準備から話が始まり、奉公人のお会式参加や、地域の講社組織のあり方まで及んでいる。この件についての分析は、次回行うこととする。

三島中島講 古老に聞く

吉田磯次郎さん(八八)
内田松五郎さん(七八)
戸張政次郎さん(七三)
戸張三郎さん (六九)
 司会  伊藤博
 まとめ 須藤昭雄

お会式が始まるぞ!
司会 今日は、古くから、お会式を愛しつづけてきた方々から、私たちの知らない昔話を伺いたいと存じます。まず、準備のあたり、内田さんにお願いいたします。
内田 そうですね、私は大正十二年四月、震災の年に十四歳で小僧にきました。昼間は小僧ですから仕事は休めませんでしたが、お会式が近づくと、夜は親方が「万灯の花を作る手伝いに行け」と指示してくれました。これが嬉しくてね。当時は一日と十五日の休みはあったものの、あまり外へは出られなかったのに、お会式の時だけは公然と出ていけましたから。
戸張(政) 清立院の屋敷や本堂を借りてやった覚えがありますよ。人数は、三嶽中島講の家が、このへんには四〇軒くらいあったから、その代表が出て、十二~三人くらいかな。
吉田 そうだな、それだけいれば、作ってしまう。講の年番に当たると、その家でもやる。吉野さんとか私の家でもやったよ。昔、雑司が谷には、今はない講もあるが、三嶽、南古木田、清土、六家町、上り屋敷、原(ここが一番いい万灯を出したね)、水久保とあり、これが番をぐるぐる回ってる。年番に当たると、わが家じゃ中山の鬼子母神へ奉納に行くんです。戦争のちょいと前までだったかな。奉納に行くと、二の膳付き、おかん徳利が二本ついて、しかも女の人がおしゃくしてくれる。そういうふうに、ご馳走になって帰ってくる。雑司が谷の鬼子母神は、十月一日に寄合いがあるんだ。鬼子母神の境内には、お団子屋さん、雀焼きの店が十一軒ばかりあった。上総屋、武蔵屋とかいったな。そのお茶屋の娘さんや奥さんが手伝いに来ておしゃくしてくれるんだ。たいへんなご馳走だったよ。
さっき話した六つの講がまとまって、妙法結社というのができていた。結社では、法明寺の仁王門の前にお会式のときには大きなのぼり、一〇間からあるやつを立てた。今は石が残っているだけだけれどね。
戸張(政) その中山の話は全然知らないね。
吉田 結社の講中では、番が回ってくると、中山の鬼子母神と房州の誕生寺、鎌倉の竜口寺、身延山などへお参りに行く。震災から戦争までぐらいやったね。
そして結社では池上、堀之内への万灯を奉納に行くんだ。つまりお参りさ。その時分は後藤権二郎さんと安井銀太郎さんが妙法結社の世話人だった。(後に続く)

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