さて、今回は、福島第一原発誘致に積極的だった大熊町長とその息子の話をしてみよう。本ブログにおいても、『現代思想』2011年6月号に掲載した拙稿「福島県に原発が到来した日―福島第一原子力発電所立地過程と地域社会」においても書いたが、原発立地において、当時の大熊町長は積極的であった。参考のため、拙稿「福島県に原発が到来した日」から、その部分を引用しておこう。
一九六三年になると、東電自身も具体的な調査を行った。この調査を担当したのが東電社員佐伯正治であり、彼は用地買収中であるので、現地の人にわからないように、若い女子社員とともにピクニックを装って調査を行ったと回想している 。そして、その年の暮には東電による現地測量が開始された。この時、測量を担当したのがこの佐伯である。その際は県の開発部から一人同行した。佐伯によると、宿舎に、突然大熊町長が四斗樽をもって現れたという。大熊町長は、「陣中見舞に酒を持ってきました。私は東電原子力発電所に町の発展を祈念して生命をかけて誘致している。本当に東電は発電所を造ってくれるのですか」(佐伯「当初の思い出」、樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始三〇周年記念文集』2002年所収)と問いかけ、その気迫に圧倒されたと佐伯は回想している。佐伯は、頭の中を整理して、「必ず建設しますからご安心下さい。我々土木屋が来たのは建設準備の第一歩です。基準点の測量するのが事の始まりです」と答えたという。しかし、その後も町長は、何回も「建設してくれますか」と尋ねたという。
町長は、測量するには足が必要であるから、私の車を使ってくださいと帰り際に言い置いた。翌朝、差し回された車は高級車デボネアの新車であった。また、それ以外、作業員も大熊町で世話してもらったということである。
このように、福島第一原発誘致につき、当時の大熊町長は涙ぐましい努力をしたのである。
この大熊町長は、誰であったのであろうか。
『朝日新聞』2011年5月27日付朝刊に掲載された、小島寛明・中井大助「『後進の町』共存の果てに 神話の陰に 福島原発40年」の中で、この大熊町長の息子の動向が伝えられている。
東電は64年12月、現在の原発敷地内に福島調査所」を設置。そこに臨時社員として加わったのが、大熊町民の志賀秀朗(79)だ。高校卒業後、長男として農業を継いでいたが、同町長だった父親の秀正(故人)の勧めで、東電に入った。
この記事中に出てくる、志賀秀朗の父親である故志賀秀正が、佐伯の回想にある原発誘致に積極的であった大熊町長なのである。志賀家は、原発が所在する大熊町においては、相馬藩の在郷給人―旧士族の一族である有力者であった。そして、息子の志賀秀朗は、この記事には出ていないが、後述するように、当時町役場職員であった。わざわざ町役場をやめて、東電で働くようになったのである。
息子の志賀秀朗は、『朝日新聞』記事において、福島第一原発を受け入れた当時の大熊町を次のように語っている。
「当時は何もない、福島県の中でも貧乏な場所だった」。志賀によると、夏は農作業をして、冬になると男の8割くらいが関東に出稼ぎに行っていた地域だった。太平洋に面しているが良港はなく、観光資源も他の産業もなかった。「所得が増える、働く場所もできると、町民の大部分が、原発を歓迎していた」と志賀は振り返る。
志賀秀朗は、「同町と双葉町にまたがる福島第一原発のため、波の向き、潮の流れなど、海洋調査に当たった」(『朝日新聞』)と、福島第一原発建設のため、努力していた。職務をみると、地域住民の特性を生かしたものだったといえる。親は町長として原発誘致に尽力し、息子は、福島第一原発建設の実務を担うーまるで「父子鷹」のようである。
『朝日新聞』は、息子の志賀秀朗を、このように表現している。
「大熊町と東京電力の共存共栄の歴史だった」。こう話す志賀は、自身がそれを体現した存在だ。
臨時社員の後は東電の正社員となり、87年まで1~6号機を建設する際などの土木関連業務に従事。同年9月には、父親の2代後の町長に当選。2007年までの5期20年、原発立地町の顔としてあり続けた。
つまりは、臨時社員から東電の正社員となり、やめてからは、町長になるという、絵に描いたようなサクセスストーリーを演じていたのである。
福島第一原発誘致の際、父の志賀秀正より心のこもった接待を受けていた東電社員の佐伯正治は、息子の志賀秀朗について、次のように語っている。
志賀現町長(志賀秀朗)は調査所が開設された時勤めていた町役場を止めて常傭員として土木課の一員になった。これは一軒の家で2人も役場に勤めていることに肩身の狭い思いをしていたので建設が終われば解雇という不安定な常傭員でも良いと決断したとのことである。
土木課員として土木工事特に港湾工事の完成に情熱を注がれた。建設所になって小林健三郎副本部長が現地駐在となり、常傭員の人達の将来と原子力発電所の在り方を考慮され関係者の皆さんと協力され、1号機運開(1971年)後に常傭の人全員が社員に登用された。これは東電の水力、火力建設所では未だかつて無い快挙である。現志賀町長は社員となり土木課員として活躍され第一期工事完成後も増設工事、土木設備保守に従事し、やがて東電を退職して町長に選出され、現在に至っている。
父が誘致し、息子が建設し、保守するという親子二代にわたる愛情を注がれた東電福島第一原子力は他に例を見ない幸運児といえよう(佐伯前掲書)。
佐伯は、「土木屋」を自認しており、たぶん志賀秀朗の上司になったであろう。
『朝日新聞』は、志賀秀朗の言葉を引用して、このように言っている。
「徐々ににぎやかになった。出稼ぎもなくなったしな」。志賀の言葉を裏づけるように、原発での雇用が生まれ、町の人口は増加の一途をたどった。1965年に7629人だったが、国勢調査のたびに増え、2005年には1.5倍近い1万992人となった。
ただし、多少、これには私として異論がある。原発建設が雇用を増加することは確かではあるが、運転を開始してしまうと、平常時にはそれほど人員はいらない。除染・修繕・燃料交換などの定期点検時には雇用は増加するが、それは、下請け労働が主の非正規雇用でり、しかも、放射線被曝の恐れがある労働なのである。
日本原子力産業会議編『原子力発電所と地域社会・各論編』(1970年)によると、福島第一原発建設時の1969年3月末の時点で、電力会社常傭は、町内(大熊町・双葉町)45人、県内8人で、総計53人である。他方で工事業者の職員・労務者の総計は、町内704人、県内504人、あわせて1208人である。常傭自体が数少なく、正社員になるのは、原発労働者でも一握りの存在であった。
ある意味では、同じように皆が豊かになったわけではない。しかし、望ましいものではないかもしれないが雇用があり、さらに、数少ないまでもサクセスストーリーが存在するようになったということは、相対的にはプラスとして大熊町は受け取ったということなのであろう。
しかし、3月11日は、二代にわたる志賀町長親子の思いを押しつぶした。
3月11日、東日本大震災による津波は、海岸から約300メートルに住む志賀の自宅も襲った。「バリバリッと、木の倒れる音がした」。辛くも難を逃れた志賀は親族を頼って、福島県葛尾村→福島市→川崎市と転々とし、現在は横浜市の親戚宅に身を寄せている。
福島第一原発から大量の放射能がもれ出した事態に、「まさか、炉心溶融が起きるとは考えていなかった」。志賀は、「自分の人生上、東電の仕事は勉強になった。だから、今の自分がある」と、今も自分がある」と、今も東電への愛情をにじませる。町民についても、「長年、原発とともに生活をし、いい生活だったと考えている人もいるでしょう」と話した。
だが、「町長として悔いはあるか」と問われ、こう答えをしぼり出した。私の人生は、3月11日をのぞけばよかった。こういう事態になって残念だ」(『朝日新聞』)
志賀秀朗元町長の思いは、多少は想像できる。しかし、「歴史」とは残酷なものである。3月11日という結果が、すべての叙述の意味を変えてしまう。佐伯の回想などは、今聞いてみると痛ましい思いがする。私自身からみると、志賀秀朗元町長のいうように、原発との共存は全てがバラ色ではない。だが、志賀親子は、とりあえずでも地域社会を活性化しようとはしていたのだ。
それでも、「残酷な歴史」は、志賀親子の努力を、彼らの意図とは全く逆な形で位置づけるであろう。批判するつもりはない。ただ悲しいだけだ。
しかし、他の原発立地自治体の首長や住民たちは、自分たちがこの「残酷な歴史」の中で、将来、どのように位置づけられるのかを、自分自身の問題として、よく考えてもらいたいと思う。志賀町長親子は、原発の危険性をそれほど意識してはいなかった。今はそうではないだろう。
そして…今や、私たちは、福島第一原発事故において決死で処理を行っている人々の中に、志賀町長親子の後継者たちがいることを認識しなくてはならない。そう、原発立地町村から、社員や下請けで原発労働者として働いている人々である。皆が豊かに働いていたわけではなかっただろう。しかし、今は、彼らの営為に、将来がかかっているのだ。それだけは、言っておかねばならない。
*付記:拙稿「福島県に原発が到来した日」で福島第一原発は大熊町夫沢の南部にあるように書いたが、東部と表現するほうが適当であろう。正確な地理を承知しなかったことが悔やまれる。
朝日新聞の投稿欄を読んだ一読者です。私も福島県のいわき市生まれの主婦ですが、縁があり、今関東に婚家です。今息子の就職のことでとても悩んでいます。物理科を卒業していますが原発にとても興味があります。是非、東電の就職をきぼうしています。できればご相談にのっていただき投稿いたしました
コメントありがとうございます。なかなか、心苦しいお話で、どのようにお答えしたらよいのかと思います。放射線被ばくのことや、福島の人びとの心情を考えると、なるべくならやめたほうがよいとも思うし、息子さんのご志望や社会的必要性(いずれにせよ、福島第一原発が完全に廃炉になるまでは、原子炉の専門家は必要でしょう)を考慮するならば、反対するのも心苦しいとも思えます。ただ、それはそれとして、東京電力がこれからも存続するかどうかという点については、もう少し考えるべきことかもしれません。福島第一原発の廃炉作業を自分の手でやりたいということならば、それはそれとしてわからなくはありません(しかし、それでは親御さんたちは余計心配するかもしれません)。ただ、福島第一原発の処理などみていても、これで、営利会社として存続できるのだろうかと思います。除染も補償も自分では賄えず、国から借金している状態です。私も、それほどよく知らず、ブログを書きながら、その都度勉強している状態ですが、東京電力に就職を考えるならば、新聞などで原子力のことだけでなく情報を集めて検討されたほうがよいかと思います。といっても、「就活」自体が難しいことなのかもしれませんが。しかし、東電に入るしかないとしても、とにかく、東電のことをよく知っておくことは有益かと思います。アドバイスにもなにもなりませんが、思いついたままご返事を差し上げます。
是非、お返事をおまちしております