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Archive for 2011年4月3日

着工前の福島第一原発用地

着工前の福島第一原発用地(『東京電力三十年史』から)

ここで、福島第一原子力発電所が建設された経緯について、『東京電力三十年史』(1983年)や『大熊町史』第一巻(1985年)を参考してみてみよう。特に『大熊町史』は、山形大学教授(当時)の岩本由輝が執筆し、通り一遍の記述ではなく、批判意識をもって書かれている。
 まずは、候補地選定の経過をみておこう。この地域への原発誘致に積極的であったのは福島県側であったようである。『東京電力三十年史』によると、福島県浜通りにおいて、南の小名浜地区、北の相馬地区はそれなりに工業地域を有していたが、双葉郡地域は農業地帯で特段の産業もない過疎化地域であり、福島県や町は工業立地の構想を模索していたとしている。そして、大熊町では、1957年に、大学に依頼して地域開発に関する総合調査を実施していたとしている。この大学とは、どこか。『大熊町史』では、早稲田大学と東京農業大学としている。
特に、当時の福島県知事佐藤嘉一郎は原発誘致に熱心で、1958年には商工労働部開発課に原子力発電の可能性に関する調査を命じ、1960年には自身が日本原子力産業会議に入会した。そして、同年、現在の福島第一原子力発電所の敷地を、原発候補地としてあげ、東京電力に意向を打診してきた。
この場所は、どんなところだったのであろうか。まず、この場所は、双葉町と大熊町の境にあった。もともと平坦な段丘地であったが、戦時中、旧陸軍航空隊の長者ヶ原飛行場が置かれ、かなり整地が進んでいたと思われる。そして、戦後は、堤義明が代表取締役をつとめていた国土計画興業株式会社がその用地を取得し、塩田事業を行っていた。もちろん、国土計画以外の土地も多かったが、元々、一地権者がまとまった土地をもっていたのである。
東京電力では、この意向を受け入れて、1960年8月にこの土地を原発建設地として確保する方針を決め、福島県知事に斡旋を申し入れた。そして、福島県知事は11月に原子力発電所誘致計画を発表した。
『東京電力三十年史』では、「このように、当社が原子力発電所の立地に着眼する以前から、福島県浜通りの未開発地域を工業立地地域として開発しようとの県、町当局の青写真ができており、この先見性こそ、その後の福島原子力にかかわる立地問題を円滑に進めることができた大きな理由といえよう」と評している。
ただ、東電側はそのように評価するが、国土計画や早稲田大学などは、どのようにこの経過に関わったのであろうか。それこそ、今後の研究を期待したい。

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東京電力の発電能力

1981~2009年における東京電力の発電能力(電気事業連合会ホームページから)

次に、福島第一原発建設の具体的経過を述べるつもりであったが、その前に、近年の東電の発電能力の推移をみておこう。1981年度は合計3293万キロワットで、この水準は、計画停電が開始された2011年3月14日の発電能力の約3100万キロワットと同等といえよう。この時点で、水力は445万キロワット、火力は2377万キロワット、原子力が469万キロワットであった。原子力への依存率は約14%であり、水力発電とほぼ同等である。
 この時期は、バブル景気(1986~1991年)の直前にあたる。この時期、すでに、テレビ・冷蔵庫・電気洗濯機・電気掃除機などの家電製品は家庭で普及していたが、電力で冷暖房することは一般的ではなかった。私の母校の早稲田大学では、まだ大学教員の研究室にも冷房がついていない状態であり、一般家庭でもそれほど普及していなかった。他方、暖房は、灯油もしくはガスストーブが普通であり、一般家庭でエアコンなどの電力で暖房することはそれほどなかった。もちろん、個人用パソコンも普及していない。オフィスでもようやくオフィスオートメーションが始まった時期であった。
この時期から、バブル期、「失われた十年」(1991~2002年)、その後と、伸び率に違いはあるものの、東電の発電能力は拡大しつづけた。大幅に発電能力が落ちたのは2005~2007年度くらいで、2008年度以降は東電の発電能力は拡大基調に転じた。2009年度には、全体で6448万キロワット、水力は898万キロワット、火力は3818万キロワット、原子力は1730万キロワットに及んでいる。原子力への依存率は約26%となった。なお、原子力の発電能力は1998年度からかわっておらず、その際は約30%であった。火力発電・水力発電の発電能力があがり、これでも依存率が減少したのである。
1997年の京都議定書以来、「地球に優しい」をキャッチフレーズにして、「エコ」政策がとられていたはずであるが、2005~2007年度を別として、その期間も東電の発電能力は伸びている。1997年度は5675万キロワットであったが、それが前述のように6448万キロワットとなった。
今、考えてみると、「エコ」政策では、電気自動車の導入など、CO2を直接発生する内燃機関から電力への転換が主張されていたと思われる。また、東電も、電磁調理器具やオール電化の家など、エネルギー源を電力に転換することをはかっていたように思われる。そして、冷房だけではなく暖房も電化されていった。東電は電力を販売する会社であり、電力需要を喚起することはしかたないであろう。ただ、結局、「エコ」と思わせながら、実は、エネルギーを電力に転化するだけで、エネルギーの浪費状態はさほど変わっていなかったといえるではないか。たぶん、火力発電のほうが、内燃機関よりエネルギー効率はよいのであろうが、CO2の排出はしているのである。
政府や東電は、結局、「エコ」の掛け声のもとで、エネルギーの浪費状況は放置いや助長して、最終的には、火力発電の原子力発電への転換をはかっていたと思われる。「エコ」政策も、原子力発電を正当化するものであったといえる。

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東京電力の発電設備の推移

東京電力の発電設備の推移(『東京電力三十年史』より)

さて、原発報道のありかたをみる前提として、原子力発電所の設立の経緯をみておこう。『東京電力三十年史』(1983年)によると、1923年9月1日の関東大震災においても、停電が発生した。しかし、主に被災したのは変電所(30%)・配電線路(12%)であり、発電所と送電線はほとんど被災しなかった。当時の発電所は水力発電所を中心としており、震災地域の圏外にあったためである。そのため、東京では、9月3~4日より、電力が復旧していった。1924年2月末には東京地方の電柱・配電線路の80%が、1924年5月末には横浜地方のそれの85%が回復した。
戦時期においても電力統制が行われた。そして、空襲により、都市部にあった火力発電所・変電所・配電線路は大きな被害を受けたが、主力の水力発電所はあまり被災しなかった。それにひきかえ、都市部の工場・事務所・住宅は大きな被害を受け、電力需要は大きく減退した。そのため、終戦直後は、むしろ余剰電力の活用が問題となった。しかし、1946年の冬の渇水期には、電力不足が深刻となった。その理由として(1)石炭をエネルギー源とした製鉄・肥料などの鉱工業が、石炭不足のためエネルギー源を電力に転換した、(2)カーバイド産業のように、原材料の質の低下が電力消費量の増大をまねいた、(3)薪炭価格の高騰のため家庭用電熱需要が急増したことがあげられる。1946年11月には、「電気需給調整規則」が発布され、告示期間における最大限度以上の電力使用禁止、告示期間における電気ボイラー・電気製塩・電飾広告の禁止、大口受電施設の認可制、超過加算料金の設置、使用電力の割り当て制などが定められた。しかしながら、結局電力超過使用による緊急遮断(停電)を回避することはできなかった。
この状況は、翌1947年度冬季も継続した。11月には「電気需給調整規則」が改定され、住宅などにも電力制限が及ぶことになったが、異常渇水、石炭の質の低下、発電所の酷使により出力が減退し、緊急遮断や輪番停電が実施され、休電日も週1~3日と指定された。そのため、需要家による自主的な電力節約運動組織として電力自制会が組織されたが、GHQは需要家による自主的な節約に反対し、この会は自然消滅した。
1948年は、豊水と石炭供給に恵まれたため、電力供給は好転した。1949年は、ドッジプランのため、生産合理化をせまられ、電力の節約もすすんだ。同年には「電気需給調整規則」が改定され、強制的割り当ては廃止され、超過料金徴収ですむようになった。ただ、その後も冬季になると電力不足は憂慮された。
1951年に、東京電力は設立されるが、その当初から電力不足は深刻であった。この時期からは、夏季の異常渇水も電力供給に影響するようになり、1951年は、石炭不足にも直面したため、東北・関西電力において深刻な電力不足となり、東京電力などは電力融通を行っていたが、逆に自社の電力不足にたちいたった。その際、公益事業委員会は、本州全域に電力使用制限を告示し、電熱器・ボイラー・製塩・広告灯の禁止、電灯・業務用電力の中間使用禁止、小口・大口電力の休電日(週一回)設置、大口需要家の使用電力制限などを発令した。1952年も電力不足により大口需要家に自主制限が求められた。1953年も、通産省告示による電力使用制限が発令され、週二日の休電日や緊急輪番停電が行われた。
ここまで、長々と戦後復興期の電力不足について語ってきた。この電力不足は、復興の足かせとなったと評されている。この景況から抜け出すために、水力依存への脱却がはかられたといえる。水力発電は、冬季・夏季の渇水期においては発電力が小さくなるものであり、季節的変動が著しい。また、現代の水道をみていればわかるように、それぞれの年毎の変動も激しい。そのために行われたのが、まずは、火力発電所の増設であった。現在、日本の電力供給の中心は火力発電であるが、その源流は、この時期の電力不足の打開にあるといえる。このような電力不足の解消が、高度経済成長の前提となり、家電製品の普及につながったといえよう。
一方で、このような電力不足は、水力発電にかわるもう一つの発電として、原子力への着目を生んだといえる。1954年、学術会議は原子力公聴会を開催し、国会でも、原子炉予算がつけられた。そして、1955年には、原子力基本法などの原子力三法が設立され、翌1956年には日本原子力研究所が設置された。そして、1957年には、日本原子力研究所の第一号炉が臨界に達した。東京電力でも、1955年に原子力発電課が設置された。そして、東芝・日立と協力して「東電原子力発電協同研究会」が1956年に設置された。その頃から東京電力は原発設置候補地の選定をはじめ、原発誘致に積極的であった佐藤善一郎福島県知事に、1960年に大熊・双葉両町に原発敷地を確保することの斡旋を申し入れた。これが、1971年に運転が開始された福島第一原子力発電所の源流となっている。
現在、震災における原子力・火力発電所の被災により、電力不足が生じ、計画停電が実施されている。戦後史を考えると、これは当然の結果といえる。停電しなくてはならないような電力不足が火力・原子力発電所の設置につながったわけであるが、火力・原子力発電所が被災すると、こんどは戦後の電力不足状況が再現されるということになる。まあ、1951年では、全体の発電能力が182万キロワット、今日では、被災前の発電能力が約6000万キロワット、被災後でも約3000万キロワットはあるというため、そもそもの規模が違うのであるが。ただ、輪番停電・電力の割り当て・自主規制・広告灯停止など、手段は同じである。そのような目で冷静に見るならば、戦後史の一局面の再来であろう。そして、復興の足を電力不足がひっぱっているという状況も、共通性を有しているといえよう。

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