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Posts Tagged ‘吉田内閣’

日本の原子力開発は、1955年の原子力基本法制定当時から「平和利用」を旗印としていた。そして、政治的には核不拡散NPT条約体制構築に協力していた。他方、核兵器に転用可能なプルトニウム利用も含む原子力利用の包括的拡大に固執してきた。そのために、経済的には引き合わないにもかかわらず、もんじゅが建設され、再処理工場が設置され、軽水炉におけるプルサーマル計画が推進されてきた。吉岡斉氏は『新版 原子力の社会史』(2011年)において、次のように指摘している。

こうした原子力民事利用の包括的拡大路線への日本の強いコミットメントの背景に、核武装の潜在力を不断に高めたいという関係者の思惑があったことは、明確であると思われる。たとえば1960年代末から70年代前半にかけての時代には、 NPT署名・批准問題をめぐって、日本の国内で反米ナショナリズムが噴出した。NPT条約が核兵器保有国に一方的に有利な不平等条約であり、それにより日本は核武装へのフリーハンドが失われるばかりでなく、原子力民事利用にも重大な制約が課せられる危険性があるという反対論が、大きな影響力を獲得したのである。とくに自由民主党内の一部には、核兵器へのフリーハンドを奪われることに反発を示す意見が少なくなかったという。こうした反対論噴出のおかげで日本のNPT署名は70年2月、国会での批准はじつに6年後の76年6月にずれ込んだのである。(吉岡前掲書p175)

さて、原子力予算が初めて付けられた1954年頃は、どうだったのであろうか。本ブログでも述べたが、1954年に初めて原子力予算をつけたのは、当時の与党である自由党の吉田内閣ではない。当時、重光葵が総裁をつとめていた改進党の中曽根康弘らであった。当時、アメリカは日本に対して、MSA(相互安全保障)援助により、経済的・軍事的に日本にてこ入れを行い、アジア地域における米軍配備を一部肩代わりすることを望んでいた。吉田内閣は、漸進的に自衛力を増強することにして、MSAもその意味で受け入れることを方針としていた。一方改進党や、自由党から分かれた鳩山一郎を中心とする鳩山一郎は、MSA援助を受け入れることにより積極的であり、最新鋭兵器を導入して本格的再軍備を行うことを期待していた。ちなみに、日本社会党は当時右派と左派に分かれていたが、どちらも再軍備反対であった。

こういう情勢において、アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォア・ピース」演説(1953年)を受けて、中曽根らが「原子力の平和利用」を主張したことに、吉岡氏は奇異の念を抱いている。

 

もっとも当時、民族主義的な核武装論者とみられていた中曽根が、アメリカの核物質・核技術の移転解禁のニュースを聞いて、ただちにアメリカからの核物質・核技術の導入を決断したというのは、常識的にはややわかりにくいストーリーである。なぜならアメリカ依存の核開発をとることによって、日本の自主的な核武装がかえって困難となる可能性もあったからである。真の核武装論者ならば、開発初期における多大な困難を承知のうえで自主開発をめざすほうが筋が通っている。当時の中曽根の真意がどこにあったかは不明である。(吉岡前掲書p73)

もちろん、中曽根は、当時も今も、この疑問には答えてくれていない。ただ、中曽根の同僚である小山倉之助代議士(宮城二区選出)が、1954年3月4日の衆議院本会議で、原子力予算を含む改進党による予算案組み替えに賛成する演説を行っている。次をみてほしい。

第四は国防計画についてでありますが、政府は、日本の経済力に順応して漸増すると言うばかりであつて、依然消極的態度に出ております。従つて、保安隊は自衛隊と改名いたしましても、依然として日陰者の存在であるということは免れません。国民は自衛隊に対する愛敬の念薄く、かつまた彼らに栄誉を与える態度に出ておりません。従つて、彼らは国民の信頼を受けているということを意識しないのであります。信頼なき、栄誉なき存在は公の存在とはならぬのでありまして、彼らがその責任を自覚せず、従つて、士気の上らないことは当然であると言わなければなりません。ゆえに、国民は、保安隊を腐敗堕落の温床であるかのごとく、むしろその増強に対して恐怖の念を抱く者さえあることを認めなければなりません。国会においてもしばしば論議の中心となつたのであります。
 しかるに、米国は、日本の国防の前線ともいうべき朝鮮からは二箇師団の撤退を断行し、大統領のメツセージにおいては、友邦に対して新兵器の使用法を教える必要があると声明しておるのであります。私、寡聞にして、いまだ新兵器の発達の全貌を知る由もありませんが、近代兵器の発達はまつたく目まぐるしいものでありまして、これが使用には相当進んだ知識が必要であると思います。現在の日本の学問の程度でこれを理解することは容易なことではなく、青少年時代より科学教育が必要であつて、日本の教育に対する画期的変革を余儀なくさせるのではないかと思うのであります。この新兵器の使用にあたつては、りつぱな訓練を積まなくてはならぬと信ずるのでありますが、政府の態度はこの点においてもはなはだ明白を欠いておるのは、まことに遺憾とするところであります。また、MSAの援助に対して、米国の旧式な兵器を貸与されることを避けるがためにも、新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります。私は、現在の兵器でさえも日本が学ばなければならぬ多くの点があると信じます。
 元来、軍需工業は、科学並びに化学の粋を集めたものでありまして、平和産業に利用する部分も相当あると存じます。第二次世界大戦では、日本の軍人は世界の科学の進歩の程度に盲目であつて、日本人同士が他の日本人よりすぐれておるというばかりで優越感を覚え、驕慢にして他に学ぶの謙虚な精神の欠乏から大敗を招いたことは、われわれの親しく経験したところであります。MSA援助の中にも大いに学ぶところがあり、学ばなければならぬと思います。これはわが国再興の要諦であると信じます。
 わが党は、原子炉製造のために原子力関係の基礎調査研究費として二億三千五百万円、ウラニウム、チタニウム、ゲルマニウムの探鉱費、製錬費として千五百万円を要求し、三派のいれるところとなつたのでありますが、米国の期待する原子力の平和的使用を目ざして、その熱心に推進しておる方針に従つて世界の四十箇国が加盟しておるのでありまして、これは第三次産業革命に備えんとするものでありまするから、この現状にかんがみ、これまで無関係であつた日本として、将来原子力発電に参加する意図をもつて、優秀な若い学者を動員して研究調査せしめ、国家の大計を立てんとする趣旨に出たものであります。(拍手)(国会会議録検索システム)

引用した部分の前半部では、小山は、吉田内閣の打ち出した漸進的な防衛力増強方針を批判し、このままでは自衛隊は日陰者になってしまうとした。さらに、小山は、米軍は朝鮮半島から部隊を一部撤収することを宣言し、その代替として、友邦の国に米軍の新兵器の使用法を教えるとしていると述べた。MSAは、米軍のプレゼンスを日本その他で代替するためのものとして、小山は理解していたのである。しかし、米軍の新兵器はかなりすすんだもので、教育・訓練がされないと導入できないと小山はいっている。小山によれば、そのために、米軍のより旧式な兵器が押し付けられてしまうのではないかとしている。それをさけるためにも「新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります。」と小山は述べているのである。

この発言は重要である。小山は、MSAによって、アメリカは順次新兵器を供与するとしている。その中には、原子兵器も含まれているのである。しかし、そのためには、原子兵器を含む新兵器について「教育」されてなくてはいけないと小山は主張しているのである。

この後、小山は、軍事技術の平和転用を主張し、その前提で原子力の平和利用の必要性を主張している。この点は、アイゼンハワーの「アトムズ・フォア・ピース」演説の精神に即しているといえるだろう。しかし、他方で、すでに述べてきたように、MSA援助で順次核兵器も供与されると小山は考えーアメリカがこの段階で日本に核兵器を供与するとは思い難いのだがー、そのための「教育」として「原子力の平和利用」があったと考えられないのであろうか。その意味で、当時の中曽根康弘らの改進党の原子力政策はそれなりに首尾一貫していたといえるのである。そのように仮説的に考えられるのである。

もちろん、この方針がそのまま通ったわけではない。前述したように、アメリカが日本に核兵器を供与するとは思いがたい。また、国会でも社会党は左右とも再軍備反対であり、この時期、実際の原子力開発の主体として考えられていた日本学術会議の科学者たちも、原子力技術の軍事転用を忌避していた。その中で、ある意味曲折しながら、日本の原子力開発は開始されたといえよう。

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