前回のブログで、現在の大飯原発再稼働問題において、客観的な意味における「安全」と、「信頼」という問題に変換される言葉だけの「安全」との間にギャップが生じていることを述べた。このことは、日本において最初に原発が立地された東海村において、すでに生じていたのである。
1956年、東海村に日本原子力研究所が設置され、さらに日本最初の商用炉が立地され、東海発電所として建設されていくが、その際、放射能汚染のリスクが重要であったことは、すでにこのブログで述べた。原子炉ー原発は、住宅・工場・農耕地・森林などの相関関係で立地が計画されていた。そして、放射能汚染水は、化学処理し希釈された後に、海に放流されることになっていた。それゆえに、東京から比較的遠い東海村が候補地の一つとして浮上してきたのである。
このことは、すでに報道されてもいた。1956年1月20日の『いはらき』新聞(現在の茨城新聞)は、動力用実験炉の建設候補地として、茨城県水戸市郊外の米空軍爆撃演習場(なお、実際に建設されたのはその北側に隣接した地域)と神奈川県武山旧海兵団跡の二つが浮上したことを報道した。その際、「また動力試験炉を置く研究所としては将来各電力会社や電源開発公社との協力による原子力発電の試験を行うことになり、また放射能による汚染の問題ともからんで水を豊富に使える海岸地帯が有利とされるところから、水戸市郊外と武山が選ばれたものとみられる」(なお、『いはらき』新聞の引用は『東海村史』通史編から行う)と、放射能汚染問題が候補地選定の要因であったことも伝えている。その意味で、原発について必ずしも「安全」というイメージはなかったと思われる。
2月1日には、日本原子力研究所の土地選定委員会が東海村の視察を行い、翌2日の『いはらき』新聞にその景況が報道されていた。そして、あわせて、地元自治体の首長たちの発言も伝えられた。その部分をここで紹介しておきたい。
《友末知事談》 三十日に川崎東海村長、宮原那珂湊市長、大和田勝田市助役のみなさんに集まってもらい、調査団の来県について打合せを行った。地元としては基本的態度としては誘致に賛成の意向のようである。県としても原子力の平和利用の一助としてまた商工業発展のために県下に原子力研究所の建つことは大いに結構なことだと思う。県会の方へはまだ正式に計ってはいない。
《宮原那珂湊市長談》 正式に話合ったことはないが、地元としては賛成の意向が強いようだ。ただ考えられる放射能の汚染などの点に対して漁民がどの程度難色を示すかが問題だが、漁民たちの表面的な意思表示はまだあらわれていない。
《大和田勝田市助役談》 この話が新聞紙上に報道されたので二十五日の市議会が済んだあと、全員に非公式に図ってみたところ大部分が研究させてくれということなのでまだ市としての態度は決定していない。とにかくここに研究所が建設されるかどうかは疑問なので、それが正式に決まってから、誘致策なり何なりを積極的に進めて行きたいと思っている。
《川崎東海村長談》 私個人としては村の発展のためにたいへん結構なことと思い、三十日に友末知事と今度の視察について打合せた時もその旨話合った。村議会が改選したばかりなのでまだ正式には図っていない。
県知事は「商工業の発展」をうたい、東海村長も「村の発展」を旗印にして、原研誘致ーつまりは原発誘致に積極的であったことがうかがえる。他方、隣接する那珂湊市、勝田市はトーンダウンした対応をとっていたといえる。特に那珂湊市には那珂湊漁港があり、漁民たちが放射能汚染を懸念するのではないかという観測が述べられていた。誰からみても「原発は安全」とは言いがたかったのである。
2月6日には、県が地元関係市町村長や県下各界の代表を集めて原子力研究施設誘致懇談会を開催し、その席上で原子力研究施設誘致期成同盟会が結成された。しかし、「出席者の殆どが原子力施設についての知識がないため、つっこんだ発言もなく、久保三郎氏から『研究所の排水によって沿岸漁業に悪影響はないか』との質問が出た程度で了り」(『いばらき』新聞1956年2月7日号)と、ここでも放射能汚染による沿岸漁業への影響が懸念されているのである。
翌2月7日、東海村議会代表が原子力研究所を訪問した。そこで説明を受け、村をあげて誘致することになった。『いはらき』新聞1956年2月9日号において、次のように報道されている。
《川崎東海村長談》七日議会代表が原子力研究所を訪問、村上次官から今回設置を予定される原子力研究所の内容、被害の有無その他詳細な説明を聴取した結果、被害の心配は全然なく、しかも原子力の研究は既に世界の大勢で日本としては国を挙げてこれが研究を推進しなければ世界の原子力界から取り残されるということを聞いて大いに力を得、八日直ちに村議会を召集して以上のことがらを報告、なお県の高橋商工部長さんも議会に臨まれ説明されたので議員一同も了解し、満場一致、誘致の態度を決定したわけです。この結果議員、部落長、農委、教委、関係部落愛林組合長、農協組合長、青年会、婦人会各会長、木村晴嵐荘長、加納医務課長等約百名を以て原子力研究所誘致対策委員会を設置、引続き各住民にも内容を説明、協力を得て、全村一丸となって、誘致運動と今後の対策を推進することになりました。
直接説明を受けることで、議員らは「被害の心配は全然なく」ということを納得してしまうのである。そして、全村一丸となった誘致体制が東海村の中で形成されるのである。
原子力研究所関係者がどのような説明をしていたかはわからない。同日付の『いはらき』新聞では、研究炉を扱う原研関係だけで2000人の人が必要となり、動力炉を設置するならばもっと人手が必要になってくる、「東洋の原子力センターとして日本の名物になることも夢ではない」などと報道しているので、これに類したことを説明されたのではないかと思う。
他方で、放射能の汚染については、どうであっただろうか。このブログで、以前、原子力担当大臣であった正力松太郎が、1956年4月24日の参議院商工委員会において、次のように述べたことを紹介した。ここでも再掲しておく。
これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。
結局、原発の廃棄物を海に流すことは、大臣自体が認めているのである。今からみれば「安全」とはいえないだろう。ここまで、あけすけに東海村関係者に説明したとは思えず、包括的に安全であると説明したと考えられる。そして、このことも含めて、東海村では「了承」し、村全体で誘致活動を行うことになった。
結局、4月6日の閣議で、日本原子力研究所は、研究炉・動力試験炉ともどもすべて東海村に立地することになった。そのことは『いはらき』新聞4月9日号で報道されている。その紙面で、東海村議長の談話が紹介されている。東海村が原発立地に望むことを素朴に表現しているといえよう。
《東海村塙議長談》 幸いに地元には反対がなく挙村一致で事業を進められるので、この点大いに意を強くしている。愈本村に研究所が設置と決まり、人口も倍増することであろうし、地元としても受入れ体制に万全を期さなければならない。そんな関係で今まで役場職員の人員縮小も考えていたのであるが、今度は逆に増員して専任の係員を配置し、受入れ、建設事務に支障なきを期すことになろう。
東海村のような電力大消費地である大都市から離れたところに原発が立地したのは、汚染水などの放射性物質によるリスクが多くの住民にふりかかることを想定したからにほかならない。そのことは、汚染水を外海に流すという形で、新聞報道においても大臣答弁においても触れられていて隠すことはできなかったし、地元側でも懸念する声があった。そのような客観的にみた意味での「安全」への懸念を払拭し、「信頼」という形で「言葉だけの安全」を得るためには、説明会という形をとらざるを得なかったといえよう。
しかし、このことには、もう一枚の裏があるだろう。人口倍増、村の発展、県下商工業の振興などの「リターン」がなければ、よりリスクへの不安が強まったのではないかと考えれる。例えば、宇治の研究炉建設計画においては、設置する側の大学がいくら安全対策を説明しても、不信感は払拭できなかった。大都市近郊の宇治においては、新たな「リターン」を切実に欲しておらず、むしろ、原子炉は既存の生活を脅かすものとして認識されていたと考えられる。「リターン」を得るためには、政府などの「リスク」対策を「信仰」しなくてならなかたのである。
もちろん、公選の首長や議員たちにとって、住民の「安全」をあからさまに無視した形で「リターン」を得るわけにはいかない。自分たちもまた、この地に住んでいるのだ。「安全」を政府から「担保」してもらうことは、最低限必要なことであった。それは、東海村の時もそうであったし、大飯原発についてもそうなのである。
しかし、多くの住民に放射能のリスクを与えるわけにはいかないがために過疎地に建設された原発が、真に、立地自治体が求める「リターン」をあたい得るのだろうか。このことはまた、別にみていかなくてはならない。
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