さて、前回紹介した資料は、雑司が谷地域でお会式を支えた講社の実態を伝えている。まず、戸張(政)によると、御嶽中島講は40軒程度の家で組織され、その代表の12-13人で、造花づくりなどの準備を清立院で行ったと述べている。
一方、戸張(政)より約15歳年長の吉田は、講中の各家では年番をつとめることになっており、準備はその家でも行ったといっている。さらに、吉田は、雑司が谷では、御嶽中島・南古木田・清土・六家町・上り屋敷・原・水久保という講社があり、それら(吉田は六つとしているが、あげられた講社は七つ)がまとまって妙法結社を組織していたとしている。そして、妙法結社内の各講社にも年番があり、それにあたると、下総中山の鬼子母神(法華経寺)、安房の誕生寺、鎌倉の竜口寺、身延山などに参詣に行ったと述べ、中山では、酒食の接待を受けたことを回想している。
一方、妙法結社では、お会式の際、法明寺門前にのぼりをあげるとしている。妙法結社全体の世話人は、後藤権二郎と安井銀太郎がしていたとしている。そして、妙法結社では、堀之内妙法寺と池上本門寺に万燈を奉納しに参詣したと吉田はのべている。いわば、大山講や伊勢講などと同様な代参講の形式をとっているといえるが、戸張(政)は知らないとしている。これは、雑司が谷の例であるが、この当時、地域外からくる講社も同様の形態ではないかと思われる。つまりは、参詣を中心とした講が、お会式を担ったと考えられるのである。
この講社名であるが、「新編武蔵国風土記稿」にある、雑司ヶ谷村の「小名」には、「古木多」「原」「水久保」「中島」「清土」とあり、五つが近世の小字名に由来することがわかる。なお、上り屋敷は、1916年の一万分の一地形図に山手線西方の地名としてでているので、これも小字名である。六家町は、たぶん四家町の誤記であろう。そうなると、目白通り沿いの高田四家町が該当することになる。つまり、この講社名は、雑司が谷地域の地名に由来しているのである。
さて、この講社名を前述の地図でみてみると、中島御嶽は雑司が谷霊園の南側の現雑司が谷1丁目を中心とした地域である。古木田は、その南側の現雑司が谷二丁目となる。清土は、地形図には出ていないが、この地名は鬼子母神出現の地であるから、現雑司が谷一丁目に隣接する文京区目白台2丁目で不忍通り沿いとなる。六家町が四家町ならば、目白通り沿いの雑司が谷2丁目・高田2丁目ということになる。上り屋敷は、山手線の西側の現西池袋2丁目で、上り屋敷公園が所在している。水久保は、雑司が谷霊園の北側で、現在では南池袋4丁目・東池袋4・5丁目あたりである。原については、よくわからないが、法明寺の北側に「中原」「東原」という地名があるので、その周辺ではないかとおもわれる。そうなると、南池袋2・3丁目ということになる。大体、雑司が谷鬼子母神・法明寺を囲んだ形で雑司が谷の講社は所在していたといえる。
吉田は、雑司が谷では10月1日に寄合があり、その時は、鬼子母神境内の茶屋から接待があったことを回想している。雑司が谷境内は、いわば接待側であったのである。講社名で、鬼子母神や法明寺の地元はみられないことと照応しているといえる。今日では、そのものずばりの地元の「大門宮元講」があるが、この時期は、参詣する各地域の講社をもっぱら接待していたといえるのである。
内田の回想によると、奉公人でもお会式の準備過程から参加できたようである。そのことも、この座談会では確認できる。
こうしてみてみると、戦前期のお会式を担った講社の実態がここにでていると思われる。雑司が谷では、各講社は地縁的な団体で、奉公人も参加できたが、本来の形は代参講の形態をとっていたと思われる。各講に年番がいた。そして、これら講社を統括する存在として妙法結社が存在し、雑司が谷お会式だけなく、池上本門寺や堀之内妙法寺のお会式にも万灯奉納を行っていたのである。一方、鬼子母神境内を中心とした地域は、お会式の接待側にまわっていたのである。
雑司ヶ谷鬼子母神お会式ー戦前の講社御嶽中島講(4)
2011年1月13日 投稿者: Hisato Nakajima
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