近代都市において、「講社」とはどのように存在していたのか。単に、雑司ヶ谷鬼子母神お会式のことだけでなく、日本の近代都市における民衆の結合形態全体を検討するためにも分析されなくてはならない課題である。
一般的に「講」とは、庚申講・大山講・伊勢講・念仏講・題目講・頼母子講など、農村部の民衆結合を中心に検討されてきた。そして、都市化につれて消滅していく民俗事象として理解されてきた。しかし、今日の雑司ヶ谷お会式の隆盛をささえているのは、東京という巨大都市の一部である雑司ヶ谷地域の「講社」に他ならない。これは、雑司ヶ谷お会式にとどまらない。都市部の寺院・神社をみていると、かなり多く「講」による石造物や灯篭などが存在しており、「講」によって維持されている部分が多いように思われる。このような都市部の「講」については、民俗学にせよ歴史学にせよまだ十分検討されていないといえる。
雑司が谷お会式の機関紙である「お会式新聞」は、お会式を検討し、さらに近現代の講社の実態を分析するためのよい資料といえる。もちろん、戦後が中心であり、後々は戦後について検討する予定である。ただ、この前から続けているように、まずは、「お会式新聞」から、大正期―昭和戦前期のお会式とそれをささえた講社に実態についてみてみよう。
ここで、集中的にとりあげるのは、大正期に存在した「御嶽中島講」である。この講社は、戦前において、雑司ヶ谷地域における有力な講社であった。しかし、戦後は中絶し、1982年に「三嶽中島講」として復活し、戦後のお会式の主催団体であるお会式連合会に参加した。「お会式新聞」第12号(1982年10月15日)には三嶽中島講の「連合会入会に際して」という一文が掲載されている。そこでは、まず「今年度より雑司が谷一丁目三嶽中島として連合会に入会させて頂きます。」と宣言している。そして、「戦前我々の町、一丁目には古くから御嶽中島講という講社があって毎年鬼子母神の御会式に万燈を出し御嶽の大太鼓といって有名だったそうです」と説明している。
その上で、なぜ「三嶽中島講」に改名したのかについては、(1)一丁目町会・第一町会・亀原自治会と三町会があり、この三町会の有志が心を一つにして計画したこと、(2)老中若の三世代の人々が心をあわせて実行することになったことという、二つの理由をあげている。
「三嶽中島講」となった由来はわかるのだが、もともとの「御嶽中島講」となった由来は何か。『角川日本地名大辞典』によると、雑司ヶ谷村の小字名に「中島御嶽」がある。このように、元来は小字名に由来している。ただ、『地誌御調書上』(1825-1829年成立)では、雑司ヶ谷町の字「御嶽」とされ、『新編武蔵国風土記稿』(1828年完成)では、雑司ヶ谷村の小字「中島」とされている。「御嶽」と「中島」が同一の地をさしているかいなかはわからないが、いずれにせよ、後代には「中島御嶽」となっているので、同一でなくても、近接していたといえる。「中島」の由来はわからないが、「御嶽」については、鬼子母神以前の雑司ヶ谷村の鎮守といわれる「御嶽社」に由来している。この「御嶽社」の別当寺が清立院であり、清立院は現存している。この清立院も日蓮宗寺院である。たぶん、御嶽社―清立院の門前の地域が御嶽中島の範囲と考えられるのである。このように、戦前の「御嶽中島講」は、雑司ヶ谷村の一小字によって組織されていたのである。
なお、参考のために地図をだしておく。「水仙寺」とされているところが清立院である。
参考文献:『豊島区史』資料編第三巻
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