「おえしき新聞」15号(1985年10月15日)には、塩谷喜代枝の「子供の頃の思い出」がのせられている。彼女は当時70歳で、雑司ヶ谷二丁目に居住していた。鬼子母神表参道が中心のホームサービス会からお会式に出ているというので、表参道に近いところに居住していたと思われる。彼女が子供の頃といえば、大体1925年頃で、大正から昭和に移り変わる頃といえる。この回想で、彼女は、次のように述べている。
忘れてはならないのは鬼子母神様の左側に日蓮上人のごくろうされた人形が人の大きさでかざられていました。又、法明寺の中にも同じような人形がかざってありその人形も戦争でやけてしまったのでしょう。
この回想から、戦前の鬼子母神お会式では、まだ人形陳列が行われていたことがわかる。もはや、万燈行列がお会式の中心をしめるようになっていたが、法明寺が戦災にあうまでは、人形陳列もなされていたのだ。目立たない形であるが、雑司ヶ谷お会式の近世以来の伝統が生き残っていたといえよう。
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