私の家は代々境内で茶店をやっていたものですから、万灯の講社の人々に団子や芋団楽でもてなすのが商売だった訳です。各茶店では受けもつ講中の人々の為に杭をうって、それに万灯をいわきつけて叩いてもらったものです。
大正の初め頃の盛んだった時に、私の店で受けもった万灯の講社は十八にもなりました。店も境内も人で溢れ、勿論店の中も座る場所もないほどの混みようで、焼いた団子も講中の人達にだすだけで、一般の人には、全然品切れでまわらないと言った具合でした。
毎年きまって万灯の行列の一番最後は本郷三丁目にあった本郷座の役者連中や下方の万灯で、大体来るのが十二時すぎになるので、店が終わるは二時三時で、十五日以降は、いつも床をひいてねた事はなく、今から思うと当時は只、ねむいのと疲れで欲も得もなかった言う思い出があります。
境内の茶店で、外から参詣する講社の世話のため、寝る暇もなかったというのである。これは、境内の茶店に限られなかったようである。新倉留吉(目白在住、当時83歳)と椎名雅夫(雑司ヶ谷在住、当時64歳)は次のように回想している。
(新倉)警備の警察官も、巣鴨、大塚、目白署から三百人と在郷軍人会が動員されて警備にあたり、地元の人は商売どころではなく、人の世話やきに忙殺されたと言う始末でした。
(椎名)ですから親戚や知り合いが大変、お会式に関心をもっていて、私の家に四十人もの人が集ってしまって町の仕事どころではなく、まして地元で万灯をだせる状態では到底ありませんでした。せめて迎え太鼓を叩く程度でしたね。
このように、雑司ヶ谷の地元の人々は外部からくる人々の応接に没頭しており、到底万灯をもって参加する状態でなかったと指摘されているのである。現代においての中心的講社は、雑司ヶ谷・高田・目白・南池袋などの地元の講社である。その点、現代と大正期の大きな違いといえる。むしろ、雑司ヶ谷の地元の人々は、外から来る参詣者の接待に従事していたといえるであろう。
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