前回は、第五福竜丸事件における「死の灰」の恐怖について述べた。ここでは、「死の灰」-放射性降下物で汚染されたとみなされた「水爆マグロ」についてみてみよう。この「水爆マグロ」は、築地他、全国の市場に混乱を招き、全く関係のない魚類も忌避され、それこそ大きな風評被害をうんだ。
これは、また、第五福竜丸事件をスクープした、1954年3月16日の読売新聞にもどってみなくてはならない。その日の朝刊のスクープ記事では、焼津港に「死の灰」が付着した第五福竜丸が放置されていること、また船員の多くが「死の灰」をつけたまま、焼津市内を自由に往来していることが報道されたが、第五福竜丸が漁獲したマグロ・サメなどについては報道されていなかった。ところが、同日の夕刊では、驚くべき報道がなされた。
出荷の魚販売中止―静岡分はすでに食卓へ
[焼津発]第五福竜丸が焼津港に水揚げしたマグロは二千五百貫で十五日ひる四十六貫五百匁が大阪市内大水会社へ、約五十貫が四日市魚市場へ出荷されたほか名古屋、京都、東京方面を中心に静岡市内東海道沿線にそれぞれ少量ずつ出荷されている。
被曝当時マグロは福竜丸の魚ソウ(槽)に氷や紙などで、五重に密閉されてあったので焼津漁協組では大丈夫だとみているが、万一マグロが放射能を含んでいる場合を恐れ同漁組はじめ各団体は十六日朝あわてて出荷先に連絡、県外出荷分は販売中止に成功したもよう。しかし県内向けは十四日に出荷し、ほとんど売りつくされ各家庭でもすでに多く食べ終わっているとみられる。
このように、第五福竜丸で漁獲したマグロ類が、各地に販売されたというのである。県外分は、差し止められたが、県内分は食べてしまったとのことであった。
この水爆マグロは、各地の水産物市場に大混乱をまきおこした。『東京築地魚市場仲買協同組合月報』第6号(1954年4月13日 『原水爆禁止運動資料集』第一巻所収)の「原爆被災漁の記録」によると、築地市場に焼津からマグロ・サメ類が16日の午前2時半届いたが、東京都衛生局市場分室の当直が現場に急行して、手をふれないように指示し、10時より専門家がガイガー・カウンターで検査した結果、マグロ・サメともに高濃度の汚染が認められたので、市場内野球場のネット裏に深夜穴をほりマグロ・サメを埋めたということである。
しかし、これだけではすまなかった。読売新聞3月17日夕刊では「運搬人のズボンに放射能 築地市場」と報じられ、3月18日朝刊では、「放射能マグロ 到着の各地で続々検出」と伝えられた。
さらに、この朝刊では、「また放射能漁船入港 三崎の俊洋丸 ビキニの海水付着か」と報じられた。被曝したのは第五福竜丸だけではなかったのである。あまり知られていないことだが、この当時、ビキニ海域では850隻あまりの漁船が被曝し、結果的には460トン近くの汚染漁が見つかったのである。
『東京築地魚市場仲買協同組合月報』によると、「ここに市場に放射能が充満してゐるが如き消費者の誤った恐怖が拡大して行ったのである」と述べている。具体的には、16日の報道により「驚愕した国民が一斉に魚の購入を差し控へたのは人情として当然であり俄然十七日の市況は暴落して市場入場者(買出人)は平日の七割減で半数以下、仲買店舗は閑古鳥の鳴く様な始末となり、就中大物類(マグロ類のことと思われる)とさめ製品としての練製品については全く売上のない有様で、新聞ラジオは次々と情勢の報道を続け市場は十八日、十九日に至るも依然たる停滞を続けこの状況は何時まで続くのか見透も出来ない混乱となった。」としている。
築地魚市場では、記者会見をしたり、ポスターを配布したりしたが、全然効果がなく、19日には、先の大物のセリが中止された。この購入差し控えは、被曝したとされるマグロ・サメ以外の魚種にもおよび、3月21日には横浜市場が臨時休止となっている。
まさしく、「死の灰」の恐怖が、放射能汚染にあった魚だけではなく、すべての魚類に及んだことがわかるだろう。まさしく、「風評」被害そのものである。見てもわからない、もしくは不可視の「死の灰」は、魚を購入したり摂取したりする時にはわからず、事後になって放射能被害を及ぼす。ある意味では、消費者の合理的判断ではさけようがない。そのことによって、「死の灰」に関連するすべてのことをさけようとする。逆にいえば、「死の灰」を連想させるすべてのものが、恐怖の対象となるのである。
ただ、このような書き方では、一面的に理解されてしまうであろう。「死の灰」をかぶった「水爆マグロ」への恐怖、これは、当時、マグロを食べていた消費者としての国民一人一人が共有した恐怖であった。この恐怖への対抗が、原水爆禁止運動であった。そして、まさに、国民一人一人が共有していた恐怖に基づいていたからこそ、「国民運動」であったのである。
この運動を詳細に述べるためには、より多くの紙面が必要であろう。ただ、前述してきたように、アメリカすらも世界戦略遂行のためには対応を考慮しなくてはならないような運動であった。その意味で、原水爆禁止運動の意義は大きい。
翻って、現状を考えてみよう。今、放射能汚染があるとされる人・物を忌避する風評被害と、原子力発電に反対する運動が平行してみられている。しかし、この二つは、放射能への「恐怖」という意味では同じところに根差しているといえる。それは、1954年の、魚への「風評被害」と原水爆禁止運動との関係と同一の位相にあるとはいえないか。ある意味で、既視感(既視感はこれだけではないのだが)に襲われるのである。
コメントを残す