さて、もう少し中曽根康弘の回顧録(『政治と人生―中曽根康弘回顧録』 1992年)をみておこう。もちろん、本書の見解は中曽根個人の立場からくる認識でしかないが、その後首相にまでなった中曽根が、どのように原子力開発に関わったのかを、彼自身が正当化する範囲で当事者として述べている点では、有益なものであろう。
“原子力予算”の成立をうけて、政府は、1954年5月に原子力利用準備調査会を発足させ、経済審議庁が事務局を担当することになった。この調査会は、緒方竹虎副総理が会長になり、経済審議庁長官・大蔵大臣・文部大臣や、石川一郎経団連会長、茅誠司日本学術会議議長らが会員となった。また、通産省でも学識経験者による原子力予算打合会が設置された。
他方、詳しくは後述するが、いわば「札束でほっぺたを打」たれた日本学術会議は、いろいろ異論はあったが、1954年10月の総会で、「原子力の研究、開発、利用は平和目的に限定し、その成果はすべて国民に公開し、あくまで民主的な運営のもとに自主的に行う」という決議を行い、政府に申し入れた。いわば、このような条件で、原子力の研究・開発・利用を認めたといえる。
しかしながら、原子力利用準備調査会にせよ原子力予算打合会にせよ、政府部内では原子力の技術的なことは承知していなかった。そこで、1954年暮れに海外調査団を派遣、1955年5月には、天然ウラン重水型多目的原子炉の建設を第一次目標とするなどとした報告書が提出された。
そして、1955年8月にジュネーブで開かれた国連による原子力平和利用国際会議に、日本政府は代表団を派遣した。その時、中曽根康弘(民主党)・前田正男(自由党)・志村茂治(左派社会党)・松前重義(右派社会党)の四人の国会議員が顧問として出席した。中曽根は、「修正予算を急遽成立させていなければ、この代表団の派遣もなかったことだろう。政治は責任を持って、行なうべきことは行なう時期にやらなければならないと痛感していた」と述べている。
中曽根によると、議員たちはジュネーブ国際会議に出席するだけでなく、イギリス・フランス・アメリカ・カナダに赴き、原子力研究開発の行政体系・研究所・基本原則を調査したという。その景況につき、中曽根は「昼間の調査が終わると、毎晩、ホテルの一室に集まり、ランニングシャツにステテコ姿でベットの縁に座り、激しく討論を交わした。そこで原子力研究開発を含む日本の科学技術政策の立案、科学技術主管官庁の設立などについての意見をまとめていったのである。自分で言うのもおかしいが、『こんなに真面目な議員団は初めてだ』と各地の日本大使館で敬意を表された」と述べている。ここでは、中曽根が、社会党(右派・左派を含めて)などと超党派で科学技術政策を議論していることに注目したい。
ジュネーブから、8月21日に鳩山一郎首相へあてて出した中曽根の書簡の写しが、彼の回顧録の中に掲載されている。当時の中曽根の原子力開発に対する意識が如実に現れているので、よくみてみよう。
中曽根は、「国際政治の軸が文明の競争的共存に移り、原子炉を有するや否や、即ち原子力の発達度合が国際的地位の象徴となって来た事が、今度の会議ではっきりした」と述べている。中曽根にとっては、端的にいえば、原子炉の有無が国際的地位の象徴であったのである。その上で、中曽根は、
日本が国際的地位を回復するには、中立的である、この科学の発達に割り込むのが最も他国を刺激せずして早い道である。然も、アジアには日本以外にこれをやれる国はない。日本が将来原子力国際機関の理事国にでもなれば、国際的地位回復の重要な足掛かりとなる。そのために、地道に一歩一歩、割り込みの努力を堆積しなければならない。今度の会議では有力なチャンスを失った。国策の基本がないからである。
と指摘している。当時の日本は、1952年に講和条約が発効して占領を脱してからまもなく、国連にも加盟できなかった。鳩山政権としては、1956年に日ソ国交回復を前提として国連に加盟していくという地位回復の道を歩んでいったのだが、中曽根は、アジアで最初に原子炉を開発し、そのことによって原子力国際機関に一定の地歩をしめ、国際的地位回復へ進んでいくという道筋を描いたといえる。
もちろん、国際的地位回復のみが原子力開発の目的ではない。中曽根は、次のように主張している。
鳩山内閣は是非、後世歴史に残る所業として原子力の大々的開発のドアを開いて頂きたい。それは各党が超党派的に協力し得る最も易しい、然も最も国民が喜び、人口問題、雇用問題の宿命を解く歴史的政策であるからである。
今の時点からいえば、別の意味で「後世歴史に残る所業」になってしまったのだが、中曽根にとっては、超党派で協力し、国民が喜び、人口・雇用などの社会問題を解決する(具体的にどのように解決するのかわからないのだが)政策が原子力開発だったといえる。
中曽根は、「小生等、四人の各党代表は左の点につき完全に一致し、各党内に於て実現方誓約した。(各党共、有力専門家であるから実現は可能と思う)」とし、全体的には、原子力開発は政争の対象とはせず、超党派的に断行することにし、具体的には(1)アメリカより実験炉二基購入、(2)三年以内に天然ウラン重水炉を完成する(次の国際会議を見越して)、(3)ウランの大々的探鉱の開始、(4)アメリカの技術とインドのトリウムを日本において結びつけ、原子力アジア共同体を推進する、(5)開発機構は当分国家的管理を強め、実用化したら、民間に開放する、(6)これらのために三年間で約200億円の予算を使い、原子力基本法を制定する、このように合意したと述べている。当時、民主党は少数与党であり、超党派ですすめるしかなかったであろうが、後に合同する自由党だけでなく、社会党も取り込んでいたことを注目しておきたい。
この書簡の末尾で、中曽根はこのように言っている。
保守党政府が新鮮な政策を出すといえば、社会保障か原子力推進以外にありません。社会保障は財界方面に問題ができますが、原子力はどこにも反対はありません。ジュネーブ会議の後で、国内の空気は熟している筈です。
従って、総理より(出来得れば軽井沢より)積極的にこの件を取上げる様に内閣に指示されんことを切願致します。
原子力の問題に関する国際的雰囲気と国内のそれがあまり異なるので憂いに耐えず、敢えて申し上げる次第であります。
保守党政府が打ち出す「新鮮な政策」として原子力開発がみえていたのである。彼にとっては、原子力には反対がなく、社会保障よりも実現しやすいと考えていたといえる。
さて、中曽根ら四人は、9月に羽田へ帰国し、日本の原子力開発体制整備が急務である声明を発表した。そして、彼ら四党の合意により、衆参両院議員の超党派の協議体としての原子力合同委員会を組織し、一連の原子力法体系をとりまとめることになった。
ここで、原子力法体系の制定過程をみておこう。中曽根は、次のように言っている。
われわれは政府の手は借りずに、菅田清治郎君ら衆議院の専門委員と西沢哲四郎君をトップとする法制局を活用して、純粋な議員立法の作成に没頭した。各党の委員の中には、社会党の成田知巳、勝間田清一氏らもおり、委員会の討論の結果を各党に持ち帰り、その了承を得て法案を作成していった。このときに、現在の原子力法の主要項目になっている原子力基本法、原子力委員会設置法、核燃料物質開発促進法、原子力研究所法、原子燃料公社法、放射線障害防止法などが策定された。実に、半年以内に八本の原子力法体系と科学技術庁設置法が成立したのである。
議員立法であることを強調しているといえる。特に、社会党の成田知巳・勝間田清一が関与していたことは興味深い。中曽根は、原子力基本法においては、松前重義の意見を尊重して、日本学術会議の決議をとりいれ、「その結果、原子力の研究開発利用は、第一に平和目的に限定すること、第二に民主、自主、公開の三原則を遵守すること、第三にはいかなる国とも国際協力をすること、といった基軸を持たせるに至った」と述べている。中曽根自身は日本学術会議に好感をもっていなかったようだが、社会党の松前の要望で、学術会議の意向に配慮することになったといえる。これらのうち、原子力基本法、原子力委員会設置法、原子力局設置法といわれる原子力三法は、1955年12月14日に成立し、1956年1月1日からスタートした。
中曽根は、原子力法体系の制定をこのように回想している
思えば長い道のりであった。二十年(一九四五年)八月、高松で広島の原爆雲とおぼしきものを望見して以来、科学技術の重要性が体に染みこみ、この原子力研究開発が将来の産業社会や学術研究や国家の実力の測るリトマス試験紙になると予想した。占領下、独立後を通じ、政治家になって営々としてこの問題を心がけてきた成果が、ついに結実したのである。今日、日本の発電の約二十六パーセントは原子力に頼っている。環境保全を考えると、地球の温度上昇に関係のない原発は、ますますその重要性を増していくであろう。利用されればされるほど、その安全管理が重視されなければならなくなる。原子力の健全な発達に大きな責任を感じている。
私は後輩に「議員の使命は、純粋な議員立法にある。三十年(一九五五年)前後にこれをやったのは、全国高速道路網建設の田中角栄君と原子力法体系のわれわれである」とちょっぴり胸を張っている。
今、これを読むと、複雑な感慨に襲われる。いろいろ思い浮かびすぎて、言葉も出ない。もう少し、この時期の全体をみてから、考えてみよう。
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