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安倍政権は、現在、高校における日本史必修化を提唱している。例えば、次の読売新聞のネット報道をみてほしい。

安倍首相、高校の日本史必修化に前向き

 安倍首相の施政方針演説など政府4演説に対する各党代表質問が29日午前、参院本会議でも始まった。

 首相は、高校での日本史の必修化について、「日本人としてのアイデンティティー(自己認識)、歴史、文化に対する教養などを備え、グローバルに活躍できる人材を育成する観点から検討を進める」と述べ、前向きに対応する考えを表明した。

 教育委員会制度の見直しについては、「責任の所在があいまいな現行制度を抜本的に改革していく」と述べ、教育行政に関する首長の権限強化を図る考えを示した。首相直属の教育再生実行会議は昨年、首長が任命する教育長を地方教育行政の責任者と位置づける提言をまとめており、首相は「提言を踏まえ、与党の意見をいただきながら改革していく」と述べた。

 民主党の神本美恵子副代表、自民党の溝手顕正参院議員会長の質問に答えた。

 靖国神社の参拝については、神本氏が政教分離原則に反する可能性があると指摘したのに対し、首相は「私人の立場で行った。供花代を公費から支出しておらず、指摘はあたらない」と反論した。

(2014年1月29日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20140129-OYT8T00696.htm

安倍政権の他の教育への介入と相違して、日本史必修化について、歴史学関係者は微妙な対応を示すかもしれない。一般に日本の歴史学関係者というと、どうしても日本史専攻が多い。プリミティブに考えると、日本史教育の拡充自体については肯定的に受け止める人もいるかもしれない。そしてまた、一般の人も、安倍政権に対する評価とは別に、やはりよいことのように思うかもしれない。

しかし、「日本史」ー「国民の歴史」とは何だろうか。フランスの歴史家ピエール・ノラは、フランスの「国民の歴史」について、このように言っている。

 

無意識のうちに理解される意味において、歴史は、本質的に国民を表現していたし、国民もまた本質的に歴史を通じて表現されていた。このような歴史は、学校という回路を通して、時とともに、われわれの集合的記憶の枠組みや鋳型となっていた。国民の教師として形成された科学的歴史それ自体は、この集合的記憶の伝統に修正を加え、その質を向上させることに本来の意義があった。だが、科学的歴史がどんなに『批判的』であろうとしても、この伝統を深化させるばかりであった。科学的歴史の究極の目的は、まさしく系譜による身元確認にあった。こうした意味において、歴史と記憶は一体を成していた。歴史とは、実証された記憶だったのである。(ノラ「コメモラシオンの時代」 『記憶の場』Ⅲ、2003年、原著1992年)

この「国民の歴史」がもたらすものは何だろうか。ノラは、さらに、このように言っている。

エルネスト・ルナンが定義したような国民の持つ効力がいま再発見されているが、ルナン流の国民は、二つの要素を結び付けることに基づいて定義されたのであって、国民史に代わる国民的記憶の勃興は、この二つの要素が決定的に分離したことをうかがわせる。その二つの要素とは、過去の遺産としての国民と未来の企図としての国民であり、言い換えれば、「ともに偉大なことを成した」という意識と「これからも偉大なことを成そう」とする意識、あるいは、死者に対する崇拝と日々の人民投票([国民の存在は、日々の人民投票である]は、ルナンの用いた隠喩)である。英雄的過去の崇拝と犠牲に同意する精神に基づくルナンの主意主義的国民観は、普仏戦争における国民の敗戦と屈辱の深淵から立ち現れ、対独復讐、植民地の獲得、強力な国家の建設へと突き進んでいった。超国家的な連帯や国家内の地域的な連帯の時代である今日、緊急の課題は、国民の抱きたがる自己像を永続化することではなく、国民に関係し、国民に義務を負わせるさまざまな決定に国民自身が現実に参画することである。こうした時代には、すでに存在せぬものの存在を前提とするような不当な論理でもって、あの主意主義的国民をよみがらせてはならない。(ノラ「コメモラシオンの時代」 『記憶の場』Ⅲ、2003年、原著1992年)

つまりは、19世紀から20世紀にかけて、帝国主義的戦争遂行の前提となった国民国家の形成と「国民の歴史」は不可分なものであったとノラは述べているのである。ノラは、たくみに「ともに偉大なことを成した」という意識が「これからも偉大なことを成そう」とする意識に結び付けられていることを示している。靖国参拝などは非常に分かりやすい例だが、そもそも「国民の歴史」自体がそのようなものであったのである。

これは、フランスだけではない。日本近現代史家の鹿野政直氏は、次のように指摘している。

日本史学は、皇国史観から戦後史学へ大きな転換をしたとの自意識をもってきたが、その転換にもかかわらず貫通する史学としての制度性の確信が、検討の対象となりつつあるともいうことができる。そこにメスを入れない限り、これまで過去認識を統整し支配してきた歴史学は、ありうべき過去認識にとって最大の障壁になるのでは?との危機感、いやむしろ恐怖感が、わたくしたちのなかに蔽いようもなくひろがってきている。(『化生する歴史学』、1998年)

安倍政権の提唱する「日本史」重視に、いかなる形で対処するのか。これは、批判するだけではすまない問題である。ノラは、単一の「国民史」ではなく、フランスの過去についての多様な(たぶん多元的な)「国民的記憶」が勃興していることを強調している。しかし、それは、EC(現在はEU)諸国への同調による「強大国から並の大国へ移行したのだとの認識が決定的に内面化」(ノラ)されたことが前提となっているだろう。「超国家的な連帯や国家内の地域的な連帯の時代である今日、緊急の課題は、国民の抱きたがる自己像を永続化することではなく、国民に関係し、国民に義務を負わせるさまざまな決定に国民自身が現実に参画することである」というノラの課題は、私たちの課題でもあるが、それを克服することは、より困難な問題なのである。

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鹿野政直『「鳥島」は入っているか』

鹿野政直『「鳥島」は入っているか』

前回、『「鳥島」は入っているかー歴史意識の現在と歴史学』(1988年、岩波書店)を題材として、歴史研究者鹿野政直氏が、「核時代」という概念のもとで、どのようにチェルノブイリ事故をみたのかを検討してきた。鹿野氏が「核時代」の著作として三番目にあげるのが、芝田進午の『核時代』Ⅰ・Ⅱ(1987年、青木書店)であった。

芝田の「核時代」について、鹿野氏はこのように説明している。

「1945年8月までは、人類にとっては、“よりよい生存”が課題とみなされていた」のにたいして、「以後は、“生存”そのものの保障・保証、<死>にたいする<生>の保障・保証が、人類の最優先・最緊要・最大の課題になった」とするのである。

芝田の「核時代」にとってのキイ概念は「ヒバクシャ」であった。芝田によると、核による死は、すべての細胞を殺しつくす絶体絶命の死であり、それゆえに、

“ヒバクシャ”は、他方では、同時に、生存のためにたたかわざるをえない人間存在にほかならず、「反原爆におもむく存在」「“核による死”とたたかう存在」、「生存にいたる存在」でもある。

と述べている。

芝田によれば、ヒバクシャは、広島・長崎の原爆投下による直接・間接の被爆者だけでなく、核実験による被爆者、ウランなどの精錬工場の被爆者、原発労働者なども含んでいる。さらに、「潜在的被爆者としての全人類」、「可能的被爆者としての全人類」と、ヒバクシャは「全人類」まで及んでいるのである。鹿野氏は、「こうして、『ヒバクシャ』は、“特殊”な存在ではなく、“普遍”的な存在となる。」と評価している。

しかし、鹿野氏は、「ただしこの本によるかぎり、チェルノブイリに言及なく、著者がそれをどう位置づけるのか、皆目窺えないのは不審である」と疑問を呈していることも忘れてはならない。

鹿野氏は、これらの著作を最終的にこのように位置づけた。

これらの著作には、現在を「核時代」とする歴史意識が、共通して強烈に流れ、それが著作への起発力になっている。そうしてその「核時代」は、すべてを絶滅の淵に立たせているとされ、絶滅か生存かの選択を賭けて、地球と人類、それらを統一したものとしての未来の世代という観念が浮上してきているのをみることができる。

鹿野氏によれば、「核は人類史を成立させつつある、との認識が、そこには示されているともいえるであろう。」とすら言っているのである。

そして、最後に、鹿野氏は、このように述べている。

その点でわたくしは、芝田のいう「ヒバクシャ」の普遍化という命題に同意する。それは、まず、被爆体験に倚りかかる姿勢からの、被爆体験を出発点とする姿勢への転換を促すだろう。「倚りかかる姿勢」は、それを掲げるとき、過去と現在をつうじてのさまざまのものが免責されるという心理を生みやすいが、それにたいして「出発点とする姿勢」は、みずからの内部の点検へと導かずにはいないだろう。それゆえにそれは、つぎに、「被曝国」という自己規定をお題目化して、現在の核政策に目をつぶることを許さない姿勢を造りあげてゆくだろう。そうしてそれは、十五年戦争を惹き起こし核爆発を浴びるにいたった国民としての、世界の未来に向かっての責任のとりかたを提示することにもなるだろう。「戦後」の風化に抗しつつ、つまりその意味で「戦後」への記憶を新たにしつつ、しかも「戦後」のかなたをみとおす立脚点はそこにある、とわたくしは考える。

これは、鹿野氏の将来への希望を表明したものであるといえる。しかし、20数年たった今、この文章を読んでいると、奇妙で居心地の悪い感慨に襲われる。自分も含めて、どれだけの人が、真にこのような言葉に気を留めて行動してきたのであろうか。そして「内部の点検」とは、どれだけの人が実施してきたのであろうか。

そして、これは、全く自己反省を込めてではあるが、なぜ鹿野氏のような見解が一般化されなかったのか、そして、原発の悪い意味での「画期性」が普遍化されてもなお、一般化されていないのかと問わなくてはならないであろう。

そして、このことは、単に原発問題だけにとどまらないのではないかと思っている。

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前回、歴史研究者鹿野政直氏が、1988年に出版した『「鳥島」は入っているかー歴史意識の現在と歴史学』(岩波書店、現在は『鹿野政直思想史論集』第7巻に収録)において、批判的な意味における「戦後」像の消失に直面しつつ、それを擁護しながら、「戦後」を超えるものとして弱者としての「される側」から強者としての「する側」をうつという認識枠組みを打出したことを述べた。そして、この「される側」の大きな主題として「公害」と「戦争」をあげ、この二つの結束点として「核時代」をみようと鹿野氏は提起した。この枠組みの中で、1986年のチェルノブイリ事故は把握されているということができる。

さて、具体的には、鹿野氏は、彼自身があげている「核時代」の著作からは、どのようなことを読み取ったのであろうか。

まず、挙げているのは、広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年、文芸春秋)である。1982年出版であるが、鹿野氏は1986年出版の文春文庫本で読んでいるので、たぶんにチェルノブイリ事件の衝撃によって、本書を手にとったと想像される。本書は、アメリカのネバタ州で行われていた核実験により、ユタ州の住民やロケに来ていた俳優たちが癌に罹患し、死亡していったことを掘り起こしたものである。鹿野氏は、本書について、このように評価した。

そうしてハリウッドの俳優たちや近在の住民のうちに、いかに癌による死亡者がふえたかを調べあげて、死の灰と癌とのおどろくべき関係を明らかにした。広瀬はいう。「死の灰には、発癌性のほかに、二つの特徴がある。ひとつは、長期性であり、もうひとつは濃縮性である」、われわれの身体は、たとえば「プルトニウムを肺か卵巣に濃縮させ」、「癌細胞の爆発的増殖を生み出」す。しかもわれわれは、「自分が当事者となって渦中にある時には、その深刻さに気づかない」。こう指摘しつつこの本は、「苦悶しつつこの世を去った人びとの霊と/現在・未来を通じてこの問題の渦中に置かれているすべての人びとの貴い生命に」捧げている。

今、この引用文を再読していると、これは、現在の問題であったことに気づかされる。これは、今さかんに議論されていることなのだ。それは、単に専門家―いや、今や信頼にたる専門家はどれほどいるのだろうかーの世界で議論されていることではなく、普通に社会で生きている人びとが日常的に恐怖をまじえて話し合ってことなのだ。このことを、すでに20年以上前から、広瀬隆は警告し、鹿野氏は着目していたのである。

前も言ったのだが、鹿野氏は本書の内容を早稲田大学大学院文学研究科で講義し、私個人も大学院生として聴講していた。今、本書を読んでいると、広瀬隆についてこの時期から着目した鹿野氏の炯眼に今更ながら驚嘆するとともに、自らの盲目さに恥じ入りざるをえない。

個人的な感慨を除いて考えてみても、歴史意識の問題として、広瀬隆を取り上げた最も初期の例ではなかろうか。

次に、「核時代」の著作として鹿野氏がとりあげているのが、田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年、技術と人間)である。本書は、直接チェルノブイリ事故の衝撃が、西ドイツ(ベルリン)を襲い、エコロジストと思われる著者が、どのような恐怖と不安にさいなまれ、思索と行動をくりかえしながら、しかしどんな結果しか得られなかったを記した本である。鹿野氏は、まず「放射能の雲が著者の住むベルリンの上空に達したとき、田代は『未来の世代』への責任を、行動の原点として自覚する。すると、いろいろなことがみえてくる」と述べている。

そして、本書から、あまり見解を交えずに、鹿野氏は抜き書きをしている。あまりに、現在の状況と酷似しているので、鹿野氏の抜き書きを、私もそのまま引用しておくことにする。

政治家たちは恐れているのは放射能の害ではなくて、私たち普通の人たちが放射能に恐怖心をもち、原発のような破壊的な科学技術に反対するようになることを恐れているのだ。

五月の雨は子どもを大きくするからと
母はわたしを外で遊ばせた
五月の雨は子どもを病気にするからと
私は娘を外に出さない
果物と野菜は健康だからと
母はわたしにサラダとイチゴをあたえた
果物と野菜は毒だからと
わたしは娘に冷凍食品と缶詰をあたえる

チェルノブイリの雲はいくつも国境を越えてやってきた。不安感に人種や国籍のちがいなどもちろん関係はない。不安と恐怖で結ばれた新しい国際共同体は、伝統的ないわゆる「連帯」と呼ばれるものとはちがう。人類の滅亡のヴィジョンを前にして、私たちひとりびとりの相互類似性、生きようとする裸の人間としての感性を基盤とした共同体が生まれた(中略)。人間の種としての共同体を遠望する日々であったともいえる。

ナチズムの過去をもつドイツで、若者はその時代を生きた親たちに、なぜあなた方は抵抗しなかったのかと問い質した(中略)。チェルノブイリの雲の下でミルクを飲んでいた幼児たち、また母親の胎内にいた者たちが、将来もし放射能による後遺症に苦しめられるとき、かれらは私たちに同じように問い質すことだろう。「私たちの体がこうなるのを防ぐために、あなたたちは何をしてくれたのですか」と。

チェルノブイリの放射能が私たちの日常にある日突然入りこんできたことは、私たちにとっていわば新しい時代の体験であった。私たちが現に生存しているこの世界が、もはや「純潔」ではあり得ないこと、世界は最終的破局を目前にしているのではなくて、すでに破局のただ中にあることがはっきりと示されたのだ。

これらは、2011年7月17日現在の福島や東京で書かれたものではない、ほぼ25年前、しかもチェルノブイリからかなり離れているはずのベルリンで書かれたのだ。しかし、これらの言葉は、全く、今のことを書かれているようにみえる。この既視感は、今私を打ちのめす。

2011年7月17日現在、放射性物質が付着したわらを食べさせた牛が放射能に汚染されたことがさかんに報じられている。もはや、どこにも、「純潔」なところなんてないのだ。

チェルノブイリ事故はさかんに報じられた。しかし、どれほど自分の身に起きるかもしれないことと考えた人がいたであろうか。鹿野氏は、まさに想像力の眼で、本書をみて、今日を予見するかのような文章を抜き書きしたのだ。

さらに、鹿野氏は、田代の思考が「ヒロシマ」にむかっていくことに着目している。以下の抜き書きがそれを示している。

ヒロシマ、それは生命の深部への切りこみであり、仮借のない攻撃であった。ヒロシマに始まった時代の意味、死者たちを含む被爆者たちからのメッセージは、いまになって思えば、ほんの少数の人たちにしか理解されていなかった。

至難のことであろうが、はてしなくシンドイことであるかもしれないが、ヒロシマの体験を共有化することがカギになる。それを避けて通ろうとする限り、私たちはあの強力な生物的本能、つまり「何ごともなかったかのような日常世界への復帰」の欲求から自由になることはできない。

また、多くの文章を費やしてしまった。次回以降、鹿野氏が、最終的にはどのような形で、チェルノブイリの問題を展望したのかということを記しておきたい。

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この前、歴史研究者の会合に出席した際、歴史研究者は同時代の災害や原発事故をどのようにみてきたのかということが話題になった。その時、確か、近代史研究者である鹿野政直氏の『「鳥島」は入っているかー歴史意識の現在と歴史学』(1988年、岩波書店。現在は『鹿野政直思想史論集』第7巻、2008年、岩波書店に所収)に広瀬隆などに言及していたことを思い出した。

帰宅して、『「鳥島」は入っているか』をひもといてみた。本書は、戦後歴史学における歴史認識と、本書の同時代である1970-1980年代の一般社会における歴史認識を対比して論じたものである。本書において、チェルノブイリ事故など契機とした広瀬隆などへの言及があるのは、四章構成の第二章「Ⅱ、『戦後』意識の現在」の第四節「4『戦後』意識のかなたに」である。下記に、第二章の章立てを示しておく。

Ⅱ「戦後」意識の現在
1批判としての「戦後」的日本史像の提示
2自己肯定としての「戦後」的日本史像へ
3「戦後」意識の終焉
4「戦後」意識のかなたに

今回のブログでは、この著作において、1986年におきたチェルノブイリ事故をどのように歴史研究者鹿野政直氏が受け止めたのかという点にしぼって検討してみることにする。もはや、これも歴史であり…いや歴史研究者が参照すべき歴史だと思う。そして、同時代にこの事故を受け止めたのかということは、特に歴史研究者でない人たちにとっても重要なことだと思う。

まず、どのような認識枠組みの上で、鹿野氏がチェルノブイリ事故を受け止めたのかを考えてみよう。この第二章では、第一節で、戦後歴史学が戦前への批判を基調とした戦後的日本史像を提示してきたことを述べた。しかし、高度経済成長以降、例えば司馬遼太郎のような戦後日本を自己肯定するような歴史認識がうまれ(第二節)、戦前への批判を基調とするような戦後像が消滅していった(第三節)と論じた。

このような中で、現実との緊張関係を有する歴史認識が成立する可能性はあるのかーこれが、第四節「4『戦後意識』のかなた」のテーマといえる。

鹿野氏は、まず第四節の冒頭で、このように1970-1980年代の歴史意識を概括した。

1970年代から1980年代をつうじて、こうして日本は“強者”としての自己を確立してゆき、それにともなって日本人は、ガリヴァ―的感覚にしだいに馴らされていった。物神崇拝と国家崇拝の精神は、かなりの程度にまでわたくしたちを浸している。

しかし、鹿野氏は、逆に、強者としての「日本」の対極にあるものもまた顕在化してきたというのである。

けれども日本のこうした“達成”は、その“達成”の対極にあるものを顕在化させずにおかなかった。それまで日本人の基本矛盾の意識は、文明の達成をめざすがゆえの歪み是正の感覚に根ざしていたといってよい。70年代になってからのそれは、文明をひとまず実現したゆえの、あらたな局面の解決をめざす方向で立ちあらわれてきた。少数の“異端”者の場合をのぞいて、ひたすらに価値でありつづけた「近代」が、「反近代」の旗幟によって衝撃的に反価値とされ、そのことをつうじて相対化されていったのは、そうした状況を典型的に示していた。

鹿野氏の場合、文明を問い直そうという姿勢は、ヴェトナム戦争を通じて現れてきたという。文明の残酷さと、文明の論理が万能ではないことを共に示したものがヴェトナム戦争であったとした。そして、本多勝一の『殺される側の論理』(1971年、朝日新聞社)を援用しつつ、日本がまきこまれようとしていた強者つまり「する側」の対極に、弱者としての「される側」を発見したのであった。ここで「される側」という認識枠組みを、鹿野氏は提示したということができる。

「される側」の論理について、鹿野氏は、このように述べている。

それを(ヴェトナム戦争)を契機として日本人は、「される側」という視点を獲得し、70年代をつうじてこの用語は、しだいに日常生活のなかに定着していった。それはいうところの“弱者”への視野の拡大であるとともに、彼らが“弱者”であるゆえに獲得している“強者”=文明をこえる立場の発見を意味した。
そこには、歴史を視る眼というもののひそやかな移動が、たしかにあった。そうしてそのような眼で日本をみるとき、繁栄する像の反面に増大する格差が浮上してきて、いずれがポジでいずれがネガか、また、いずれが実像でいずれが虚像かが、避けがたく問われはじめることにもなった。それは「戦後」ゆえに出現してきて、「戦前」とは異なるという意味での「戦後」の擁護にこだわり抜きつつ、しかも「戦後」を超えようとの志向に支えられていた歴史意識ということができよう。

鹿野氏は、「される側」の造形は、とりわけ「公害」という主題と「戦争」という主題に即して行われたと述べた。「公害」については「高度経済成長という『戦後』の達成ゆえに、その反面として浮上せざるをえなかった主題であり」、「戦争」については「大国化ゆえに忘却のかなたへと押しやられつつある『戦後』の初心を再構築しようと意識されてきた主題であった」と鹿野氏は論じたのである。

これ以降、「公害」の問題について、「戦争」の問題について、この時代の論調を紹介しつつ、思索が深められていくが、ここでは、残念ながら、割愛せざるをえない。

そして、「公害」と「戦争」の問題を論じた上で、鹿野氏は次のように提起した。

…その意味で前者(公害)は、自然的存在としての生命への加害であり、後者(戦争)は、社会的存在としての生命への加害であった…そうした点で両者は別個のものではなく、相互浸透的な関係において捉えられる。そのように「公害」×「戦争」の視野がひらかれるとき、それにもっともふさわしい主題「核時代にどう向かいあうか」、「核時代をどう生きるか」が、否応なく立ちあらわれてくる。しかもその場合、加害行為は加害者自身にも降りかかるうえ、加害の程度は、破壊の域を超えて抹殺にいたる。

このように、「される側」の主要な二つの主題である「公害」と「戦争」を結束点として、鹿野氏は「核時代」をあげているのである。その意味で、最重要な意義を「核時代」に与えているといえよう。

「核時代」について、鹿野氏は、まず最初に、広島・長崎の被爆体験の普遍化と核兵器の廃絶運動をとりあげている。しかし、そればかりではない。鹿野氏は、それに続いて、このように述べた。

けれどもこのような運動のひろがり・多彩化や認識の深まりは、原水爆時代の危機の深刻化の、盾の反面でしかなかった。核保有国ことに米ソ両国における核兵器開発競争は、世界世論の非難を浴びつつも持続し、また原子力は、兵器としてだけでなく、一つのエネルギーとして日常性に深く入りこむにいたった。そうした状況は、いまや人類が、火薬庫の上でも舞踏にもひとしい境域におかれているとの意識を生じさせた。そんな意識にもとづく著作として、わたくしには、広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(文芸春秋、1982年、ここでは86年刊の「文春文庫」本による)、田代ヤネス和温『チェルノブイリの雲の下で』(技術と人間、1987年)、芝田進午『核時代』Ⅰ「思想と展望」、同Ⅱ「文化と芸術」(青木書店、1987年)が印象深かった。

このように、鹿野氏にとって、前述したように「核時代」は、戦後の初心を擁護しつつ戦後をこえようとする「される側」の「公害」と「戦争」という二つの主題を統合するものであった。逆にいえば、「される側」という認識枠組みがあればこそ、チェルノブイリ事故の問題を、歴史学の問題として言語化できたともいえるのではなかろうか。

 やや、長くなってしまったので、次回以降のブログにおいて、鹿野氏が、ここであげた著作から何を読み取り、どのような結論に達したのかをみていきたい。

付記:鹿野政直氏は、大学院時代の恩師である。その上、この本の内容については、大学院時代に授業として講義を受けている。ただ、ここでは懐旧談をするつもりがないので、失礼ながら、敬称を「氏」とした。また、ここで記している内容も、大学院時代の授業の内容ではなく、2011年7月時点においての私の感想を述べている。

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