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昨日(2013年8月20日)、スタジオジブリが製作したアニメ映画『風立ちぬ』(宮崎駿監督)を見に行った。この映画については、すでに多くの報道がある。ただ、まったく知らない方もいるかもしれないので、映画「風立ちぬ」のサイトにある「ストーリー」を、まず紹介しておこう。

かつて、日本で戦争があった。

大正から昭和へ、1920年代の日本は、
不景気と貧乏、病気、そして大震災と、
まことに生きるのに辛い時代だった。

そして、日本は戦争へ突入していった。
当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか?

イタリアのカプローニへの時空を超えた尊敬と友情、
後に神話と化した零戦の誕生、
薄幸の少女菜穂子との出会いと別れ。

この映画は、実在の人間、堀越二郎の半生を描くー。

堀越二郎と堀辰雄に
敬意を込めて。

生きねば。
http://kazetachinu.jp/story.html

この映画は、零戦の設計者で知られる堀越二郎と、『風立ちぬ』『菜穂子』などの小説で知られる堀辰雄を重ね合わせて描いている。基本的には、戦闘機設計者としての堀越二郎の半生が中心なのであるが、妻との恋愛、結婚については、堀辰雄の小説のエピソードがアレンジされて用いられている。

この『風立ちぬ』については、私の周辺で、賛否両論が渦巻いていた。かなり多くの人が、戦闘機設計者としての堀越二郎について、戦争責任問題があまり取り上げられていないことに不満を持っていたようである。戦闘機という兵器設計について、そもそも、少年の「夢」のように描かれてよいものだろうかという批判もあった。それに、堀越二郎と堀辰雄の人生を重ね合わせる自体に無理があるという意見もあった。他方で、この映画の美しさについてかなり高く評価する人もいた。

とにかく、周囲がそんな状態で、飲み会の度に喧々諤々議論している有様なのである。あまり、私は、映画館でジブリ作品を見ない(後でレンタルするほうが多い)のだが、とりあえず、私も、見てみることにした。

そして、見た感想をいえば、…これは議論百出するだろうなと、やはり思った。この映画は、一言でいえば、「美しさ」をあくまで追求した映画である。それは、戦闘機設計者である堀越二郎についても、恋愛小説を書いた堀辰雄についてもそうである。堀越二郎については、兵器である戦闘機の設計者であるというよりも、「美しい飛行機」を作りたいという創造者の側面が強調されていた。他方で、堀辰雄の小説をモデルとした妻との関係では、結核患者である妻に結果的に無理をさせてしまうことになっているが、それもまた、「美しい物語」として完結してしまうのである。そして、この映画では、この「美しさ」の結末は明示的な形では語られない。そのように見てみると、例えば、戦争責任問題などは、十分とりあげていないようにみえるのである。

ただ、丹念にみていると、その中に、背後に隠れた形で、戦争の問題なども書き込まれていることがわかる。そもそも、飛行機は、第一次世界大戦と第二次世界大戦という戦争を契機として兵器として開発されたものである。そのことは、映画の中にも描かれている。確かに、この映画の堀越二郎は「美しい飛行機」を作ることに熱中しており、それが兵器であることにあまり意識していないようにみえる。しかし、最初から飛行機は兵器であることが示されており、映画の中でも多くの戦闘機の残骸の中で、「地獄かと思った」「一機も帰還しなかった」「国を滅ぼした」ことは言及されているのである。

では、監督の宮崎駿はどのように考えているのだろうか。先ほどの「風立ちぬ」のサイトに。2011年1月11日付の宮崎の企画書が載せられている。それによると、まず、宮崎は、「飛行機は美しい夢」とし、次のように述べている。

零戦の設計者堀越二郎とイタリアの先輩ジャンニ・カプローニとの同じ志を持つ者の時空をこえた友情。いくたびもの挫折をこえて少年の日の夢にむかい力を尽すふたり。
 大正時代、田舎に育ったひとりの少年が飛行機の設計者になろうと決意する。美しい風のような飛行機を造りたいと夢見る。(後略)
http://kazetachinu.jp/message.html

まず、「美しい風のような飛行機を造りたい」と夢見た少年として堀越二郎が紹介されている。その上で、まず、零戦の設計者となった堀越二郎の半生が語られ、さらに、彼が生きた時代が「今日の日本にただよう閉塞感のもっと激しい時代だった」として書かれている。その上で、映画全体について、このように言っている。

私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。
 自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。
 この作品の題名「風立ちぬ」は堀辰雄の同名の小説に由来する。ポール・ヴァレリーの詩の一節を堀辰雄は“風立ちぬ、いざ生きめやも”と訳した。この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた文学者堀辰雄をごちゃまぜにして、ひとりの主人公“二郎”に仕立てている。後に神話と化したゼロ戦の誕生をたて糸に、青年技師二郎と美しい薄幸の少女菜穂子との出会い別れを横糸に、カプローニおじさんが時空を超えた彩どりをそえて、完全なフィクションとして1930年代の青春を描く、異色の作品である。

そして、この企画書の最後にも、「リアルに、幻想的に、時にマンガに、全体には美しい映画をつくろうと思う」と宮崎は主張している。

この宮崎の企画書は、この映画のねらいをほぼ描き尽くしているといえる。「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物」を描く「美しい映画」、これが、『風立ちぬ』のコンセプトなのである。

しかし、それだからといって戦闘機でしかなかった「美しい飛行機」を造るということの矛盾も宮崎は自覚していた。「夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない」といっている。「美しさ」を追求することの「狂気」の「毒」、そして、その「代償」もまた、「美しさ」の中で描かれなくてはならなかったのである。結局、「美しい飛行機」(堀越二郎)にせよ、「美しい物語」(堀辰雄)にせよ、その「美しさ」は、ともに人の死を代償にしていることがいろんな場面で暗示されているといえる。宮崎にしては、毒のある映画だと思う。このような「毒」を前提とした「美」の強調に反発する人も多くなることは当然である。しかし、ある種の創造において、この「毒」は必要なことだと宮崎はいいたいのだと思う。

何かを代償にしてしか成立しない「夢」を追求する狂気をはらんだ人生、その「毒」を書き込むことによって成立する「美しい映画」。このような意味で「創造する」ということの問題性は、堀越二郎や堀辰雄のことだけでなく、アニメーターの宮崎駿のことでもある。また、堀越二郎役の声優として参加した、「新世紀エヴァンゲリオン」のアニメーターである庵野秀明のことでもあっただろう。

そして、このような「狂気」は、もちろん、技術や小説、アニメーターだけのことではなく、何らの意味での作品を「創造」している人たちに共通しているといえる。このような「美しさ」は、宮崎が企画書で書いているように、「人生の罠」であり、別なところで「狂的な偏執」と表現されている。私が表現するならば「呪い」というだろう。この「美しさ」は「呪い」でもあるのである。

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