Feeds:
投稿
コメント

Posts Tagged ‘金曜官邸前抗議’

さて、先週末の8月15日夕方、久しぶりに首都圏反原発連合主催の金曜官邸前抗議に参加した。ただ、金曜官邸前抗議といっても、実質は狭義の官邸前抗議と、国会前のスピーチエリアと、同じく国会前であるがパーフォーマンス色のある希望のエリアと三カ所で実施されている。8月15日は、スピーチエリアは休止していた。結局、私自身は希望のエリアにいった。

パーフォーマンス色が強いと指摘した希望のエリアだが、それは他と比較してということであって、実質はコール・スピーチが多い。他のエリアについてはよく知らないが、この希望のエリアでは、スピーチは参加者が自由に申し出て、申し出順にすることになっている。もちろん、内容は、基本的に反原発に限定されている。だが、最近は、スピーチの多くが常連でしめられるようになってきていた。

しかし、この日は、金曜官邸前抗議では全く聞いたことのないスピーチが行われた。あまり見たことがない男性が、「脱原発」は現在のところやめるべきだというスピーチを行ったのだ。

簡単に、その内容を説明しておこう。彼は、まず、東芝が作り出したフラッシュメモリは、現在、韓国のサムスンにシェアをとられていると語り出した。そして、原発も同じだというのである。日本が原発を放棄すれば、韓国や中国に市場をとられてしまうので、日本が原発を凌駕する新しい技術などを開発するまで、原発を放棄することはできないというのである。簡単にまとめるとこうなるのだが、このことを繰り返し主張していた。

彼は、ヤジは歓迎するといっていたが、希望のエリアの参加者は、私も含めて、最初は唖然として声も出さないで聞いていた。しかし、だんだん、このスピーチに反対するヤジが増えて来た。ヤジが多くなった時点で、彼はスピーチを中止した。たぶん、彼のシナリオでは「理性的に脱「脱原発」を主張したが、暴力的なヤジによって中止せざるをえなくなった」と構想していたのであろう。希望のエリアの司会者である紫野明日香氏は「差別はダメです」などとコメントしていた。

私は(たぶん多くの人がそうだろうが)、日本だけでなく世界全体で核技術(軍事・平和両面とも)から脱却していくべきだと考える。その意味で、韓国・中国の核技術も同じである。

その上で、私自身、このスピーチを聞いてまず感じたのは「嫌韓・反中」が脱・脱原発の論拠になるのかという驚きだった。今まで、原発を存続する理由として、電力不足、経済的打撃、原発輸出市場の喪失(これは、ある程度重なっているが、中・韓を露骨に明示したものではない)、廃炉のための技術継承、立地地域振興などが議論されているが、いずれも日本社会が原発を廃止することで何らかの損失を蒙るということであった。しかし、ここで、議論されているのは、中・韓に原発市場をとられてしまうからという話であって、現実的な損失を問題にしていないのだ。結局、中国・韓国にいかなる分野でも先に行くことを許さないというだけの話なのである。現在、反原発が世論の中心となったのは、福島第一原発事故における危機に直面し、その危機を繰り返してはならないということなのである。しかし、このスピーチでは、中国・韓国の存在に直面していることこそが「危機」なのであって、原発問題もその対抗のなかのファクターにすぎないのだろう。

ある意味で、何を「危機」と感じるか、ということが問題なのである。福島第一原発における放射性物質による被害は、今の所目に見えるものではない。「目に見えぬ危機」である。そして、現実に対応することが困難だ。他方で、中国・韓国についても、実際上は国境線の島の帰属や歴史認識をめぐるものであって、「目に見える危機」とはいえない。それでも、相手があることだから、こちらがアクションすれば、そのリアクションはある。その応酬が本当の危機を呼び寄せてしまうことになるのだが、それでも、一定の対応をしているかに錯覚してしまう。いわば、福島第一原発事故の危機からくるストレスを、中国・韓国の「脅威」に「対応」することによって解消しているようにみえる。

そもそも、日本には、中国・韓国にとられてしまうような原発技術があるのかとも思う。日本で実際に稼働している原発は、結局、アメリカの技術でつくられたものであり、日本の技術ではない。福島第一原発事故では、非常用ディーゼル発電機が低地に所在したり、緊急対応時の操作に熟知していないことなども事故の要因となっているが、それは、アメリカ側が設計したということに起因している。科学技術庁を中心に日本で独自開発された技術は、再処理工場にせよ、もんじゅにせよ、実用化には失敗している。技術自体に国境はないと思うが、あえてそういう言い方をすれば、アメリカの技術をコピーしているにすぎない。そして、福島第一原発の現在の管理をみているかぎり、日本側は、アメリカのマニュアルにないことを新たに開発する技術を持ち得ていないようにみえる。このことは、アメリカに従属しつつ、経済大国として世界で大きな顔をしてきた戦後日本の戯画といえるだろう。

さて、あのスピーチで初めて知ったことは、東芝が開発したフラッシュメモリの市場が現在韓国のサムスンに奪われているということであった。Wikipediaなどをみると、それは真実のことのようである。しかし、より正確に言うと、東芝社員であった舛岡富士雄が開発したものであった。開発者の舛岡は次のように語っている。

私は、米国の物真似だけでなく、独自技術で勝負すべきだと上司に言い続けましたが、まるで取り上げられませんでした。そこで自らフラッシュメモリーの特許を30本近く書きました。工場では作業が許されないので、帰宅後や休日を利用して書いたのです。会社の施設や設備は一切使わず、使ったのは自分の頭だけ。発明に対する貢献度に限って言えば、会社側はゼロです。そうして生まれた発明に対して、会社の態度は冷淡で、安易に米国のインテルや韓国のサムスン電子にライセンスを供与したため、両社の先行を許してしまいました。
http://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v240/pdf/200406_20.pdf

舛岡が独自開発した技術について東芝は冷淡で、インテルやサムスンにその技術を供与してしまったとしているのである。そうであるならば、サムスンに市場制覇を許したということは、東芝の自業自得であろう。

そして、舛岡の処遇についても、東芝は相応のことをしてこなかった。Wikipediaにおける舛岡富士雄の項目から一部抜粋しておこう。

研究を続けるため東芝を退社~その後
その後、東芝は舛岡を地位こそ研究所長に次ぐが、研究費も部下も付かない技監(舛岡曰く窓際族)になるよう、会社から何度も要請された。研究を続けたかった舛岡は、何とか研究を続けられるよう懇願したが受け入れられず、1994年に東芝を退社した[2]。
その後、東北大学大学院や、退官後に就任した日本ユニサンティスエレクトロニクス等で、フラッシュメモリの容量を10倍に増やす技術や、三次元構造のトランジスタ(Surrounding Gate Transistor)など、現在も研究者として精力的に研究活動を行っている。
裁判
舛岡は自身が発明したフラッシュメモリの特許で、東芝が得た少なくとも200億円の利益うち、発明者の貢献度を20%と算定。本来受け取るべき相当の対価を40億円として、その一部の10億円の支払いを求めて2004年3月2日に東芝を相手取り、東京地裁に訴えを起こした。2006年7月27日に東芝との和解が成立、東芝側は舛岡氏に対し8700万円を支払うこととなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9B%E5%B2%A1%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E9%9B%84

つまり、東芝は処遇でも報酬でも、舛岡の望むような待遇を与えてこなかったのである。結局、舛岡は東芝をやめ、その上で裁判に訴えて、ようやく報酬を部分的にではあるが受け取ることができたのである。

このフラッシュメモリをめぐる東芝と舛岡富士雄の話は、資本側と社員ー労働者の立場が一致しないことをしめしている。日本国籍の資本のために都合のよいことは、決してその社員たちに都合のよいことではないのだ。そう考えると、このフラッシュメモリの話は、スピーチの前提としている「日本資本と日本人は一体」ということが成り立たない事例ではないだろうか。

久しぶりに「脱・脱原発」のスピーチを聞いて、いろいろ考えてみた。そう思い込んでいる人びとに違うということを説得するのは難しい。しかし、論拠に遡って考えると、やはり、その論自体が成り立っていないと思うのである。

広告

Read Full Post »

3.11以前、仕事などで福島第一・第二原発を間近に見ながらも、私は原発に対する危機意識を十分もつことはなかった。このことは、私にとって重い問題である。しかし、たぶん、一般的にもそうだったであろう。

3.11以前、「反核」といえば、「反核兵器」のことを意識するほうが多かったのではないかと思う。チェルノブイリ事故(1986年)後の1987年、広瀬隆はチェルノブイリ事故の危険性を警告した『危険な話』(八月書院)の中で、次のように指摘している。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(p54~55)

そして、広瀬隆自身が「核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる」として批判されてもいた。共産党系の雑誌『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に掲載された「座談会・自民党政府の原発政策批判」において、「赤旗」科学部長であった松橋隆司は、チェルノブイリ事故後に原発を含めた「核絶対反対」という方針を打ち出した総評ー原水禁を批判しつつ、明示的ではないが広瀬隆の言説について次のように指摘した。

また「原発の危険性」という重大な問題を取り上げながら、原子力の平和利用をいっさい否定する立場から、「核兵器より原発が危険」とか、「すでに原発のなかで核戦争が始まっている」といった誇張した議論で、核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる傾向もみられます。(p80)

直接的には私個人は関係してはいなかったが、このような志向が私においても無意識の中で存在していたと考えられる。1980年代の「反核運動」については参加した記憶はあるが、「反原発運動」については、存在は知りながらも、参加した記憶がない。このことについては、社会党ー原水禁が原発反対、共産党ー原水協が原発容認(既存の原発の危険性は認めているが)という路線対立があったことなど、さまざまな要因が作用している。しかし、翻って考えてみると、「将来の危機」としての戦争/ 平和などの対抗基軸で世界を認識していた戦後の認識枠組みにそった形で原子力開発一般が把握されていたと考えられる。もちろん、これは当時の文脈が何であったを指摘するもので、現在の立場から一面的に批判するという意図を持っていないことを付記しておく。

さて、3.11は、このような原子力開発への認識を大きく変えた。核戦争という「将来の危機」ではなく、原発事故と放射性物質による汚染という「いまここにある危機」が意識されるようになった。「反核」とは、まずは「反原発」を意味するようになったのである。

このことは反原発運動におけるシュプレヒコールにおいても表現されている。下記は、小田原淋によって書き留められた2013年3月15日の金曜官邸前抗議におけるシュプレヒコールの一部である。

原発いらない 原発やめろ 
大飯を止めろ 伊方はやめろ 
再稼働反対 大間はやめろ 
上関やめろ 再処理やめろ 
子どもを守れ 
大飯を止めろ さっさと止めろ 
原発反対 命を守れ 
原発やめろ 今すぐやめろ 
伊方はやめろ 刈羽もやめろ 
大飯原発今すぐ止めろ 
ふるさと守れ 海を汚すな 
すべてを廃炉 
もんじゅもいらない 大間建てるな 
原発いらない 日本にいらない 
世界にいらない どこにもいらない 
今すぐ廃炉 命を守れ 農業守れ 
漁業も守れ だから原発いらない
(小田原琳「闘うことの豊穣」、『歴史評論』2013年7月号、p66)

小田原は、この中に大飯原発再稼働や建設中もしくは再稼働間近と予想される原発への抗議、原発を止めない理由の一つとされた再処理政策への批判、放射性物質による環境汚染や健康被害への不安、原発輸出に対する異議申し立てがあると要約し、「きわめて短いフレーズのなかにひとびとが原発事故後に学んだ知識が凝縮されている」(同上)と評価している。このようなシュプレヒコールは、金曜官邸前抗議に足を運んだ人にとっては目新しいものではない。しかし、もう一度テクストの形で読んでみると、このシュプレヒコールの主題は、「反核兵器」ではなく、「反原発」であることがわかる。つまり「反核」の中心は、平和時に存在している原発への反対になったのである。

ただ、それは、それまでの「反核兵器」という意識が薄れたということを意味してはいない。金曜官邸前抗議においては、もちろん、広島・長崎への原爆投下については議論されており、使用済み核燃料再処理問題についても原爆の材料となるプルトニウム生産能力を確保しようとする意向があることもスピーチにおいて指摘されている。「反原発」という課題の中に「反核兵器」という課題が包含されたといえるだろう。

いずれにせよ、このような反核意識における「反核兵器」から「反原発」への重点の移動は、あまりにも日常的でふだん意識しないものではあるが、3.11によって引き起こされた大きな変化の一つであったといえる。それまでの「反核」は、戦争/平和という認識枠組みの中で把握されていた。すでに、原発立地地域における反原発運動において、「原子力の平和利用」の名目で行われてきた原発建設のはらむ問題性は指摘されていたが、反核全体においては「従」の立場に置かれていたといえる。結局、自らの日常が存在していた「平和」の中に存在していた諸問題は「反核」の中ではあまり意識されてこなかったのである。

しかし、「原子力の平和利用」とされてきた原発が反核意識の中心におかれるということは、反核意識が「平和」「日常」そのものを問い直さなくてはならないものとなったということを意味しているといえる。翻って考えてみれば、福島第一原発事故とそれによる放射性物質の汚染という問題が、今まで「平和な日常」とみなしてきた自分自身の眼前に及んできたということを意味してもいるだろう。そして、そのような「日常的」な次元での意識変化が、反核意識の中での「反核兵器」から「反原発」への重点の変化につながっていったと考えられるのである。

Read Full Post »