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Posts Tagged ‘野田政権’

さて、今まで何度となく述べてきたが、東電は福島第一原発に対する処理能力を失っているようにみえる。それならば、国が責任をもって福島第一原発を処理していかねばならないといえるだろう。しかし、その場合、東電が現在の体制のまま、存続することの当否が問われることになるだろう。

そもそも、東京電力が民間会社のまま存続することになったのは、3.11後の菅政権の政治判断によるものである。すでに2011年3月末、震災によって被害を受けた発電所の修理、原子力にかえて火力にするための燃料費、既発行の社債償還などのため東電は資金不足に陥っていた。特に、信用力が低下したため、社債の新規発行ができず、金融機関から2兆円もの借金をすることになった。さらに、原発事故に対する多額の補償金支払いがこの当時から予想されていた。

東電は、原子力損害賠償法における「異常に巨大な天災地災」などによって生じた場合、事業者ではなく政府が損害を補償するという特例条項の適用を求めた。しかし、当時の菅政権はそれを認めず、東電が全額補償するという建前を崩さなかった。しかし、多額に及ぶと見積もられていた補償金の支払を東電が行えば、それだけでも債務超過となり、東電はつぶれるしかなかった。そのため、菅政権としては、東電救済のシステムを造らざるを得なかった。

そのために造られたのが原子力損害賠償支援機構であった。元々の案は大手銀行が作成したといわれている。原子力損害賠償支援機構を新設し、そこに他の電力会社や政府が資金を提供し、東電はそこから借金して、賠償金にまわすという仕組みがつくられた。もちろん、東電は、この借金を返さなくてはならない。政府としては、一時資金を融通するが、最終的には東電が返済するので税金は投入されないとしたのである。

この機構の新設を定めた原子力損害賠償支援機構法は2011年8月3日に成立したが、その直後の2011年8月4日に出された朝日新聞朝刊では、「政府支援の前提となるのは東電のリストラだ」と述べられている。つまり、まずは、大幅なコストカットが東電に義務付けられたのである。しかし、同紙では「最終的な負担は電気料金に回る可能性が高い」としている。実際、2012年に東電の電力料金は値上げされた

他方で、同紙は「東電の株主や金融機関など、利害関係者の責任追及は先送りされた」と報道している。倒産や破産などの法的破たん処理においては、株主や貸し手の金融機関なども損害を蒙ることになるが、破たん処理されなかった東電では、それらに直接的な損害は及ばなかったのである。結局、株主や金融機関の利益は保護されるとともに、政府は税金を投入するという責任をとらず、それらのつけは、リストラと料金値上げにまわされることになったのである。そして、今の時点で回顧してみると、この「リストラ」は、福島第一原発の廃炉費用にも及んでいたと考えられる。

そして、この矛盾は、野田政権下で2012年7月31日に決定された東電の実質国有化においても解消されなかった。東電の国有化は、前述の原子力損害賠償支援機構が1兆円もの株式投資を行う形で行われた。しかし、2012年7月31日付の朝日新聞朝刊は、まず、原子力損害賠償支援機構による東京電力救済を批判して、次のようにいっている。

 

普通なら会社更生法の適用を申請するなどして、つぶれる。「つぶさない」と決めたのは民主党政権だ。
 昨年8月、原子力損害賠償支援機構法をつくり、政府が東電に賠償のための資金を貸したり、出資したりして支える仕組みをつくった。政府が賠償の責任を持ちたくないので、東電に賠償をすべて負わせるためにつぶさなかったのだ。
 この結果、つぶれれば、「債権放棄」で貸したお金が返ってこない銀行や、株が何の価値もなくなる株主が守られ、ほとんど損をしなかった。逆に、東電の生き残りのために利用者や国民が負担を強いられる。

そして、次のように主張している。

 

さらに、賠償費用や除染費用が予想よりふくらめば、東電がつぶれるなどして政府の出資金や賠償のための支援金が返ってこないおそれもある。その時は国民の税金で穴埋めすることになる。

加えて、東電の実質的国有化は、新たな矛盾をうむことになった。前述の朝日新聞朝刊では、「一方、政府は、電力会社を監督する立場と、東電の筆頭株主という立場になり、大きな矛盾を抱える」と指摘している。そして、東電が予定している柏崎刈谷原発の再稼働を事例にして、「政府は本来、原発が安全かどうかをしっかり審査し、再稼働を認めるかどうかを決めなくてはならない」という立場と、「原発が動けば、火力発電の燃料費が抑えられるという。筆頭株主としては東電再建に黄信号がともるため再稼働しなくては困る」という立場が矛盾していることを示すのである。その上で、同紙は、東電の言い分を認めて電力料金の値上げを認可した枝野経産相(当時)の態度をあげながら「政府はこれから、常に東電の側に立つのではないか。そんな疑念を抱かせた」と述べている。つまり、この段階で東電の筆頭株主となった政府は、東電を存続させ、経営を安定させたいという意識が強まったといえる

このような形で東電が存続しているのは、菅・野田という民主党政権の責任である。しかし、その後継となった自民党の安倍政権も、他の分野でさかんに民主党政権の政策見直しを主張しているにもかかわらず、民主党政権が定めた形で東電を維持している。補償費用、除染費用、廃炉費用など、全く利益にならない支出が何兆円(いや十兆円こえて…それより多くとも不思議はない)もあると想定される東電は、到底自分で資金をまかなうことができるとは思えない。長期間かけても、返済することは難しいだろう。実質的には破たんしているのだが、この会社はいまだ「原子力損害賠償支援機構」のもとに存続している。しかし、東電のやっていることは、補償金支払い一つとっても、被災者の意にそったものとは思えない。東電の救済が、被災者への補償金支払いの形で行われているのである。どの道、税金で、補償費用、除染費用、廃炉費用などをまかなうことになるであろうが、営利会社の形をとることで、政府は税金投入の責任を免れ、さらに補償費用、除染費用、廃炉費用などを「安上がり」で行わせることができる。さらに、表面上の責任を東電にとらせることで、株主や金融機関への責任追求をかわせるということになる。

福島第一原発の汚染水漏れは、そのような矛盾の中で発生しているのである。急ごしらえの汚染水のタンクや、先送りされた遮水壁建設などは、しょせん、コストをカットして、国などへの返済金を確保するという意識が背景になっているといえる。もはや、東電自体の当事者能力はないが、その責任は株主でもあり規制者でもある政府がとらなくてはならない。そして、福島第一原発の危機は、当面、コスト意識を捨てて考えなくてはならない。そのような形での税金投入は、民主党政権で免罪された、東電の株主や金融機関にも責任をとってもらうことにもつながっていくといえよう。

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3.11以後、いつも頭から離れない話がある。それが、トルストイの創作民話「人にはどれほどの土地がいるか」(1886年発表。『トルストイ民話集 イワンのばか 他八編』<岩波文庫>所収)である。

    <「人にはどれほどの土地がいるか」のあらまし>

この話は、ロシアの農民の話である。主人公のパホームは、小作農民であり、商人などより安定した生活をしていることに満足していた。しかし、パホームは「ただひとつ弱るのは、地面の足りないことだ! これで、地面さえ自由になったら、わしにはだれだってこわいものはないー悪魔だってこわかないよ!」と呟いた。それに対して、悪魔は、「ひとつおまえと勝負してやろう。おれがおまえに地面をどっさりやろう。ー地面でおまえをとりこにしてやろう」と考えたのである。この物語は、小作農民パホームが、土地を獲得することによって破滅したことをテーマにしている。

といっても、パホームは、少なくとも最初は、土地に対して過大な欲望を抱いてわけではない。最初は、近隣の地主が商人に土地を売却するという話を聞きつけて、それに対抗するために一部の土地(15デシャティーナ。1デシャティーナは1092ヘクタール)を買っただけであった。しかし、土地を購入した以降、家畜などの無断立ち入りなどで、近隣住民と際限のない争いを惹起してしまった。トルストイは「こうしてパホームは、土地は広く持ったけれども、世間を狭く暮らすようになってしまった」と叙述している。

そのうち、ある百姓が「ヴォルガのむこう」では移住すればより広く豊穣な土地を分け与えられると話しており、その話をききつけて、パホームは移住した。パホームはそれまでからみると一人当たり3倍の土地(50デシャティーナ)を獲得した。しかし、パホームは「だんだん住み馴れるにつれて、この土地でもまた狭苦しいような気がしてきた」という。パホームは、小麦生産の拡大をはかったが、そのためには、自分の土地だけでは足りず、他人の土地を借りざるを得なかった。そのような土地の借用をめぐって、またも近隣住民と競争しあうことになった。

そこで、パホームは、より広い土地を購入するように物色をはじめた。500デシャティーナの土地を1500ルーブリで買い取ることになったのだが、その折、ある商人が1000ルーブリで5000デシャティーナの土地をパシキール人から買い取ったという話をパホームにした。

この話を聞いて、パホームは、パシキール人の土地に旅立ち、同地に到着した。パシキール人は遊牧民であり、土地を耕作してはいなかった。パホームは、贈物をおくるなどして、彼らに気に入られることにつとめた。パシキール人はパホームを気に入り、パホームの贈物に返礼したいと言い出した。そこで、パホームは、土地が欲しいと言い出したのである。

パシキール人の村長は、欲しいだけ土地をやるといい、その価格は均一で「一日分千ルーブル」としていると述べた。一人が一日歩き回ったところを1000ルーブルで売るというのである。ただし、条件が一つある。それは、日没までに出発点に戻らなければならないというのである。

こういう条件を出されれば、ロシア農民どころか現代日本人でも有頂天となるだろう。トルストイは、このように書いている。

<どうでもひとつ、できるだけ大きなパレスタイン(約束の土地)をとらなくちゃ>と彼は考えるのだった。一日かかったら、五十露里はまわるだろう。それに今は一ばん日の長い時だ。そこで、まわり五十露里の地面といえば、いったいどれくらいになるだろう! そのうち悪いところは売るか、百姓たちに貸すかすればいい。そしていいところだけとって、そこにすわりこむこととしよう。二頭の牝牛にひかせる犂をつくり、作男をふたりやとって、五十デシャティーナくらいを耕し、残りの地面で牧畜をやることにしよう。

ところが、その夜、パホームは夢をみた。パシキール人の村長、パシキール人の話をしていた商人、「ヴォルガの向こう」の話をしていた百姓が次々と夢の中に出てきた。

が、さらに見ると、それは例の百姓でもなく、角と蹄のある悪魔自身で、そいつがすわったまま腹を抱えて笑っているのだった。そしてその前には、シャツとずぼん下だけのはだしの男がひとりころがっている。パホームはなおそばへ寄って、じっと見たーその男はいったい何者だろう? ところが、男はもう死んでいて、しかも彼自身である。パホームはぎょっとして、はっと目をさました。目がさめるとー<何だ、夢か、つまらない!>こう考えた。

夢から覚めると、もう朝で、パホームは、一日分の土地を計るために出発した。丘の上にある出発地点には、村長の帽子が置かれ、日没までにそこに戻ってこなければならなかった。「いかにも地面がいいので、思いきるのは惜しいわい。おまけに、行けば行くほどよくなんだからたまらない。」ということで、とにかく大きな地面をとろうと必死にパホームは歩いた。途中で疲労し、眠気が襲ってきても、パホームは「一時間の辛抱が一生のとくになるんだ」といって歩き続けた。

しかし、さすがに日没が近づいてくるとパホームはあせり、出発地点に戻るために走り出した。

<ああ>と彼は考えた。<おれはあんまり欲をかきすぎた、ーもう万事おしまいだー日の入りまでには行き着けそうもない>…すると、なお悪いことに、こう思う恐れから、いっそう呼吸がきれてきた。パホームはただ走った。(中略)パホームは無気味になっては考えたー<あんまり夢中になって、死んでしまいはしないだろうか>
 死ぬのはこわいけれども、立ちどまることはできなかった。
 <あんなに駈けまわりながら、いまになって立ちどまったら、ーそれこそばか呼ばわりされるだろう>こんなことを考えた。

ほぼ日没直前に、パホームは、出発地点にようやく近づいた。出発地点ではパシキール人たちが彼をせきたて、村長が両手で腹を抱えていた。それをみて、パホームは、このように考えた。

と、パホームには夢が思いだされた。<土地はたくさんとったが>こう彼は考えた。<神さまがその上に住ませて下さるだろうか? おお、おれは自分を滅ぼした! とても走れまい>…

一度はあきらめかけたパホームであるが、なんとか、日没時までには出発地点まで戻ってきた。しかし、結末は、こういうありさまであった。

パホームは、勇を鼓して丘へ駆けあがった。丘の上はまだ明るかった。パホームは駈けつけると同時に帽子を見た。帽子の前には村長がすわり、両手で腹を抱えて、あはあはと笑っている。パホームは夢を思いだし、あっと叫んだ。足がすくんでしまったので、彼は前のめりに倒れたが、倒れながらも両手で帽子をつかんだ。
 「やあ、えらい!」と村長は叫んだ。「土地をしっかりおとんなすった!」
 パホームの下男が駈けつけて、彼を抱き起こそうとしたが、彼の口からはたらたらと血が流れた。彼は死んで倒れていたのだった。
 下男は土掘りをとりあげて、ー頭から足まではいるようにーきかっり三アルシンだけ、パホームのために墓穴を掘った。そして、彼をそこに埋めた。

最終的に、パホームは、土地のために破滅したのだった。彼に最後に残された土地は、彼の身長分しかない墓穴だけだったのである。

    <3.11以後、「人にはどれほどの土地がいるか」を読み返して>

この話のテーマは、人の生存手段である土地を追い求めた結果、逆にその生存自身を失ってしまったというところにある。「<土地はたくさんとったが>こう彼は考えた。<神さまがその上に住ませて下さるだろうか? おお、おれは自分を滅ぼした! とても走れまい>」ーこれがこの話の眼目といえるだろう。

そして、人の生存手段というのは、何も土地だけにかぎらない。経済成長・雇用・補助金・税源・購買力・資本ー、ここには、一般的な「富」全体が入るだろう。この話は、ロシアの小作農民の話となっているが、むしろ、無制限な資本蓄積を行っている現代資本主義のほうが、より該当する話である。といっても、複雑な現代資本主義においては、寓話としてもこのように明瞭な話は成立しないだろう。この話では、ときどき「村組合」という言葉が出てくる。パホームは「村組合」に代表される村落共同体から出発し、互いに対抗、競争しあう資本主義の世界に入っていったといえる。逆に、それゆえに、等身大の共同体的世界観(トルストイの立場からいえば宗教的という観点も入るだろう)から資本主義の構造を読み解いているといえるのである。

そして、パホームが最後に土地を獲得しようとしたところは「パシキール人の土地」であった。この話においても、パシキール人は土地を耕作しない遊牧民として描かれている。パシキール人は、ロシアの東方に居住しており、その土地に侵攻することで、当時のロシア帝国は発展したのだ。その土地を、いわば法外の値段で買い取ろうとしたのであった。パシキール人からの土地収奪といえるだろう。当時のロシア帝国主義の発展を戯画的に描いているということができる。まさに、無制限な資本蓄積の源流は、資本主義的な意味での「中心」と「周縁」との不等価交換に基づいているのだ。

しかし、この話の中心は、土地を収奪されたパシキール人ではなく、ロシア帝国主義による土地収奪の尖兵ともいうべきロシア農民であるパホームに何が起こったかを中心に書かれている。パホームは最終的に5000デシャティーナ以上の地主になることを望んだが、実際に彼自身の経営可能な農地は50デシャティーナ程度であった。それ以上の土地は、売るか貸すかしかなかった。生存に必要な範囲をはるかにこえた土地を獲得しようとしたがゆえに、彼は命を落とすことになった。無制限な資本蓄積が身を滅ぼしたのである。

しかし、無制限な資本蓄積が肯定されている現代資本主義にとっては、このような話は、単なる倫理的・宗教的空想にしか聞こえないだろう。ケインズ以来の修正資本主義すらかなぐり捨てて、無制限な資本蓄積をより一層推進する新自由主義の下では、とりわけそうだ。そして、このような無制限な資本蓄積を肯定するメンタリティは、その枠組みの中で生きる人びとすべてに影響を与えている。例え、資本主義的蓄積を批判的にみたとしても、生活自体がその枠組みを前提として成立している以上、現実には、資本主義的蓄積のみが現実的なもので、それを否定するものは空想的にしかみえないといえる。私自身、「人にはどれほどの土地がいるか」は、前から知っていた。しかし、無気味ではあるものの、自分たちとは無関係なものと思っていた。

原発というものは、無制限な資本蓄積の象徴といえる。高速増殖炉もんじゅなどは、「燃やせば燃やすほど燃料が増える」ということをキャッチフレーズにしていた。一般的な原発も、その経済性を売り物にしていた。今思えば、この経済性とは、一方で政府が立地対策や使用済み核燃料再処理サイクル確立などを行うことで補助し、他方ではウラン採掘現場から放射性廃棄物処理まで全ての段階で惹起される被曝を無視し、そのリスクを労働者や地域社会に押しつけて成立したものだったといえる。しかし、無制限な資本蓄積が前提で私たちの生活が成り立っている限り、原発に対しても一般的には否定できない雰囲気があったといえる。原発に無関心であるということは、意識的ではないにせよ、その存在を否定できなかったということができるのだ。そして、原発に多少問題があるにせよ、技術的制御によりカタストロフィーまでにはならず、私たちの生存・生活を侵すことはないだろうと信じられていたのである。そして、原発を廃絶することは、「空想的」と考えられていたといえる。

3.11における福島第一原発事故は、この状況を覆し、原発事故は人びとの生存・生活を根本的に脅かすものであるということを示すことになった。本来は原発というものは、人びとの生存・生活を発展させるために存立する手段だったはずのものだった。しかし、福島第一原発事故は、生存・生活の手段だった原発が、事故を契機として、人びとの生存・生活自体を脅かし、さらには覆すものになったことを明示したものとなった。多くの人が放射能汚染によって避難を余儀なくされた福島県の状況がこのことをよく物語っている。

福島県の地域社会は、全体としては、地域住民の生存のために原発を受け入れていたといえる。しかし、今度は、その原発によって、生存それ自体が脅かされ、生活していた地域から避難をせざるをえなくなったのである。生存の手段が、逆に生存自体を脅かすものになったのである。

こういう状況を目にして、私は「人にはどれほどの土地がいるか」を想起したのである。「<土地はたくさんとったが>こう彼は考えた。<神さまがその上に住ませて下さるだろうか? おお、おれは自分を滅ぼした! とても走れまい>」。土地とは、生存・生活の手段である。しかし、それが人の破滅の種になった。福島の話で考えれば、地域住民としては生存・生活の手段として原発は受け入れたのだが、逆にそれが地域における住民生活を不可能にしたといえる。もちろん、福島の人びとがパホームほど欲望の虜になったとは思えない。しかし、パホームだって、最初は安定した生活を望んだにすぎない。そして、福島の人びとについていえば、より安定した生活を望んだだけで、その土地から追い出されたことになる。原発とは無制限な資本蓄積の具であるが、それこそ「安全性」すら「無制限」に資本蓄積を行ったあげく、この状況となったのである。

この状況が「反原発」の機運を生んだことは周知のことであろう。放射能汚染への恐怖は、原発が立地する福島だけの問題ではなく、日本全国やさらに近隣諸国ー世界全体の問題になった。

これに対して、関電などの電力会社(社員を含めて)、経団連などの財界、野田政権は、むしろ態度を硬化させ、原発の安全性を実質的に無視した上で、原発は日本の経済成長と雇用を維持し「国民生活」のために必要だと主張したのである。ここにおいて、「人にはどれほどの土地がいるか」のたとえは、より正鵠を射るようになったといえる。福島の状況は、私たちみなの抱えている問題になった。最早、原発だけでなく、それが象徴している経済成長ー無制限な資本蓄積総体が疑問とされるようになった。人びとの生存・生活の手段だったはずのものが、今やそれ自体が目的として追求され、人びとの生存・生活が犠牲に供されるようになった。パホームは、無制限な資本蓄積の枠組みの中で生きる私たち自身であり、その結末は、パホームと同じになるのではなかろうか。もはや、「空想」のほうが、より「現実的」になったのである。「人にはどれほどの土地がいるか」は、3.11以後、ますます、私たちの状況を照射するものになっていっていると考えられるのである。

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