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Posts Tagged ‘近世’

愛宕山三角点(2011年1月4日撮影)

愛宕山三角点(2011年1月4日撮影)

さて、ここで、愛宕山の地理について、ちょっと説明しておこう。六本木や築地とちがってそれほど知られていない地域である。現在の住所でいえば、港区愛宕・虎の門地区となる。南が増上寺のある芝公園、北が霞ヶ関、西が六本木、東が新橋で、最寄駅は地下鉄日比谷線神谷町駅・都営地下鉄三田線御成門駅。

最大の特徴は、二十三区内では最も高い標高26mの愛宕山があるということ。この愛宕山の頂上に愛宕神社がある。この山は、南に続き、東京タワーまで高地になっている。

近世では、増上寺のある芝公園に続く、寺社が密集している地域であった。とりあえず、そういう地域だ。

まあ、愛宕地区の話も書くけれど、鬼子母神のお会式の話や築地・六本木の話も継続するので、お楽しみに。

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谷中領玄寺会式桜(『東都歳時記』)

谷中領玄寺会式桜(『東都歳時記』)

お会式桜(2010年12月28日撮影)

お会式桜(2010年12月28日撮影)

池上本門寺の公式ホームページ(http://honmonji.jp/05topic/05event/oeshiki/2010/oeshiki.html)
には、次のように記載されている。

日蓮聖人が亡くなられた時、庭先の桜(お会式桜)が時ならぬ華を咲かせたという故事から、万灯は紙で作った造花で灯明輝く宝塔を飾っています。

日蓮の逝去は旧暦の10月13日であり、晩秋か初冬の頃である。少なくとも近世には、谷中領玄寺や池上本門寺には、この故事に従ってお会式桜が植えられていた。もしかすると、池上本門寺のものは日蓮逝去時から存在していたのかもしれない。これは、いわゆるフユザクラと考えられる。斎藤月岑の『東都歳時記』(1838年)には、次のように記載されている。

○〔日蓮宗谷中領玄寺に桜ありて十月に花咲く、この故に会式ざくらといふ。当寺は甲州身延山の隠居寺なり、身延三十三世日亨上人自植る所にして、宝暦三癸酉年(1753)十一月廿二日上人三十三回忌の刻始て花咲くといふ、今にいたり例年十月花さき、春に至りて花さくこと又余木に同じ、亨師ざくらともいへり。池上本門寺にも是に等しき桜ありて、此頃花咲こと当寺にかはらず

斎藤は、お会式桜について、池上本門寺ではなく、谷中領玄寺を中心に記載している。そこには、日蓮逝去時の挿話は語られていない。長谷川雪旦が描くお会式桜も、谷中領玄寺であり、日亨上人の墓の前に所在している。斎藤や長谷川にとって、いまだ池上本門寺は遠隔地であり、「お会式桜」といえば、谷中領玄寺がまず思い浮かんだのであろう。
 ホームページでみてみると、谷中領玄寺や池上本門寺にはお会式桜が現存しているようである。雑司ヶ谷の法明寺には、元来お会式桜の伝承はないが、現在、法明寺近傍の児童施設「子どもスキップ南池袋」園内にお会式桜が植えられ、開花していた。新たな伝統の創造といえよう。

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書房深谷克己先生から『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』(山川出版社、2010年11月20日 定価800円)をいただいたので、このブログで感想を記しておきたい。本書は、いい意味で、表題からくるイメージを裏切っている。こういう表題を見ると、近世の幕府政治家であった田沼意次の生涯を時系列的におった「評伝」をイメージするのが普通であろう。しかし、本書は、田沼意次が1786年に老中を辞職してから、1788年に失意のうちに死去するまでの2年間を中心に描いている。その中では、1877年の降魔祈祷願文、同年の家中教諭、さらに同年の遺訓を中心に描いている。最初の降魔祈祷願文で、田沼意次は、自身の失脚を嘆きつつも、自らには覚えがないとし、将軍お目見えの再開など、再び幕府政治家としての再起を祈願している。しかし、その直後に天明のうちこわしがあり、それを契機に政敵である松平定信の寛政改革が本格的に開始されることになった。そこで、田沼は、幕府政治家として生きていくのではなく、譜代大名の一人として生きることを決意して、家中に大名家として生きることを教諭した。しかし、同年中にも彼の悲運が続き、田沼意次は隠居を命じられ、大名として最低限の1万石に減封された。その際の心得として嫡孫意明に書き残したのが「遺訓」である。
田沼意次このような、最晩年の三つの資料から、深谷先生は、田沼意次の人間像を描き出し、さらに、大名としてのあり方を、田沼への批判も含めて議論している。時系列的な評伝よりも、より的確に田沼の人間像が理解できるといえよう。ある意味では、フラッシュ・バックを含めた映画的手法といえる。人生の最後に行った田沼の回想と遺志に焦点をしぼりつつ、その説明のために、彼の人生を振り返っている。降魔祈祷、家中教諭、孫への遺訓など、それぞれの場面で語る田沼意次の肉声が聞こえてくるようだ。本書を、映画のシナリオとしてみたらという、想像にかられるのである。
ただ、実際には、本書は、深谷先生の為政者としての藩主論を前提とし、そこを前提として田沼の大名としての不十分さを批判していることも忘れてはならない。このような、学問として深めていく読み方のほうが正当であろう。しかし、このような本書の構成が、テクスト的というよりも、イメージ的なものであるということも看過できないことである。そして、このような構成をとったことで、多くの語を費やすよりも、深谷先生の議論がわかりやすくなったともいえると思う。
短い本なので、多くの人に読んでもらいたいと思う。もし、田沼意次の伝記をもっと知りたければ、藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房)がある。

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昨日、法政大学で開かれた「第72回民衆思想研究会」に参加した。同会の全体テーマは「越境する『共同体』ー北方域を中心にー」であった。第一報告は、塩屋朋子「秋田藩城下町久保田の感恩講にみる都市社会」であり、具体的には、近世後半の久保田(現秋田市)において、藩御用達町人を中核として、貧民救済を目的とした、自生的な「共同体」である「感恩講」が成立したことを論じている。第二報告は、新藤透「<場所共同体>の諸相ー『和風改俗』と関連させて」であり、和人によるアイヌの一方的な搾取の場であったととらえられてきた「場所」は、実際にはアイヌと和人の「共同体」を形成しており、幕府の「和風改俗」政策の受け皿となったしている。第三報告の坂田美奈子「アイヌ口承文学とともに考える<場所共同体>論ーアイヌ=エスノヒストリーの立場から」は、アイヌの口承文学からアイヌ・和人の生活の場としての「場所」が成立していたと指摘している。
この三報告に対して、比較的年長の世代は、かなり厳しく批判していた。例えば、国家権力の問題はどうなるのかなどと質問していた。まあ、そういう意見も出るだろう。
ただ、国家権力の作用をすべての局面にみるということのほうも問題なのではないか。今回の三報告は、日常的には国家権力と意識的に対峙しているわけではない現代の社会風潮を現しているともいえる。
さらにいえば、年長の世代も、今回の三報告も、強制力としての、「暴力装置」を介しての、「国家」が直接に関与しない場を予定調和的「共同体」として把握していることも問題ではないか。近現代においての「権力」とは、資本ー労働、男性ー女性、マジョリティーマイノリティなど、直接的には国家の強制力の発動がなく行使されている。そういった、現代社会を見る目で、過去を見ていかなくてはならないのではないか。その意味で、すべての歴史は現代史であるといえよう。

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